他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です 作:きのこ大三元
王女様に歯を磨いてもらった。
その事実だけで、俺の精神はかなり削られていた。だが、体の方は信じられないくらい絶好調だった。
手足が軽い。視界が澄んでいる。心臓の鼓動は落ち着いているのに、全身には今まで感じたことのない力が満ちている。歯磨き前の俺はレベル5。歯磨き後の俺はレベル99。女神様の説明通り、王女様の歯磨きでも勇者の加護は発動した。
発動してしまった。
正直、もう少し嘘であってほしかった。
「勇者様、こちらを」
王国の騎士が、俺の前に剣と防具を差し出した。
鋼の剣。革と金属を組み合わせた軽めの胸当て。腕を守る手甲。足元を固める簡易の具足。
見た目は、いかにも普通の王国騎士装備だ。聖剣ではない。伝説の鎧でもない。ただ、普通の剣よりは少し良いくらいの、ちゃんとした実用品だった。
「急な出撃ですので、勇者様専用の装備はまだ用意できておりません。ひとまず、王国騎士と同等の装備をお使いください」
「ありがとうございます」
俺は鋼の剣を受け取った。
重い、はずだった。だが、今の俺には軽かった。片手で握っても、ほとんど負担を感じない。むしろ、軽い棒でも持っているような感覚に近い。刃の重心も、柄の握りも、妙にしっくりくる。
レベル99。
その数字が、急に現実味を帯びてきた。
「防具の具合はどうでしょうか」
「大丈夫です。動けます」
「さすが勇者様……」
騎士が感心したように頷く。
やめてほしい。さっきまで王女様に歯を磨いてもらっていた男に、そんな尊敬の目を向けないでほしい。
俺は深く息を吸い、広間の出口へ向かった。王城の廊下を抜け、城門へ向かう途中で、ふと自分の視界に違和感を覚える。
視界の隅に、文字が見える。
レベル99。
その下に、小さく数字が表示されていた。
残り25分。
「……ご丁寧に」
俺は思わず呟いた。
レベル表示。残り時間表示。勇者の加護には、どうやら視界内表示まであるらしい。便利だ。便利だが、精神には悪い。
あと25分。
つまり、王女様に歯を磨いてもらってから、すでに5分くらい経っている。装備を受け取り、説明を聞き、城門へ向かっている間にも、歯磨きバフの時間は減っていた。
元の世界にいた、時間制限つきで戦うヒーローを思い出す。あちらは確か、胸のランプが点滅したら危ない。俺の場合は、歯磨き後の残り時間が視界に表示される。
嫌すぎる。
「勇者様、馬をご用意いたしました!」
「ありがとうございます。でも、走った方が早そうです」
「え?」
俺は城門の外へ出た。
王都の外壁の向こうに、煙が見える。遠くから、兵士たちの怒号と魔物の鳴き声が聞こえてくる。戦場は近い。視界の隅には、残り24分。
急がなければならない。
「行きます」
俺は地面を蹴った。
次の瞬間、景色が後ろへ流れた。
「うわっ!?」
自分で出した速度に、自分で驚く。体が軽い。足が速い。走っているのに、息が切れない。石畳を抜け、土の道を蹴り、王都近郊の平原へ向かう。背後で騎士たちが何か叫んでいたが、今は戻れない。
残り時間がある。
あと23分。
勇者の初戦闘で一番気にするべきものが、敵の数ではなく残り時間なのはどうなのか。
そんなことを考えながら、俺は足早に戦場へ向かった。
平原には、すでに王国騎士たちが展開していた。
盾を構えた騎士。槍を持つ兵士。後方で祈りを捧げる神官。そのさらに前方で、黒い毛並みの狼型モンスターが群れを作っている。
普通の狼より大きい。牙も爪も鋭い。赤く光る目の奥に、こちらを獲物として見ているような凶暴さがあった。口元から漏れる黒い息が、平原の草をわずかに揺らしている。
「勇者様!」
騎士の1人がこちらに気づいた。
「前方に狼型の魔物が十数体! 奥には大型の個体も確認されています!」
「分かりました」
俺は剣を構えた。
構えた、つもりだった。
剣術なんて知らない。竹刀を振った経験すら、授業で少しあるくらいだ。それでも、体が自然に動いた。足の位置。腰の向き。剣の角度。呼吸の置き方。まるで体の方が、戦い方を知っているみたいだった。
レベル99。
勇者の加護は、身体能力だけでなく、戦闘の感覚まで底上げしているらしい。
「残り時間は……」
視界の隅を見る。
残り21分。
まだある。あるが、余裕ではない。
俺は息を吐き、狼型モンスターの群れへ向かって駆けた。
先頭の狼が、地面を蹴って飛びかかってくる。牙が見えた。爪が見えた。遅い。初めて見る魔物の動きなのに、なぜか遅く見える。
俺は、横へ剣を振った。
ただの横払いだった。
剣の刃が、先頭の狼型モンスターの胴を捉える。その瞬間、刀身の先から白い衝撃が走った。横払いの軌道よりも広い範囲を、見えない刃が平原の草ごと薙いでいく。
目の前の狼だけではない。
左右にいた数体の狼型モンスターまで、一斉に吹き飛んだ。
黒い体が宙を舞い、地面に落ちる前に光の粒となって消えていく。
「……え?」
俺は自分の剣を見た。
鋼の剣。普通の剣よりは少し強いくらいの武器。なのに、今の一振りは、どう考えても普通ではなかった。
騎士たちが後ろで叫ぶ。
「い、一撃で……!」
「範囲が広すぎる!」
「本当に勇者様だ……!」
やめろ。
尊敬の声が痛い。
さっきまで王女様に歯を磨いてもらっていたから強いんです、とは言えない。いや、もう説明済みではある。説明済みだからこそ、なおさら恥ずかしい。
「次、来ます!」
騎士の声が飛ぶ。
残った狼型モンスターたちは、正面から突っ込むのではなく、左右に散りながら俺を囲もうとしていた。地面を蹴る足音。草を裂く爪。喉の奥で鳴る低いうなり声。
だが、遅い。
いや、俺が速すぎる。
地面を蹴る。1歩で距離が詰まる。右から来た狼の横をすり抜け、剣の柄で軽く叩く。それだけで、狼は地面に叩きつけられ、光になって消えた。
左から来た狼には、剣の腹を当てる。吹き飛ぶ。さらに奥の2体へ向けて軽く剣を振ると、刀身の先から飛んだ衝撃が平原を走り、狼型モンスターの群れが一瞬で崩れた。
強い。
俺が強い。
正確には、歯磨き後の俺が強い。
認めたくないが、強い。
視界の隅を見る。
残り18分。
「まだ大丈夫……いや、大丈夫って言っていいのかこれ」
時間制限つきの無双。
かなり強い。だが、時間が減っていく表示が、じわじわ精神を削ってくる。戦闘中に時計を見るのは、思った以上に忙しい。
敵を見る。味方を見る。足場を見る。剣を見る。残り時間を見る。
やることが多い。
歯磨きバフ、強いが面倒だ。
「勇者様! 大型が来ます!」
地面が揺れた。
平原の奥から、巨大な影が近づいてくる。狼型モンスターたちの背後にいた、大型の魔物。巨人だった。
身長は、王城の門ほどではないにしても、普通の人間の3倍以上はある。灰色の皮膚。太い腕。肩まで伸びた黒い毛。手には棍棒のような木の幹を握っている。
巨人は、こちらを見下ろして吠えた。
空気が震える。近くの騎士たちが思わず盾を構え直し、神官たちの祈りの声が少しだけ乱れた。
「勇者様、あれは危険です! まともに受ければ城壁用の盾でも砕かれます!」
「分かりました」
俺は頷いた。
怖い。
普通に怖い。
いくらレベル99とはいえ、目の前に巨人がいるのは怖い。だが、足は震えていなかった。体は逃げようとしていない。むしろ、どの位置へ踏み込み、どの角度で剣を通せばいいのかを自然に考えている。
残り16分。
時間はある。
でも、長引かせる理由はない。
巨人が棍棒を振り上げた。太い腕が空を覆い、巨大な影が平原に落ちる。俺はその影の中へ踏み込み、棍棒が振り下ろされる前に、巨人の懐へ入った。
そして、鋼の剣を縦に振る。
上から下へ。
ただ、それだけ。
刃が巨人の胴体に触れた瞬間、白い光の線が走った。次の瞬間、巨人の体が縦に割れる。
真っ二つ。
あまりにもあっさりと。
巨人は叫ぶ間もなく、光の粒となって消えていった。
残ったのは、地面に走った剣筋の跡と、呆然とする騎士たちだけだった。
「……」
「……」
平原に、妙な沈黙が落ちた。
俺も黙った。
やった本人が、一番驚いている。
「勇者様……」
騎士の1人が、震える声で呟いた。
「今のは、何という技なのですか?」
技。
技なのか、今の。
俺は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「縦に振りました」
「縦に」
「はい」
「振っただけで」
「はい」
「巨人が」
「真っ二つに」
騎士たちが黙った。
俺も黙った。
レベル99、説明が雑になるくらい強い。
その頃、王都の城壁では、王女様が護衛の騎士たちと共に平原を見つめていた。
城壁の石床。風にはためく王国の旗。弓兵たちが配置された見張り台。その中央で、王女様は胸の前で手を組み、巨人が光となって消える様子を見ていた。
「本当に……発動しているのですね」
隣の護衛騎士が頷く。
「はい。勇者様の力は本物です」
「歯磨きで」
「……歯磨きで」
王女様は一瞬だけ目を伏せた。
まだ受け止めきれていない顔だった。
だが、すぐに前を向く。
「ならば、王国は勇者様が戦えるよう、全力で支えなければなりません」
「歯磨きの儀式を、ですか」
「必要ならば」
王女様は真剣だった。
その真剣さが、城壁の上にも少しだけ重く響いた。
平原では、魔物たちの動きが変わり始めていた。
狼型モンスターたちは、もう前に出てこない。巨人を失ったことで統率が崩れたらしく、残った小型の魔物たちが、じりじりと後退している。
俺が剣を構えると、さらに後ずさる。
「逃げるのか?」
言った瞬間、自分で少し驚いた。
別に挑発したつもりはない。だが、魔物たちには十分だったらしい。1体が背を向けると、それを合図に残った魔物たちが一斉に退却を始めた。黒い影が、平原の奥へ逃げていく。
追うべきか。
少し迷った。
視界の隅を見る。
残り7分。
思ったより減っている。
走って、戦って、巨人を倒して。それだけで、かなり時間が過ぎていた。
「深追いはしない方がいいですね」
近くの騎士が言った。
「勇者様のおかげで、王都への被害は防げました。ここで無理に追えば、伏兵がいる可能性もあります」
「分かりました」
俺は剣を下ろした。
初戦闘は終わった。
無事に。
いや、無事と言っていいのかは分からない。魔物は倒した。巨人も倒した。騎士たちは助かった。だが、俺の心はまた少し削れた。
歯磨き後30分。
強い。
確かに強い。
ただ、戦いながら制限時間を気にするのは、想像以上に面倒だった。
残り5分。
視界の隅に表示された数字を見て、俺はため息をつく。
「勇者様?」
騎士が不思議そうにこちらを見る。
「どうされました?」
「いや……強いのは分かったんですけど」
「はい」
「これ、時間切れしたら俺はレベル5に戻るんですよね」
「……そうなりますね」
「帰り道、大丈夫ですかね」
騎士たちが固まった。
そう。
戦いは終わった。
だが、帰り道が残っている。
レベル99のまま帰れるならいい。しかし、残り時間はもう少ない。王都へ戻る途中でレベル5に戻った場合、俺は普通の人より少し丈夫で、少し運が良い程度の男になる。
つまり、さっきまで巨人を真っ二つにしていた男が、急に一般人寄りになる。
怖すぎる。
「勇者様、馬を呼びます!」
「お願いします!」
俺は即答した。
戦場では格好つけられた。だが、帰り道でバフ切れは嫌だ。
王国騎士たちは慌ただしく動き出した。その間にも、残り時間は減っていく。
残り4分。
残り3分。
遠くの城壁では、王女様がこちらを見ている。
俺は平原の風を受けながら、鋼の剣を握り直した。
初戦闘は終わった。
レベル99の力は本物だった。
王国騎士たちも、王女様も、それを確認した。
だが、俺も大事なことを理解した。
歯磨き後30分。
それは強い。
それは便利だ。
だが、戦闘中に残り時間を気にし続けるのは、想像以上に疲れる。
そして何より。
次にまた戦う時も、俺は誰かに頼まなければならない。
恥ずかしさを飲み込んで。
世界を救うために。
こう言わなければならない。
俺の歯を、磨いてください、と。
次回予告
戦士
「おい、勇者」
勇者
「はい」
戦士
「歯磨き前はレベル5って聞いたんだが」
勇者
「はい」
戦士
「……レベル5で前に出るな!」
次回、第4話
「戦士、レベル5の勇者にキレる」
勇者、初めて前衛職に本気で怒られる。