深雪は自他ともに認める優等生である。今日も日付が変わるころまで勉学に励んでいたが、あまり眠気は起きていなかった。
安眠導入器を使うのは深雪も達也も好むところではないし、気分転換にでも紅茶を入れようと席を立った。無論、兄と姉のためである。
兄は研究に勤しんでいるが、姉は地下の実験室で神楽の練習をしているのだろう。
姉は足音や物音を極限まで立てないので、部屋に戻ってきているかは分からないが、幸いにも明日は土曜日。深雪たちのクラスの予定ではあまり比重が重い科目はないため、問題はないだろう
兄には暖かいものを、姉には冷たいものを用意しよう。そう思って姿見の前を通り過ぎたときに、少しだけ深雪の中で考えが浮かび、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
出雲流神楽、伊勢流神楽、巫女神楽、男装舞、等々日本には古来より多くの神楽が存在する。
現代にも通ずるそれは豊穣祈願や厄除けの意味合いの他にも、庶民の娯楽としても楽しまれてきた。
しかし、九重神楽はつい100年前まで庶民に知られることのない神楽だった。
一般向けの神楽も行われていた一方、国のごく一部の者しか知らない秘匿された神楽舞があった。実際今でも知りえる者は同業の神職、華族の出身者や魔法師の中でも古式魔法を使うものが多い。
中枢に関わる政治家や官僚の一部も知ってはいるが、名前のみでその実際を知る者はよほど九重神宮に縁のある者だけだ。一般の観覧はさらに難しく、裏では50万を超える値でチケットが取引されていたこともあるそうだ。
九重神楽を知っている者は皆口をそろえてこう言う。
幻想郷は存在した、と。
ではなぜ、九重神楽はそう言わしめるにも関わらず秘匿化され続けていたのか。
それは魔法という概念が一般に知られる以前から体系化された魔法を使った神楽のためである。
現代では廃れてしまった歩法による魔法の発動、器楽と詠唱、歌による精霊喚起、術者のもつ衣服も小道具もほぼ全て魔法道具からなる。
魔法儀式として最古にして最上の神楽と言わしめる九重神楽。
CADを一切使用せず、世間一般では燃費の悪いと言われる刻印によって術式は主に発動するため、演者たちの力量は推して測るべきものである。
故に、日々の精進は欠かせず、雅も例外ではなかった。
地下二階分の広さを持つ実験場の中央では雅が静かに舞っていた。
もしこの場に誰かがいて、目を閉じていたならば、足音も、衣の靡く音も聞こえず、呼吸音だけがわずか聞こえる程度だろう。
重いはずの袴姿の練習着が、まるで重さを感じさせないように翻る。
軽やかで優美な動き、荒々しい動き、繊細な表情の変化。
無意識レベルに動けるようになるため、型を体に覚え込ませ、何十、何百と繰り返し動きを確認する
歩法による魔法は消耗が一際激しい。歩いた形跡によって陣を描き、足からサイオンを流し込み地中の精霊を活性化し、術を発動させる。
サイオンは手で操作するものだと一般的に思われている。
移動魔法や加重系魔法など足元に作用する魔法も魔法の発動範囲を足元に指定しているため、足元で魔法が発生する。
しかし魔法師はサイオンの良導体であり、足からでも使おうと思えば使える。感覚的に遠い足を使うより、手の方が正確にできるため廃れていった技術でもある。
雅は術を発動せずに舞っているが、小手先の魔法で舞そのものを誤魔化すことは不敬である。神様のように幻想的でも、その裏には血と汗のにじむ鍛錬を隠し、優雅に舞い踊るのだ。
雅は最後の一節を舞い終えると、刀を鞘に戻した。
全身から汗が流れ、高い位置で結上げた黒い髪も汗に濡れている。
雅は目を閉じて息を整えていると、不意に実験室の扉開いた。
「流石です、お姉様」
深雪が少し冷やされたタオルを差し出した。
「見ていたの?」
雅はそれを受け取るが、少し困ったような顔をしており、それに対して深雪はいつにも増して上機嫌だった。
「あまり練習は見せるものではないのよ」
「すみません。余りに美しいものでしたから、お兄様と一緒に見惚れていました」
この実験場には記録用のカメラがある。それを通じて深雪たちは雅が何をしているのか実験室で見ていたのだろう。
「それより、こんな時間にどうしたの?」
雅は深雪がミラージ・バッドのコスチュームでわざわざ深夜にこの場に来たことに疑問を感じているようだった。
「お兄様はまた一つ、偉業を達成されたのです」
「偉業?ああ、飛行魔法が完成して、今から実験なのね」
「ああ」
「はい」
長い間研究してきただけあって、達也もこれからの試運転に期待できる様子だった。
深雪は早く試したくてうずうずしていた。部屋の中央から少し離れて達也と二人壁際に寄った。
深雪がそのCADのスイッチを入れると、重力に逆らって宙に浮いた。
達也が出した答えは移動魔法の連続使用による重力制御の実現だ。
極限まで起動式を精錬し、少ない魔法力で飛行を維持する。
深雪にとっては普段の余剰サイオンに多少色を付けた程度のことだろう。
魔法式の終了時間を正しく記録することで魔法式の重複を回避することがこの魔法の肝らしい。
ミラージ・バッドは別名フェアリーダンスと呼ばれる。
可憐な少女を妖精と例えることはよくあることだが、可憐な衣装で舞う深雪の姿はまさしく妖精そのものだった。
達也も実験の観察そっちのけで宙を舞う深雪を嬉しそうに見ていた。
また一つ、彼の夢が実現した瞬間だった。
深雪は一通り満足したのか、ゆっくりと降下してきた。
「楽しかったようね」
「はい。実験であることを忘れてしまいました。お姉様もいかがですか?」
「私も?」
深雪は使っていた飛行デバイスを差し出した。
「ああ。あの無駄すぎる術式よりずっと疲れないはずだ。
踊った後で疲れているだろうし、無理はしなくていい」
「無駄すぎるって、一応古典上の再現実験だからね。あまり、効率は求めていないわよ」
「分かっているさ。あれはそもそも飛行ではないだろう」
達也が言っているのは昼間の精霊魔法による飛行実験の話だ。
あれは飛行とも言えなくはないが、領域内の気流操作がコンセプトになっている。
「そうね。きっと此方の方が楽しいわ。ああ、でも今日は無理よ」
「無理をさせてまで実験につき合わせるつもりはないさ」
「疲れているとかその理由ではないわ」
雅は苦笑いを浮かべた。今ここでこの飛行魔法を試すことはできる。
先ほどの稽古はあくまで型の確認であり、魔法は使用していない。
体力的にも休憩を入れており、少し飛ぶくらいなら問題はない。
「どういうことでしょうか?」
「裾の絞っていない袴で重力に逆らって飛ぶとどうなるかしら?」
深雪の質問に雅は軽く、袴を摘まんだ。
スカートタイプの行燈袴ではなく、ズボンタイプの馬乗袴ではあるが重力に逆らえ言わずもがな。流石に男性のいる前でそんなはしたないことをするわけにはいかない。
「………すまない」
達也は申し訳なさそうに視線を逸らした。
彼にとっては予想外の答えであり、自分の配慮が足らなかったことに気まずさを感じていた。
「達也も浮かれていたのね」
「そうですね」
深雪と雅にくすりと笑われ、達也は自分が舞い上がっていたことにようやく気が付いたのだった。
日曜日
あいにくの天気ではあったが、私たちはFLTまで出かけていった。
この前完成した飛行魔法を持ちこむためだ。
天下のトーラスシルバーが裏口から入らなければならないとは皮肉なものだと思いながらも、裏口は三課に近く、窓際部署と言われていた弊害だろう。
達也が三課に入ると、技術者一同、研究者一同、皆喜んで出迎えた。
FLTの開発第三課はいわば、変わり者が集められた部署だった。
そこに達也を配置したのは彼の親の思惑もあるが、結果的に彼に自由となる手段の一つを与えたことは誤算だったようだ。
謎の天才エンジニア、トーラス・シルバーは達也と牛山さんの二人の名だ。達也がソフトの担当、牛山さんがハードを担当し、世に名高いシルバーモデルを発表しているのだ。私の特化型も二人の協力あってこそできたCADでもある。
作製に当たり、牛山さんに畑の違う古式魔法の技術的問題を何度も吹っかけ、どれだけ連日彼らの頭を悩ませたのかは明言しないでおく。
牛山さんはすぐさまテスターたちを集め、飛行魔法の実験の手筈を整えた。一般的な魔法師でも飛行魔法は無事成功し、テスターたちはサイオンが切れるまで実験そっちのけで遊んでいた。
達也と深雪も昨日の夜、あの無重力の楽しさのあまり追いかけっこをしたのは良い思い出だ。
達也が牛山さんと細かい打ち合わせをしている間、私たちはティーラウンジで待っていた。
「そう言えば、小父様はいらしているのかしら?」
「お父様ですか?今日は休日ですし、いらっしゃらないと思います」
深雪は淡々とそう言った。
これは口に出すべき話題ではなかったのかもしれない。
彼らにとって父親とは戸籍上に必要な親であり、隠れ蓑でしかない。
幼少期から父親らしい役割をしてこなかった彼が深雪に冷たい態度を取られても当然だと言える。
人は子どもを持てば親にはなれる。
だが、真に親として行動できるかは別だ。
親だって学ばなければならないし、親としての役割、義務、責任、愛情、子どもを育むための努力を必要とする。
それをしてこなかった以上、父親とは名ばかりなのだろう。
嫌な話はここまでと深雪は兄の偉業に対し、お祝いをしたいと口にした。
私も彼らの父についてこれ以上話すこともないし、何がいいかしらと頭を切り替えた。
達也の用事も終わり、帰り道の廊下。
裏口の使用者はごく僅かであり、ここまでもすれ違った人はいない。
しかしながら、今日は運が悪い。
廊下の最終ブロックで見知った二人に出会ってしまった。
「これは、ご無沙汰しております。深雪お嬢様、雅お嬢様」
一人は燕尾服を着た執事風の老人、もう一人はスーツを着込んだ壮年の男性。四葉家の執事の青木と深雪と達也の父親、司波龍郎だ。
恭しく頭を下げる青木に深雪は嫌悪感を顔には出さなかったが、僅かに眉を顰めた。
「お久しぶりです、青木さん。こちらこそ、ご無沙汰しておりますが………ここにいるのは私とお姉様だけではないのですが?
お父様も先日は入学祝いの連絡をしてくださり、ありがとうございました。しかし、偶には実の息子にもお言葉を掛けて頂いてもばちはあたらないと存じますが?」
深雪の可憐な声は鋭い棘を纏っていたが、相手も厚顔。
この程度の事では慌てる素振りも何も見せず、あくまで紳士的に対応してみせた。
「深雪様は四葉家当主を一族から心から望まれた身であり、雅お嬢様は由緒正しき
この青木は四葉家で財産管理の一端を任されている身ですので、お嬢様の護衛に過ぎないその者に礼を尽くせと言われましても秩序と言うものがございます」
「彼は私の兄ですよ」
「お言葉ですが、青木さん。随分穏やかでないことをおっしゃる」
深雪が声を荒らげる前に冷めた達也が深雪を遮った。
だからと言って相手の高慢な態度は変わることはなかった。
「構わんよ。たかが、ボディガードとは言え君が深夜様の子息にあることは変わりない。多少礼儀をわきまえていなくても仕方のないことだろう」
「先程、深雪が次期当主となることを使用人皆が望んでいると聞こえたのですが、それではあまりに他の候補者の方々に不穏当ではありませんか。
それとも伯母上は深雪を次期当主として指名した、もしくは内定のお話でもされましたか」
その言葉に青木さんは言葉を詰まらせた
真夜様の持つ力は強大であり、彼女もまだ若い。
四葉の当主候補は深雪以外にもいるが、まだ真夜様は次期当主を指名していない。
「あら、そうなのですか。そしたら色々と準備をしなければなりませんね。此方の家からもお祝い申し上げる手はずをいたしますわ」
私からの言葉にますます青木さんは奥歯を噛んだ。
「真夜様はまだ何も仰せられてない」
「これは驚いた!
四葉家内序列四位の執事が次期当主候補者に向かって家督の相続について自分の憶測でしかないことを吹き込んだのですか!
しかも、四楓院家の雅がいる前で貴方はそうおっしゃった意味をご理解なさっていますか?」
やや芝居がかった言葉が青木さんの顔を更に赤くさせ、彼の反論の道を絶った。
だが彼は口先だけの感情論に出た。
「……憶測ではない。同じ家中に仕える者であれば、他心通はなくても心を通じ合わせることはできる。心を持たぬ似非魔導師ごときには分かりはしない事だろう」
その言葉に突如として霜が舞い降りた。
急速に廊下の温度が冷え、深雪の足元から冷気が流れ出した。
彼の言葉は私と深雪の怒りに触れた。
達也がすぐさま左手をかざし、魔法を停止させた
私も必死に心を落ち着かせ、達也は怒りで蒼白となった深雪の肩を抱いた。
「俺は四葉家現当主とその姉によって行われた実験によって、魔法師としての演算エミュレーターを埋め込まれました。二人の実験でできた俺が贋作と言っているのと捉えてもよろしいのでしょうか」
達也の切りつけるような冷徹な瞳が青木を叱責する。
深雪が達也のかわりに涙を流した。
私も、もう我慢の限界だった。
「失礼ですが、青木さん。私を四楓院家直系とご存じでいらっしゃるのであれば、その伴侶となる彼を貶すということは四楓院家を貶しているとお見受けしてよろしいのでしょうか」
「いえ、そのようなことは」
私の言葉に彼は顔を青くした
苦しい時こそ、敵の前では笑え。
許しがたい時こそ、冷静になれ。
深雪のように怒るでも、達也のように冷徹な目でもなく、笑みを浮かべる私は彼と目があった。
「そうですよね。四楓院家当主と執事たる貴方が仕える四葉家当主の決定を否定なさるはずがありませんよね。
それとも、四楓院を貶す手段として彼を利用しているのでしたら、とても意地悪なことをなさるのですね」
「滅相もございません。四楓院家の方々には我々四葉一同、日ごろ感謝の念を忘れず、また今後とも良い関係を続けていきたいと願っております」
彼には恐怖しか映っていなかった。
この言い方は嫌いだが、四楓院の名は絶大だ。四楓院から四葉にもたらされた恩恵と恩義を彼が知らないはずがない。
彼の発言が四楓院の気を損ね、下手をすれば文字通り彼の首が飛ぶ。
むしろ人として死ねるなら慈悲があったくらいだろう。
「そうなのね」
「はい、勿論でございます」
「そのくらいにしてもらえませんか」
私の言葉を遮り、萎縮する彼を庇うように傍観していた人物が口を開いた。
「達也もそのくらいにしなさい。お母さんを恨む気持ちも解らなくはないが・・・・」
それは保身のための頓珍漢な言葉だった。
社長と言っても、この会社の実質的な支配権は四葉にある。
本家と私の家の機嫌を損ねないための、卑屈な言葉だ。
心底辟易としたが、私は笑みを崩さなかった。
自身の父の背を知っているだけに、彼は“父親”ではなかった。
「お言葉ですが「雅」」
私の言葉は達也が遮った。
小さく首を振る達也に、これ以上の口論は無用だと察した。
「親父、俺は母さんを恨んではいないよ」
「………そうか」
深雪が私の腕に抱き付き、その場から足を進めた。
すすり泣く彼女の頭を私はできるだけ優しくなでた。
分かっている。
言われるまでもない。
彼が抱く本物の情念は一つだけ。
彼の役目のために意図的に残された感情だけだ。
激昂も、悲哀に打ちのめされることも、憎悪も、強い嫉妬も、恋愛感情も抱くことはない。
深雪を護るためだけの、兄妹愛だけが彼に残された感情だ。
だからと言って彼に対しての侮辱を聞き流すことができたとしても、私と深雪はそれを許すことはできない。
そして、そのような事実があったとしても、何があっても、誰に言われても、真に愛されることがないかもしれないと分かっていてもなお、私は彼を想っている。
それだけは譲れない真実だった。