他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です 作:きのこ大三元
王城の広間に用意された椅子は、やけに立派だった。
赤い絨毯の上。
兵士たちが並ぶ広間の端。
神官たちが祈りを捧げる横で、俺は椅子に座らされていた。
目の前には、王女様。
その手には、女神様から授かった白い歯ブラシがある。
聖剣ではない。
魔導書でもない。
歯ブラシだ。
そして今から、その歯ブラシで王女様が俺の歯を磨く。
何度考えても、意味が分からなかった。
「勇者様」
王女様が、真剣な顔で言った。
「はい」
「本当に、私でよろしいのですね?」
「女神様の説明では、同意している他人なら加護は発動するそうです」
「では、条件上は問題ないのですね」
「問題しかない気もしますけど、条件上は問題ないです」
王女様は少しだけ頬を赤くした。
当たり前だ。
いきなり異世界から来た勇者に、自分は他人に歯を磨いてもらわないと戦えません、と言われたのだ。
それだけでも十分おかしい。
そのうえ、初回担当が自分になる。
普通なら固まる。
実際、固まっていた。
けれど王女様は、固まった後に戻ってきた。
この国を救うため。
民を守るため。
勇者を戦わせるため。
その責任感だけで、目の前に立っている。
「勇者様。念のため確認します」
「はい」
「痛かったり、苦しかったりした場合は、すぐに合図してください」
「分かりました」
「無理に続けるつもりはありません」
「ありがとうございます」
王女様は真面目だった。
その真面目さが、逆につらい。
茶化してくれた方が、まだ逃げ場があった。
だが、王女様は本気でこの行為を勇者の儀式として扱おうとしている。
つまり俺も、逃げられない。
「それと」
王女様は、少しだけ視線を逸らした。
「膝枕状態で行った場合、追加効果があるとのことでしたが」
「今回は通常でお願いします」
「よろしいのですか?」
「はい。初回から王女様にそこまでしてもらうと、俺の心が先に折れます」
「分かりました」
王女様は真剣に頷いた。
「では、今回は通常の歯磨きの儀式で」
「儀式と言われると、余計に恥ずかしいですね」
「ですが、勇者様に必要な手順です」
「はい……」
正論だった。
俺は、勇者用歯磨きセットの箱を開けた。
白い歯ブラシ。
神界製の歯磨き粉。
携帯用コップ。
歯間ブラシ。
説明書。
王女様は、説明書を一度確認してから、歯ブラシを手に取った。
「歯磨き粉は、この量でよろしいでしょうか?」
「少しで大丈夫です」
「これくらいですか?」
「はい」
「歯ブラシは濡らしますか?」
「そこは普通でお願いします」
普通。
この状況で、その言葉が一番遠い気がした。
王女様は水差しで歯ブラシを軽く濡らし、白い毛先に歯磨き粉を丁寧に乗せた。
その動作は少しぎこちない。
けれど、雑ではなかった。
慎重で、真剣で、少し緊張している。
そんな手つきだった。
「では、勇者様」
王女様が、歯ブラシを構える。
「口を開けてください」
来た。
その一言だけで、俺の精神が削られた。
女神様の時もそうだった。
でも、王女様に言われるとまた違う。
ここは王城。
相手は王女様。
今から魔物を討伐しに行くはずなのに、その前にすることが歯磨き。
世界を救うって、こんなに恥ずかしいことだったのか。
「……お願いします」
俺は、そっと口を開けた。
王女様が、少し息を呑む。
そして、歯ブラシの毛先が前歯に触れた。
最初の感覚は、女神様の時よりも頼りなかった。
力加減を探るように、そっと。
恐る恐る。
けれど、決して投げ出さない手つきで。
王女様の指先が、前歯の表面で歯ブラシを小さく横に動かす。
シャコ、シャコ。
静かな広間に、歯ブラシの毛先が歯の表面をこする音が響いた。
心地いい音だった。
だからこそ、余計に恥ずかしい。
兵士たちは後ろを向いている。
神官たちも後ろを向いている。
老神官も後ろを向いている。
それでも、この広間で王女様が俺の歯を磨いているという事実は消えない。
シャコ、シャコ。
小さな音が、赤い絨毯と高い天井のある広間に、妙にはっきりと残る。
くすぐったい。
それ以上に、王女様が緊張しているのが分かる。
歯ブラシを持つ手に、わずかに力が入っている。
近すぎないように、けれど見えにくくならないように、必死に距離を保とうとしている。
俺だけではない。
王女様も、恥ずかしいのだ。
「痛くありませんか?」
「大丈夫です」
「力加減は、強すぎませんか?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当に大丈夫です」
王女様は小さく頷き、少しだけ手の動きを安定させた。
前歯。
犬歯。
奥歯の外側。
順番に、丁寧に磨いていく。
女神様のような慣れた動きではない。
だが、その分、ひとつひとつ確認しながら進めているのが分かった。
俺は、口を開けたまま、王女様の手に合わせる。
最初は、体が固まっていた。
肩に力が入る。
首がこわばる。
顎を開けているだけなのに、妙に疲れる。
歯ブラシが次にどこへ行くか分からない。
前歯か。奥歯か。外側か。内側か。
そのたびに、舌が逃げようとする。
口を閉じそうになる。
けれど、王女様はそのたびに手を止めた。
「すみません、少し奥を磨きます」
「……はい」
「無理に開けなくて大丈夫です」
「大丈夫です」
「では、ゆっくり進めますね」
ゆっくり。
その言葉通り、王女様の手は急がなかった。
歯ブラシの毛先が、奥歯の外側に触れる。
小さく、細かく、丁寧に動く。
シャコシャコ。
さっきより少しだけ安定した音が、静かな広間に響いた。
誰も声を出さない。
兵士たちの鎧が鳴る音もない。
神官たちの祈りの声も、今だけは遠い。
聞こえるのは、王女様が俺の歯を磨く音だけだった。
くすぐったさが来る。
その後に、少し遅れて、すっきりする感覚が来る。
歯の表面をなぞられるたび、余計なものが落ちていくような感じがする。
自分で磨く時には分からない、細かいところまで触れられている感覚。
恥ずかしい。
でも、気持ちいい。
そう思ってしまった瞬間、また負けた気がした。
王女様は慣れていない。
女神様のように完璧ではない。
でも、丁寧だった。
俺が動けば待つ。
舌が逃げれば、無理に追わない。
力が入れば、少し手を緩める。
その慎重さが、だんだん安心に変わっていく。
最初に入っていた肩の力が、少し抜けた。
次に、首の力が抜ける。
顎の力も、少しずつ緩む。
口を開けていること自体は恥ずかしい。
けれど、王女様がこちらの反応を見ながら進めてくれるから、無理に耐えている感じは薄れていく。
「勇者様」
「……はい」
「少し、力が抜けてきましたね」
「言わないでください」
「すみません」
「でも、たぶん良いことです」
「良いことなのが、すごく嫌なんです」
王女様は少しだけ笑った。
その笑みで、俺の方もほんの少しだけ気が抜けた。
兵士たちは後ろを向いている。
神官たちも後ろを向いている。
老神官も後ろを向いている。
見られてはいない。
それでも、同じ広間にいることは分かる。
後ろの空気が妙に重い。
この国の命運を左右する儀式。
内容は、王女様が勇者の歯を磨いているだけ。
落差がひどすぎる。
「勇者様、次は内側を磨きます」
「……はい」
「少しだけ、大きく開けていただけますか?」
「はい」
俺は、言われた通りに口を開けた。
前歯の裏側。
王女様の歯ブラシが、慎重に角度を変える。
毛先が内側に入った瞬間、舌が反射的に動こうとした。
避けようとする。
押し返そうとする。
だが、王女様の手は止まった。
「苦しいですか?」
「……大丈夫です」
「舌に力が入っているように見えました」
「見ないでください」
「見なければ磨けません」
「正論ですね……」
俺は、ゆっくり息を吐いた。
力を抜く。
舌の力を抜く。
顎の力を抜く。
口の中の余計な抵抗を、少しずつ減らしていく。
すると、歯ブラシが入りやすくなった。
前歯の裏側を、毛先が細かくなぞる。
シャコ、シャコ。
今度は音が少し近く聞こえた。
口の中で響く小さな音が、広間の静けさに溶けていく。
王女様の指先が、俺の反応を確かめながら、歯ブラシの角度を少しずつ変えていく。
くすぐったい。
けれど、嫌ではない。
むしろ、さっきよりもすっきりする。
自分では雑に済ませがちな場所。
見えないから、磨いたつもりで終わらせていた場所。
そこを、王女様が真剣に磨いている。
国を救うために。
俺を勇者にするために。
その事実が、恥ずかしいのに、少しだけ胸に響いた。
「王女様」
「はい」
「本当に、すみません」
「何がですか?」
「こんなことをさせて」
王女様の手が、ほんの少し止まった。
そして、静かに言った。
「謝らないでください」
その声は、さっきより落ち着いていた。
「この国は、勇者様を召喚しました。あなたに戦ってほしいと願いました。ならば、あなたが戦うために必要なことを支えるのは、私たちの責任です」
「でも、歯磨きですよ」
「歯磨きでも、です」
王女様は、再び歯ブラシを動かす。
「勇者様にとって、それが必要な儀式なら。私は笑いません」
その言葉に、俺は少し黙った。
笑わない。
それだけで、ずいぶん救われるものなのだと分かった。
「……ありがとうございます」
「はい」
歯ブラシが奥歯へ移る。
今度は、俺も少しだけ素直に力を抜けた。
恥ずかしさは消えない。
王女様に歯を磨いてもらっているという事実は、普通にきつい。
だが、さっきよりは楽だった。
王女様の手が、少しずつ慣れてきている。
俺の体も、少しずつそれに合わせ始めている。
歯ブラシが奥歯の溝を小さく掃く。
シャコシャコ。
心地いい音が、また静かな広間に響く。
細かい振動が、奥歯の溝から顎へ伝わる。
くすぐったい。
気持ちいい。
恥ずかしい。
全部が同時に来る。
そして、そのたびに体の力が抜けていく。
肩が下がる。
背中のこわばりが消える。
呼吸が少し深くなる。
魔物が迫っている。
もうすぐ初戦闘だ。
なのに、俺は戦う前にリラックスしていた。
歯を磨かれて。
王女様に。
おかしい。
おかしいのに、体は正直だった。
「勇者様」
「……はい」
「そろそろ終わります」
「はい」
「最後に、もう一度前歯を整えます」
「整えるって言い方、職人みたいですね」
「大切な儀式ですから」
「便利ですね、その言葉」
王女様は、ほんの少しだけ笑った。
最初の緊張は、まだ残っている。
だが、手つきは確実に落ち着いていた。
前歯を軽く磨き、歯ブラシを離す。
白い歯ブラシの毛先が、口元から離れた瞬間、俺はようやく息を吐いた。
「終わりました」
王女様が言った。
俺は携帯用コップを受け取り、口をすすぐ。
水が口の中を通る。
歯の表面が、妙に滑らかだった。
自分で磨いた時とは違う。
ちゃんと磨かれた、という感覚がある。
そして、次の瞬間。
胸の奥で、光が弾けた。
「……っ」
来た。
体の中に、力が満ちていく。
手足が軽い。
視界が澄む。
音がはっきり聞こえる。
王城の広間にいる兵士たちの呼吸。
神官たちの祈り。
遠くから聞こえる鐘の音。
全部が、さっきより鮮明だった。
レベル5の体ではない。
レベル99。
王女様が、息を呑む。
「勇者様……本当に」
「はい」
俺は立ち上がった。
足元が軽い。
体の軸がぶれない。
さっきまでの恥ずかしさで削られた精神とは別に、体だけは完全に勇者になっている。
「発動しました」
その言葉を聞いた瞬間、後ろを向いていた兵士たちがざわめいた。
「本当に……」
「歯磨きで……」
「勇者様が……」
王女様は、歯ブラシを見た。
それから、俺を見る。
まだ少し頬は赤い。
けれど、その目には安堵があった。
「よかった」
小さな声だった。
「本当に、発動してよかったです」
その言葉は、俺の胸に少し残った。
王女様も怖かったのだ。
初めての儀式。
初めての担当。
本当に加護が発動するか分からない状況。
それでも、この人は逃げなかった。
「王女様」
「はい」
「ありがとうございました」
俺がそう言うと、王女様は一瞬だけ驚いた顔をした。
そして、静かに頭を下げた。
「どうか、魔物を討ってください」
「はい」
俺は頷いた。
今なら戦える。
歯磨きしてもらった後なので。
何度考えても台無しだ。
けれど、力は本物だった。
俺は、王女様が丁寧に箱へ戻した歯磨きセットを一度見た。
白い歯ブラシ。
神界製の歯磨き粉。
携帯用コップ。
それが、俺の武器だった。
いや、武器ではない。
武器より先に必要なものだった。
「出撃します」
広間の扉が開く。
兵士たちが道を作る。
王女様が、祈るように手を胸の前で組んだ。
「勇者様」
「はい」
「ご武運を」
俺は頷き、前へ進む。
聖剣はない。
鎧もない。
魔法も知らない。
それでも、体には確かに力が満ちている。
王女様に歯を磨いてもらったばかりの、レベル99の勇者として。
俺は、初めての戦場へ向かった。