劣等生の16巻が発売されたそうですが、私はまだ14巻までしか読んでません。買に行かねば
夏休み編1
夏休み編
九校戦を終えても達也の忙しさには変わりがなかった。
FLTでの飛行魔法デバイスの発売に向けた調整に、独立魔法大隊の訓練、加えて個人的に行っている八雲との訓練や妹の家庭教師もあればスケジュールは空きがほとんどない状況だった。
そんな中で予定を組んだのは一泊二日の京都の九重家訪問と二泊三日の北山家別荘でのバカンスだった。
二人とも京都は何度か九重神楽を見るために出かけたことがあるが、兄妹が本当の意味で揃って訪問することは今回が初めてだった。
東京からリニアに乗り、公共交通を使って九重の本邸に向かう。
都会的な部分を残しながら、名所周辺や観光地は古き良き日本文化を思わせる木造風の建物が並び、海外からの観光客も絶えず多い。
特に桜と紅葉のシーズンはどこのホテルも旅館も満室で、予約が取れないことで有名だ。
そんな京都の中心地、桜の名所としても知られている京都御所のほど近くに九重神宮はある。
神社にも位があり、簡単に言えば上から神宮、大社、神社となっている。
神社は神々を奉る所ではあるが、『宮』と名の付く場所は皇室と縁が深い場所である。
東京の明治神宮、三重の伊勢神宮がその最たる例であり、九重神宮は数ある神宮の中でも指折りの歴史を誇っていた。
九重神宮は日本で初めて生まれた夫婦の半神、イザナミノミコトを主宰神としている。
日本神話によればイザナミは夫であるイザナギと契り、数多くの神々を産み、日本列島を始め山や海などの森羅万象誕生の母だとされている。
しかし火の神である
悲しみに暮れたイザナギはイザナミに会いに黄泉へとつながる道を通り、黄泉の国へと向かった。
死者の国にいるイザナミをどうしても一目見たくて、見てはいけないという言いつけを破りイザナギは櫛に火を灯して見てしまった。
彼女の体は腐乱し、雷神八神がその身に憑りついていた。
恐怖で逃げるイザナギをイザナミは悪鬼、鬼神と共に追いかける。
しかし、
そしてイザナミとイザナギは離縁した。
この後、イザナミは黄泉国の主宰神となり、黄泉津大神、道敷大神と呼ばれるようになったとされている。
京都でイザナミを奉るのは厄除のためであり、京都御所が近くに置かれたのも公家に降り注ぐ災厄をイザナミの加護を持って退けようとしたという
閑話休題
深雪と達也は公共交通機関を使い、京都駅から九重神宮へと参拝する。
まず初めに九重神宮本殿に参拝し、九重本邸へと向かう予定にしていた。京都御所の近くとあって九重神宮にも参拝者は多い。
アジアから西洋まで外国人も多く見られるが、やはり美少女の深雪が通り過ぎるたびに振り返っている。なまじ場所が神聖さを助長するように、深雪の淑やかな雰囲気も相まって今回ばかりは誰も声を掛けるような無粋な真似をしてこなかった。
手水を終え、外宮を周り、本殿に参拝する。
九重神宮は他の神格高い寺社と同じく本殿が見えず、板張りの塀に囲まれている。
九重神宮の参拝の特徴として柏手を八回打った後に再度柏手を1回打つ八開手というものがある。
達也は信仰心も薄く、神に祈ることも願うこともなかったが、作法として挨拶に来た旨を思い浮かべていた。
そこから徒歩で九重の本邸へと向かう。観光地の近くではあるが、人通りはほとんどない。周囲には九重の分家や研修者の住まいも立ち並ぶ中、一際大きい門構えの家の前に二人は立っていた。
こちらがインターホンを鳴らす前に向こうから門が開かれた。
深雪は驚いたようだが、達也にはいつもの事だった。九重の屋敷を訪ねてインターホンを鳴らすことの方が少なく、いつも向こうから出迎えられる。
「いらっしゃい、達也、深雪」
「驚きました。お姉様だったのですね」
雅は悪戯めいた笑みを浮かべた。
「私も待ちきれなかったの。さあ、どうぞ」
九校戦後、里帰りをしていた雅は涼やかな水色の着物を身にまとい、長い髪を結上げていた。司波家では専ら洋装だったため、和装姿の雅に深雪は早速目を輝かせていた。雅は京都にいたころは普段着が着物であり、動きが制限される着物だろうと板についていた。
「どうぞ」
「おじゃまいたします」
雅に促され、敷居をくぐって中に入ると外観に相応しく、純和風の荘厳たる庭園と家屋が待ち構えていた。
庭は枯山水を基調とし、木々の深緑と白い砂のコントラストが鮮やかだ。桟橋がかかり、池には蓮の花が見ごろを向かえていた。
神道なのに仏教様式の庭なのは神仏習合的な意味合いもあるとともに、単に現当主の趣味が反映されている結果だ。
八百万の神々がいる日本では家の中に神棚と仏壇があるように、基本的に日本の神様は他の宗教に関して寛容なのだ。
玄関を上がり、二人は応接用の床の間に通される。
庭に面したその部屋は観光地の喧騒を感じさせない落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
今時珍しい床の間と正座の組み合わせに深雪は心躍らせていた。
四葉の屋敷は和室も洋室も混在しており、部屋ごとに趣が全く違う。
古き良き日本の風景に深雪も日本人として心くすぐられる部分もあるのだろう。
座椅子を出そうかと雅は提案したが、深雪も達也も丁寧に断った。
深雪は茶道のお稽古もしているし、達也も八雲のもとで修業をしている身であるため、正座には慣れている。
「いらっしゃい、達也さん、深雪さん。暑かったでしょう。お茶にしましょう」
「ご無沙汰しております、桐子さん」
「今日はお招きありがとうございます、桐子小母様」
程なくして襖を開けて入ってきたのは、雅の母、桐子であった。
両手にはお茶の乗ったお盆があり、彼女が淹れてきたのだろう。
運ばれてきた冷茶はやや甘く、深雪と達也の喉を潤わせた。
「遠くからご苦労様。今日は湿度も高いから暑かったでしょう」
桐子は八雲の妹にあたるのだが、この兄妹の外見はまったく似ていない。八雲がどこか掴み所のない好々爺ならば、桐子はどんな場面でも毅然とした凛々しさがある。
達也は風間から八雲を紹介されたときはこれが本当に雅の伯父で、桐子の兄なのかと疑いの目で見ていた。実際に接してみれば、雅の兄の悠と八雲は似通った部分があり、肯定しないわけにはいかない部分があった。
「ええ、とても暑くて驚きました」
京都の夏は暑く、冬は寒い。盆地であるため、海風が入りにくく、冬は山からの冷たい風が吹き降りてくる。
寒冷化が一度あったとはいえ、地形が変わったわけではなく、例年通り京都は暑い夏に見舞われていた。公共交通機関や建物内部は空調で管理されているが、屋外はそうもいかない。
文明の利器に飢えた現代人は悲鳴を上げているころだろう。
二人は徒歩で移動したが、達也は軍事訓練で慣れているし、深雪もお得意の魔法で涼しい状態を作り出していた。
加えて九重神宮には森もあるため、比較的京都の中でも涼しいのが幸いだったと言えよう。
「深雪ちゃんは小学校以来ね。九校戦での活躍は聞いているわ。二種目優勝、おめでとう」
「ありがとうございました。お兄様とお姉様の御力添えがあったことが最大の勝利の要因だと思います。九校戦では、お姉様の御着物も貸して頂きありがとうございました」
「深雪さんに着てもらえるのならお婆様も拵えた甲斐があったわよ。雅はもう着ることは、滅多にないでしょうからね」
「お姉様の巫女姿が見られないのは勿体ないです」
深雪の不満げな視線に雅は困ったように笑った。
彼女は神職の末席に加わっている。
女子の身ではあるが、九重神宮は女人でも神職につくことができる。
ただし、未婚の女子か若しくは当主にしか認められておらず、それ以外の場合は男装して狩衣を着るのが決まりとなっている。
「あら、雅を達也以外の所に嫁がせるの?」
未婚の女子が巫女の格好で神域に立ち入ることは、神に心身を捧げていることを示す。達也の所に嫁ぐならば、雅は神事に関わらないか、男装するしか方法がないのだ。
「それはいけません」
慌てたように深雪が言うのだから、桐子はくすりと笑った。
相変わらず妹は雅の事が好きでたまらないのだと達也は感じていた。
「そう言えば、達也さんと深雪さんの昔の写真があるのだけれど、見る?」
「昔の写真ですか?」
「ええ。達也と雅が一緒にだった頃のものもあるのよ。元々体調を崩しがちな深夜さんのためなのだけれど、深雪ちゃんらは見たことことないでしょう」
桐子は懐から端末を取り出すと、空中ディスプレイを起動させた。
仮想型は魔法科高校では禁止されているが、一般的にはごく普通に使用される端末だ。空中に投影された画面には幼子が二人、手を繋いで満面の笑みを浮かべていた。
「これ、お兄様ですか」
深雪は口を押えて画面を食い入るように見ている。そこに写っていたのは自分の知らない兄の姿だった。
「そうそう。こっちが雅ね」
達也自身も茫然と見ていた。
おそらく記憶にもないくらい幼い2歳か3歳ごろの自分の姿だ。
それが満面の笑みを浮かべている。祭りの風景で、空いた手には林檎飴を持ち、紺色の甚平を着ている。
「お兄様もお姉様もなんて愛らしいんでしょうか」
深雪はうっとりとした表情で画面を見つめていた。深雪が達也と兄妹らしく生活し始めたのは3年前だ。それ以前は同じ家にいても他人同然の生活をしていた。雅の方が姉として慕われていたくらいであり、当然幼少期の事は知らないことが多い。
「こっちは悠も入れて3人でお昼寝している所よ」
次に画面に表示されたのはもっと小さなころの写真だった。
1歳に満たない雅と達也が色違いの服を着てお昼寝をしており、雅の隣には5歳くらいの悠が寝ていた。あどけない寝顔に深雪は興奮しすぎて声になっていなかった。
「桐子さん、流石に気恥ずかしいのですが」
達也が遠慮がちに止めてほしいと言ったが、桐子はにこりと笑うだけだった。
「桐子さん、もっとお写真はありませんか」
「あるわよ」
深雪のお願いに、嬉々として写真を見せる桐子に達也は益々いたたまれなくなった。
これが自分の覚えている頃の記憶であればいいのだが、幼児と呼ぶに差し障りないころの記憶などほとんどない。
ましてや赤ん坊のころなどいくら記憶力に優れた達也であっても、覚えていなくて当然だった。
雅に視線を向けると、雅は流石に見たことがあるようで、申し訳なさそうにこちらを見ていた。
達也はしばし妹が嬉々として、時に恍惚として写真を眺める様を達也は見守るしかなかった。
ひとしきりアルバムを見終ると、深雪はほくほくと満足げな表情を浮かべていた。
「よく写真なんて撮れましたね」
達也はため息交じりにそう言った。
達也にとっても桐子が見せてくれた写真は色々と衝撃的だった。
泣いた顔、怒った顔、笑った顔、驚いた顔
今の自分とはかけ離れた多種多様な表情をしていた。自分にもこんなに感情を表面に出していた時期があることは、驚きだったと共にほとんどの写真が雅と一緒だった。
達也は3歳になるまで九重で育てられていた。
桐子には自分の母より母らしく接してもらっている。
かつて自分をまるで年相応の子どものように深雪と分け隔てなく接していた穂波のように、達也は桐子に頭が上がらないところが多い。単に達也が忘れている一番世話を掛け、一番恥ずかしいころの記憶がこの人の中にはきちんとあるのだ。
「本来だったら、深夜さんに見せる予定だったのよ」
桐子は少し悲しげに笑った。
「お母様にですか?」
深雪と達也は驚きで目を丸くした。
既に故人となった彼女たちの母は、達也に対して人一番冷たかった。
実の子であるにも関わらず、妹には兄と思わないようにと教育を施し、愛情を持って接することはなく使用人同然として扱っていた。達也自身、それを苦痛と思うような心は既にその頃にはなかったが、なぜこの写真が深夜ためなのか理解できなかった。
「九重が達也の事を告げて、精神的にすぐに子育てをできるような状態ではなかったからね。生まれたばかりの達也を引き取って悪いことをしたとは思いつつも、せめて子供の成長くらい見せてあげたかったの」
遂にこの写真が日の目を見たことがあったのか、桐子の雰囲気にそれ以上は聞けなかった。
桐子は端末に指を滑らせた。そこに写っていたのは唯一、深夜と達也が一緒に写った写真だった。
窓辺に座り、深夜はまだ首も座っていない達也を抱いていた。
きっと達也が生まれたばかりの頃の写真だ。その表情は深夜のわずかな変化をとらえた写真だった。
「お母様…」
深雪が胸元で手を握りしめていた。
深夜は笑っていた。静かに眠る達也に微笑みかけていた。
それは一瞬の事だったかもしれない。だが確かに深夜は笑っていた。
達也も信じられなかった。
仮に写真に写る子供が自分ならば、あの母が自分に笑いかけていたことがあるのだという事実に感情が追いついていなかった。
これはなんだ。いっそ合成だったと言われた方が納得できる。
それほどまでどこか浮世離れしていた。
「達也」
桐子は達也の名を呼んだ。
「はい」
達也はそれに応えた。
「愛していなければ、貴方に自分の名から名前を取ることはしなかったわよ」
達也は一瞬言葉の意味が理解できなかった。
深雪は母と同じ『深』の字を貰っている。
ならば達也はどうなのか。
司波龍郎が父の名だ。『龍』を『達』に変えたのは理解できる。『也』が『夜』から来ているのだとしたら・・・
言いようのない感情がこみ上げ、達也はそこで思考を停止させた。
「分かりませんよ。そんなこと」
自傷気味に達也はそう呟いた。本当は自分の事をどう思っていたのか。自分は生まれてきて良かったのか。
色々と推察できたとしてもそれを問うても、答えてくれる人はこの世にはいなかった。
しんみりとした空気も一瞬、来訪者によって空気は変えられた。
「達也さん、深雪さん、いらっしゃい。よう来はったなぁ」
「ご無沙汰しております、千代様」
達也と深雪は丁寧に頭を下げた。
「千代お婆様、こちらに戻っていらっしゃったのですか」
雅が立ち上がり、新たに座布団をひいた。
「隠居は口出しすると若い人らが遠慮しはるやろう」
九重千代。雅の曾祖母にして、女性ながらに九重の先々代当主だった人物だ。
女性ながらにして先々代九重当主を務め、現在も政財界、魔法関係各所に太いパイプを持つ人物だ。達也と雅の婚約を決めたのもこの人物であり、【千里眼】も健在であると言われている。
御年94歳になるはずだが、肌艶や姿勢から到底そのような年には見えず、雅の祖母と言いっても通じそうな具合である。
「桃花さんはどうでした?」
「さほど難しいことするわけやないし、緊張はしてはったけど、大丈夫やろう。」
「初舞台ですからね」
雅は茶器を用意して、千代の前に置いた。九重は年功序列、家父長的な部分も色濃く残っており、雅は基本的に世話を焼く立場にある。
「二人は泊まっていくんやろう。」
「ええ、その予定です」
当初は挨拶だけをして日帰りの予定だったが、夜から祭りと舞台があるので、一泊してはどうかという提案があった。達也には予定もあったが、朝の段階で東京に帰れば十分間に合う予定だったので九重家に宿泊することになった。達也としては深雪がお泊りと聞いて嬉しそうにしていたのが一番の要因だったかもしれない。
「なら、丁度ええな。夜から祭りやから、着物の準備をしましょうか」
千代はにっこりと笑った。
「勿論、達也さんの分もありますよ」
「そんな、お心遣いだけで結構です」
達也はスーツを持参している。
九重神楽は神事だ。浴衣や軽装では入場前に止められてしまう。
深雪は着物を貸してくれるということなので、着替えることは知っていたが、自分の分まで用意されていることは知らなかった。
「そないなこと言わんでも。うちの大切な孫息子になる御人や。深雪さんも、そっちの方がええやろう?」
千代の言葉は達也に提案はしているように聞こえるが、あくまで確認だ。
「ええ。お兄様、是非着てください」
「私も見たいわ」
加えて、深雪も雅もが目を輝かせていた。
「………分かったよ」
女性4人に期待され、達也はうなずくしか道はなかった。
「お似合いです、お兄様」
「ありがとう。深雪の方が似合っているよ」
深雪の着物姿は達也にも眩しかった。
夏らしい白い着物で、近くで見ると麻の葉模様が万遍なく施されている。上品な紫の朝顔が描かれており、帯紐は赤と白で蝶の帯留めが付いている。髪は簪で一つに結上げ、簪には桜色のトンボ玉が付いている。神事であることからか、髪はシンプルにまとめられている。
「深雪さんは何着ても似合いますなあ」
千代様は満面の笑みを浮かべていた。
「お兄様の着付けはお姉様が?」
「ああ」
達也がシャワーで汗を流して、襦袢に袖を通し、宛がわれた部屋に行くと待っていたのは雅だった。達也が来ているのは灰青の着物に黒地に白い麻の葉柄の帯。落ち着いた色合いで、達也によく似合っていた。
「そう言えば、お姉様は?」
「自分も着替えてくると言っていたな」
「待たせたかな」
二人が最初にいた床の間に一人の少年が入って来た。二人はその人物に視線が釘付けになった。
神職の中では下位の深緑色の狩衣と白い指貫。
白皙の美貌に切れ長な目元。左右の均整のとれた顔立ちに、ピンと伸びた背筋。背はそれほど高くはないが、美少年には間違いなかった。
「あら、もう着替え終ったの」
「はい。もたもたと着替えていたら兄上に怒られてしまいます」
声は低く通るテノールで、くすりと笑った顔はどこか悠に似ており、親戚だろうかと達也と深雪は感じていた。
「御親戚の方ですか?」
深雪が問うと少年は子供らしい笑みを浮かべた。
「私だよ」
「お姉様なのですか!」
少年の口から発せられたのは雅の声だった。
達也も深雪はまじまじと雅を見ていた。
どう見ても女性の面影はなく、言われなければ誰も気が付かないだろう。雰囲気が悠に似ていたのはそのためだと分かった。
確かに男装していることは達也も深雪も知っていたが、これほどまで化けるとは思いもよらなかった。達也に至っては、神楽で男装姿を見たことがあるにもかかわらず、一呼吸置いて目の前に立つ人物が理解出来た
「さて、舞台が始まるまではまだ時間があるから祭りでも巡っていらっしゃい。雅は裏にいるから、困りごとがあれば二人とも遠慮なく連絡するのよ」
「分かりました」
「行ってまいります」
桐子の言葉に三人は頷き、それぞれ目的の場所へと向かった。
達也と深雪は外宮周辺を歩いていた。
雅は境内の見回りと、神楽のための準備があるため別行動だ。
夕方になれば露天も出店し出し、浴衣を着た参拝客が増え始めていた。最も境内は神域であるため、周囲の土産物屋が連なる通りが祭りのメインだった。
「人通りが多いな」
肩がぶつかるほどではないが、時折自由に進めないこともあった。
専らその理由は深雪に見惚れて足が遅くなる人がいるためであった。
着物姿は京都では珍しくないとはいえ、これほどの美少女がいれば振り返らない男はいない。
事実隣に精いっぱいおしゃれをしてきた彼女を連れた男性ですら、深雪の美貌にくぎ付けだった。罪作りな美少女であると改めて達也は感じていた。
「お兄様」
「なんだい」
深雪が控えめに手を差し出した。
「はぐれてはいけませんから…」
恥ずかしげ頬を染め、視線を逸らす深雪に達也はためらいなくその手を取った。
手を繋ぐことなどいつもしていることであり、可愛い妹のお願いならば、達也は喜んで聞き入れた。その瞬間、深雪が満面の笑みを浮かべており、この時ばかりは女性までも美しい笑顔に見惚れてしまった。
大道芸や夜店など祭りを一通り楽しんだ二人は、再び境内に戻っていた。
舞台の開場時間が近づくころには夜の帳が降り、提灯の明かりが参道を照らしていた。どこか不気味で、どこか恐ろしいそんな雰囲気に深雪は達也の手をぎゅっと握りしめた。
達也は安心させるように深雪の手を握り、人気の減った参道を歩く。
この時間に境内にいるのは、遅れてやってきた観光客か今回の神楽の招待客だけだ。
九重神楽の観覧は誰でも可能なわけではない。
大抵が昔からの付き合いのある家系や名立たる名家であり、達也たちほどの年齢は少ない。そもそも九重神楽自体、12歳以上からしか入場ができないものとなっている。
「あ、司波君に司波深雪さんや」
受付で順番を待っていると、後ろから声を掛けられた。
二人が振り返ると、小柄な少女が手を振っていた。白地に華やかな手毬小紋の着物に深緑色の帯。髪は簡単に黒いバレッタで留めてある。
「二高の香々地さんですね」
「おん」
つい先週会ったばかりの香々地燈がいた。ニパっとした笑顔は上品な着物を着ていても変わらず、和服を着ていてもを年齢に対して背伸びしているように見えた。
「二人も招待されたんか」
「ああ。そっちは六高の錦織だったか?」
燈の隣には鶯色の着物と丁寧に羽織まできた六高の錦織柚彦がいた。
柚彦は自分がまさか名前を憶えられているとは知らず、少し驚いた表情を浮かべた。
「ウチは親父の代理で、ユズ君は沙羅さんの付き添いやで」
「初めまして。錦織沙羅と言います」
燈たちの後ろにいたのは深雪よりも背の高い女性だった。大柄というより、すらりと長いという印象の女性で、ふんわりと柔らかい表情は親しみやすさを感じた。
「煉さんの婚約者や」
「あら、そうなのですか。婚約おめでとうございます」
「ありがとう。一高も九校戦優勝おめでとう」
煉とは雅の兄であり(正式には九重煉太郎と言う)、現当主の長男だ。
次期当主は悠であるが、補佐として兄も九重の神事に携わるらしい。
錦織の令嬢は次代【織姫】として認められ、九重に嫁入りが決まったそうだ。
九重神楽はその衣装も魔法道具である。
一折一折、一針一針にとてつもない労力と手間をかけ、織り込まれた衣装はたとえ類似品は作れても全く同じ効果を出すものはできない。八雲が九校戦に用意した魔法が掛りやすくなる刻印は存在するが、単一魔法だけであり、汎用性は低い。曰く、現代技術をもってしても不可能な聖遺物の一つである天の羽衣も古代、【織姫】が作り出したとされている。
柔らかな笑みに隠し、この女性もそれなりに魔法力が優れているのだと達也は認識を改めた。
今時珍しい紙の招待状を一人一人確認され、門をくぐり、席に案内される。
本殿から見て南側、参拝殿の前に神楽殿は設けられている。神楽殿に壁はなく、柱はあるが天井は高いのが特徴であり、舞台であるため床上まで1m程度ある。本殿に面したところを避け、三方を囲うように席が設けられていた。
達也たちは狙ったように横並びに席が設けられていた。既に他の観覧席には達也でも名前を知っている政財界の大物や名立たる名家と思しき人が座っていた。席は百席あるかないか、その程度だ。
達也たちは全体で見て中ほどの席にだった。今日お披露目になるのは次代舞姫候補だと聞いていた。
「九校戦に出ていた舞鶴の御嬢さんは知っとるやろ」
「二高のミラージュ・バットのエースだろう」
「鶴ちゃんは絶対自分が舞姫やと思って、長年神楽をしてきたからな。巫女舞は鶴ノ宮か桜姫、と言われるほどみやちゃんと並んで、次代舞姫として候補に挙がっていたんやけど、12歳の時には後継者に指名されんかったんや。んで今日お披露目の舞姫に自分の妹が指名されたから、九校戦ではイライラしてたんや」
「たとえ虫の居所が悪くとも、お姉様とお兄様を侮ったことは許せません」
深雪は決勝の場面を思い出していた。二高の彼女は最後までステージに立っていた。予選でも深雪をリードする場面があった。その力量は認めるが、自分の大切な人が侮蔑を受けるのは我慢ならなかった。
「まあ、分からんくもないけどな。妹ちゃん――桃花ちゃんもまさか自分がって感じやったからな」
深雪の怒り様を見て、燈は肩をすくめた。両方の立場を知っているだけに、彼女も能天気にはいられないのだろう。
「どういう基準で舞姫は選ばれるんだ?」
「そんなんきまっとる。信仰心や」
達也の問いに当然と燈は言い切った。
「鶴ちゃんは自尊心、桃ちゃんは信仰心。巫女神楽を踊る舞姫にどっちが選ばれるか言うまでもないやろ」
田楽や歌舞伎が庶民向けの娯楽として発展したように、神楽も神事と娯楽を兼ね備えた特性を持っている。特に大神楽や出雲神楽はその特色が強い。
だが、純粋に九重神楽は神にだけ捧げられてきた舞が存在する。観覧者はなく、ただ神だけのために舞うものだ。
「自分のために神楽をしとる人間が神様に楽しんでもらおうなんて無理やな」
神楽は神の雅楽にして、神を楽しませるためのも。信仰心なくして九重神楽は神楽になりえないのだった。
達也たちが席に着く少し前、舞台の開始が刻一刻と近づく中で雅は一人の少女と対面していた。
「どうして、お姉ちゃんじゃないんでしょうか。私の舞は特別なわけではありません」
御簾の中にいる少女は不安げに瞳を涙で潤ませていた。
まだ13歳になったばかりの少女は上質な白の衣と緋色の袴を身にまとっていた。頭には金冠と桃の花。黒い髪は腰まで伸ばされ、丁寧に揃えられている。
次期舞姫に選ばれた彼女は、舞鶴桃花。九重神楽に選ばれた一人であった。しかし薄く化粧をほどこした顔は暗く、自信がない様子だった。
「貴女の舞は十二分に心惹かれる。桃の節句、桃源郷と言われるように桃は特別な花。それを冠する貴方は特別な舞姫だ」
雅は今、男性神職の格好をしている。
声も変え、姿も変え、警護役としてこの部屋に控えていた。雅は警護していた扉の前から、御簾の前まで歩み寄り、板張りの床に膝を付いた。
「前を向きなさい。貴方が舞姫だ。誰よりも高雅に、誰よりも優美に、誰よりも幻想的に、誰よりも神聖な舞姫。誇らしいその名を貴方が継ぐんだ」
「私は、舞姫なんて器ではありません」
声は震え、今にも泣きだしそうだった。
彼女は確かに九重神楽に励んできた。
しかしそれも13歳までの事だからと半ば諦めながら、舞い続けていた。
それが今回、次代舞姫として指名され、今後神事に加わることが決まったのだ。鶴ノ宮の二つ名の通り、優雅に踊る姉とは違い、自分には大きな魔法力はなかった。
姉ですら叶わなかった舞姫に到底相応しいとは思えなかった。
桃花の他にも次代舞姫は何人かいる。正確には舞姫候補と呼ぶべき巫女で、修行に耐えて選ばれた者だけが神前で舞うことが許される。
ただ憧れるだけの世界だったのに、それがいざ自分の目の前に転がると、嬉しさより恐ろしさの方が大きかった。
「今は確かに舞姫と名乗るにはまだ不足が多い。けれど貴女は確かに桃の舞姫。自信を持ちなさい。貴女にしか舞えないから貴女は舞姫に選ばれた。貴女が最もふさわしいから貴女は舞姫に指名された。憧れなのだろう。憧れるだけではその名声には届かない。その名にふさわしくないというのなら、努力しなさい。それがきっと自信になる」
「・・・・高雅様」
桃花は知っている。
誰よりも愛らしく、誰よりも気高く、誰よりも誇らしかった憧れの桜姫。その姿に憧れ、自分はこの舞台に足を踏み入れた。
初めて見たそれは幻想より美しい桃源郷に他ならなかった。
悠様も今代舞姫様も絶世と呼ばれるほど美しい。それでも桃花の神様はただ一人だった。
「私の憧れは桜の舞姫。あの人が最後に踊ったあの時の舞です。私は桜姫のようになれますか?」
あれほどまで世界を美しいと思えたことはなかった。あれほどまで心を揺さぶられることはなかった。桃花の神様はかつて雅が演じた桜姫だった。
「貴女は舞姫。桜姫より上の舞を貴方は舞うことができるのですよ」
御簾越しにふわりと笑いかけた。例え桜姫がいなくても、この人に恥じる事の無い舞を桃花は見せたかった。
「行きましょう、時間です」
「はい」
御簾を上げて立ち上がり、対面する。
自分に優しく微笑む神様は誰よりも高雅であった。
その後、行われた舞姫の任命式。
粛々と披露された次代舞姫候補は実に儚げで、静かな美しい少女だった。舞うたびに袖から光の粒が零れ、床に落ちては虚ろに消えていく。憂いを帯びた表情は、儚げな印象を助長し、誰もが庇護欲をかき立てられた。
陶然と舞台を見上げる人々は新たな舞姫誕生に酔いしれていた。
登場人物紹介
九重 千代
先々代九重当主。雅の曾祖母
雅と達也の婚姻を決めた張本人
90歳を超えるが、ご婦人という名称が良く似合う女性
最近の口癖は『
九重 桐子
雅の母。八雲の妹。
あまり八雲とは似ておらず、凛々しい美人。
童顔というより、美しさで年齢不詳。
九重 煉太郎
雅の兄。22歳
九重当主は弟になることは小さいころから決まっているため、そこまで当主に対して執着はない。最近の悩みは嫁が可愛すぎて辛いこと。
これらの人物は今後も出てきます。