さて、生徒会選挙です。
この辺はストックがないので時間がかかりました。
生徒会選挙といっても、話題に出るだけで話にはあまり出ません。
さらっと流して、横浜事変を書きます。
生徒会選挙
魔法科高校の夏休みは8月31日までである。
この長さは一般的で、芸術系高校や体育系高校は9月半ばまで夏休みとなっている。
二学期最初の目玉は生徒会選挙、といっても大抵候補者は一人の信任、不信任を問う選挙となっている。
数年前、自由な生徒会長選挙を公約したところ、魔法の連発の血で血を洗う選挙が繰り広げられたらしい。
クラスでも選挙の事は話題になるが、今年は服部先輩は部活連会頭に十文字先輩から推薦されているらしい。
それならば生徒会長は元生徒会役員の中条先輩だが、彼女は生徒会長にはならないと言っている。つまり、現段階では候補者がいない状態なのだ。
「雅。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、今時間ある?」
「ええ、大丈夫よ」
部活の前にエイミィとスバルがクラスにやって来た。
彼女たちとは九校戦を通じて親しくなった仲だ。
二人ともこの後部活だそうで、一緒に部活棟のある方へと向かった。
「雅は生徒会選挙についてなにか聞いてる?」
「僕らのところには面白い噂が入ってきてね」
「ああ。達也が出馬するか、深雪が出馬するかっていう噂でしょう」
私がそう指摘するとエイミィもスバルも驚いていた。
「耳が早いね」
「部活で割と情報通な人がいるからね」
「ああ、【図書の魔女】だろう。あの人なら、情報が早いのも納得だ」
祈子さんは割と情報通だ。古今東西の書籍を漁っているだけではなく、マルチメディア部とも仲がいい。仲がいいと言うより腐れ縁だとも彼女は言っていた。
「ぶっちゃけ、雅なら知ってるかと思って来たんだ」
エイミィはえへへと申し訳なさそうに頭をかいた。
「それで実際の所どうなんだい。2年生にも優秀な人はいるけれど、会長になるには生徒会経験があると言うのが暗黙の了解だろう」
スバルは面倒な言い回しをせずに、単刀直入に聞いてきた。
眼鏡の奥の瞳は好奇心が見え隠れしていた。
「もしなるとしても、達也の所属は風紀委員会だし、彼自身立候補することはないと思うわ。可能性があるのは深雪だけれど、順当に行けば去年の総代の中条先輩をどうにかして立候補させると思うわ」
七草先輩と市原先輩が抜けると、その穴にはおそらく総合成績でも優秀な五十里先輩が選ばれるだろう。
千代田先輩は渡辺先輩が後継に据えることにしている。
書類整理ができる私と達也もそのまま風紀委員会に残ることになるだろうし、深雪は来年の時点で生徒会長に推薦されること間違いないだろう。
「ちなみに雅が出馬する可能性は?」
エイミィが面白半分に聞いてきた。
「ないわよ」
「えー。面白くない」
「そもそも私は風紀委員なのだけれど」
呆れたように言うと、スバルもエイミィも忘れていたと言わんばかりの雰囲気だった。
「なんか、雅も深雪と一緒に生徒会のイメージだった」
「仕方ないよ、エイミィ。
風紀委員になって目立った荒事は司波君に向いていたからね。
優秀な旦那さんは僻まれることも気にしないようだから、雅の気苦労が増えそうな予感がするよ」
スバルの旦那さんと言う言い方が気になったが、からかい半分なのだろう。
「あとさ、深雪さんと雅って実は付き合っているって本当?」
一瞬、エイミィの言葉の意味が理解できなかった。
「ごめんなさい、聞き間違いじゃなければ私と深雪が交際していると言ったのよね」
「うん」
「それは僕も初耳だなあ」
「九校戦が終わったあたりから一部では噂されてるよ。女の子同士だし、雅には司波君がいるし、私はあくまで噂だって分かってるんだけどね」
「冗談じゃないって思っている人がいるのね」
どうしたらそんな噂が立つのだろうか。
現代では同性愛は欧米各国にならって一部の地域では婚姻関係のような制度も認められている。
しかし、魔法師の中では優秀な次世代育成のために一種のタブーと言われている。
「深雪さん、雅さんの事大好きでしょう。だからあながち間違いじゃないかなって」
「確かに、君たちの百合説は時々噂されていたからね。
愚かな男子生徒の目では麗しの司波さんと雅の距離が近すぎるのが、禁断の関係に見えるのだろうね」
これには閉口するしかなかった。
確かに深雪は私の事を好いてくれているが、それは敬愛であり、恋愛感情ではない。
実の姉のように慕ってくれており、私も実の妹のように大切にしている。
確かに達也との関係性を知らない赤の他人から見れば、確かに達也と私ではなく、私と深雪に見えなくもないかもしれない。
それでも恋人だなんて行き過ぎた噂だ。
「深雪は義妹よ。恋人になるわけないじゃない」
「勿論知ってるって!じゃあさ、司波君と一夏の焼けるような思い出とかなかったの?」
「それは是非、聞かなければならないね」
エイミィとスバルはニマニマとした表情を浮かべていた。
人の色恋沙汰はどこに行っても女の子の話題になるのだろう。
「残念ながら特にないわよ」
「えー、実際面白い話の一つや二つ、あるでしょう」
「ご想像にお任せするわ。ほら、部活の始まる時間でしょう?」
エイミィとスバルはグラウンドの方向で、私は図書館の方向なので玄関付近で別れることになる。
後で絶対教えてねーとエイミィは言い残し、二人は部活へと向かい、私も部活を行っている部室へと向かった。
端末をかざし、部室のある特別エリアに入る。
およそ一か月ぶりに入った特別エリアはいつもより、漂う精霊も多く、霊子も活性化している。
これはなにか特別な書物でも入ったのだろうか。
支給されたサイオン感知式の鍵を差し込んで部室に入ると、一気に光の渦が溢れだした。
「やあ、雅ちゃん」
「失礼します。何を持ってきたんですか?」
部屋には祈子さんと渡良瀬先輩の二人がいた。
他の部員はまだのようだった。
「おや、流石に目がいいね」
机の上には古い扇があった。
骨組は黒漆、金箔の張られた紙は古いがかなり豪奢な雰囲気だ。
第一、とてつもない霊子がそこからあふれ出していた。
「渡良瀬君の実家の蔵の虫干しの途中で出てきたものらしいよ。巻物も一本入っていてね。これが解読したものだよ」
「仕事が早いですね」
祈子さんが端末を操作すると壁のモニターに読みやすくされた原文と、現代語訳の文章が映し出された
「『菊花水霊祭』って言って、うちの寺で昔、大神楽をやったらしい」
『菊花水霊祭』とは聞いたことのない物だが、時期を考えると重陽の節句なのだろう
映写された解読記録を読み進めていくと、どうやら魔法儀式の文献だったようだ。
歩法による術と扇を使った舞。
様式は少し異なるが、九重神楽と似通った部分も多い。
ただ、これは神楽ではなく重陽の節句に合わせた祈祷の舞だろう。
九重神楽は魔法を使った神楽として唯一現存しているものだが、かつては魔法を使った神楽や祈祷術など九重以外にも存在していた。
しかし明治の文明開化の流れと共に、神仏に対する信仰心が薄れ、科学が台頭すると、ひっそりと姿を消すようになった。
大よそが口伝としか伝えられない術式や、記録はあっても歩法自体が衰退してしまったため、再現不可能となりお蔵入りされている。
昔は書籍も電子化されていなかったために戦争で焼失してしまったものも多い。
「流体制御の術はこの夏修得しているんだろう。歩法自体は難しくないし、君なら易いことだよね」
「私が舞う事前提ですか」
「君の実家は今、重陽の節句の準備で忙しいだろう。うちの次郎君は残念だが流体制御はできない。楽師なら十分用意できたし、既に準備もさせている。それとも9日は既に予定があったかな?」
祈子さんはにっこりと笑った。
どことなく含みがあるのはいつもの事だ。
外堀はきちんと埋めてから私に話を持って来ているのだろう。
そうでなければこんなに短期間で話を持ってくることはない。
一週間あれば精進潔斎としては十分だし、舞そのものも確かに難しいものではない。
「場がなければ、九重寺を借りているところでした」
「それは僥倖」
私の答えに祈子さんは満足げに頷いた。
用意しているのならば、もっと早く連絡してほしかった。
「本当に良いのか?」
渡良瀬先輩が眉を顰めながら聞いた。
自分から持ち出した話題とは言え、こんな急な展開で良いのかという問いも含まれている。
「むしろ女人が寺で舞っても良いのかどうかですね。宗派によっては禁制の所もありますが、大丈夫なのですか」
「ああ、問題ない。爺さんに話したら、今世一番の誉れだと言ってたよ」
「これも何かの縁でしょう。積極的に客集めをするようなことがなければ、私は構いませんよ。祈子さんの事だから
「ああ。ぜひ舞わせてやれと言われたよ」
祈子さんはにんまりと笑った。
実家にまで話を通されているなら、私が肯定しない理由はない。
流体制御の術式は夏の間に習得しているし、丁度いい機会でもあった。
「じゃあ、今日からウチで合わせをしようか。衣装も取り寄せたから、それの合せもだね」
「今更だが、一週間かそこらの準備で間に合うのか?」
渡良瀬先輩が画面を見ながらそう言った。
術を知らないと人から見れば、さぞ難解なものに見えるのだろう。専ら古典部でも取り扱うのは詠唱が多く、歩法など文献でしか見たことがないそうだ。試してみた人も歴代にはいたそうだが、軒並み実験は失敗していた。
「色々と準備があるなら、私も手伝いましたよ」
困ったように私が笑うと、祈子さんは肩をすくめた。
「そりゃ私の趣味半分に本家様からお手伝いいただくのは申し訳ないのさ」
「満足いくものしか見せたくなかったの間違いでは?」
研究者肌の祈子さんの事だ。解読も終わらないうちに九重に依頼をすることは、彼女のプライドが許さなかったのだろう。
夏前に発表した地脈を利用した持続型術式のことで学会にも呼ばれていただろうし、夏休みといっても時間はなかったはずだ。
私の言葉に祈子さんは珍しく苦い顔をしていた。
新学期が始まって一週間を過ぎたころ、生徒会長選挙が公示された。
関心が薄かった生徒たちも、あずさや服部が出馬しないと言っている以上、誰がでるのか関心を持ち始めていた。
達也は自分がなぜか生徒会長選挙に出馬すると先輩や教員の間でも言われていることに疑問を感じた。
それがどうやらカウンセリングの先生からも聞いたと友人たちが言うのであれば、これは事情を聴かなければならないと密かにため息をついた。
「生徒会選挙の事もあるだろうけれど、専ら話題なのは達也君が深雪と雅に二股かけてるって話でしょう」
「は?」
達也は思わず、間の抜けた声が出ていた。
自分の聞き間違えでなければ、確かにエリカは達也の二股疑惑を口にしたのだ。
「または、深雪と雅が付き合っているって話ね」
達也は思わず言葉に詰まった。幹比古やレオも同じく呆気にとられていた。
エリカはその様子に肩をすくめ、同情半分、からかい半分で笑った。
「九校戦の時に、雅と達也君が婚約しているって広まったでしょう。
それが一部受け入れられない男子達の願望も入って、伝言ゲームで達也君と雅じゃなくて、深雪と雅になったり、達也君が二股って話に挿げ変わったみたいね。」
「どこからその情報を仕入れてきたんだ」
「私は部活の先輩からよ」
「私も部活で聞きました。結構広まっているみたいですよ」
噂好きのエリカはともかく、交友関係の広くはない美月の所まで広がっているなら達也が想像していた以上に噂は広められているのだろう。
流石の彼でもどう反応していいか分からない状況だった。
「災難だね、達也」
幹比古は苦笑いを浮かべた。幹比古としては慰めたつもりだったが、達也にはそうは聞えなかった。
「俺と深雪は兄妹だし、雅と深雪は女同士だろう。どうしてそんな噂に行きつくんだ」
達也は深いため息をついた。
自分と雅の事が広がるのはまだしも、女性同士が付き合っているとは随分ゴシップの好きな生徒もいるのだと呆れていた。
「深雪って雅大好きで、雅も深雪の事すっごく可愛がっているでしょう。
入学した時から百合説は出ていたし、あれだけ二人とも美人なら禁断の愛もありって盛り上がる男子もいるんじゃないの?」
エリカはニマニマと面白そうに笑った。
同性愛は魔法師の中では一種のタブーだ。
次世代を早期に求められる魔法師にとって、大学在学中であっても産休、育休を取ることは珍しくない。
同姓しか愛せない魔法師は体外受精を行うか、仮面夫婦を演じるか、一生独身を貫くしかないだろう。
そんなドロドロとした事情もしらない高校生たちは面白半分に噂と思っていても、流布して回っているのだろう。
「達也、後ろから刺されないようにな。防刃チョッキでも仕込んでおくか?」
レオは達也の肩を叩いた。
「一昔前のチンピラみたいなセリフだな」
レオのいい笑顔に達也は今度こそ、深くため息をついた。
九月九日金曜日
空は茜色から、闇色に変わり、夜の帳が降りる。
荘厳な木造の寺には、多数の人が訪れていた。
現代的な光はなく、灯篭や行燈のおぼろげな明かりが照らしている。
庭には菊の鉢植えが互いを競うように咲き誇っている。
白、黄色、赤、紫、橙
厚物、大掴み、管物、小菊
色とりどりの鉢植えは、さながら菊の展覧会の様だった。
人々は見事な菊に目を奪われ、華やかな香りを楽しんでいた。
「大きなお寺ですね」
「本当に私たちも来てよかったんでしょうか」
東京都内、それもかなりの敷地と規模を誇るその寺院は多くの人が集まっていた。
だが、学生の姿は達也たち以外にはなく、どことなく美月やほのか達は居心地が悪そうだった。
「招かれたのだから、来ない方が失礼よ」
「雅さんは先に来ているんですよね?」
「ええ。そうよ」
雅を除いた達也たちいつもの7人は東京の外れにある寺に来ていた。
学校からそれほど遠くないこの寺の敷地は広大で、本堂の他にも三重の塔や大きな池もあった。
池には大輪の菊が浮かべられ、流し灯篭を模した明かりが水面に反射している。
鈴虫の鳴く静かな夜に空からは三日月が仄かな光を地上に届けていた。
「お、司波か」
「鎧塚先輩もいらしていたのですね」
達也は寺の境内に九校戦で知人となった鎧塚の姿を見つけ、一礼をした。
その隣には見慣れない外国人がいたが、制服を着ていたのでどうやら一高生の様だった。
達也たちの視線を感じてか、彼女は丁寧に腰を折って礼をした。
優雅な礼はそれ相応の教養の良さを感じさせた。
「はじめまして。マリアナ・ハーフフォルト。図書・古典部の2年生です」
彼女の事を達也は名前だけ知っていた。
春の新入生の部活勧誘期間で、西洋魔導書の公開実験を行った生徒だ。
風紀委員の辰巳が現場そっちのけになりそうなほど、派手な実験だったらしいとは聞いている。
魔導書を解析した論文も達也は目を通したが、西洋独自の起動式は彼の知識欲を刺激する物だった。
「司波も渡良瀬先輩に呼ばれた口か?」
「いえ、雅からです」
「ああ、主役に呼ばれたんなら来ないわけにはいかないな」
「鎧塚さん、雅が主役ってどういうことですか?」
エリカは達也の前に出て、鎧塚に尋ねた。
彼女は剣道部と剣術部繋がりで鎧塚とは面識があった。
今日エリカたちが連れてこられたのは、雅の招待があったからであり、勉強になるだろうと達也の後押しもあったからだ。
具体的に何があるかは聞いていないが、特にこれといった用事もなかったため、全員が参加することにしたのだ。
「司波、お前言ってないのか?」
意外そうに鎧塚は達也に聞いた。
「純粋に楽しむためならば、余計な知識はない方がいいと思いまして」
達也はいつも通り答えたつもりだったが、口にはかすかに笑みが浮かんでいた。
その笑みに気が付いたのは正面にいた鎧塚と、口ぶりで気が付いた深雪だけだった。
鎧塚は一瞬眉を顰めたが、ふっと笑いを零した。
「まあ、一理あるな。そろそろ時間になるだろうし、場所は取っておいた方がいいだろうな」
「そうですね」
疑問符の残る友人と共に、達也たちは神楽が行われるという池の前に移動した。
広大な寺の敷地に合わせて、庭の池も50mプールが悠々と入ってしまうほど大きい。
柔らかな行燈の光に照らされた水面は大輪の菊が風に揺れて移動している。
池の周囲にはいくつか席が設けられており、達也たちは中央を少し外れた席を取ることができた。
既に席についている人物の中には大企業の社長や国会議員の姿もある。
留袖姿のご婦人やスーツをきっちり着込んだ壮年の男性が多い中、制服姿の達也たちは良くも悪くも目立っていた。
何人かは不躾な視線を向けてきたが、場が場であるため、恥を塗りたくる様な人物はいなかった。
用意された席がすべて埋まると、客席の灯篭の光が一つ、二つと消えていった。
徐々に薄暗くなる境内。
そうして本堂から池に続く道だけに行燈が残っている。
本堂のすぐ脇には白い布で囲まれた衝立がある。
外からは一切中の様子は見えず、白い布で四方と天井が覆われている。
観客の視線が自然と其方に向くと、チリンと鈴の鳴る音がした。
僧侶たちが大きな白い布に棒が取り付けられた『行障』を手に取り、衝立を更に囲った。
チリンと再び鈴の音が鳴ると、僧侶たちがゆっくりと歩き出した。
どうやら衝立の中から何かを移動させているようだ。
僧侶たちの後ろには楽器を持った袴姿の神職たちが続いている。
ゆっくりと鈴の鳴る音に合せて白い布の列が移動していく。
中の様子は全く窺い知れない。
やがて池の前までくると、楽師たちが位置についた。
チリンと鈴の音が高らかに鳴ると先頭で行障を住職が開いた。
恭しく僧侶たちが頭を垂れる。
行障の中から鈴の音に誘われて現れたのはまだ年端もいかない少年だった。10歳を過ぎたばかりかそこらの幼い少年だ。
真っ黒で長い髪は殿上童の鬟に結われ、衣装は白い童子狩衣、濃紺の袴。
狩衣には手毬菊の文様が描かれており、衣裏は黄色になっていた。
白皙の美貌と一重の涼しげな目元が印象的な少年だった。
怖ろしいほど左右の均整のとれた端正な顔立ちをしており、どことなく儚い印象を与えた。
だが、決して弱々しいのではない。
黒い瞳は黒曜石の様で、いっそ神々しいような、おとぎ話の精霊のような神秘的な気配を漂わせていた。
年端もいかない少年に驚く観客たちには目もくれず、少年が水面に足を下ろすと、水面が鏡面のように変化した。
風で小さく波打っていた水面は、止水となり、池の一面が鏡のようになったのだ。
少年は一歩、二歩と水面を優雅に歩いて行った、
鏡のような水面は水に浮かぶ行燈や菊も鏡のように映し出し、少年の姿もまるでもう一つの世界がそちらにあるかのように鮮明だった。
少年が池の中央に立つと静かに扇を取り出した。
観客は浮世離れした光景に息を呑み、その光景を見守っていた。
少年が扇を振ると同時に、管弦が軽やかな音色を奏でる。
扇を一振りすると水面の菊が動き出した。
管弦に合せて舞う少年に合わせ、菊花も動いている。
少年が扇で水を攫うとその水は空中に漂った。
管弦の音を受け、少年が扇を振るうたびに自在に水は空中で形を変えた。
時には兎を、時には龍を、時には蝶を、時には虎を
少年が舞い、水面に触れるたびに水は意思を持っているかのように動き出す。
水を操り、狩衣を翻すその姿は実に優美であり、高雅であった。
ただ少年の舞う姿だけではなく、鏡面のような水面に映る姿や、行燈の光も幻想的な美しさを助長していた。
周囲の水もまるで少年を彩るように舞っていた。
観客たちは瞬きを忘れ、ただその光景を見入っていた。
管弦が高らかに鳴り響くと水は収束し、水面へと還った。
これでまだ曲の前半でしかない。
少年が水面から黄色の菊を拾い上げ、口元に運んだ。
大菊に口付けした伏し目がちな表情は高貴な人を盗み見た様であり、得も言われぬ感覚を観客たちは味わっていた。
少年は水面に菊をゆっくりと降ろすと、水面に手を入れた。
すると菊の花が散り、水面の少年の影が消えると、少年は何かを引き上げた。それは少年と瓜二つの顔をした人であり、衣装は黄色に白菊の文様が描かれていた。
楽が始まると、少年たちはそこが鏡であるかのように同じ動きで舞いだした。まるで今まで水面の下で踊っていた少年が、現世に現れて舞っているようだった。動きは寸分たがわず同じであり、向かい合って踊っているときなどまるで鏡写しの様だった。
鏡面の下には少年たちの影は映っていない。
菊や行燈、空に浮かぶ月は写っていても、少年たちの姿はその下にはなかった。
二人の動きに合せて、水も二人を彩るかのように取り巻き踊る。
二人がすれ違いざまに笑む表情など、なんと美しいことだろうか。
ただただ、美しく、幻想的な舞に陶然としていた。
舞が終盤に向かうにつれて、楽も舞も勢いを増していく。
観客も食い入って見ていた。
笛の高い音と共に二人の手と手が重なった。
それと同時に二人の姿は花と散り、少年たちのいた場所には白と黄色の菊が浮かんでいるだけだった。
池も鏡面のような輝きから、ただの水面にもどり、小さく波打っていた。
全ては安易な光の映像による演出ではない。
池の中にも板など仕込まれていない。
あれはまさに神憑り的事象だった
観客は一人、二人と思い出したかのように拍手を始めた。
「本当、あれどうなってんだ」
「わかりません。けど、すごくきれいでした」
レオとほのかも熱気が抜けないのか、茫然と手を叩いていた。
「とにかく、凄かったわ。え、美月どうしたのよ!ミキも?!」
エリカは隣に座る美月とその隣にいる幹比古を見てギョッとした。
「え、エリカちゃん?」
「ちょっと、どうして二人とも泣いているの」
そこで美月も幹比古も自分たちが涙を流していることに気が付いた。
「え、あ、本当だ。なんででしょう。・・・私にもわかりません。
なぜだか涙が出て仕方がないんです」
美月は眼鏡を外し、涙をぬぐった。
あたりには美しい霊子が漂っている。
これほどまで清廉なものは美月は見たことがなかった。
ただ眩しくて苦しい世界が、これほどまで美しく見えたことは初めてだった。
幹比古も自分が泣いていたことが指摘されるまで気が付かず、恥ずかしそうにハンカチで目元を押さえていた。
ただ、感涙したわけではない
あれほどまで清廉で、力強い気を浴びたことがなかった。
水の精霊の波長は彼の元まで届いてきており、あの少年が精霊や神霊の類だと言われても幹比古は信じただろう。
それほどまで彼にとっては、彼の家にとっては珠玉にも等しい情景だった。
達也はこの光景をよく知っていた。
全ては魔法で構成されている。
楽師も演者も魔法師。
サイオンを通した音が池を鏡面に変え、菊を自在に動かしていた。
神楽は神への奉納の舞もあるが、同時に人々の幸せを願い舞われることもある。
九月九日は五節句の内の一つ、重陽の節句だ。
奇数を陽、偶数を陰とすると、九は陽の最上級の数であり、それが二つ重なると転じて災いとなるとも言われている。
別名菊の節句とも呼ばれ、無病息災と長寿を願って、菊酒を飲んだり、菊の朝露をしみこませた綿で体を拭いたりする。
明治以降、他の節句と異なり廃れていったが、一部では今も欠かさず行事として残っている。
「精霊や霊子に感受性が高いなら、何かしら感じるものがあってもおかしいことではない。念のために霊子が池より外にあふれ出ないように結界は張られている。体には問題ないだろう」
「達也はこれがなんだか知っているのかい」
幹比古は涙こそ止まっていたが、まだ気恥ずかしそうに顔を逸らしていた。流石に高校生にもなって人前で泣くのは羞恥心があるのだろう。
「一人だけこの場にいないだろう」
「まさか、これが九重神楽なのかい」
幹比古はごくりと喉が鳴った。
レオやエリカでさえ絶句している。
あれほどまで美しい少年が自分たちの良く知る友人とは夢にも思っていなかった。
「詠唱をしないだけ難易度はそれほど高くないだろう」
「確かに九重が重陽の節句に何もしないわけないか…」
幹比古はそう呟いた。
『九重』は宮中を示す。
五節句は宮中の年間行事が民間に広まったと言われている。
九重である雅がただ悠々としているわけではなかった。
菊の浮かぶ水面は、普通の水面に戻っていた。
あれが夢か精神魔法の一種だと言えれば、楽だったのかもしれない。
観客の何人かも椅子に座ったまま未だに茫然としている。
それほどまであの神楽は人を魅入らせてしまうのだ。
「深雪が雅に心酔するのも分かるわ」
深雪は未だ席で陶然と神楽の舞台を見つめていた。
その目にはしっとりとした熱を帯びており、まるで懸想しているようにも見えた。
達也は妹を現実に戻すために、そっと肩を叩くのだった。
入れようと思って長くなった蛇足。
五節句について
一月七日は魔除けと邪気払いのある七草を入れた粥を食べ、無病息災を祈りました。一説には正月に疲れた胃を休めるとも言われています。
三月三日は桃の節句。ひな祭りとも呼ばれます。桃は邪気を払うと言われている存在です。
五月五日は端午の節句。別名菖蒲の節句とも呼ばれます。菖蒲と尚武は掛けられており、男児の健やかな成長と武勲を祈っています。甲冑などが飾られるのはその所以だと思います。
ついでに柏餅の柏は葉が上から見たときに重ならないように広がるので、子孫繁栄を意味しています。たぶん。
七月七日は七夕の節句ですね。昔は旧暦のお盆の時期に当ります。私の地元では旧暦に合わせて七夕は8月に行っていました。
九月九日は重陽の節句。菊の節句とも言います。旧暦で言えば10月に当り、稲刈りの時期にあたります。収穫の祝いも兼ねていたと言われています。
こう見ると、重陽の節句だけメジャーではありませんね。
にわか知識なので悪しからずご了承ください。