他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です   作:きのこ大三元

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第5.5話「僧侶、勇者の口腔ケアを担当する」

 僧侶は、俺の歯磨き条件を「治療」と言った。

 

 正確には、こうだ。

 

「勇者様の加護を発動させるための口腔ケアです。戦闘前の身体調整であり、精神安定を含む支援行為です」

 

 言葉だけ聞けば、かなりまともに聞こえる。

 

 口腔ケア。

 身体調整。

 精神安定。

 支援行為。

 

 どれも、回復担当の僧侶が口にしても違和感のない単語だ。

 

 問題は、その中身が「他人に歯を磨いてもらうこと」だという一点だった。

 

 俺は王城の広間の端に置かれた椅子に座っていた。目の前には、小さな卓。卓の上には、勇者用歯磨きセットと、僧侶が神殿の治療院から持ってきた柔らかめの治療ブラシが並んでいる。

 

 白い歯ブラシ。

 神界製の歯磨き粉。

 携帯用コップ。

 白い布。

 それから、淡い金色の毛先を持つ僧侶用の治療ブラシ。

 

 王女様の時に使った標準の歯ブラシとは、見た目からして少し違った。柄は細く、毛先は柔らかそうで、先端がほんの少し丸く整えられている。歯を強くこするための道具というより、歯茎や口の中を傷つけないための道具に見えた。

 

「勇者様、まずは顎と肩の状態を確認しますね」

 

 僧侶はそう言って、俺の正面に立った。

 

 白と淡い金色の法衣。胸元の聖印。腰の小袋。細い杖。どこからどう見ても回復役なのに、今からすることは歯磨きだった。

 

「顎と肩ですか?」

「はい。口を開けたまま力が入りすぎると、顎や首に負担がかかります。昨日と今朝の疲労も少し残っていますから、無理はしない方がいいです」

「歯磨き前にここまで診られるとは思いませんでした」

「口腔ケアですから」

 

 便利な言葉が増えた。

 

 女神様の「勇者の儀式ですから」。

 王女様の「必要な手順です」。

 戦士の「実戦では必要だ」。

 

 そして僧侶の「口腔ケアですから」。

 

 みんな違う言い方で、俺の逃げ道を塞いでくる。

 

 僧侶は俺の肩の横に手をかざした。淡い光が手のひらから広がり、肩、首、顎のあたりをゆっくり包む。

 

「少し肩に力が入っていますね。戦士様に叱られた影響でしょうか」

「それもあると思います」

「ですが、叱られるのは大切です。危ないことをした時に止めてくれる方がいるのは、良いことです」

「僧侶さんまで正論で来るんですね」

「治療方針です」

 

 治療方針。

 

 もう反論できない。

 

「勇者様。今日は、加護の発動確認だけでなく、歯磨き前後の身体状態も見ます。歯磨き後にレベル99になるなら、身体への負担や精神状態の変化も記録しておいた方がいいです」

「記録」

「はい。勇者様の口腔ケア記録です」

 

 俺は少し遠い目をした。

 

 口腔ケア記録。

 

 勇者の冒険譚に出てくる言葉ではない。

 

 だが、僧侶は真面目だった。腰の小袋から小さな手帳を取り出し、羽根ペンまで用意している。

 

「項目は、歯磨き前のレベル、使用したブラシ、使用した歯磨き粉、磨いた時間、顎の疲労、精神状態、加護の発動具合、効果時間の変化などです」

「本格的ですね」

「勇者様の命に関わることですから」

 

 言われると弱い。

 

 レベル5の状態で草原へ出て死にかけた直後なので、余計に弱い。

 

「では、始めてもよろしいですか?」

 

 僧侶は治療ブラシを手に取った。

 

「……お願いします」

 

 俺は観念して頷いた。

 

 僧侶は小さく微笑み、まず神界製の歯磨き粉を少量だけ毛先に乗せる。王女様の時よりも量は控えめだった。さらに水差しで毛先を軽く湿らせ、余分な水を白い布の上で落とす。

 

 その動作は、丁寧だった。

 

 王女様のような初々しさではなく、女神様のような神秘でもない。治療院で包帯を巻く人の手つきに近い。使う道具の場所を決め、患者の状態を見て、負担が少ない順番で進める。そんな落ち着きがあった。

 

「勇者様、背中を椅子に預けてください。肩を少し下げて、顎は上げすぎないように」

「はい」

「苦しくなったら、左手を上げてください。右手は昨日と今朝の疲労がありますので」

「そこまで見てるんですね」

「回復担当ですので」

 

 僧侶は自然に言った。

 

 その自然さが、妙に安心できる。

 

「では、口を開けてください」

 

 優しい声だった。

 

 俺は、ゆっくり口を開けた。

 

 前歯に、柔らかい毛先が触れる。

 

 シャコ、シャコ。

 

 静かな広間に、小さな音が響いた。

 

 王女様の歯磨きは、緊張を含んだ音だった。最初は少しぎこちなくて、こちらも相手も探りながら進んでいく感じがあった。

 

 僧侶の音は、もっと穏やかだった。

 

 毛先が歯の表面をなぞる。強く押しつけるのではなく、歯の形に沿って、細かく、ゆっくり動く。歯磨き粉の泡が少しずつ広がり、前歯の表面にあったざらつきが、柔らかい毛先でほどかれていく。

 

「力加減はどうですか?」

「……大丈夫です」

「痛みはありませんか?」

「ないです」

「では、このまま前歯の表面から進めますね」

 

 説明が丁寧だった。

 

 次にどこを磨くのか、どれくらい口を開ければいいのか、痛かったらどうすればいいのか。僧侶はその都度、先に教えてくれる。

 

 だから、歯ブラシが近づいても身構えにくい。

 

 恥ずかしさはある。

 

 普通にある。

 

 だが、怖さや落ち着かなさは少なかった。

 

 シャコ、シャコ。

 

 小さな音が続く。

 

 広間の兵士たちは後ろを向いている。神官たちも、王女様も、視線を逸らしている。戦士だけは少し離れた場所で腕を組み、警戒とも監督ともつかない顔をしていた。

 

 見られてはいない。

 

 だが、同じ空間に人がいることは分かる。

 

 その状態で僧侶に歯を磨かれているのだから、やはり恥ずかしい。

 

「勇者様、少し顎に力が入っています」

「……言わないでください」

「大丈夫です。今の段階では自然な反応です」

「自然でも恥ずかしいんです」

「では、ゆっくり呼吸しましょう。鼻から吸って、肩の力を抜いてください」

 

 歯磨き中に呼吸指導が始まった。

 

 しかし、従うしかない。

 

 俺は口を開けたまま、ゆっくり息を吸う。肩の力を抜く。顎の奥に入っていた力が、少しだけ緩む。

 

 僧侶の治療ブラシが、犬歯の横へ移動した。

 

 細い毛先が、歯と歯の間を小さくなぞる。王女様の時よりも刺激は弱い。だが、その分、細かいところまで触れられているのが分かる。

 

 くすぐったい。

 

 でも、嫌ではない。

 

 むしろ、少し気持ちいい。

 

 そう思った瞬間、また負けた気がした。

 

「勇者様」

「……はい」

「今、少し力が抜けましたね」

「なぜ分かるんですか」

「顎と舌の動きで分かります」

「見ないでください」

「見ないと磨けません」

「正論ですね……」

 

 僧侶は少しだけ笑った。

 

 その笑い方は、馬鹿にするものではなかった。困っている患者を安心させるような、柔らかい笑みだった。

 

「次は奥歯の外側を磨きます。少しだけ口を横に開けるように意識してください」

「……はい」

 

 俺は言われた通りにする。

 

 奥歯の外側に、治療ブラシの毛先が触れた。

 

 シャコシャコ。

 

 さっきより少し低い音が、口の奥から響く。

 

 毛先は柔らかいのに、奥歯の表面をきちんとなぞっていく。強くこすられないから痛みはない。だが、歯の凹凸や噛み合わせの溝に沿って、丁寧に泡が広がっていくのが分かる。

 

 自分で磨く時なら、ここまで意識しない。

 

 奥歯は、だいたい感覚で済ませる。

 

 届いているつもりで、たぶん届いていない場所もある。

 

 そこを、僧侶は焦らず確認しながら磨いていく。

 

「勇者様、舌が少し歯ブラシに触れています」

「……すみません」

「謝らなくて大丈夫です。無理に引っ込めようとすると、逆に力が入りやすいので、少しだけ下げる意識で」

「歯磨きで舌の指導まで受けるんですね」

「口腔ケアですから」

「強いですね、その言葉」

 

 僧侶は否定しなかった。

 

 治療ブラシが、奥歯の溝を小さく掃く。

 

 細かい振動が、奥歯から顎へ伝わる。柔らかい毛先のせいか、王女様の時よりも刺激は穏やかだった。その代わり、安心感が強い。

 

 急がされていない。

 

 失敗しても笑われない。

 

 動いてしまっても、待ってもらえる。

 

 そう思うと、体の力が少しずつ抜けていく。

 

「勇者様」

「……はい」

「良い状態です」

「言わないでください」

「力が抜けているのは、本当に良いことです。加護の発動条件にも関係しているのでしょう?」

「たぶん、そうです」

「でしたら、恥ずかしいかもしれませんが、任せる感覚は大切にしてください」

 

 任せる感覚。

 

 女神様にも、似たようなことを言われた。

 

 他人にケアされること。

 

 相手の手に合わせて力を抜くこと。

 

 助けてほしいとお願いすること。

 

 それが、勇者の加護の発動条件だと。

 

 何度聞いても、変な条件だ。

 

 だが、少しずつ分かってきてもいる。

 

 自分1人では、レベル5。

 

 誰かに頼れば、レベル99。

 

 この加護は、たぶん最初から俺1人で完結しないようにできている。

 

「次は前歯の裏側を磨きます。舌が動きやすい場所なので、ゆっくり進めますね」

「……お願いします」

 

 僧侶の治療ブラシが、前歯の裏側へ入る。

 

 毛先が内側に触れた瞬間、舌が反射的に動こうとした。押し返そうとする。避けようとする。

 

 だが、僧侶は無理に進めなかった。

 

 一度、動きを止める。

 

「大丈夫です。少し待ちますね」

 

 その一言だけで、ずいぶん違った。

 

 急かされない。

 

 怒られない。

 

 そのまま待ってくれる。

 

 俺は、ゆっくり舌の力を抜いた。

 

「はい。上手です」

「褒めないでください」

「褒められるのも苦手ですか?」

「この状況では特に」

 

 僧侶はまた少し笑い、前歯の裏側を磨き始めた。

 

 シャコ、シャコ。

 

 小さな音が近く聞こえる。

 

 口の中で響く音。歯ブラシの毛先が歯の裏側を細かくなぞる感覚。僧侶の指先が、手元の角度を少しずつ調整する気配。

 

 恥ずかしい。

 

 だが、安心する。

 

 この二つが同時にある。

 

 恥ずかしいから逃げたいのに、安心するから動きたくない。

 

 自分でもよく分からない状態だった。

 

「僧侶さん」

「はい」

「これ、本当に治療なんですか?」

「はい」

「歯磨きですよね?」

「歯磨きも、口腔の健康を守るための大切なケアです」

「正しいことしか言わないですね」

「治療では、正しいことが大切ですから」

 

 言い返せない。

 

 完全に言い返せない。

 

 僧侶は前歯の裏側を終えると、奥歯の内側へ移った。

 

 ここが一番きつい。

 

 自分で磨く時でも雑になる場所だ。歯ブラシを入れにくい。舌が邪魔になる。口を大きく開け続けるのも疲れる。

 

 僧侶は、そこを分かっているように、先に声をかけてきた。

 

「奥歯の内側へ入ります。顎が疲れたら、途中で休みます」

「……はい」

 

 毛先が奥へ入る。

 

 細く柔らかい毛先が、奥歯の内側をゆっくりなぞった。

 

 くすぐったい。

 

 かなりくすぐったい。

 

 舌が逃げようとする。

 

 だが、僧侶の手が急がないので、こちらも少しずつ合わせられる。

 

 シャコシャコ。

 

 奥歯の内側で、小さな音が続く。

 

 歯茎の近くを通る時も、刺激は弱い。柔らかい毛先が、歯と歯茎の境目をそっと掃くように動く。痛くない。むしろ、少し心地いい。

 

 その心地よさを認めたくない。

 

 でも、体は正直だった。

 

 肩が下がる。

 

 首のこわばりがほどける。

 

 顎を開けている負担も、さっきより軽く感じる。

 

 呼吸が深くなる。

 

「勇者様、かなり落ち着いていますね」

「……言わないでください」

「では、記録には書いておきます」

「書かれるのも恥ずかしいです」

「大切な情報です」

 

 口腔ケア記録に、俺の恥ずかしい反応が残されるらしい。

 

 もうどうしようもない。

 

 僧侶は最後に、歯全体を軽く確認するように磨いた。前歯、犬歯、奥歯、噛み合わせの溝。治療ブラシの柔らかい毛先が順番に通り、口の中に残っていた泡を白い布で軽く整える。

 

「はい。通常の口腔ケアは、これで終わりです」

 

 僧侶が歯ブラシを離した。

 

 俺は携帯用コップを受け取り、水で口をすすぐ。

 

 神界製の歯磨き粉の味が、僧侶の治療ブラシだと少し柔らかく感じた。口の中がすっきりしている。歯の表面が滑らかで、奥歯の内側まで妙に軽い。

 

 それだけなら、ただの丁寧な歯磨きだった。

 

 けれど、次の瞬間。

 

 胸の奥で、光が弾けた。

 

 手足が軽くなる。

 

 視界が澄む。

 

 広間の空気の流れ、兵士たちの呼吸、窓の外を通る風の音まで、急にはっきり聞こえ始める。

 

 レベル99。

 

 僧侶の口腔ケアでも、勇者の加護は問題なく発動した。

 

 しかも、王女様の時よりも少しだけ落ち着いた感じがする。

 

 力は満ちている。

 

 だが、暴れない。

 

 体の奥に、静かに沈んでいる。

 

「発動しました」

 

 俺が言うと、僧侶はほっと息を吐いた。

 

「よかったです。柔らかめの治療ブラシでも、加護は問題なく発動するようですね」

 

 僧侶は手帳を開き、さらさらと記録を書き込む。

 

「使用ブラシ、神殿治療院用柔らかめ。使用歯磨き粉、神界製。所要時間、少し長め。勇者様の顎の負担、軽度。精神状態、安定。加護発動、問題なし」

「精神状態まで書かれるんですか」

「大切です」

「俺の尊厳は」

「守ります」

「本当ですか?」

「記録は医療情報として管理します」

 

 医療情報。

 

 もう完全に治療扱いだった。

 

 戦士が腕を組んだまま、俺と僧侶を見比べる。

 

「確かに、さっきより顔色はいいな」

「戦士さんまで」

「事実だ。歯磨き前より、今の方が戦える顔をしている」

「歯磨き後ですからね」

「なら必要だ。恥ずかしがる暇があったら、戦闘前にちゃんと頼め」

 

 厳しい。

 

 でも、正しい。

 

 僧侶は柔らかく微笑んだ。

 

「勇者様。恥ずかしさをなくす必要はありません。ただ、必要な時に頼れるようになれば、それで十分です」

「僧侶さん」

「はい」

「優しいのに、逃げ道はないんですね」

「治療ですから」

 

 やっぱり便利な言葉だった。

 

 俺は立ち上がり、手を開いてみる。

 

 力が満ちている。

 

 指先まで軽い。

 

 呼吸も整っている。

 

 歯を磨かれただけなのに、戦う準備ができている。

 

 それが、悔しいくらい分かる。

 

 僧侶は治療ブラシを白い布で丁寧に拭き、専用の小さなケースへ戻した。

 

「今後、戦闘前に急ぎの場面では標準の歯ブラシでもよいと思います。ただ、勇者様の疲労が強い時や、連戦前に落ち着かせる必要がある時は、この柔らかめのブラシの方が向いているかもしれません」

「使い分けるんですか」

「はい。道具は状態に合わせて選ぶものです」

 

 戦士が頷く。

 

「私は早く仕上げる方がいいと思うが、疲れてる時は僧侶に任せた方がよさそうだな」

「担当が増えていく……」

「増やさなきゃ死ぬだろ」

「はい」

 

 反論できない。

 

 勇者パーティに仲間が増える。

 

 それは本来、心強いことだ。

 

 戦士が前で守ってくれる。

 

 僧侶が傷と疲労を見てくれる。

 

 王女様が王国として支援してくれる。

 

 そして俺は、必要な時にレベル99になる。

 

 そのために、誰かに頼む。

 

 歯を磨いてください、と。

 

 やっぱり恥ずかしい。

 

 けれど、少しだけ分かってきた。

 

 この加護は、強さだけをくれるものではない。

 

 自分の弱さを認めること。

 

 誰かの手を借りること。

 

 任せて、支えられて、それでも前に進むこと。

 

 そういうものまで、まとめて求めてくる。

 

 女神様は、それを勇気と言った。

 

 戦士は、実戦だと言った。

 

 僧侶は、治療だと言った。

 

 言い方は違う。

 

 でも、たぶん全部、同じ方向を向いている。

 

「勇者様」

 

 僧侶が言った。

 

「はい」

「次に必要な時も、遠慮なく言ってください。治療と口腔ケアは、私の役目ですから」

 

 俺は少しだけ迷って、それから頷いた。

 

「……その時は、お願いします」

 

 僧侶は満足そうに微笑んだ。

 

「はい。お任せください」

 

 こうして、僧侶による初めての口腔ケアは無事に終わった。

 

 結果は、加護発動成功。

 

 精神状態、安定。

 

 顎の負担、軽度。

 

 勇者の羞恥心、かなり大きめ。

 

 なお、僧侶の口腔ケア記録には、その最後の項目だけ書かれなかった。

 

 たぶん、優しさだった。




次回予告
 
魔法使い
「歯磨きでレベル99? そんな魔力式、聞いたことないんだけど」
 
勇者
「俺も聞いたことないです」
 
戦士
「聞いたことなくても、実戦では必要だ」
 
僧侶
「勇者様の口腔ケアは、加護発動のための大切な処置です」
 
魔法使い
「言い方で誤魔化してない?」
 
次回、第6話
「魔法使い、別にあんたのためじゃないから」
 
勇者、今度は魔法理論で歯磨き条件を分析される。
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