他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です【完結】 作:きのこ大三元
魔王との戦いが終わってから、一か月が経った。
世界は、まだ完全には平和になっていない。
人間側と魔族側の間では休戦協定が結ばれ、王国と魔王軍の代表による正式な交渉も始まった。国境には今でも兵士が立っているし、長く戦ってきた相手を簡単には信用できない人間も魔族も多い。
それでも、今は斬り合っていない。
少なくとも話をしている。
それだけでも、大きな変化だった。
「勇者様」
王城の廊下を歩いていると、前から来た王女様に呼び止められた。
「お久しぶりです」
「一週間ぶりですよ」
「和平交渉が始まってから、勇者様はあちこちへ呼ばれていますから」
実際、その通りだった。
魔王軍との会談。元四天王との情報交換。王都での報告。地方への視察。それから、なぜか口腔ケア普及事業への参加。
「最後だけ俺の仕事なんですか?」
「きっかけを作った方ですので」
「勇者の仕事ではない気がする」
王女様は笑っただけだった。
でも、もう誰もそこをおかしいとは思っていないらしい。
あの日以来、王国では歯磨きへの関心が一気に高まった。最初は「歯を磨いてもらうとレベル99になる勇者」を面白がっていただけだったが、王女様が王宮内の口腔管理を整え、僧侶たちが治療院で衛生指導を始め、町や村の職人たちも使いやすいブラシを作り始めた。
気づけば、歯磨きは勇者だけの変な儀式ではなくなっていた。
朝と夜に、自分の歯を自分で磨く。
普通の習慣として、少しずつ定着し始めている。
「こちらを」
王女様が一枚の報告書を差し出した。
「王都周辺の治療院から集めた記録です」
「何の?」
「歯痛を訴える患者数が、少し減りました」
受け取って目を通す。
本当に少しだった。
劇的な数字ではない。世界から虫歯が消えたわけでもなければ、歯医者が要らなくなったわけでもない。
でも。
ちゃんと減っている。
「子供たちの習慣も変わってきています」
王女様が廊下の窓から、中庭を示した。
外では、小さな子供たちが何人も並んでいた。手にはそれぞれ小さな歯ブラシを持ち、その前では教師らしい女性が、大きな模型を使って磨き方を教えている。
「奥歯までですよー」
「はーい!」
元気な声が王城の中まで届いてきた。
少しだけ、不思議な気分になる。
俺がこの世界へ来た時、歯磨きは俺だけの最悪な加護条件だった。
自分で磨いても意味がない。
誰かに磨いてもらわなければ、レベル5のまま。
恥ずかしい。面倒。何で勇者がこんなことをしなければならないのか。
ずっとそう思っていた。
それが今では、俺と何の関係もない子供たちが、自分の歯のために普通に歯ブラシを持っている。
「……悪くないですね」
思わず口に出た。
「はい」
王女様も、中庭を見ながら微笑んだ。
「勇者様が広めた文化です」
「俺が広めたというか……」
勝手に広まってしまったというか。
完全には否定できないのが困る。
そして、変化は人間側だけではなかった。
数日後。
俺たちは、休戦後に共同管理区域となった魔王軍側の駐屯地を訪れていた。
『強き牙ほど、手入れを怠るな!』
入口に、ものすごく大きな標語が掲げられている。
見覚えがある。
「まだ使ってるんですね」
「兵士から評判がよいので」
補佐官が当然のように答えた。
駐屯地の一角では、魔族の兵士たちが食後の歯や牙を確認している。人型の魔族は人間用に近い小型ブラシ。牙の大きな獣人型は長柄。口腔の広い大型種には幅広型。炎を扱う種族には、毛先と柄が熱に強い専用品。
以前より明らかに種類が増えていた。
「……増えてません?」
棚を見ていた魔法使いが呟く。
「増えました」
補佐官は手元の帳簿をめくる。
「魔王様の命令です」
俺たち全員が少し黙った。
「本当に導入したんですね」
俺が言った瞬間、背後から低い声が飛んできた。
「何か問題があるか」
振り向く。
魔王だった。
黒い髪。角。大きな翼。鱗のある尻尾。
そして、あれだけ痛がっていた右の牙も、前よりずっと状態が良さそうに見える。
「魔王様」
「余の軍だ。必要なものを導入して何が悪い」
「人間式歯磨きですよね」
「違う」
「まだ言います?」
「魔王軍式だ」
そこだけは絶対に譲らなかった。
「毛材、柄の長さ、毛先の硬さ、種族ごとの口腔形状への適応。すべてこちらで改良している」
「元は人間式ですよね」
「黙れ」
怒られた。
横にいた牙獣将が、ものすごい勢いで頷く。
「魔王様の言う通りだ! 我らの牙には、我らの手入れがある!」
「最初に人間のブラシ使ってたの牙獣将ですよね」
「性能確認だ!」
そこも変わっていなかった。
少し離れた訓練場では、武人が新兵たちの前に立っている。
「食後の確認を怠るな」
「はい!」
「戦闘前もだ」
「はい!」
完全に歯磨きまで訓練項目へ入っている。
「武人さん」
「勇者か」
「そこまで定着したんですね」
「戦える状態を整えるのも鍛錬の一つだ」
真顔だった。
何もおかしいとは思っていないらしい。
研究者はもっとひどかった。
「勇者!」
こちらへ走ってきたと思ったら、腕いっぱいに分厚い資料を抱えている。
「魔王による加護発動について、追加検証が必要だ!」
「嫌です」
「まだ何も言っていない!」
「言うこと分かります」
どうせ歯磨きだ。
「敵対関係の消失によって出力が変動する可能性がある! 和平成立前後で同一人物による歯磨きを比較し、担当者側の心理状態、勇者側の受容度、手技の習熟度による――」
「やっぱり歯磨きじゃないですか」
補佐官が無言で研究者の資料を取り上げた。
「勇者様の本日の予定にはありません」
「なぜだ!」
「優先順位が低いためです」
研究者が本気で落ち込んだ。
管理役、今も強い。
補佐官によれば、魔王軍でも歯痛を訴える兵士は少しずつ減っているらしい。食事後に口を清める者が増えたこと、牙や歯の痛みを隠さず申告するようになったこと。それに加えて、あまりに硬すぎる保存食まで見直され始めているという。
「虫歯についても、減少傾向にあります」
補佐官が帳簿を閉じた。
「少しですが」
やっぱり少しだった。
でも、それでいい。
世界なんて、たぶん一気には変わらない。
戦争も。
人間と魔族の関係も。
歯の健康も。
今日より明日が少しマシになる。
それくらいで十分なのだと思う。
問題は。
その一方で、俺の周囲だけは「少しずつ」では済まなかったことである。
「勇者」
王都へ戻った翌朝。
訓練場へ行くと、戦士が歯ブラシを持って待っていた。
「今日は訓練だ。急速仕上げでいく」
「今日、実戦ないですよね」
「訓練がある」
「レベル99必要です?」
「全力時の動きを確認する」
理屈は通っている。
嫌なことに。
「勇者様」
今度は僧侶が来た。
「昨日は移動が長かったですから、今日は安定ケアの方がよいと思います」
「戦士さんと被ってません?」
「では、戦士様のあとに」
「続けてやるんですか」
そこへ魔法使いまでやってくる。
「ちょっと待って」
嫌な予感しかしない。
「私の精密仕上げ、昨日やってないんだけど」
「担当順を記録してるんですか?」
「してない!」
「今の発言だと絶対してますよね」
魔法使いが顔を赤くして、ぷいと横を向いた。
「別に。担当が偏るのは効率が悪いと思っただけ」
「何の効率ですか」
「加護の」
便利な言葉だった。
「では、本日は三人共同で行いましょうか」
僧侶がごく自然に提案する。
「共同仕上げが普通になってる……」
あれは最終決戦前だけの特別仕様だったはずだ。
「待ってください」
俺が止めようとしたところで、訓練場の扉が開いた。
「勇者様」
王女様だった。
「本日は午後から王宮で式典がありますので、その前に王国式仕上げを受けていただく予定です」
「聞いてません」
「今、お伝えしました」
王女様は笑顔だった。
逃げ道が一つ減った。
「勇者さーん!」
今度は窓の外から声がする。
嫌な予感がして見下ろす。
村娘だった。
手には、見覚えのない新しい歯ブラシ。
「新しい毛材のブラシができたんです! 今度試してください!」
「候補増えてる……」
「何か言いました?」
「何でもないです!」
窓を閉める。
振り返る。
戦士。
僧侶。
魔法使い。
王女様。
四人とも、歯磨きの予定を当然のように話している。
魔王城より逃げ場がない。
さらに数日後。
魔王との和平協議へ参加した帰り、今度は魔王本人に呼び止められた。
「勇者」
「はい」
「余の魔王軍式も、定期的な比較が必要だ」
「何と?」
「人間式とだ」
「俺で?」
「他に誰がいる」
戦士と同じことを言った。
「魔王様」
補佐官が横から口を挟む。
「それは単に、勇者様を磨きたいだけでは?」
魔王の尻尾が止まった。
「違う」
「記録しておきます」
「するな」
遅かった。
牙獣将まで近づいてくる。
「ならば、我の長柄ブラシ改良型も――」
「人間の口に長柄は入りません」
即座に断った。
「研究者の新型もあるぞ!」
「呼んでません!」
武人まで腕を組んだまま参加してくる。
「急速仕上げなら、戦士との比較ができる」
「何で全員やる前提なんですか!」
魔王軍側まで増えていた。
王国へ戻れば人間側。
魔王城へ行けば魔族側。
村へ行けば村娘。
王宮へ行けば王女様。
どこにいても歯磨き担当候補がいる。
世界は少し平和になった。
俺の歯磨き予定だけは、戦時中より明らかに忙しくなった。
そして。
その日が来た。
「勇者」
ある日の午後。
王城の訓練場で、戦士が俺を呼んだ。
「急速仕上げ」
「勇者様」
僧侶もすぐ横へ出てくる。
「その前に、歯茎の状態を確認しましょう」
「ちょっと、今日は私の番でしょ」
魔法使いまで歯ブラシを持っている。
「待ってください」
俺は一歩、後ろへ下がった。
「今日の朝、もう磨きましたよね?」
「自分でだろう」
戦士が答える。
「加護は発動していない」
「戦闘予定ないですけど」
「訓練がある」
「勇者様、予防としても大切ですよ」
「僧侶さんまで……」
魔法使いは腕を組み、少し不満そうに俺を見る。
「昨日は魔王にやってもらったんでしょ」
「和平会談のあとに比較させられました」
「じゃあ今日はこっち」
「こっちって何ですか」
三人が一歩近づく。
俺が一歩下がる。
もう一歩。
逃げた。
「勇者!」
「待ってください!」
「勇者様、走ると危ないですよ!」
「なら追わないでください!」
訓練場を一周する。
レベル5なので、普通に疲れる。
それでも走る。
通路へ飛び出したところで、今度は王女様と鉢合わせた。
「あら、勇者様」
「助けてください!」
「ちょうどよかったです。本日、新しい王国式ブラシの試作品が――」
即座に方向転換。
「何で逃げるのですか!?」
「増えたからです!」
中庭へ出る。
そこには。
「勇者さん!」
村娘がいた。
ものすごくいい笑顔で、新しい歯ブラシを掲げている。
「新作できました!」
「こっちも!?」
また方向を変える。
門の方を見る。
黒い翼が見えた。
嫌な予感しかしない。
「勇者!」
魔王だった。
「魔王様まで何ですか!」
「魔王軍式の改良型が完成した!」
「今日じゃなくていいですよね!?」
「比較するなら、人間側の仕上げ直後が最適だ!」
完全に研究者寄りになっていた。
「魔王様、楽しんでません!?」
「違う!」
後ろから魔法使いの声が飛んでくる。
「勇者、逃げない!」
「逃げます!」
戦士。
僧侶。
魔法使い。
王女様。
村娘。
魔王。
さらに門の向こうには、なぜか元四天王たちまで揃っていた。
研究者は分厚い資料を抱えている。
武人は腕を組んでいる。
補佐官は担当表らしき紙を持っている。
牙獣将は長柄ブラシを高々と掲げていた。
「多い!」
思わず叫んだ。
「何人いるんですか!」
補佐官が手元の紙を見る。
「現時点の正式、臨時、研究、試験、候補を含めますと――」
「数えなくていいです!」
走る。
全力で。
レベル5で。
後ろから、大勢の足音と声が追ってくる。
世界を救った勇者の姿としては、たぶんかなり間違っている。
でも。
走りながら、少しだけ笑ってしまった。
戦争は止まった。
人間と魔族は、まだ完全には分かり合えていない。
和平交渉だって始まったばかりで、これから揉めることも、きっとたくさんある。
それでも今は、人間と魔族が同じ場所にいる。
昔なら剣を向け合っていた相手が、今は同じ方向を向いて、同じ勇者を歯ブラシ片手に追いかけている。
たぶん。
平和の形としては、かなりおかしい。
でも、悪くない。
「勇者! 止まれ!」
「止まりません!」
「磨くだけよ!」
「だから逃げてるんです!」
誰かが笑った。
それにつられて、別の誰かも笑う。
人間の声と、魔族の声が重なった。
こうして。
世界から虫歯は少し減った。
なお。
勇者の自由時間も、少し減った。
最後はまとめて投稿になりましたが、無事に初めての完結になりました!!
読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。