追憶編1
ずれた歯車は歪な音を立てて動きを止め、やがて錆びつき朽ち果てる。
結ぶのは難しく、解くのは簡単で
作るのは時間がかかり、壊すのは一瞬。
目に見えない不確かな存在に縋り、惑わされ、絶望し、そして終わりは呆気なく訪れる。
人を人としているのは何だろう。
このどうしようもない煩わしい感情はどこから生まれたのだろう。
心とは何か、精神とは何か。
深淵を見てきた私にも答えはでない問いだった。
京都
神社の周囲には出店が立ち並び、浴衣を着た人々で溢れている。
小さな子供の手を引く両親、はぐれないように手を繋ぐ初々しい恋人たち、仲間同士で一夏の恋をしようと躍起になっている青年たち。
活気ある露天の声と香りたつ食べ物の香り。
薄暗くなった夕暮れの参道の灯篭に次々と橙色の明かりがともされていた。
表の賑やかな様子や林檎飴や綿菓子など祭りの出店に見向きもせずに達也は参道を進んでいた。
長い参道を人とぶつからないように進み、鳥居の足元まで来ると、一人の男性が手を挙げた。
「達也、よく来たね。背もずいぶん伸びたな」
「ご無沙汰しています」
懐かしそうに目を細める男性に達也は表情を変えずに頭を下げた。
男性はとっくに還暦は過ぎているものの、若々しく力強い印象を受けた。
達也を出迎えたのは九重の先代当主。現在は隠居をし、息子に当主を譲っている身だった。
鳥居を通り過ぎる人の中には彼に丁寧に一礼をしてから去っていくものも多くいた。
「俺への仕事とはなんでしょうか。任務の内容はこちらに来てから教えられると聞いています」
「長旅で疲れているだろうから、話は中でしようか」
達也は先代当主の出迎えに若干驚きながら、今回の任務の重要度を見直していた。
達也は彼の後に続いて立ち入り禁止の神社の敷地内に入って行った。
参道から一歩外れれば、どこか寂しげな夕暮れの風景が広がっていた。急ぎ足で駆け抜ける神官達も彼を見れば、一旦足を止めてから通り過ぎていた。
九重の私宅に入り、立派な応接間に通される。畳を入れ替えたばかりなのだろうか、イグサの香りが夏の香りと共に鼻に抜けた。
運ばれた冷茶でひとまず喉を潤していた。先代から菓子も進められたが、達也は気遣いは結構だと丁寧に断った。
彼は達也の事をまるで孫を見るかのような、とても優しい瞳をしていた。達也はどことなく居心地の悪さを感じながら、冷茶に口をつけた。
「さて、任務のことだが、それ自体建前だから気にしなくていいよ」
「建前ですか?」
達也は一瞬眉をひそめた。内心慌てていつもの顔に戻そうとしたが、【千里眼】たる彼を騙せるわけもなく、彼は困ったように眉を下げた。
「そうでも言わないと真夜さんや深夜さんは君をこちらに寄越してはくれないだろう?
二人とも知っているから気にしなくてもいいよ。実質休暇だと思って、羽を伸ばしてくれ」
「でしたら、俺はあちらに戻らせて」
「雅は君が来るのを楽しみにしているんだが、会って行かないのか?」
「ですが・・・」
達也は言葉に詰まった。
雅は彼にとって生まれたときから婚約者と決められた幼馴染だ。
自分に普通の魔法が使うことができないと判明しても尚、その関係性は解消されることなく今日まで続いてきている。
雅と達也は3歳ごろまでは同じ時を過ごし、4歳を過ぎてからは雅は深雪の遊び相手となり、達也には厳しい戦闘訓練が課された。
京都にやってきたのも任務の一環だとして言い渡されたが、休暇にするとは契約違反なのではないかと達也は幼い頭ながらに考えていた。
「じゃあ、会場の警備の補助を頼もう。それだったら“任務”になるだろう」
渋る達也に先代は代案を出した。
会場には既に九重からも優秀な魔法師が何人も配備されているが、保険は多いに越したことはない。加えて、子どもというのも相手に危機感を抱かせないとして重宝される。
だが、この達也が向かい合っている男はきっと達也に危険なことはさせないし、第一警備に構えた神職たちも大人の矜持で許さない。
達也は大人たちの思惑も頭の隅にありながらも、わかりましたと頭を下げ、先代に連れられて舞台裏に向かった。
室内の涼しさとは違い、外は夏独特の蒸し暑さに包まれていた。
先ほどより空は紺色に近くなり、日が沈んだことで少しだけ気温も下がっていた。
舞台の主役は精神を集中させるために一室が与えられているが、前座には簡単な白い布の天幕で仕切られた控室だった。
そうは言っても外には警護役の神職が構えており、先代の登場に二人は丁寧に頭を下げた。
達也の存在も先代と一緒ということで特に咎められることなく、中に入れてもらえた。一声かけ、二人で天幕の中に入った。
中にいた雅は達也と目が合うと、大きな瞳を見開き、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「本当に来てくれたんだ」
雅は座っていた椅子から立ち上がると、達也に駆け寄った。
「雅」
「あ、ごめんなさい」
達也に触れようとした時、先代から言葉で制された。伸ばしていた手を雅はさっと引っ込めた。
「潔斎した後だから男の人には触っちゃだめなんだって。ごめんね。」
「いや、気にしていない」
舞台映えするように施された赤い紅やほんのりと乗せられた白粉は幼さも残しながらも、特別な雰囲気を助長していた。
巫女服と頭の金色の簪も良く似合っていると達也は思った。
達也はしげしげと観察していると、雅は恥ずかしそうに頬を染めた。
その様子を先代は優しげな表情でニコニコと笑っていた。
「達也と私は袖で見ているからね」
「はい」
雅は祖父の言葉に丁寧に頭を下げた。
先代は小さく達也の肩に触れた。達也が見上げて目を合わせると、にっこりとほほ笑まれた。なにか言葉を求められていると達也は理解し、雅に視線を戻した。
「・・・・頑張って」
「うん」
達也の言葉は何よりもありきたりだったが、雅は花が綻ぶように笑みを浮かべた。
舞台は夜7時から。
雅の出番はそこから10分の前座。7歳の子が行うには九重神楽の負担は大きく、簡単な場の清めの舞か脇役を演じるだけだ。
雅の出番は早々に終わり、大人たちの神楽が始まった。
観客は100人から200人ほどだが、一様に九重神楽の幻想的な雰囲気に呑まれているのが見えた。
彼は舞台に気を配りながらも、観客に目を光らせていた。任務としては警備なので、与えられた仕事に真面目に取り組んでいた。
舞は1時間で終わり、問題なく大成功を収めた。
達也は何度か見慣れぬ魔法に目が奪われながらも、任務をやり遂げた。先代に報告に行こうとしたところで、廊下で雅の母の桐子に呼び止められた。
雅は巫女服から子供らしい桃色の浴衣に着替えていた。
水色の巾着には涼やかな金魚があしらわれ、長い髪はトンボ玉の簪でひとまとめにされていた。
「二人でお祭りを楽しんでいらっしゃい」
「警備の仕事はいいのですか?」
達也の子供らしからぬ言葉に悲しげな表情を一瞬浮かべたものの、にっこりと笑顔で雅を促した。
「ええ。折角会えたんですもの。はい、お小遣い。達也、次の仕事は雅の護衛よ。護衛しているとは分からないように、遊んでいらっしゃい。9時までには戻ってくるのよ」
「いいのですか」
雅はマネーカードを受け取り、嬉しそうに母を見上げた。勿論よと彼女は再度、雅の浴衣の細部を整えてあげていた。
達也は今回、九重の依頼でここに来ている。つまり、今だけ彼の雇い主は深雪ではなく、九重になる。拒否権は最初から達也にはなかった。
「達也は疲れたかしら?」
「いえ、大丈夫です」
念のため確認を取る桐子に達也は首を振った。
警備といっても暴動も混乱もなかったため、達也に疲労はなかった。
いつもと違う雰囲気や仕事内容に達也は戸惑いを覚えながらも、二人で祭りへと向かった。
達也と雅は特に問題もなく祭りを楽しんだ。
九重の膝元で犯罪を起こす無粋な者はおらず、時折酒に飲まれた男たちが騒いで連れていかれていた程度だった。
祭りから帰った達也はそのまま、九重本邸に宿泊することになった。
湯を浴び、後は寝るだけとなったが、達也はなぜか目が冴えていた。
庭に面した客間の廊下に出て、ぼんやりと空を見上げた。
およそ記憶にある母に笑顔を向けられたことはなかった。
同じ屋根に暮らしている妹とも顔を合わせることはなく、生活していた。
学校の通学で同じ時間を過ごしてはいるが、特に言葉を交わすことはない。
深雪は次期当主候補、達也はガーディアン
同じ両親から生まれたが、家の者からの対応は天と地ほども違う。
同じ学校に通っているものの、およそ兄妹らしい会話はない。
達也にとって深雪のことは大切だ。
母が達也に施した魔法で、強い感情は妹に対する家族愛以外は全て白紙化された。
情報を改変する魔法の使えない自身にとって四葉で生き残るためにも仕方のないことだった。訓練だって毎日の事でもう慣れたことだった。人を殺すことだってした。
十師族の一角、四葉家
謎に満ち、
対して、九重はどこまでも達也にとって清い世界だった。
裏の事情など微塵も表ににじませることはない。
今日だって四葉の人間ではなく、雅の婚約者である司波達也としてのもてなしを受けていた。
胸が焦がれるような、ざわめくような感覚だった。どこか忘れていた懐かしい感覚を呼び起こされるような気がしていた。
達也を一人前の人として接し、優しさも厳しさも兼ね備えていた。
達也がなにかに成功すればきちんと労い、道理を間違えれば本気で叱ってくれる大人だった。
訓練で怒鳴りつける大人とは違う。
蔑んだ目で見てくる家人とも違う。
世間一般で言う親とはきっとこんな感覚なのだろうと達也は痛むはずのない胸がうずいた。
水でも一杯貰ってこようかとしようとしたところで、廊下の先に人影が見えた。
「おや、久しぶりだね、達也ちゃん」
寝巻用の浴衣にガウンを羽織った老女がそこにいた。
にこにこと達也に向かって話しかけてくるが、達也には生憎面識がなかった。
少なくともこの家の人物だが、生憎九重は親戚も多い。赤ん坊のころにあった人もいるだろうが、流石の達也にも記憶はなかった。
女性はゆっくりと達也の隣に座った。
「覚えていないわよね。雅の曾おばあさんよ」
「貴方が千代様ですか」
齢86歳とは思えない、背筋の伸びた婦人だった。
白髪に顔や手に刻まれた皺はそれなりの年齢を重ねているように感じさせたが、年より若かった。彼女もまた【千里眼】であり、先々代四楓院家当主だった女性だ。
「ええ、そうよ。貴方と雅の婚約を決めたのは私ね」
生まれて間もなくの達也に魔法の才能がないことを見抜き、雅が生まれるとすぐに婚姻を持ちかけたのはこの人だ。
周囲からはなぜという声も多く上がっていたと聞いた。実際、今でも疑問視されている。よほど四葉直系の血筋が欲しいのかと揶揄されていた。
しかし、この方にはそんな思惑はないようだった。
「私の目に狂いはなかったようだね」
ゆっくりと達也は頭を撫でられた。不思議と嫌な感覚はしなかった
「力を持つ子。貴方は多くの事に縛られるでしょう。それでも、幸福はあります。
これから先の人生、多くの事を学び、多くの事に躓き、多くの事を成し、多くの人と出会うでしょう。良い縁、悪縁。全て貴方の糧となります。あの子と幸せになりなさい」
達也は否定しなければならなかった。
道具のように使われる自分にあんな綺麗な雅は相応しいとは思えなかった。
なぜ選んだのか、聞きたかった。
それでも、言葉は出なかった。
慈愛に満ちた瞳が全てを語っていた。
「さあ、もうおやすみなさい。お月様はあんなに高いところにあるわ」
「はい。失礼します」
いつもと違う場所のせいか。
それとも、あの言葉のせいか。
その日は珍しく良く寝つけなかった。
限られた季節の逢瀬。
雅の舞う神楽には必ずと言っていいほど招待された。
名目上は警備だったが、実質はほぼ無償で招待されたと言ってもいい。
時間の許す限り、任務や訓練の合間で観に行っていた。
年を経るごとに雅は舞台の中でも華へとなっていった。雅一人だけの舞の時間が取られるほど、その神楽舞は卓越していた。
誰もが忘我となる、常世忘れの舞。九重の桜姫と称されていた。
舞台ではまるで手の届かないような存在なのに、隣にいる雅はいつも笑みを浮かべて幸せそうに俺の隣を歩いている。
一緒に鍛錬をすることもあった。
武術も雅は人並み以上の腕で、その実力に驚くことも多かった。
文字通り、実の親以上に愛情を注いでくれていたのは九重の家だった。
誰も俺を否定しないし、蔑みもしない。
何時だって諸手をあげて歓迎してくれた。
そこに、打算も思惑もない。
あるとするならば、雅の幸せを願ってのことだ。
ぬるま湯につかっているような感覚だった。
ここでは四葉のガーディアンではなく、司波達也でいさせてくれた。
それがそことなく、歯がゆくもあり、嬉しくもあった。
そして月日は移ろい、達也たちは小学校を卒業する歳を迎えた。
その春は雅が巫女として舞える最後の年だった。
平安時代は11~12歳で裳着、今でいうところの成人式を迎えていた。本来だったら12歳でも成人扱いになるのだが、現代に合せて小学生までの取り決めとなっている。九重神宮では13歳以上の女性で舞えるのは男装舞か舞姫として未婚を貫く女性だけだった。
観覧は12歳から許されており、先日12歳を迎えたばかりの深雪は最初で最後の舞に心を踊らせていた。達也は警備名目で裏からいつも神楽を観ていたが、それは婚約者としての特権と特例だった。
深雪の隣には調整体のガーディアン、桜井穂波がいるため、達也は離れた位置から危険がないか目を光らせていた。
「達也君」
「お久しぶりです、桐子様」
来賓の相手が終わったのか、観客席の最後尾で立っていた達也に桐子が声を掛けた。
「様はいらないわ。昔のように桐子叔母様でも桐子さんでも構わないのよ」
少し話があると、桐子は達也を誘った。
達也は穂波とミストレスである深雪に告げ、その場を離れた。深雪は勝手にすればいいと我関せずと言った様子で、穂波がそれを優しい言葉で諌めていたが、聞く耳は持っていなかった。
精霊の目で会場全体を見て危険がないのを確認した後、達也は桐子と共に人気のない関係者用の場所まで移動した。
消音壁を音もなく展開し、桐子は時間もないから手早く話を終わらせた。
「深雪さんの隣に座らなかったの?」
「俺はガーディアンですから」
「九重が招待したのは司波達也よ。誰もガーディアンとして貴方を呼んだとは書いてないはずです」
確かに招待状は司波達也、司波深雪、それと司波深夜の名で来ていた。深夜は体調がすぐれないため、代理で穂波が来ている。
「ですが…」
達也は少なくとも人より物事の分別の付く人間だった。九重が招待の一人として数えてはいたが、話を聞いた家の者たちの中には面白くない者もいた。
「外聞を気にする輩はここにはいません。貴方は堂々とそこにいればいいのよ。それに席が空いている方が目に付くわ」
達也の席は深雪の隣に指定されていた。それを深雪が快く思わなかったため、達也は離れた位置で待っていた。
「今回が巫女舞の最後だから、あの子も気合いが入っているの。
貴方と深雪さんが来ると知ってから、より気合いを入れていたわ」
「そうなんですか」
「だからなおの事、しっかり見える位置にいてほしいのよ」
達也は雅がどれだけ神楽に真摯に取り組んでいるのか知っている。
どれだけそれが困難な事象を実現させているのか知っている。
だからこそ、何時だって目を奪われてきたし、彼女の努力する姿勢は素直に感心した。
「お願いね」
「…分かりました」
達也はこれも仕事だと自分を納得させ、観客席へと戻って行った。
席に着けば隣の深雪から冷たい目があったが、淑女として彼女は暴言を吐くようなことはなかった。穂波は困ったように笑みを浮かべたが、少し嬉しそうだった。
神楽殿の隣には満開の桜が咲き誇っていた。九重神社は桜の名所として知られており、風が吹けばどこからともなく花びらが飛んできていた。
雅が舞台に登場すると、観客は息を呑んだ。
12歳というにはあまりに大人びており、伏せた目はどことなく儚い印象を抱かせた。
ゆっくりと雅が顔を上げると達也と雅の視線が交わった。
その瞬間、桜の舞姫は誰よりも春に相応しい笑みを浮かべた
蕾が綻ぶように、満開の花さえ霞むように優雅で可憐に微笑んだ。
管弦の曲が鳴り響けば、そこは祝福された世界が現れた。
神々しく、神秘的で、常世の者とは思えない幻想が広がっていた
「綺麗…」
隣の深雪が思わず声を漏らした。
優美な雅楽に合せて装束が翻り、軽やかな鈴の音が響き渡る。
桜が舞い散る中で踊るその様はまるで春の精が降り立ったようだった
芽吹きの春に相応しい愛らしく、可憐で、それでいて力強さも感じる
観るもの全ての目を引き付けていた
舞台には一人しかいないにもかかわらず、圧倒的な存在感だった
魔法で重力に逆らって幻想的に舞う桜の花びらや酩酊するかのように漂う桜の香り
光の加減で色を玉虫色に変える装束
サイオン体をベースにされた鳳凰が空から飛翔し、舞台に色を添える。
そこにいる者全てが、その全ての動作を止めてこの光景を脳裏に焼き付けなければと感じていた。きっと、桃源郷があるのならこのような世界を言うのかもしれないと感じていた。
曲の終わりに少しだけ寂しそうに笑った。
桜の舞姫は今日で見納めなのだ。
そう思うと、達也の胸には残念な気持ちが湧いてきた。
湧きあがる拍手を受け、誉れ高き桜姫は惜しまれながら舞台を後にした。
深雪は感涙が止まらなかった。雅の神楽は凄いと聞かされていたが、想像をはるかに超える情景に心の方が追いつかなかった。
涙を流し続ける深雪に九重から少し休んでから帰った方がいいと言われ、達也たちは九重本邸に招かれた。
深雪の側には穂波が付いており、達也だけは当主に呼ばれた。
「よく来たな」
「お招きいただきありがとうございます。」
「深雪さんには刺激が強かったようだね」
くすりと当主は笑った。
「君にとってはどうだったかな?」
「あれだけ難易度の高い魔法を道具による補助はあるとはいえ、続ける技術は凄いと思います。俺が観覧させていただいた中では一番の舞だったと思います。
ーーーだからこそ、俺のような立場に雅は釣り合いません」
誰よりも、高雅で優雅で綺麗な舞姫。達也にはそんな彼女に血塗れで大した魔法の才能のない自分が相応しいとは思えなかった
「ふさわしくなければとっくに解消させているとは思わないのかい」
「四葉との関係維持のためですか」
「その程度の理由で君を縛ろうとは思わないよ。第一、九重も四楓院も魔法師社会の中では基本的に中立だ。」
十師族にも師補十八家にも九重も四楓院も入っていない。
それはナンバーズと呼ばれる家々は後発的に作られた家であり、九重とは歴史も格も違う。
魔法師としての血をどこの家よりも濃く受け継ぐのが九重の本家であり、九重との婚姻を目論んでいる相手も少なくない。雅だって達也が知らない中で色々なところから声を掛けられているはずだ。
四葉にとってはメリットのある相手でも、九重にとって欠陥品である自分を選ぶ理由が達也には分からなかった。
「訳が分からないという顔だね」
「俺には魔法師としての才能が有りません」
「君の才能は誰にもできないことだ。君の言う才能はライセンスの獲得のための評価基準で、数ある物差しの内の一つに過ぎない。うちがライセンスを重視していないのは知っているだろう」
九重当主は真剣に達也と向き合った。
「毎年招待しているとはいえ、断ろうと思えば断れるだろう。それでも毎年来るのはなぜだい」
「俺程度の人間が九重の招待を無下にはできません」
「そこは雅に会いたいくらい言ったらどうだい」
「失礼しました」
達也の殊勝な態度に当主はやれやれと言った風に笑った。
「責めているわけではない。せめてこの家にいる時ぐらいは司波達也として、素直にいて欲しいという親心だよ」
この人物も達也を昔から知っている。
物心の付く前から厳しくも優しく接してくれたまるで父のような存在だと達也は感じていた。
血の繋がりしかない父は所詮血縁だけだ。彼は達也が尊敬し、教えを乞うことができる数少ない相手だった。
「君と雅の縁は時が来れば教えよう」
今はまだ告げることができず、いずれその時が来るということだ。
【千里眼】にはそれがいつのことか分かっているのだろう。
この家の掌だと思うと少し不満もあるが、少なくとも雅にとって害になることはない。
そして深雪にもおそらく牙をむくことはない。
きっと達也が乞えば力を貸してくれるだけの関係はある。
それさえ分かっていれば、達也はぬるま湯の関係に甘んじることにした。
客間に戻る道を進んでいると、達也は途中で悠と出くわした。
「お勤め、お疲れ様でした」
「ありがとう」
悠は風呂上がりのためか、少し肌が上気していた。
髪も男性にしてはやや長めであり、それが風呂上がりの肌に張り付いており、女性が見ればこれだけで卒倒物だった。
だが達也にそのような趣味はなく、悠はちょっかいの多い義兄という立場だった。
彼は次期当主と言う割に性格ものんびりしており、どこか気の抜けてしまう相手だった。それが演技なのか、素なのかは分からないが、少なくとも彼も達也を弟のように可愛がっていた。
「父の所で何かあったかな?」
「今日の感想を少しお話していたところでした」
「それで雅は君に相応しくないと思ったんだね」
的確に会話の内容を言い当てられたことに一瞬達也の心臓ははねた。
だが、面の皮はいくらでも誤魔化せるよう厚くなってきたので、顔に出るようなことはなかった。
「何度も言うけど、激情はなくても感情はある。君がいくら心を閉ざそうとも、凍らせようとも、君には心がある。それは確かなのだろう」
「最低限の情動はありますよ」
達也は母の手により激情を最低限の情動を残して消され、魔法演算領域を埋め込まれた。強いは深雪を護るための思いしか残されていない。
つまり、恋心も雅に対する信愛も決して深雪以上の感情にはなりえない。それは悠も知っている筈だった。
「今はね。人は変化するものだ。良くも悪くもね。」
悠は何でも知っている風に語った。その真意は達也にも理解できなかった。まるで彼の良い方は彼が強い感情を取り戻すかのような言い方だった。
「雅はどうだった?」
「きっと、あれを美しいと言うのでしょうね」
「心揺さぶられた?」
「分かりません」
「否定しないのならば、きっと君の心に残ったのだろうね」
口元に笑みを携えた。
確かに悠がいうように否定はできなかった。
だが、彼には感動する心すら希薄になっている。そんな自分の心を揺さぶってくるのは、何時だってこの場所だった。
「九重の方々といると、時々自分の感覚が可笑しくなります」
「そりゃ、捨石として見るのと、未来の義弟と見るのでは違って当然だろう」
「妹離れできない兄と見られてしまいますよ」
「君が言うセリフかな。昔は一丁前に独占欲丸出しで雅に構っていたくせに」
きっと物心も付く前の事だが、今の達也にそんなことを言われても達也にはどうしようもなかった。
「残念ながら、記憶にありません」
「それは残念だ」
カラカラと笑う悠に達也は不満げに口を曲げた。
九重家 設定
家族構成の整理
曾祖母、祖父母、両親、長兄、次兄、義姉(兄嫁)
九重歴代当主
先々代:曾祖母 先代:祖父 今代:父 次代:次兄
九重当主は皆【千里眼】のスキルがある。
親戚筋
・九高生徒会長 梅木真(3年生):従兄
雅の父の弟(雅の伯父)が梅木家に婿入りしている。
・九重八雲:伯父
雅の母、桐子の兄。
・九島烈:義大叔父
烈の妻が九重千代(雅の曾祖母)の妹(故人)。
・藤林響子
九島烈の孫であるため、九重とも血縁あり