他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です 作:きのこ大三元
王城の広間に、沈黙が落ちた。
赤い絨毯。
高い天井。
壁に掛けられた王国の旗。
両脇に並ぶ兵士たち。
祈りを捧げていた神官たち。
そして、目の前には王女様。
誰もが、俺を見ていた。
正確には、俺が両腕で抱えている箱を見ていた。
白銀の縁取り。
金色の留め具。
表面に刻まれた、女神様の紋章らしき模様。
それは、女神様から授けられた神聖なる勇者の神器。
その中身は、歯ブラシだった。
「勇者様」
王女様が、慎重に口を開いた。
「その箱は……女神様より授けられたもの、でよろしいのですよね?」
「はい」
「聖剣ではなく?」
「はい」
「魔導書でもなく?」
「はい」
「歯ブラシ、なのですね?」
「はい」
王女様が固まった。
兵士たちも固まった。
神官たちも固まった。
貴族らしき人たちも固まった。
王城の広間に、神聖な沈黙が広がる。
やめてほしい。
歯ブラシを前に、そんな神聖な空気を出さないでほしい。
「……勇者様」
「はい」
「これは、何か特別な歯ブラシなのですか?」
「特別です」
「どのように?」
来た。
ついに来た。
避けては通れない説明の時間だ。
女神様の前でなら、まだよかった。
あの人は、すべてを知っていた。
だが、今は違う。
何も知らない王女様。
何も知らない兵士たち。
何も知らない神官たち。
その全員に、俺はこれから説明しなければならない。
自分は、他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です、と。
帰りたい。
召喚されたばかりだが、もう帰りたい。
「まず、俺の勇者の加護について説明します」
俺は覚悟を決めて口を開いた。
王女様が真剣な顔になる。
兵士たちも姿勢を正す。
神官たちは、俺の言葉を一言も逃すまいとしている。
重い。
空気が重い。
今から話す内容と、王城の広間に満ちた緊張感がまったく釣り合っていない。
「俺の加護は、常時発動ではありません」
「常時発動ではない……」
「はい」
「つまり、条件付きの加護ということですね」
「そうです」
王女様の理解は早かった。
ここまでは、まだ勇者っぽい。
「通常時の俺は、だいたいレベル5です」
広間がざわついた。
「レベル5……?」
「一般兵より低いのでは?」
「いや、勇者様だぞ。何か理由があるはずだ」
ある。
理由はある。
だが、たぶん皆が想像している理由ではない。
「ただし、条件を満たせばレベル99相当になります」
今度は、ざわめきが大きくなった。
「レベル99……!」
「伝説級ではないか」
「やはり女神様の勇者……!」
やめろ。
そこで期待値を上げるな。
その先に待っているのは、聖剣でも神秘の詠唱でもない。
歯磨きだ。
「その条件ですが」
俺は一度、息を吸った。
「他人に、歯磨きしてもらうことです」
広間の時間が止まった。
比喩ではない。
本当に、誰も動かなかった。
王女様は、瞬きすら忘れている。
兵士たちは、鎧の胸当てに手を添えたまま固まっている。
神官たちは、祈りの途中で口を半開きにしている。
数秒。
あるいは、もっと長い沈黙。
最初に動いたのは、王女様だった。
「……歯磨き」
「はい」
「他人に」
「はい」
「勇者様の歯を」
「はい」
「磨く」
「はい」
王女様は、もう一度固まった。
俺も黙った。
言葉にすると、やはり終わっている。
「自分で磨くのでは、駄目なのですか?」
「駄目です。普通に歯はきれいになりますが、勇者の加護は発動しません」
「歯はきれいになるのですね」
「そこは普通です」
老神官が、ゆっくりと前に出た。
「勇者様」
「はい」
「つまり、他者による口腔の浄化が、女神様の加護を起動させる鍵であると」
「言い方が神聖すぎますけど、だいたいそうです」
「なるほど」
老神官は真剣に頷いた。
やめてほしい。
そんなに納得しないでほしい。
「効果時間は?」
王女様が尋ねる。
顔はまだ少し固いが、どうにか現実に戻ってきたらしい。
「通常で約30分です。だいたい1戦闘分ですね」
「戦闘前に儀式を行い、効果時間内に魔物を討つ必要がある……ということですね」
「はい」
「他に条件は?」
来た。
本当に言いたくないやつが来た。
俺は、腕の中の箱を見た。
白い歯ブラシ。
神界製の歯磨き粉。
携帯用コップ。
歯間ブラシ。
説明書。
女神様の説明書には、きっちり書いてある。
膝枕状態で歯磨きを受けた場合、精神安定、加護出力上昇、効果時間延長。
書くな。
そんな重要事項みたいに書くな。
「……追加条件があります」
「追加条件」
「はい」
俺は、できるだけ感情を殺して言った。
「膝枕状態で歯磨きしてもらうと、追加バフが乗ります」
また固まった。
王女様が固まった。
兵士たちが固まった。
神官たちが固まった。
ただ、老神官だけが小さく呟いた。
「膝枕……」
やめろ。
そこで神学的に考え込むな。
「精神安定、加護出力上昇、効果時間の軽い延長があるそうです」
「つまり」
王女様が、震える声で確認する。
「勇者様は、他人に歯磨きしてもらうとレベル99になり」
「はい」
「膝枕状態で歯磨きしてもらうと、さらに安定する」
「はい」
「女神様の御心は、奥深いのですね」
「そういうことにしてください」
俺は即答した。
もうそれでいい。
女神様の御心。
勇者の儀式。
神聖な口腔ケア。
言葉だけなら、なんとか取り繕える。
中身は歯磨きだが。
「分かりました」
王女様は、深く息を吸った。
そして、真剣な顔で俺を見た。
「勇者様の加護の条件は理解しました」
「本当に理解しました?」
「完全には追いついていません」
「ですよね」
「ですが、理解する努力はします」
「ありがとうございます」
王女様は強かった。
固まりはした。
かなり固まりはした。
それでも、立ち直るのは早かった。
「つまり、王国が最初に整えるべきことは、勇者様が戦闘前に安全かつ確実に歯磨きの儀式を受けられる環境です」
「言い方は格好いいのに、内容が歯磨きなんですよ」
「重要です」
「重要なのがつらいんです」
その時、広間の扉が勢いよく開いた。
鎧を着た兵士が、息を切らして駆け込んでくる。
兜の下の顔は青ざめ、肩には外の砂埃がついていた。
「報告します! 王都近郊に魔物が出現しました!」
広間の空気が一気に変わった。
兵士たちが武器に手をかける。
神官たちが祈りを再開する。
王女様の表情が引き締まる。
「数は?」
「小型が多数! ただし、統率されています! 魔王軍の偵察部隊と思われます!」
魔王軍。
その言葉を聞いて、俺の背筋が冷えた。
ついに来た。
異世界召喚。
勇者。
初戦闘。
普通なら、ここで聖剣を抜く場面だ。
だが、俺に聖剣はない。
あるのは歯ブラシだ。
そして、今の俺はレベル5だ。
王女様が俺を見る。
俺も王女様を見る。
広間にいる全員が、俺を見る。
嫌な沈黙が落ちた。
「勇者様」
「はい」
「儀式を、行う必要がありますね」
「言い方」
王女様は真剣だった。
俺も真剣になるしかなかった。
なぜなら、このままだとレベル5で魔物の前に出ることになる。
普通に死ぬ。
「では、担当者を決めましょう」
王女様が言った。
そして、広間がまた固まった。
誰が勇者の歯を磨くのか。
今、この国にとって最初の軍事問題が発生した。
「王宮付きの侍女を呼びますか?」
側近らしき女性が言った。
「神官による儀式として扱うべきでは?」
老神官が言った。
「いや、戦闘に関わるのであれば、近衛の者が」
兵士が言った。
話し合いが始まってしまった。
俺の歯磨き担当者を決める会議が、王城の広間で始まってしまった。
帰りたい。
本当に帰りたい。
「勇者様」
王女様が、こちらを向いた。
「はい」
「確認ですが、相手は誰でも良いのですか?」
「女神様の説明では、同意している他人なら加護は発動するそうです」
「同性でも?」
「たぶん発動します」
「侍女でも?」
「たぶん発動します」
「神官でも?」
「たぶん発動します」
「王女でも?」
「……たぶん発動します」
王女様の目が真剣になった。
嫌な予感がした。
「では、初回は私が担当します」
「はい?」
俺は思わず聞き返した。
王女様は、まっすぐに俺を見る。
「この国が勇者様を召喚しました。ならば、最初の責任は私にあります」
「いや、でも王女様ですよね?」
「はい」
「王女様が、勇者の歯を磨くんですか?」
「必要であれば」
「必要なんですけど、必要なのが嫌なんですよ」
王女様は少しだけ頬を赤くした。
さすがに平気ではないらしい。
だが、それでも逃げなかった。
「もちろん、今後は正式な担当者を決めます。ですが、今は魔物が迫っています。確認済みで、身元が明らかで、責任を取れる者が行うべきです」
「それで王女様が?」
「はい」
強い。
この王女様、かなり強い。
歯磨き担当という言葉の弱さに対して、覚悟が強すぎる。
「勇者様」
「はい」
「失礼します」
王女様は侍女から水差しと白い布を受け取り、手を清めた。
神官が祈りの言葉を唱え始める。
兵士たちは、なぜか背筋を伸ばした。
やめてほしい。
歯磨き前にそこまで儀式感を出さないでほしい。
「神界製の歯磨き粉は、こちらで?」
「はい。少しで大丈夫です」
「この量でしょうか」
「大丈夫です」
「歯ブラシは濡らしますか?」
「そこは普通なんですね」
普通の確認が、逆につらい。
俺は広間の端に用意された椅子に座った。
赤い絨毯の上。
白い布を持つ侍女の横。
水差しと携帯用コップが置かれた小さな卓の前。
全員の視線が痛い。
公開処刑に近い。
「見ないでください」
俺が言うと、王女様がすぐに振り返った。
「全員、後ろを向きなさい」
兵士たちが一斉に後ろを向いた。
神官たちも後ろを向いた。
貴族たちも後ろを向いた。
老神官だけが、少し名残惜しそうに歯ブラシを見ていた。
「神官様もです」
「承知しました」
老神官も後ろを向いた。
少し助かった。
「では、勇者様」
王女様が、歯ブラシを構える。
「口を開けてください」
言われた。
女神様に言われた時とは違う破壊力があった。
ここは王城。
相手は王女様。
そして俺は、魔物と戦うために歯を磨いてもらおうとしている。
意味が分からない。
でも、やるしかない。
俺は、そっと口を開けた。
「……これで」
「はい。失礼します」
王女様の手つきは、少しぎこちなかった。
当然だ。
いきなり勇者の歯を磨けと言われて、慣れている方がおかしい。
それでも、王女様は真面目だった。
歯ブラシの毛先が前歯に触れる。
王女様の指先が、慎重に歯ブラシを小さく動かす。
強すぎない。
慎重すぎて少し遅い。
だが、雑ではない。
「痛くありませんか?」
「大丈夫です」
「力加減は?」
「大丈夫です」
「本当に、このような形で加護が発動するのですね」
「俺も未だに信じたくないです」
歯ブラシが奥歯へ移動する。
俺は無意識に舌を引っ込めた。
女神様の仕上げ磨きほど慣れてはいない。
だが、王女様は一生懸命だった。
国を救うため。
民を守るため。
勇者を戦わせるため。
その真剣さが、歯ブラシ越しに伝わってくる。
いや、歯ブラシ越しに伝わってくる真剣さとは何だ。
「勇者様」
「……はい」
「この儀式、かなり大変なのですね」
「俺の精神がですか?」
「はい」
「分かってもらえて助かります」
王女様は、小さく頷いた。
「ですが、勇者様は逃げずに説明してくださいました」
「逃げたかったです」
「それでも説明してくださいました」
「世界を救うためですから」
「はい」
王女様の手が、少しだけ落ち着いた。
磨き方も、さっきより安定している。
俺の方も、少しずつ力が抜けてきた。
恥ずかしい。
恥ずかしいが、丁寧に磨かれる感覚はやはり嫌ではない。
歯ブラシの毛先が前歯の裏側をなぞり、奥歯の内側へゆっくり移っていく。
口の中が少しずつすっきりするにつれて、肩の力までほどけていく。
この仕様、本当に腹立たしい。
「はい。終わりました」
王女様が歯ブラシを離した。
俺は携帯用コップで口をすすぐ。
水を吐き出した瞬間、体の奥で光が弾けた。
来た。
女神様の時と同じだ。
手足が軽い。
視界が澄む。
体の中に力が満ちる。
レベル5の普通の人間から、レベル99の勇者へ。
王女様が息を呑んだ。
「勇者様……?」
俺は立ち上がる。
体が軽い。
床を踏むだけで、自分が変わったのが分かる。
「発動しました」
その言葉に、後ろを向いていた兵士たちが一斉に反応する。
「本当に……?」
「歯磨きで……?」
「レベル99に……?」
ざわめきが広がる。
だが、今度はさっきまでとは違う。
困惑だけではない。
期待もある。
俺が本当に強くなったのだと、彼らも感じ取ったのだろう。
「勇者様」
王女様が、歯ブラシを大切そうに箱へ戻した。
「どうか、魔物を討ってください」
「はい」
俺は頷いた。
今なら戦える。
歯磨きしてもらった後なので。
言葉にすると、やはり台無しだった。
「出撃します」
兵士たちが道を開ける。
広間の扉が開く。
俺は1歩踏み出した。
聖剣はない。
鎧もない。
魔法も知らない。
あるのは、女神様から授けられた歯磨きセットと、王女様に磨いてもらったばかりの歯。
それでも、体には確かに力が満ちている。
王国の兵士たちが見送る中、俺は初めての戦場へ向かう。
勇者として。
そして、他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない男として。
俺の異世界勇者生活は、想像以上に恥ずかしい形で始まってしまった。
次回予告
兵士
「勇者様、本当に武器はよろしいのですか!?」
勇者
「今の俺に必要なのは、武器じゃない」
兵士
「では、何が……?」
勇者
「歯磨き後30分以内に終わらせる判断力だ」
次回、第3話
「歯磨き後30分、勇者は魔物を殴りに行く」
レベル99の勇者、初出撃。