他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です【完結】   作:きのこ大三元

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第20話「世界から虫歯は少し減った。勇者の自由時間も少し減った」

 魔王との戦いが終わってから、一か月が経った。

 

 世界は、まだ完全には平和になっていない。

 

 人間側と魔族側の間では休戦協定が結ばれ、王国と魔王軍の代表による正式な交渉も始まった。国境には今でも兵士が立っているし、長く戦ってきた相手を簡単には信用できない人間も魔族も多い。

 

 それでも、今は斬り合っていない。

 

 少なくとも話をしている。

 

 それだけでも、大きな変化だった。

 

「勇者様」

 

 王城の廊下を歩いていると、前から来た王女様に呼び止められた。

 

「お久しぶりです」

「一週間ぶりですよ」

「和平交渉が始まってから、勇者様はあちこちへ呼ばれていますから」

 

 実際、その通りだった。

 

 魔王軍との会談。元四天王との情報交換。王都での報告。地方への視察。それから、なぜか口腔ケア普及事業への参加。

 

「最後だけ俺の仕事なんですか?」

「きっかけを作った方ですので」

「勇者の仕事ではない気がする」

 

 王女様は笑っただけだった。

 

 でも、もう誰もそこをおかしいとは思っていないらしい。

 

 あの日以来、王国では歯磨きへの関心が一気に高まった。最初は「歯を磨いてもらうとレベル99になる勇者」を面白がっていただけだったが、王女様が王宮内の口腔管理を整え、僧侶たちが治療院で衛生指導を始め、町や村の職人たちも使いやすいブラシを作り始めた。

 

 気づけば、歯磨きは勇者だけの変な儀式ではなくなっていた。

 

 朝と夜に、自分の歯を自分で磨く。

 

 普通の習慣として、少しずつ定着し始めている。

 

「こちらを」

 

 王女様が一枚の報告書を差し出した。

 

「王都周辺の治療院から集めた記録です」

「何の?」

「歯痛を訴える患者数が、少し減りました」

 

 受け取って目を通す。

 

 本当に少しだった。

 

 劇的な数字ではない。世界から虫歯が消えたわけでもなければ、歯医者が要らなくなったわけでもない。

 

 でも。

 

 ちゃんと減っている。

 

「子供たちの習慣も変わってきています」

 

 王女様が廊下の窓から、中庭を示した。

 

 外では、小さな子供たちが何人も並んでいた。手にはそれぞれ小さな歯ブラシを持ち、その前では教師らしい女性が、大きな模型を使って磨き方を教えている。

 

「奥歯までですよー」

「はーい!」

 

 元気な声が王城の中まで届いてきた。

 

 少しだけ、不思議な気分になる。

 

 俺がこの世界へ来た時、歯磨きは俺だけの最悪な加護条件だった。

 

 自分で磨いても意味がない。

 

 誰かに磨いてもらわなければ、レベル5のまま。

 

 恥ずかしい。面倒。何で勇者がこんなことをしなければならないのか。

 

 ずっとそう思っていた。

 

 それが今では、俺と何の関係もない子供たちが、自分の歯のために普通に歯ブラシを持っている。

 

「……悪くないですね」

 

 思わず口に出た。

 

「はい」

 

 王女様も、中庭を見ながら微笑んだ。

 

「勇者様が広めた文化です」

「俺が広めたというか……」

 

 勝手に広まってしまったというか。

 

 完全には否定できないのが困る。

 

 そして、変化は人間側だけではなかった。

 

 数日後。

 

 俺たちは、休戦後に共同管理区域となった魔王軍側の駐屯地を訪れていた。

 

『強き牙ほど、手入れを怠るな!』

 

 入口に、ものすごく大きな標語が掲げられている。

 

 見覚えがある。

 

「まだ使ってるんですね」

「兵士から評判がよいので」

 

 補佐官が当然のように答えた。

 

 駐屯地の一角では、魔族の兵士たちが食後の歯や牙を確認している。人型の魔族は人間用に近い小型ブラシ。牙の大きな獣人型は長柄。口腔の広い大型種には幅広型。炎を扱う種族には、毛先と柄が熱に強い専用品。

 

 以前より明らかに種類が増えていた。

 

「……増えてません?」

 

 棚を見ていた魔法使いが呟く。

 

「増えました」

 

 補佐官は手元の帳簿をめくる。

 

「魔王様の命令です」

 

 俺たち全員が少し黙った。

 

「本当に導入したんですね」

 

 俺が言った瞬間、背後から低い声が飛んできた。

 

「何か問題があるか」

 

 振り向く。

 

 魔王だった。

 

 黒い髪。角。大きな翼。鱗のある尻尾。

 

 そして、あれだけ痛がっていた右の牙も、前よりずっと状態が良さそうに見える。

 

「魔王様」

「余の軍だ。必要なものを導入して何が悪い」

「人間式歯磨きですよね」

「違う」

「まだ言います?」

「魔王軍式だ」

 

 そこだけは絶対に譲らなかった。

 

「毛材、柄の長さ、毛先の硬さ、種族ごとの口腔形状への適応。すべてこちらで改良している」

「元は人間式ですよね」

「黙れ」

 

 怒られた。

 

 横にいた牙獣将が、ものすごい勢いで頷く。

 

「魔王様の言う通りだ! 我らの牙には、我らの手入れがある!」

「最初に人間のブラシ使ってたの牙獣将ですよね」

「性能確認だ!」

 

 そこも変わっていなかった。

 

 少し離れた訓練場では、武人が新兵たちの前に立っている。

 

「食後の確認を怠るな」

「はい!」

「戦闘前もだ」

「はい!」

 

 完全に歯磨きまで訓練項目へ入っている。

 

「武人さん」

「勇者か」

「そこまで定着したんですね」

「戦える状態を整えるのも鍛錬の一つだ」

 

 真顔だった。

 

 何もおかしいとは思っていないらしい。

 

 研究者はもっとひどかった。

 

「勇者!」

 

 こちらへ走ってきたと思ったら、腕いっぱいに分厚い資料を抱えている。

 

「魔王による加護発動について、追加検証が必要だ!」

「嫌です」

「まだ何も言っていない!」

「言うこと分かります」

 

 どうせ歯磨きだ。

 

「敵対関係の消失によって出力が変動する可能性がある! 和平成立前後で同一人物による歯磨きを比較し、担当者側の心理状態、勇者側の受容度、手技の習熟度による――」

「やっぱり歯磨きじゃないですか」

 

 補佐官が無言で研究者の資料を取り上げた。

 

「勇者様の本日の予定にはありません」

「なぜだ!」

「優先順位が低いためです」

 

 研究者が本気で落ち込んだ。

 

 管理役、今も強い。

 

 補佐官によれば、魔王軍でも歯痛を訴える兵士は少しずつ減っているらしい。食事後に口を清める者が増えたこと、牙や歯の痛みを隠さず申告するようになったこと。それに加えて、あまりに硬すぎる保存食まで見直され始めているという。

 

「虫歯についても、減少傾向にあります」

 

 補佐官が帳簿を閉じた。

 

「少しですが」

 

 やっぱり少しだった。

 

 でも、それでいい。

 

 世界なんて、たぶん一気には変わらない。

 

 戦争も。

 

 人間と魔族の関係も。

 

 歯の健康も。

 

 今日より明日が少しマシになる。

 

 それくらいで十分なのだと思う。

 

 問題は。

 

 その一方で、俺の周囲だけは「少しずつ」では済まなかったことである。

 

「勇者」

 

 王都へ戻った翌朝。

 

 訓練場へ行くと、戦士が歯ブラシを持って待っていた。

 

「今日は訓練だ。急速仕上げでいく」

「今日、実戦ないですよね」

「訓練がある」

「レベル99必要です?」

「全力時の動きを確認する」

 

 理屈は通っている。

 

 嫌なことに。

 

「勇者様」

 

 今度は僧侶が来た。

 

「昨日は移動が長かったですから、今日は安定ケアの方がよいと思います」

「戦士さんと被ってません?」

「では、戦士様のあとに」

「続けてやるんですか」

 

 そこへ魔法使いまでやってくる。

 

「ちょっと待って」

 

 嫌な予感しかしない。

 

「私の精密仕上げ、昨日やってないんだけど」

「担当順を記録してるんですか?」

「してない!」

「今の発言だと絶対してますよね」

 

 魔法使いが顔を赤くして、ぷいと横を向いた。

 

「別に。担当が偏るのは効率が悪いと思っただけ」

「何の効率ですか」

「加護の」

 

 便利な言葉だった。

 

「では、本日は三人共同で行いましょうか」

 

 僧侶がごく自然に提案する。

 

「共同仕上げが普通になってる……」

 

 あれは最終決戦前だけの特別仕様だったはずだ。

 

「待ってください」

 

 俺が止めようとしたところで、訓練場の扉が開いた。

 

「勇者様」

 

 王女様だった。

 

「本日は午後から王宮で式典がありますので、その前に王国式仕上げを受けていただく予定です」

「聞いてません」

「今、お伝えしました」

 

 王女様は笑顔だった。

 

 逃げ道が一つ減った。

 

「勇者さーん!」

 

 今度は窓の外から声がする。

 

 嫌な予感がして見下ろす。

 

 村娘だった。

 

 手には、見覚えのない新しい歯ブラシ。

 

「新しい毛材のブラシができたんです! 今度試してください!」

「候補増えてる……」

「何か言いました?」

「何でもないです!」

 

 窓を閉める。

 

 振り返る。

 

 戦士。

 

 僧侶。

 

 魔法使い。

 

 王女様。

 

 四人とも、歯磨きの予定を当然のように話している。

 

 魔王城より逃げ場がない。

 

 さらに数日後。

 

 魔王との和平協議へ参加した帰り、今度は魔王本人に呼び止められた。

 

「勇者」

「はい」

「余の魔王軍式も、定期的な比較が必要だ」

「何と?」

「人間式とだ」

「俺で?」

「他に誰がいる」

 

 戦士と同じことを言った。

 

「魔王様」

 

 補佐官が横から口を挟む。

 

「それは単に、勇者様を磨きたいだけでは?」

 

 魔王の尻尾が止まった。

 

「違う」

「記録しておきます」

「するな」

 

 遅かった。

 

 牙獣将まで近づいてくる。

 

「ならば、我の長柄ブラシ改良型も――」

「人間の口に長柄は入りません」

 

 即座に断った。

 

「研究者の新型もあるぞ!」

「呼んでません!」

 

 武人まで腕を組んだまま参加してくる。

 

「急速仕上げなら、戦士との比較ができる」

「何で全員やる前提なんですか!」

 

 魔王軍側まで増えていた。

 

 王国へ戻れば人間側。

 

 魔王城へ行けば魔族側。

 

 村へ行けば村娘。

 

 王宮へ行けば王女様。

 

 どこにいても歯磨き担当候補がいる。

 

 世界は少し平和になった。

 

 俺の歯磨き予定だけは、戦時中より明らかに忙しくなった。

 

 そして。

 

 その日が来た。

 

「勇者」

 

 ある日の午後。

 

 王城の訓練場で、戦士が俺を呼んだ。

 

「急速仕上げ」

「勇者様」

 

 僧侶もすぐ横へ出てくる。

 

「その前に、歯茎の状態を確認しましょう」

「ちょっと、今日は私の番でしょ」

 

 魔法使いまで歯ブラシを持っている。

 

「待ってください」

 

 俺は一歩、後ろへ下がった。

 

「今日の朝、もう磨きましたよね?」

「自分でだろう」

 

 戦士が答える。

 

「加護は発動していない」

「戦闘予定ないですけど」

「訓練がある」

「勇者様、予防としても大切ですよ」

「僧侶さんまで……」

 

 魔法使いは腕を組み、少し不満そうに俺を見る。

 

「昨日は魔王にやってもらったんでしょ」

「和平会談のあとに比較させられました」

「じゃあ今日はこっち」

「こっちって何ですか」

 

 三人が一歩近づく。

 

 俺が一歩下がる。

 

 もう一歩。

 

 逃げた。

 

「勇者!」

「待ってください!」

「勇者様、走ると危ないですよ!」

「なら追わないでください!」

 

 訓練場を一周する。

 

 レベル5なので、普通に疲れる。

 

 それでも走る。

 

 通路へ飛び出したところで、今度は王女様と鉢合わせた。

 

「あら、勇者様」

「助けてください!」

「ちょうどよかったです。本日、新しい王国式ブラシの試作品が――」

 

 即座に方向転換。

 

「何で逃げるのですか!?」

「増えたからです!」

 

 中庭へ出る。

 

 そこには。

 

「勇者さん!」

 

 村娘がいた。

 

 ものすごくいい笑顔で、新しい歯ブラシを掲げている。

 

「新作できました!」

「こっちも!?」

 

 また方向を変える。

 

 門の方を見る。

 

 黒い翼が見えた。

 

 嫌な予感しかしない。

 

「勇者!」

 

 魔王だった。

 

「魔王様まで何ですか!」

「魔王軍式の改良型が完成した!」

「今日じゃなくていいですよね!?」

「比較するなら、人間側の仕上げ直後が最適だ!」

 

 完全に研究者寄りになっていた。

 

「魔王様、楽しんでません!?」

「違う!」

 

 後ろから魔法使いの声が飛んでくる。

 

「勇者、逃げない!」

「逃げます!」

 

 戦士。

 

 僧侶。

 

 魔法使い。

 

 王女様。

 

 村娘。

 

 魔王。

 

 さらに門の向こうには、なぜか元四天王たちまで揃っていた。

 

 研究者は分厚い資料を抱えている。

 

 武人は腕を組んでいる。

 

 補佐官は担当表らしき紙を持っている。

 

 牙獣将は長柄ブラシを高々と掲げていた。

 

「多い!」

 

 思わず叫んだ。

 

「何人いるんですか!」

 

 補佐官が手元の紙を見る。

 

「現時点の正式、臨時、研究、試験、候補を含めますと――」

「数えなくていいです!」

 

 走る。

 

 全力で。

 

 レベル5で。

 

 後ろから、大勢の足音と声が追ってくる。

 

 世界を救った勇者の姿としては、たぶんかなり間違っている。

 

 でも。

 

 走りながら、少しだけ笑ってしまった。

 

 戦争は止まった。

 

 人間と魔族は、まだ完全には分かり合えていない。

 

 和平交渉だって始まったばかりで、これから揉めることも、きっとたくさんある。

 

 それでも今は、人間と魔族が同じ場所にいる。

 

 昔なら剣を向け合っていた相手が、今は同じ方向を向いて、同じ勇者を歯ブラシ片手に追いかけている。

 

 たぶん。

 

 平和の形としては、かなりおかしい。

 

 でも、悪くない。

 

「勇者! 止まれ!」

「止まりません!」

「磨くだけよ!」

「だから逃げてるんです!」

 

 誰かが笑った。

 

 それにつられて、別の誰かも笑う。

 

 人間の声と、魔族の声が重なった。

 

 こうして。

 

 世界から虫歯は少し減った。

 

 なお。

 

 勇者の自由時間も、少し減った。




最後はまとめて投稿になりましたが、無事に初めての完結になりました!!
読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
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