他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です   作:きのこ大三元

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第2.5話「王女様、勇者の歯を磨く」

 王城の広間に用意された椅子は、やけに立派だった。

 

 赤い絨毯の上。

 兵士たちが並ぶ広間の端。

 神官たちが祈りを捧げる横で、俺は椅子に座らされていた。

 

 目の前には、王女様。

 

 その手には、女神様から授かった白い歯ブラシがある。

 

 聖剣ではない。

 魔導書でもない。

 歯ブラシだ。

 

 そして今から、その歯ブラシで王女様が俺の歯を磨く。

 

 何度考えても、意味が分からなかった。

 

「勇者様」

 

 王女様が、真剣な顔で言った。

 

「はい」

「本当に、私でよろしいのですね?」

「女神様の説明では、同意している他人なら加護は発動するそうです」

「では、条件上は問題ないのですね」

「問題しかない気もしますけど、条件上は問題ないです」

 

 王女様は少しだけ頬を赤くした。

 

 当たり前だ。

 

 いきなり異世界から来た勇者に、自分は他人に歯を磨いてもらわないと戦えません、と言われたのだ。

 それだけでも十分おかしい。

 

 そのうえ、初回担当が自分になる。

 

 普通なら固まる。

 実際、固まっていた。

 

 けれど王女様は、固まった後に戻ってきた。

 

 この国を救うため。

 民を守るため。

 勇者を戦わせるため。

 

 その責任感だけで、目の前に立っている。

 

「勇者様。念のため確認します」

「はい」

「痛かったり、苦しかったりした場合は、すぐに合図してください」

「分かりました」

「無理に続けるつもりはありません」

「ありがとうございます」

 

 王女様は真面目だった。

 

 その真面目さが、逆につらい。

 

 茶化してくれた方が、まだ逃げ場があった。

 だが、王女様は本気でこの行為を勇者の儀式として扱おうとしている。

 

 つまり俺も、逃げられない。

 

「それと」

 

 王女様は、少しだけ視線を逸らした。

 

「膝枕状態で行った場合、追加効果があるとのことでしたが」

「今回は通常でお願いします」

「よろしいのですか?」

「はい。初回から王女様にそこまでしてもらうと、俺の心が先に折れます」

「分かりました」

 

 王女様は真剣に頷いた。

 

「では、今回は通常の歯磨きの儀式で」

「儀式と言われると、余計に恥ずかしいですね」

「ですが、勇者様に必要な手順です」

「はい……」

 

 正論だった。

 

 俺は、勇者用歯磨きセットの箱を開けた。

 

 白い歯ブラシ。

 神界製の歯磨き粉。

 携帯用コップ。

 歯間ブラシ。

 説明書。

 

 王女様は、説明書を一度確認してから、歯ブラシを手に取った。

 

「歯磨き粉は、この量でよろしいでしょうか?」

「少しで大丈夫です」

「これくらいですか?」

「はい」

「歯ブラシは濡らしますか?」

「そこは普通でお願いします」

 

 普通。

 

 この状況で、その言葉が一番遠い気がした。

 

 王女様は水差しで歯ブラシを軽く濡らし、白い毛先に歯磨き粉を丁寧に乗せた。

 その動作は少しぎこちない。

 

 けれど、雑ではなかった。

 

 慎重で、真剣で、少し緊張している。

 そんな手つきだった。

 

「では、勇者様」

 

 王女様が、歯ブラシを構える。

 

「口を開けてください」

 

 来た。

 

 その一言だけで、俺の精神が削られた。

 

 女神様の時もそうだった。

 でも、王女様に言われるとまた違う。

 

 ここは王城。

 相手は王女様。

 今から魔物を討伐しに行くはずなのに、その前にすることが歯磨き。

 

 世界を救うって、こんなに恥ずかしいことだったのか。

 

「……お願いします」

 

 俺は、そっと口を開けた。

 

 王女様が、少し息を呑む。

 

 そして、歯ブラシの毛先が前歯に触れた。

 

 最初の感覚は、女神様の時よりも頼りなかった。

 

 力加減を探るように、そっと。

 恐る恐る。

 けれど、決して投げ出さない手つきで。

 

 王女様の指先が、前歯の表面で歯ブラシを小さく横に動かす。

 

 シャコ、シャコ。

 

 静かな広間に、歯ブラシの毛先が歯の表面をこする音が響いた。

 

 心地いい音だった。

 

 だからこそ、余計に恥ずかしい。

 

 兵士たちは後ろを向いている。

 神官たちも後ろを向いている。

 老神官も後ろを向いている。

 

 それでも、この広間で王女様が俺の歯を磨いているという事実は消えない。

 

 シャコ、シャコ。

 

 小さな音が、赤い絨毯と高い天井のある広間に、妙にはっきりと残る。

 

 くすぐったい。

 

 それ以上に、王女様が緊張しているのが分かる。

 

 歯ブラシを持つ手に、わずかに力が入っている。

 近すぎないように、けれど見えにくくならないように、必死に距離を保とうとしている。

 

 俺だけではない。

 

 王女様も、恥ずかしいのだ。

 

「痛くありませんか?」

「大丈夫です」

「力加減は、強すぎませんか?」

「大丈夫です」

「本当に?」

「本当に大丈夫です」

 

 王女様は小さく頷き、少しだけ手の動きを安定させた。

 

 前歯。

 犬歯。

 奥歯の外側。

 

 順番に、丁寧に磨いていく。

 

 女神様のような慣れた動きではない。

 だが、その分、ひとつひとつ確認しながら進めているのが分かった。

 

 俺は、口を開けたまま、王女様の手に合わせる。

 

 最初は、体が固まっていた。

 

 肩に力が入る。

 首がこわばる。

 顎を開けているだけなのに、妙に疲れる。

 

 歯ブラシが次にどこへ行くか分からない。

 前歯か。奥歯か。外側か。内側か。

 

 そのたびに、舌が逃げようとする。

 口を閉じそうになる。

 

 けれど、王女様はそのたびに手を止めた。

 

「すみません、少し奥を磨きます」

「……はい」

「無理に開けなくて大丈夫です」

「大丈夫です」

 

「では、ゆっくり進めますね」

 

 ゆっくり。

 

 その言葉通り、王女様の手は急がなかった。

 

 歯ブラシの毛先が、奥歯の外側に触れる。

 小さく、細かく、丁寧に動く。

 

 シャコシャコ。

 

 さっきより少しだけ安定した音が、静かな広間に響いた。

 

 誰も声を出さない。

 兵士たちの鎧が鳴る音もない。

 神官たちの祈りの声も、今だけは遠い。

 

 聞こえるのは、王女様が俺の歯を磨く音だけだった。

 

 くすぐったさが来る。

 その後に、少し遅れて、すっきりする感覚が来る。

 

 歯の表面をなぞられるたび、余計なものが落ちていくような感じがする。

 自分で磨く時には分からない、細かいところまで触れられている感覚。

 

 恥ずかしい。

 

 でも、気持ちいい。

 

 そう思ってしまった瞬間、また負けた気がした。

 

 王女様は慣れていない。

 女神様のように完璧ではない。

 

 でも、丁寧だった。

 

 俺が動けば待つ。

 舌が逃げれば、無理に追わない。

 力が入れば、少し手を緩める。

 

 その慎重さが、だんだん安心に変わっていく。

 

 最初に入っていた肩の力が、少し抜けた。

 

 次に、首の力が抜ける。

 

 顎の力も、少しずつ緩む。

 

 口を開けていること自体は恥ずかしい。

 けれど、王女様がこちらの反応を見ながら進めてくれるから、無理に耐えている感じは薄れていく。

 

「勇者様」

「……はい」

「少し、力が抜けてきましたね」

「言わないでください」

「すみません」

 

「でも、たぶん良いことです」

「良いことなのが、すごく嫌なんです」

 

 王女様は少しだけ笑った。

 

 その笑みで、俺の方もほんの少しだけ気が抜けた。

 

 兵士たちは後ろを向いている。

 神官たちも後ろを向いている。

 老神官も後ろを向いている。

 

 見られてはいない。

 

 それでも、同じ広間にいることは分かる。

 後ろの空気が妙に重い。

 

 この国の命運を左右する儀式。

 

 内容は、王女様が勇者の歯を磨いているだけ。

 

 落差がひどすぎる。

 

「勇者様、次は内側を磨きます」

「……はい」

「少しだけ、大きく開けていただけますか?」

「はい」

 

 俺は、言われた通りに口を開けた。

 

 前歯の裏側。

 

 王女様の歯ブラシが、慎重に角度を変える。

 

 毛先が内側に入った瞬間、舌が反射的に動こうとした。

 

 避けようとする。

 押し返そうとする。

 

 だが、王女様の手は止まった。

 

「苦しいですか?」

「……大丈夫です」

「舌に力が入っているように見えました」

「見ないでください」

「見なければ磨けません」

「正論ですね……」

 

 俺は、ゆっくり息を吐いた。

 

 力を抜く。

 

 舌の力を抜く。

 顎の力を抜く。

 口の中の余計な抵抗を、少しずつ減らしていく。

 

 すると、歯ブラシが入りやすくなった。

 

 前歯の裏側を、毛先が細かくなぞる。

 

 シャコ、シャコ。

 

 今度は音が少し近く聞こえた。

 

 口の中で響く小さな音が、広間の静けさに溶けていく。

 王女様の指先が、俺の反応を確かめながら、歯ブラシの角度を少しずつ変えていく。

 

 くすぐったい。

 けれど、嫌ではない。

 

 むしろ、さっきよりもすっきりする。

 

 自分では雑に済ませがちな場所。

 見えないから、磨いたつもりで終わらせていた場所。

 

 そこを、王女様が真剣に磨いている。

 

 国を救うために。

 

 俺を勇者にするために。

 

 その事実が、恥ずかしいのに、少しだけ胸に響いた。

 

「王女様」

「はい」

「本当に、すみません」

「何がですか?」

「こんなことをさせて」

 

 王女様の手が、ほんの少し止まった。

 

 そして、静かに言った。

 

「謝らないでください」

 

 その声は、さっきより落ち着いていた。

 

「この国は、勇者様を召喚しました。あなたに戦ってほしいと願いました。ならば、あなたが戦うために必要なことを支えるのは、私たちの責任です」

「でも、歯磨きですよ」

「歯磨きでも、です」

 

 王女様は、再び歯ブラシを動かす。

 

「勇者様にとって、それが必要な儀式なら。私は笑いません」

 

 その言葉に、俺は少し黙った。

 

 笑わない。

 

 それだけで、ずいぶん救われるものなのだと分かった。

 

「……ありがとうございます」

「はい」

 

 歯ブラシが奥歯へ移る。

 

 今度は、俺も少しだけ素直に力を抜けた。

 

 恥ずかしさは消えない。

 王女様に歯を磨いてもらっているという事実は、普通にきつい。

 

 だが、さっきよりは楽だった。

 

 王女様の手が、少しずつ慣れてきている。

 俺の体も、少しずつそれに合わせ始めている。

 

 歯ブラシが奥歯の溝を小さく掃く。

 

 シャコシャコ。

 

 心地いい音が、また静かな広間に響く。

 

 細かい振動が、奥歯の溝から顎へ伝わる。

 

 くすぐったい。

 気持ちいい。

 恥ずかしい。

 

 全部が同時に来る。

 

 そして、そのたびに体の力が抜けていく。

 

 肩が下がる。

 背中のこわばりが消える。

 呼吸が少し深くなる。

 

 魔物が迫っている。

 もうすぐ初戦闘だ。

 

 なのに、俺は戦う前にリラックスしていた。

 

 歯を磨かれて。

 

 王女様に。

 

 おかしい。

 

 おかしいのに、体は正直だった。

 

「勇者様」

「……はい」

「そろそろ終わります」

「はい」

「最後に、もう一度前歯を整えます」

「整えるって言い方、職人みたいですね」

「大切な儀式ですから」

「便利ですね、その言葉」

 

 王女様は、ほんの少しだけ笑った。

 

 最初の緊張は、まだ残っている。

 だが、手つきは確実に落ち着いていた。

 

 前歯を軽く磨き、歯ブラシを離す。

 

 白い歯ブラシの毛先が、口元から離れた瞬間、俺はようやく息を吐いた。

 

「終わりました」

 

 王女様が言った。

 

 俺は携帯用コップを受け取り、口をすすぐ。

 

 水が口の中を通る。

 歯の表面が、妙に滑らかだった。

 

 自分で磨いた時とは違う。

 

 ちゃんと磨かれた、という感覚がある。

 

 そして、次の瞬間。

 

 胸の奥で、光が弾けた。

 

「……っ」

 

 来た。

 

 体の中に、力が満ちていく。

 

 手足が軽い。

 視界が澄む。

 音がはっきり聞こえる。

 

 王城の広間にいる兵士たちの呼吸。

 神官たちの祈り。

 遠くから聞こえる鐘の音。

 

 全部が、さっきより鮮明だった。

 

 レベル5の体ではない。

 

 レベル99。

 

 王女様が、息を呑む。

 

「勇者様……本当に」

「はい」

 

 俺は立ち上がった。

 

 足元が軽い。

 体の軸がぶれない。

 さっきまでの恥ずかしさで削られた精神とは別に、体だけは完全に勇者になっている。

 

「発動しました」

 

 その言葉を聞いた瞬間、後ろを向いていた兵士たちがざわめいた。

 

「本当に……」

「歯磨きで……」

「勇者様が……」

 

 王女様は、歯ブラシを見た。

 

 それから、俺を見る。

 

 まだ少し頬は赤い。

 けれど、その目には安堵があった。

 

「よかった」

 

 小さな声だった。

 

「本当に、発動してよかったです」

 

 その言葉は、俺の胸に少し残った。

 

 王女様も怖かったのだ。

 

 初めての儀式。

 初めての担当。

 本当に加護が発動するか分からない状況。

 

 それでも、この人は逃げなかった。

 

「王女様」

「はい」

「ありがとうございました」

 

 俺がそう言うと、王女様は一瞬だけ驚いた顔をした。

 

 そして、静かに頭を下げた。

 

「どうか、魔物を討ってください」

「はい」

 

 俺は頷いた。

 

 今なら戦える。

 

 歯磨きしてもらった後なので。

 

 何度考えても台無しだ。

 

 けれど、力は本物だった。

 

 俺は、王女様が丁寧に箱へ戻した歯磨きセットを一度見た。

 

 白い歯ブラシ。

 神界製の歯磨き粉。

 携帯用コップ。

 

 それが、俺の武器だった。

 

 いや、武器ではない。

 

 武器より先に必要なものだった。

 

「出撃します」

 

 広間の扉が開く。

 

 兵士たちが道を作る。

 

 王女様が、祈るように手を胸の前で組んだ。

 

「勇者様」

「はい」

「ご武運を」

 

 俺は頷き、前へ進む。

 

 聖剣はない。

 鎧もない。

 魔法も知らない。

 

 それでも、体には確かに力が満ちている。

 

 王女様に歯を磨いてもらったばかりの、レベル99の勇者として。

 

 俺は、初めての戦場へ向かった。

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