『愛している』とは同じではない。
2月14日
乙女の決戦日
チョコレート会社の陰謀
聖ウァレンティヌスの命日
色々な呼び方のあるこの日は街も少しだけ浮足立つ日だった。
昨日はチョコレートを作るために自宅として登録しているマンションに帰っており、私は達也と深雪とは別に登校していた。
普段は端末や部活動の道具だけ持って登校してくる生徒も、今日はバレンタインとあって色とりどりの紙袋やカバンを片手にどこか早歩きで学校に向かっていた。
お菓子会社の策略だと言われても、それでもイベントごとにかけて気持ちを伝える日であることに世の風潮は変わらない。
古典部の方は女子の連名でお金を出し合って、男子部員に配ることになっている。
部活によってバレンタインのイベントは様々で、全く無関心な部活もあれば中には男性もチョコレートを持ってきて交換する会にしている部活もあるそうだ。
冬らしい寒々とした木々が続く学校への道だが、少しだけ木には蕾が付きだしていた。春らしい日はあまりないが、特にこの日は恋人たちにとっては体を寄せ合う口実になるのだろう。歩いている間にも初々しくチョコレートを渡す女子生徒や、もらってスキップしそうなほど舞い上がっている男子生徒が見られる。いつもは寒さに耐えて早歩きで進む生徒たちも何処となく足取りが軽かったり、逆に緊張で重くなっている人もいた。
学校の校門に差し掛かったところで、二人の先輩が学校側からこちらへ小走りで向かっていた。
逆方向だが、時間帯的に忘れ物をしたというわけでもないだろう。目当ての人でも見つけたのか、二人の手にはチョコレートらしき包み紙があって、周りからも頑張れよといった生暖かい視線が送られていた。
視界に入った程度のことだったが、なぜか二人は私の前で立ち止まった。面識のない、制服からして二科生の先輩であろう人たちだが何か用だろうか。
「九重さん、受け取ってください」
二人は同時に私に向かってピンクにラッピングされた包み紙を渡した。
「私にですか?」
「はい」
今日という日を考えて、おそらくこれはチョコレートだ。だが深雪ならともかく、私にチョコレートとはなぜだろうか。
見ず知らずの先輩にチョコレートをもらう理由はないはずだ。
「この前の舞台、よかったよ」
「楽しみにしているから、また学校で発表会してね」
理由を聞く間もなく二人はそれを言うと、足取り軽く学校へと戻っていった。
私は渡されたチョコレートを見た。
ごく一般的に市販されているチョコレートだ。デパートなどでよく売られているメーカーだが、そこまで高級志向のお店ではない。
学生でも手軽に手の出せるお値段で、デザインが可愛いことで女性人気が高いお店だったはずだ。
雰囲気からしても、同性という相手からしても疑う余地のない義理チョコレートだ。
「どうしたの、九重さん」
チョコレート片手に立ち止まっていたのがいけなかったのか、後ろから声をかけられた。振り返ると、今度は見知った先輩だったことに少し安堵した。
「おはようございます、夏目先輩。先輩と思われる方からこれらを頂いたのですが、思い当たる節がなくて…」
夏目先輩は図書・古典部の先輩だ。朝、一緒になることは珍しいが私も登校時間がずれているので偶然だろう。
「ああ。まだメディア部の新聞を見てないの?」
「校内新聞ですか」
「そうそう」
夏目先輩は携帯端末で校内新聞を起動させた。
一高ではメディア部が新聞部と放送部を兼ねた部活になっている。九校戦や論文コンペ、各部活動など主に校内の出来事を取材し、記事にしたり、ミニ番組を作ったりしてている。
校内新聞は学校のHPに掲載されており、先輩の端末に映し出されたのは一面に私の素顔と先日の研究発表の鬼の姿だった。
見出しには大きく『九重雅、変幻自在の美貌』と付けられていた。
「私は別室の方で見ていたけれど、みんな九重さんとは気が付いてなかったよ。随分と熱を上げている人もいたから、女性と分かってショック半分、ミーハー心半分といったところじゃないかな」
ちなみに写真の掲載許可はしていない。おそらく祈子さんが勝手にしたものだろう。
「男装していたのは認めますが、ほとんど化粧ですよ」
「男装の麗人がモテるのは古今東西不変の事実だよ。ようはどう見えるかだから、写真加工無くあれだけ美形に仕上げれば上出来でしょう」
確かに中学時代もチョコレートを女性から頂くことはあった。主に兄に対する窓口であったが、私に対するものも決して少なくない量を用意されていた。
主に渡してきていたのは九重神楽を観たことのある人や、その両親、家族からの伝手で渡されたものだった。
流石にこちらに来て、今年はないだろうと高を括っていたが、メディア部の暴露によってそれは現実のものとなってしまった。
「ソレも未開封で市販なら問題ないでしょ。ありがたく受け取っておいたら?今日はチョコレートまみれになるかもね」
「面白くない冗談ですよ」
こちらではまだ熱狂的な九重信者がいないだけマシだとは思うが、少しだけ気の重い一日となりそうだった。
そのころ、達也とほのかは密会スポット(もしくは告白スポット)と言われているロボ研ガレージ裏に来ていた。
深雪と美月が気を利かせて二人と別れてから、ほのかの心臓は今までにないほど早鐘を打っていた。
緊張しすぎて口が乾燥し、なんだか自分がうまく歩けているかさえ自信がなかった。
顔が真っ赤になっているということは鏡を見なくてもわかるほどだった。
今日はほのかにとって勝負だった。
「たちゅやさん、これ・・・・」
名前を噛んでしまった。
それにさらに顔に血が集まる。
差し出した手が小さく震える。
受け取ってもらえるだろうか、もし断られたら、でも達也さんなら、とほのかの中で自問自答が繰り返される。
1秒がまるで何時間にも感じるほど、達也からの答えが出るまでの時間は長く感じた。
期待と不安、達也に向ける恋心に揺れるほのかに、達也は静かに目を閉じた。
「すまない。受け取ることはできない」
ほのかは一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。
「えっ………」
いや、言葉の意味は理解できても、その言葉を告げられた事実が理解できなかった。
少なくともほのかは達也が受け取ることを断るとは思っていなかった。雅もほのかが達也に思いを寄せ続けていることを知っているし、それについて咎めることはしない。
婚約者という立場の余裕であるかもしれないが、ほのかはそれをいいことに達也にチョコレートを渡すつもりだった。達也の性格上、断ることはないだろうと雫からも後押しされた。
「ほのかの気持ちは知っているよ。だからこそ、それは受け取ることはできないんだ」
言葉にしていなくても、ほのかが達也を想う気持ちは変わっていない。それは純粋に達也だけを想う、強い気持ちであり、それは達也も理解している。
だが、彼には雅がいる。以前の達也であれば、肝心な気持ちは返せずとも
だが、実際に直面してみるとほのかから達也が
「そうですか・・・・」
ほのかは差し出していた手を一度下げた。絶望の底に落とされたような感覚だった。
告白されて断られるのはなにも初めてではない。それでも経験していたからと言ってその心の傷は決して浅いものではなかった。
「達也さん、4月から私は達也さんに助けてもらってばかりで、九校戦でも達也さんのおかげでミラージュでは優勝できました。だから、これは、私からの感謝の気持ちです」
もう一度ほのかは達也にチョコレートの包みを差し出した。
ほのかの声は震えていた。
完全な敗北だ。
だが、この場でこの贈り物の名前が本命から義理に変わったとしても、ほのかの気持ちは変わらなかった。
いまにも零れ落ちそうなほど浮かんでくる涙を泣くまいと必死に堪え、今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られながらも、達也が受け取るのを待っていた。
ゆっくりと達也はその包みを受け取った。
「ありがとう、ほのか」
達也は申し訳なさそうに眉を下げ、微笑んだ。
ほのかは耐え切れず、校舎へと走り出した。
放課後となり学校の浮ついた空気は一気に加速した。
恋人のいる者にとっては大きなイベントの一つであり、またこれからと意気込んでいる者にとっても勝負の日だった。
その勝負に敗れてしまった結果は聞いてはいけない。
ほのかが1時間目を休み、2限目に現れた時には目を真っ赤に腫らしていた。
何があったかなんて今日のこの日に聞く者はいなかった。朝、深雪と達也は別れてほのかと達也を二人っきりにさせたらしい。達也は人の気持ちに鈍感だと言われているが、人がどのような言葉でどのような反応を示すのか想像し、把握することは訓練の一環として織り込まれていた。
となれば、達也がほのかを意図して傷つける発言をすることはないはずだ。
ほのかも私に話しかけてくることはなく、クラスもどことなく空気を読んでいた。
こんな日に部活はないが、風紀委員の見回りに駆り出されていた。
先輩方は今頃、青春の一ページを刻んでいることだろう。同じように達也も今日は見回りに割り振られていた。
二人揃ってのローテーションはどこか仕組まれた感覚はあるが、それをわざわざ指摘するほどでもなかった。
「あの、九重さん」
「この前の研究発表見ました。信じられないほどかっこよかったです」
「あ、私も」
「私もどうぞ」
「ありがとうございます」
差し出されたチョコレートをひとまずすべて受け取る。顔も知らない相手から渡された数はもう数えていない。
「きゃあああ」
「渡しちゃった、どうしよう」
「けど、受け取ってくれた~」
そして現在進行形で私のもとには厄介ごとが舞い込んでいた。私の手元にはまたしてもチョコレートがあった。
途中から数を数えるのをやめたが、少なくとも20人は超えた。
中学の頃も決して少なくない量をもらっていたが、深雪が一つももらっていないのに私がこれだけもらうのが理解できない。
いくら校内新聞で大々的に報道したとはいえ、昨日今日で随分と熱心なことだと感心するより呆れてしまう。
「あ、いたいた。雅」
「うひゃ~、すごい人気だね」
頂いたチョコレートで紙袋が二つ目なったところ、スバルとエイミィが私を見つけてやってきた。
「なにかトラブル?」
「ないよ。それより雅の両手の荷物は?」
エイミィが風紀委員の腕章をつけながら両手に紙袋という様子に疑問を持ったのか、中身を訪ねた。
「チョコレートよ」
ただ放課後の見回りをしているだけのはずだったが、時間がたつにつれて荷物が増えていく。
甘いものは好きだが、限度はあるし、とてもすぐには食べきれない。
気持ちだけもらって一部は叔父の寺に寄贈しても問題はないだろう。
「もしかして全部貰い物?」
「そりゃ、あれだけ派手に記事を書かれたんじゃあ、盛り上がるのも当然だよね」
私がチョコレートを女子から大量にもらうことに関してエイミィは冷やかし、スバルは納得といった様子だった。
「正直、お返ししきれないわ」
「全部返さなくてもいいんじゃない。単にこの間の舞台に感動してミーハー心であげた人もいるんだし」
「まあ僕らも人のこといえないけれどね」
スバルは堂々ととエイミィはニッコリとチョコレートを差し出した。
「友チョコだよ」
「ありがとう」
二人からもチョコレートを受け取った。改めて大量のチョコレートを見て、これはホワイトデーのお返しが大変なことになりそうだと感じた。
顔もわからない人はともかく、見知った人はリストにしておいた方がいいだろう。
「そういえば、七草先輩が司波君といい感じだったけど大丈夫なの」
「いい感じ?」
エイミィが思い出したようにそういった。
七草先輩は受験生だが、こういったことは息抜きになるだろうし、イベントごとは好きな人だ。
達也との接点も少ないわけではないし、先輩がチョコレートを達也に渡すことは別に可笑しなことではないだろう。
「雅以外の女子からチョコレートもらっいてたけど、いいのかい」
「問題なのはチョコレートじゃなくて、どんな思いで渡すかということだと思うのだけれど」
「大人な回答だね」
スバルは面白くなさそうに肩をすくめた。中学時代、達也は優等生で人からの好意に鈍いとはいえ匿名でチョコレートをもらっていたという。
それに、相手が七草先輩ならチョコレートも一筋縄ではいかない、癖のあるものだろう。
「それに七草先輩なら単に高級チョコレートとかじゃなくて、胸やけがするほど甘いとかスパイス入りの辛いチョコレートとか持ってきそうな気がするのよね」
「七草先輩が?」
エイミィは意外そうに首を傾げた。
「こう言っては失礼かもしれないけれど、意外とお茶目なのよ」
一般的に頼れる生徒会長というイメージの生徒からは想像つかないだろうが、その被害者は主に服部先輩や達也であり、揶揄われたり、無茶ぶりをされたりということは珍しいことではない。命に関わったり名誉にかかわるような理不尽な注文はないが、目立つことを好まない達也にとってはいい迷惑だし、行き過ぎると生徒会室に吹雪が吹き荒れていたらしい。
今回も吸血鬼事件で散々振り回されているようだから、多少お返しをすることは間違いないだろうと踏んでいる。
「そうなんだ。ということは、司波君はご愁傷さまだね」
「あとから雅とあま~いバレンタインを過ごすんならチャラになるでしょ」
エイミィとスバルはにんまりと意地の悪そうに笑った。想像を膨らませるのは勝手だが、その対象が自分となると複雑だった。
それ以上に、私は今日という日が怖くもあった。
チョコレートは達也に昔から毎年贈っている。ホワイトデーのお返しも毎年のようにもらっている。達也に喜んでほしい気持ちに偽りはない。
肝心な気持ちが返せないと知っていても欲しがる私は喉の奥で自分勝手な我儘を噛み殺す。
愛は求めるものではなく、与えるものである。
そうありたいと思っても、つい欲が出てしまう。
美しい絵の額縁の裏、キャンパス裏の汚れた心まで達也は受け入れてくれるのだろうけれど、みっともなくそれを晒すことは臆病な私にはできなかった。
甘いバレンタインはいつもほろ苦く、少しだけ切ない日だった。
時は遡ってその日の昼休み。
ほのかは一人でいた。
いつもは深雪たちと一緒に昼を取るのだが、今日はとてもじゃないが無理だった。
達也に振られた。
それはわかり切った答えだったとしても、確かにほのかの心は悲鳴を上げた。
応えてもらうことに期待はしていなかったが、これほど明確に拒絶を告げられるとは予想もしていなかった。
それだけほのかにとって衝撃だった。
あまりのショックに1時間目は保健室で過ごしたほどだ。
安宿先生は何も言わなかったが今日という日を察してくれていたので、優しくベッドを貸してくれた。
午前中は授業もまともに集中できず、かといって誰かに相談することもできず、ほのかは溜まらず雫に電話をしていた。
国際電話もインターネット回線を使えば以前よりずっと格安でできる。
時差もちょうど向こうは夕食の時間帯だ。
「雅、ずるい」
『ほのか・・・』
電話越しに静かに雫は話を聞いてた。
「勝ち目がないことは最初から分かってたよ。雅、きれいで魔法力も凄いし、優しいし、すごい家だし、私なんか敵わないって。それでも、私だって達也さんが好きだもん」
思い出してきた今も涙があふれて止まらなかった。
達也からもらった水晶の髪飾りが揺れた。誕生日プレゼントとしてもらった日からほのかは毎日これをつけていた。
達也が自分のために選んでくれた。それだけでほのかの心は天にも昇る気持ちだった。
だが、今日はそれを見るだけでも辛く、かといって捨てるには躊躇いがあった。
『正直、達也さんが断るなんて私も予想外。達也さん冷たいときもあるけれど、人の好意は決して無下に扱わないから。
だから、それだけ達也さんはほのかに嘘をついて、雅を裏切ることはしなかったってことなんだよね』
「分かるよ。達也さんが雅を見る目、すっごく優しいの。雅も達也さんがいると幸せそうだし、本当にきれいに笑うんだよ」
泣きすぎて息も絶え絶えにほのか答えた。
最初は純粋な憧れだった。それが恋だと自覚するのに時間はかからなかった。
雅という婚約者が達也にいたとしてもほのかはこの気持ちを諦められなかった。
不毛な恋だと誰かに言われても、略奪したと後ろ指をさされても、ほのかは達也が自分といてくれるのならば、それでよかった。
断られてもまだ諦めきれないと心は叫んでいた。
お似合いの二人だった。
知り合って時間のそう長くはないほのかから見ても二人は間違いなく相思相愛で、自分が達也の心に入り込む隙間など無いとわかり切っていた。
それでも恋心は止まらず、達也への想いは依存にも近い形でほのかの心の多くを占めていた。
昼休みの時間もそう長くはなく、また時間を作って話をすることで落ち着いた。
ほのかは電話を終え、いったんトイレで顔を洗うことにした。
泣きはらした顔ではとても教室には戻れなかった。
歩いている間にも涙は零れてしまいそうになりながら、できるだけ人の少ない廊下を選んで歩いていた。顔を見られないようにうつむきながら早歩きで、進んでいく。
それがまずかったのだろう。廊下の角を曲がるとき、よく見ていなくてひとりの女子生徒とぶつかってしまった。
ドザドザとなにかが落ちる音が廊下に響いた。
「す、すみません」
「こちらこそ、ごめんなさい」
相手が布の袋に入れて持っていた本がぶつかった衝撃で手を離れ、廊下に散らばっていた。ほのかは慌ててしゃがみ、本をかき集めた。
幸いにも本は表紙やページが折れることなく、落ちる前の状態と変わらなかった。散らばった本もそれほど量はなく、二人ですぐに集めることができた。
「すみません。前をよく見ていなくて」
「大丈夫です。集めるの手伝ってくださってありがとうございます」
今時珍しい紙の書籍は珍しく、よほどの
魔導書や古典文献はともかく、日常好んで荷物になるような本を持ち歩く人はさらに少ない。
「珍しいですか」
「いえ、本が好きなんですね」
「乱読家なだけですよ」
ぶつかった女子生徒は一冊の本を取り出し、ほのかに差し出した。
タイトルは『貴方のために薔薇を植えよう』という小説だった。
ほのかは小説も読む方だが、作者の名前に見覚えはなかった。どうやら一昔前か、マイナーな作家なのだろう。
「お節介ですが、よかったら心の薬にどうぞ。一般的に失恋を癒すのもまた恋だと言います。貴方が追い求める相手から一端距離をとって、新しい恋を探すというのも手ですよ」
「そんな」
ほのかの赤くなった目元を見てか、今日という日に失恋したことは初対面の彼女にもばれてしまっていた。
しかも見ず知らずの人に新しい恋を探せなんて、とんだお節介だった。
反論しようにも続けざまに彼女が話したことにほのかは反論の意思が風船がしぼむように小さくなっていた。
「人と人は親密であるほど関係性に名前がないと不安になります。友人、肉親、恋人、知人。あなたが恋を諦められず、それでもその人の思い人になれないのであれば、せめて友人、もしくは役に立つ存在になればいいのではないですか。そうすることで少なくともその人の視界には入ることができると思いますよ」
「・・・役に立つ存在」
ほのかは言葉を反芻した。
見ず知らずの人なのに、自分たちのことを全く知らないであろう人なのに、なぜかそれが答えである気がしてしまった。
「あなたの思い人がどこの誰かは存じませんが、使われる覚悟があるのならば、利用される傲慢さがあれば、その人の隣に立つ資格はできますよ。都合のいい女と言われても、笑ってそうだと言えるぐらいの度胸があれば、いつかはその努力が報われると信じる心があれば、いずれ関係の名前が変わることがあると思いますよ」
達也と恋人になりたい。達也に愛してほしい。
そう思うのはほのかの本心だった。
だけれど、それ以上にほのかは達也の役に立ちたかった。
みっともなくてもいい。狡いと言われてもいい。
これは恋なのだから、仕方がない。
「ありがとうございます」
達也はこちらが思うことだけは許してくれる気がしていた。
これが一生叶わない片思いでも、今のほのかにとって達也は恩人で、友人で、なにより好きな人だ。この関係性を変える努力は自分次第だ。
「あの、名前を聞いてもいいですか」
ほのかはありがたく先輩から本を借りることにした。きっとこの日から変わっていける気がした。
「2年F組の夏目です」
「1年A組の光井ほのかです。ありがとうございます、先輩」
ほのかの髪に揺れる水晶が光ったのを、彼女に触発されて水を得たモノがいたことを、その時は誰も気づきはしなかった。
チョコレートは全部で53個
友人や先輩から冗談半分でもらったものを含めても例年以上に多かった。帰るとき多くのチョコレートを携えた深雪は若干不機嫌だったが、夕飯のときにはすっかり上機嫌になっていた。
深雪からのチョコレート尽くしの夕食というバレンタインプレゼントを受けたあと、私は達也の部屋に来ていた。
部屋をノックするのがいつもより緊張した。気恥ずかしいが深雪に説得され、ちょっとだけ丈の短いスカートにしてみた。
チョコレートは久しぶりに作ったが、名店には負けるものの、納得できる味になった。
「達也、あのね・・・」
達也は私の言葉を待ってくれた。
「ハッピー・バレンタイン」
私は手にしていたチョコレートの包みを差し出した。
一瞬泣きはらした顔のほのかを思い出した。事情も何も聞いていないが、おそらく達也が原因だろう。
もしかしたら私もという思いが浮かんで足がすくむ。私はこんなにも臆病だっただろうか。
達也を知れば知るほど、同じ時を過ごせば過ごすほど、この距離は近づくようで核心的な部分には触れられない。
達也は大切にしたいと思いたいと言ってくれた。その言葉に嘘はないと信じたい。
「私が頑固で諦めが悪いのは知っているでしょう」
好きだとは言葉にしなかった。
このチョコレートに込められた気持ちを達也が理解してくれると信じたかった。
燃えるような愛も舌の上で蕩けるように甘い恋も求めない。
萌える若葉のように青い思いでも、優しい時間が過ごせるのならば幸福だ。
雨の降る日も、寒さに震える日も、何にもない日も、特別な日も、彼と同じ時を歩むことに幸せを感じている。
「ありがとう、雅」
達也はチョコレートを受け取った。目の奥がツンとした。
泣きたいほど心は舞い上がっていた。
達也の目の前で雅は幸せが零れるような笑みを浮かべた。
彼が知っている彼女は様々な笑顔を見せてくれる。
面白いとき、嬉しいとき、悲しみに耐えるとき、幸福が満ち溢れるとき。
人の表情を読み取るという部分は人間特有の高度な脳機能だ。
相手のしぐさ、表情、声色、話した内容、視線
雰囲気とひとくくりにしてしまえばそうだが、言葉のない感情を読み取ることは幼少期に養われるものだ。
達也はそれにひどく偏りがあった。
嫌悪、憎悪、嫉妬、侮蔑、軽蔑、忌避、憤怒、殺気、殺意
人間の負の感情に対してはガーディアンとして敏感に感じ取ることができる。そうでなければ深雪を守ることはできない。
その反面、与えられるべき相手から与えられなかった感情は達也にとって知識としては理解できても感覚としては鈍くしか感じられなかった。
魂を決める3歳までは代わりに九重から惜しげもなく与えられていた。
だが、その後の血反吐を吐いても、どれだけ怪我を負っても辞められない訓練、痛めつけた体、徹底的に強制された四葉のガーディアンとしての道は達也の心を凍らせるのには十分な地獄だった。
そしてその凍り切った心に母は鍵をかけた。
最低限の情動と妹への家族愛は慈悲だったのか、彼を深雪を守ることに縛り付けるための呪いだったのか、答える者がいない今となっては知るよしもない。
達也は一端、チョコレートを机に置いた。
「雅」
名前を呼んで、静かに腕を広げる。
目の前にいる雅は達也の行動の意味を理解すると頬を桜色に染める。
いつもは大人びて姉らしく振舞う雅の恋人としての顔は達也にとって愛らしいと思う。
たった数歩の距離を雅はゆっくりと近づき、達也の腕の檻にとらわれる。
ふわっと広がる上品な香は清廉で、艶めく黒髪は音もなく静かに背中を流れる。
達也は雅を美しいと思う。
神楽の高雅な振る舞いも、積み上げられ丁寧に磨かれた気品も、意思を如実に表す凛々しい立ち姿も、妹をみる慈愛の瞳も、時折壊れそうなほど不安げな様子でさえ、儚い美しさを伴っている。
手を出すのをためらうほどの清純に、新雪を散らすように踏み入るのはちっぽけな独占欲だろうか。
頬に手を滑らせれば、雅は恥じらいながらも達也に委ねるように顔を傾ける。
親指で柔らかな唇をなぞれば、雅はためらいながら瞳を閉じて少しだけ首を上に上げる。
少しだけ達也に合わせて雅が背伸びをする。
達也は一度だけ触れて離れる。
いつもはこれで終わる。子どものような、色欲のかけらもない口づけだ。
達也に寄り添う雅が瞳を開ける前に、達也は雅の顎に指を添え、上を向かせる。
体を固くする雅に達也は同じことを繰り返す。
ただそれは一度のことではなかった。
一度目より長い触れ合いは、一度離れると間を置かずにまた唇が重なる。
触れては離れ、唇を啄むように何度も口付けを交わされる。
達也の手はしっかりと雅の後頭部と腰に回されており、雅は身動きを取ることはできない。
雅はただ達也の行動に翻弄され、目をつぶり、達也のシャツを握りしめる。
唇が重ね、啄み、離れ、そしてまた触れ合う。
呼吸の仕方を忘れ、吐息まで食べられてしまいそうな口付けに雅はただ必死に受け入れるしかない。
目を閉じている分、やけに耳が冴えてしまい些細な吐息やリップ音でさえ羞恥心を駆り立てる。
互いに下品に舌を絡めるわけでもなく、ただ達也が雅の唇を食むようにしているだけだ。
それでさえ一瞬の触れあいしか経験した事の無い雅には未知の領域で、頭は思考を止めていた。
達也の指がが雅の髪を遊ぶたび、達也の唇が触れるたび、雅の思考はドロドロに溶かされていく。
やめてほしいのに、突き飛ばすどころか縋り付くことしかできない雅は達也のなすがままになっていた。
そうして何度目かの唇が重なり合った後、軽い音を立てて唇が離れた。
雅が達也を見上げると薄らと熱を帯びた瞳が雅を見つめていた。
雅は息をのんだ。こんな達也の顔を雅は知らない。
その瞳から逃れるように、雅は達也の胸に額を押し付けた。
「酔ってるの?」
「いや」
小声でつぶやいた雅の問いに達也はなぜだと言わんばかりに否定した。
夕食で出たチョコレートフォンデュに使ったアルコールが飛んでいなくて深雪は少し酔ったようだったが、達也にその様子はない。
達也は雅の腰に回していた手を背中に回し、後頭部を支えていた方を雅と繋ぎ指を絡める。
雅は耳まで赤く染め上げ、達也に顔を見られないように俯く。
「嫌だったか」
「嫌じゃないけど」
これがただの慰めではなく、女として求められている。雅はそう錯覚してしまいそうだった。
人並みにとは言わないが、達也も性欲も持ち合わせている。
雅を欲するような、色香を含んだ口付けは雅を困惑させた。
「心臓が持たない」
その目は言葉以上に雄弁に雅を想っていると語っている気がした。自惚れでもいい。
彼の心が少しでも特別であると思ってくれる部分があるのだろうと思いたい。
そう願わずにはいれなかった。
作者の一言
喪女の痛い妄想乙(・∀・)wwww
書いてて砂糖吐くかと思った。
感想、誤字脱字指摘待ってます。