恋ぞ積もりて 淵となりぬる   作:鯛の御頭

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ギリギリ9月中の更新に間に合いました。

忙しいというわけではなかったのですが、猫を飼い始めました。
3か月の子猫です。
遊んで(=゚ω゚)ノ構って(=゚ω゚)ノ とじゃれてきます。
かわいいなあ、畜生(モフモフモフ)




スティープルチェース編
スティープルチェース編1


達也が雅に告白したとはいえ、二人の関係が大きく変わるということは無い。二人の関係の名前は相変わらず、婚約者であり、同じ学校に通う同級生であり、司波家に住む同居人だ。

 

夕食の後、達也は雅を部屋に招いていた。デカフェのコーヒーを片手に、その日あったことや、時期が近付いてきた期末テストや九校戦の話、魔法理論に関する話など話題は尽きることがない。

 

変わったことと言えば、達也は雅に触れることを厭わなくなった。

慰めでもなく、哀れみでもなく、ただそこに伴う感情を探すように達也は雅の手に触れる。

武術訓練や神楽の稽古でできてしまった肉刺(まめ)や傷があっても、柔らかく女性的な細さのある雅の手は美しい。本人は気にしているが、努力の証がそこにはある。その手が作り出すものは何時も温かく、気品に溢れている。

 

掌を合わせ、指を絡める。達也より少し高い体温の手が心地よい。

 

「なあに?」

「なんでもないよ」

 

くすぐったそうにクスクスと笑う雅に、達也は握る力を少し強くする。

 

もう一つ、変わったことと言えば、以前にも増して雅は綺麗に笑うようになったと達也は思う。

 

惚れた欲目もあるだろうが、雅の曇りのない笑みに自分の出した答えに間違いがなかったと達也は安堵する。手に入らないと思っていた、否、想ってはいけないと理性で歯止めをかけていた感情を素直に認めてしまえば、気恥ずかしさは伴うものの、ひどく落ち着く自分がいた。

 

達也にとって世界は深雪がいれば、十分だと思っていた。

それは自身に掛けられた魔法がそう思わせていたが、それだけでは世界は成り立たない。

無条件に泉のように与えられる雅からの愛情は、雪を解かすように、雪解けの水が大地に染み込むように、達也の感情を少しずつ満たしていた。

きっと、この感情を幸福と呼ぶのだろう。

自分にもそんな感情が持てることに驚きつつも、待ち構えている障害に決して浮かれてはいられなかった。

 

達也に掛けられた魔法が完全に無効化されたわけではない。

そして、この感情の変化を四葉には悟られてはいけない。

達也の激情が封じられているのは、深雪を守るためであるのと同時にその力を暴走させないためである。

 

どんな傷も瞬時に復元してしまう『再成』。

どんな物質でも意のままにバラバラにしてしまう『分解』。

 

この二つの魔法を先天的に備えた達也は、四葉の中でも異質な存在だった。味方の内は良いだろうが、それが敵対するとなれば“触れてはならないもの(アンタッチャブル)”と忌避される四葉一族の魔法師といえどその差は歴然としている。

今でこそ深雪のガーディアンとしての立場があるが、それも見方を変えれば自分を四葉に縛り付けるための枷の一つだ。

 

四葉に使われる魔法師に成り下がるつもりはない。自分や深雪に利益がある任務としてそれを行うことは構わないが、体のいい駒になるつもりはない。自分の立場に絶望し、思考を止めている暇はない。

 

トーラス・シルバーという魔法工学技師の地位。

大黒竜也という戦略級魔法師としての地位。

それだけではまだ足りない。

深雪を守るためにも、雅と共に歩むためにも、達也にはやるべきことが多くある。そのための、足場固めが必要だった。

 

「達也?」

 

雅は首を傾げる。雅の瞳に映る自分は少し硬い顔をしていた。

 

「すまない、少し考え事をしていた」

「思考型CADの開発でFLTでも忙しいんでしょう。いつも働きすぎなくらいだから、偶には休んでも罰は当たらないわよ」

 

達也の体調を心配してか、明日も学校があるため雅は席を立った。

 

「私ももう休むわね」

「ああ」

 

普段忙しいのは雅も達也も変わらないため、雅を送るために達也も立ち上がったが、不意に湧いた考えに雅を静かに引き寄せて、腕の中に閉じ込める。

 

「達也?」

 

突然腕を引かれても、するりと体を預けられるほど達也は雅に信頼されている。無条件の信頼に自然と頬が緩む。

急にどうしたのかと達也を見上げる雅の唇を指でなぞる。

達也がそのまま目を閉じて、顔を近づければ見えていなくても雅が体を強張らせ、狼狽えたのが分かった。

 

どうやら雅は達也からされることは構わないが、自分でするとなるとどんなことでもかなり恥ずかしがることが分かった。

特に達也が告白してからそれは顕著だった。

 

達也が改まって触れたり抱きしめたりすると、一瞬だけ体を固くし、恥ずかしそうに視線を彷徨わせ、最後にはふわりと目じりを緩ませて幸せそうに笑うのだ。

雅と達也は生まれてからの付き合いであり、さらに以前は慰めだと雅も半ば諦めとともに割り切っていたのだろうが、思いが通じた今、達也の変化に雅も戸惑っていた。

 

こくりと小さく息を呑み、達也の頬に両手が添えられた。

触れている手からも緊張が伝わってくる。

数秒もしないうちに、ほんの一瞬だけ唇に柔らかいものが当たる。

 

「お、おやすみ」

 

目を開ければ達也の胸を押しのけ、顔を赤くして慌てて部屋を出ていく雅に、部屋に一人残された達也は自然と笑みがこぼれた。これが愛おしいということなのだろうと、達也は湧き上がる感情に名前を付けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近、お姉様の様子がおかしい。

 

深雪はそう感じていた。

神楽の御稽古で忙しいのは重々承知だ。

しかし、お兄様とお姉様。二人の関係がどこか余所余所しいのは如何なものだろうか。

あくまで深雪の前では普段通りの二人に見えるが、二人とも感情を表に出さないようにすることは難なくできてしまう。

 

特に変化を感じたのはお姉様の誕生日以降だ。

お姉様の左手の小指にはお兄様からの贈り物の指輪が収まっていた。薬指に贈ればいいのにと思いながらも、それができないのは深雪のせいでもあるため、深雪が口にするのはお門違いだった。

二人とも幸せそうな様子に見えたので、デートを楽しまれたのは聞くまでもないことだったが、それ以降なぜか、二人の関係がぎこちないように感じる。

 

特にお姉様の方がお兄様を避けているように感じる。

生徒会で仕事のある兄と、神楽の稽古で早く帰宅する姉では一緒に帰ることも減り、稽古が遅くなる日は自宅に戻られてしまう。

すれ違いの多い生活にまさか、という思いが一瞬胸をよぎる。

姉の不義を疑うわけではないが、お兄様がいつまでも奥手でいるのであれば、愛想をつかされるということもあり得なくはない。お姉様はお兄様のことを愛していらっしゃる、だが、愛されない寂しさに付け込む男性がいるとしたら?

ただでさえ、神楽を行うお姉様は人を魅了してやまない方であり、色々な家から今でも縁談の申し込みがあると聞いている。

 

「お姉様、今日お泊りをしても構いませんか?」

「いいけれど、急にどうしたの?」

 

土曜日の午後。

お昼休みの時間に深雪はそう切り出した。

 

「最近お姉様がめっきり深雪と一緒にいてくださらないのですもの。たまには私にお姉様を独占させてください」

 

九重神楽はその難易度から稽古は非常にハードであり、日ごろの鍛錬が欠かせない。加えてお姉様はこの国の守護を担う役目を負っているので、武術の訓練も含まれている。

部活動の日はあるが放課後に予定がないことの方が珍しく、学校がない日も基本的には予定で埋まっていることが多い。

 

しかし、そんな姉でも稽古を休まなければならない日がある。

女性特有の月ものの期間だ。

寺社仏閣は清浄な領域であり、穢れを嫌う。血は穢れであるという信仰が古くからあり、お姉様もその時ばかりは立ち入ることができないそうだ。

 

普段そのような日には、差しさわりのない華道や茶道の稽古に取り組んでいるが、これから先しばらくは休みが取れないだろうからとこの日曜日は休みにされていた。

 

「いいけれど、何もないわよ?」

「お姉様がいれば、深雪はそれだけで十分です」

 

お兄様も今夜から明日にかけて、軍の関係で遠方に出かけられていて不在だ。自宅でもいいが、水波ちゃんもたまには一人きりで息抜きをしたいだろうし、雫やほのかのように友人宅にお泊りということをやってみたかったのもある。

一番の目的はお姉様の本音を引き出すことだが、お姉様が一筋縄でいかないのは重々承知している。

 

それでも確かめなければならないと思った。

この胸に渦巻く不安を杞憂だと笑ってほしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雅が住所として登録している単身者用のマンションは司波家と最寄駅を同じくしており、利便性の良い場所にある。単身者用とはいえ、セキュリティは充実しており、コンシェルジュも在住している。

九重家は他にも、都内と関東近辺にも不動産資産とホテル替わりのマンションを所有しており、この家も元々は不動産資産として持っていたものを利用した形になる。

 

一度家に荷物を取りに戻った深雪は、昼休みの内に注文していた手土産のフルーツタルトを携えて、雅の部屋へとあがった。

 

「いらっしゃい」

 

エプロン姿の雅に出迎えられ、まるでこれでは自分が新婚のようではないかと深雪は緩みそうになる頬を必死に堪えていた。

 

「お邪魔します、お姉様」

 

通されたリビングは無駄なものがなく、調度品は茶色と白を基調とした落ち着いた雰囲気でまとめられており、広い窓からは東京の夜景が一望できる。学生の一人暮らしには贅沢すぎる作りかもしれないが、セキュリティと雅の立場を考えれば当然の配慮だった。

 

「簡単なものしかないけれど、いいかしら?」

 

既に雅は調理を始めており、いい匂いがリビングには広がっていた。

 

「お手伝いします」

「じゃあ、盛り付けをお願いしていいかしら」

 

深雪は冷蔵庫にケーキを入れ、雅の手伝いに加わった。

この日のメニューは雑穀ご飯、鶏肉の照り焼き、副菜としてミニトマトのマリネ、ソラマメと卵のサラダ、ワカメと油揚げの御味噌汁、ナスの漬物、と簡単なものだと言いつつバランスも考えられている。

鶏の照り焼きは甘辛い醤油の香りが食欲を刺激し、あっさりとしたミニトマトのマリネは箸休めに丁度良い。春が旬のソラマメの鮮やかな緑と卵の黄色のコントラストは見事であり、丁寧に出汁が取られた味噌汁はほっと一息つけるものだった。京都から送られたであろうナスの漬物も、歯ごたえが良く、塩味が控えめながらこれだけでご飯が進んだ。

 

深雪も料理はするが、姉のように手早く美味しいものを作ることは、どちらかと言えばそれほど得意ではない。

深雪はどちらかと言えば、時間をかけてゆっくりと調理する方が得意であるのに加えて、兄や姉のためならばあえて面倒な方法でも時間をかけてでも、おいしいものを食べてほしいという気持ちが強いせいでもある。

料理の方は敵わなくてもと思いながら、深雪は食後のケーキに合わせて紅茶を入れた。

 

ケーキと言えば濃厚なチョコレートケーキが好みの深雪に対して、雅はムースやフルーツタルトなど比較的口当たりの軽いものを好む。

今日は姉の好みに合わせて、イチゴ、ブルーベリー、ラズベリー、クランベリーが贅沢に乗ったフルーツタルトを用意していた。

甘酸っぱく、つややかな果物の下には濃厚だが後味のさっぱりとしたマスカルポーネチーズの入ったフィリングがあり、底のタルト生地は香ばしくサクサクした食感がアクセントになっている。

 

「やはり紅茶やコーヒーは深雪の方が上手ね」

 

ふわりと頬の緩んだ雅にケーキも紅茶も気に入ってもらえたようで、深雪も満足だった。

 

 

 

夕食の片づけはHALに任せ、順番にシャワーを浴び終えると、二人は広い寝室のベッドで寝転んでいた。この家は達也も来たことがあるが、ベッドルームまで他人が入るのは深雪が初めてだった。それを聞いた深雪は兄に申し訳ない反面、少しだけ優越感を覚えていた。

 

一人には十分大きなダブルベッドは、女性二人ならば少し狭いが問題なく休むことができる。

さらりと肌触りの良いシーツに皺を作りながら、二人は向かい合わせにおしゃべりを楽しんでいた。

今度近くにケーキのお店ができる、とある恋愛映画が話題になっている、クラスの誰々さんが付き合っているらしいなど他愛のない話をしながら、夜は更けていた。

 

話は尽きず、時計が12時を回るころにそろそろ寝ようかと、雅は電気を落とそうとした。

吐息まで聞こえそうなほど近く、尚且つ同じベッドに姉と一緒とあって、ドキドキと深雪の心臓が音を立てていた。それはおそらく、これから切り出す話題のこともあってだろう。

 

「あの、お姉様」

 

深雪は一度、言葉を切った。

緊張で口が乾いていた。

もし嫌われたらどうしよう、もしこれから聞くことが本当だったらどうしよう。聞かなければならないと決心したにもかかわらず、深雪の頭には嫌な予感ばかり浮かんでいた。

 

「最近、お兄様と何かありましたか?」

「何かって、どういうこと?」

「私の勘違いかもしれませんが、お兄様のことを避けていらっしゃるように感じて……」

 

心配そうに目を伏せる深雪に、雅は困ったように笑う。

 

「特に何もないわよ。一緒に帰ることが少なくなったから、私が達也を避けていると感じるのかしら?」

 

その言葉は、一見嘘偽りないように聞こえた。だが、何時にも増して神経を研ぎ澄ませていた深雪はその言葉がどうしても信じられなかった。

完全なウソではないにしても、どこか隠し事がある。

そう思えて仕方なかった。

 

「お姉様、本当のことを教えてください。深雪は心配なのです」

 

深雪は不安げに視線を落とした。その手はかすかに震えているようにも見える。

 

「…………わかったわ」

 

雅は観念したようにため息をついた。

深雪の胸には不安が渦巻くが、それでも姉の口から直接真実を聞くまでは分からないと自分に言い聞かせる。

雅は言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。

それはどこか後ろめたいというより、まるで恥じらうように頬の色が変わっていた。

 

「達也にね、その…………。告白、されたの」

「えっ…………」

 

思わず、深雪は声を漏らした。

雅の言葉を頭の中で反芻させる。

告白?

お兄様が、お姉様に想いを告げられた?

深雪は、口元に手を当て、息を呑む。

 

「お兄様が?……本当、なのですか?」

 

信じられないと再度問う深雪に、雅は小さく頷く。

それは、信じがたい奇跡のようだった。

 

「お姉さまっ」

 

深雪は目に大粒の涙を浮かべ、雅の胸に縋りついた。

 

「深雪は、深雪はっ。この日を、幾日も、誰よりも、心から待ちわびておりました」

 

その片鱗は深雪も感じ取っていた。

母によって激情を白紙化され、四葉の魔法師として生きていくことを運命づけられた達也が、雅との日々で少しずつ変化していた。

まるで春の桜のように、白紙化された恋心は淡い色に染まっていた。

桜の花のような、淡く頼りない色ではあるが、決して白ではない色。

 

その胸の中に灯っては消え、次第に溢れるようになった感情の名前を愛や恋だと、達也は認識するのを避けていた。

無意識に思っていたとしても、その感情に名前を与えられなかった。

与えられるべき相手から与えられなかった普遍的で原始的な感情は、達也も認識をできないまでの深層心理に深く傷をつけていた。

 

それが、遂に報われたのだと思うと深雪は誰よりも嬉しかった。

自分のせいで人並みの幸せを手にすることができない兄と姉が、掴み取った結果に深雪はただ涙が止まらなかった。

深雪を守るために兄を縛り付けている自分が嫌だった。

深雪のせいで報われない恋に泣く姉に心が痛んだ。

深雪の心の奥で何度となく抱いてきた懺悔が、ようやく許されたようだった。

 

 

しばらくして泣き止んだ深雪は目が真っ赤になっていた。深雪もまさかここまで泣いてしまうとは思わず、申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちでいっぱいだった。

 

「すみません、お姉様」

「どうして謝るの。嬉し涙でしょう?」

 

布団も枕も涙で濡らしてしまった。そこは雅がさっと魔法で乾かしてしまったが、深雪はやるせない気持ちに苛まれていた。

 

「お姉様。思いが通じ合った今、どうしてお兄様を避けられたのですか」

 

泣いていたのも一瞬。むすっと一転、唇を尖らせる深雪に雅は眉を下げながら答えた。

 

「今更なのだけれど、どう接していいのか分からなくて……」

 

雅から達也へ想いは何度も伝えてきた。報われない想いと知ってもそれでも、その気持ちを、その胸に宿る感情を伝えずにはいられなかった。

それがいざ両想いになった途端、雅は気恥ずかしさに苛まれていた。

今までの自分はどう達也に接していたのか、普段みんなの前でどうしていたのか、どんな顔をしていたのか分からなくなるほど、雅の心もかき乱されていた。

 

「羨ましいです」

 

恋をする姉も、幸せそうな二人も、両想いになれたという事実も、素直に深雪は羨ましかった。

達也は、ふとした瞬間に緩く、柔らかく微笑むようになったと深雪は感じている。その笑顔を取り戻したのは紛れもなく姉の献身的な想いがあってのことだった。

 

「深雪にもきっと素敵な人が現れるわよ」

「そうでしょうか。全ては叔母さまの心の内でしょうから」

 

口に出した言葉は、深雪の思った以上に冷えきっていた。

深雪には縁談の話はまだない。

四葉家当主である四葉真夜は未婚だが、忌まわしい事件による後遺症があるため仕方がないことだと認識されている。

 

だが、深雪はいたって健康体だ。恐らく妊娠も出産も問題ない。

魔法師にとって世代を繋ぐことは一種の使命であり、おそらく十師族当主になればそれが当然周りからも求められる。

それを本人が望むにしても、望まないにしても。

達也と深雪の両親は政略結婚であり、父親は母の死後たった半年で愛人と再婚した。思い返せば、母も父に対して大した感情もなかったようで、元々結婚生活は冷めきっていたが、それでも愛情の欠片もない様子に深雪はあの人を父と思いたくなかった。

 

雅の両親のように寄り添い支え合う夫婦となり、惜しみなく子どもに愛情を注ぐような家庭を築くことが深雪の目には何より幸せに映る結婚だった。

どんな試練も困難も手を取り合って乗り越えていける。そんな未来に憧れた時期もあった。

今は自分が望んだような結婚ができるとは深雪も思っていない。夢を抱いて傷つくのは自分だと分かっている。

 

いずれこの体が異性に触れられ、暴かれ、そして子どもを産むことになる。

そう考えるだけで深雪は吐き気が止まらなくなる。無垢な赤ん坊や子どもは可愛いと素直に感じるが、いざ自分が産むとなると忌避感しかなかった。

深雪は自分の思考を振り切るように、話題を変えた。

 

「悠お兄様にも、紫の上がいらっしゃるのですよね」

「見つかったって本人は言っているけど、私も誰か知らされていないわ」

 

昨年辺りから、雅の兄がついに運命の相手を見つけたということは深雪の耳にも入っていた。しかし、その相手について本人は明言を避けているため、彼の両親以外は全く知られていない。妹である雅にも話さない徹底ぶりだ。

 

「心当たりはあるのですか」

「気になるの?」

「だって私だけですもの。将来の相手が決まっていないのは」

 

少し拗ねたように言う深雪に雅は仕方ないなと、深雪の頭を撫でた。

 

「【明石の輝夜姫(かぐやひめ)】と呼ばれる子がいるのだけれど、私が知っている中で一番可能性が高いのはその人かしら」

「輝夜姫ですか」

「ええ。血縁はないけれど、家としての歴史は古いわ。ちょっと病弱で、おっとりしているけれど、芯の通った美しいお嬢さんよ」

 

チクリと深雪の胸が痛んだ気がした。きっとこの痛みは周りに置いて行かれる寂しさだと自分に言い聞かせた。

 

「なぜその方が?」

「兄様の神職としての名前は悠月(ゆづき)でしょう。輝夜姫は月の生まれで、五人の皇子と帝に求婚されるも月に帰ったという話もあるから、変な勘ぐりをしている人もいるみたい。彼女以外にもこの人じゃないかって、周りが勝手に予想したり、ぜひうちの娘を嫁にと推薦してくる家もあるわね」

 

【明石の輝夜姫】

天文学的に美しい悠を知っている雅が美しいというならば、それは間違いなく綺麗な女性なのだろう。輝夜姫と言われるならば、月の光もかすむような美少女かもしれない。

 

「さて、もう遅くなったからそろそろ寝ましょう」

 

流石にもう時刻も遅く、雅の目は眠気でやや虚ろだった。

雅が部屋の電気を落とす。

 

「はい。おやすみなさい、お姉様」

「お休み」

 

シンと静かな部屋に、深雪の目はやけに冴えていた。

どんな人なのだろうかと考えるあまりか、慣れないベッドのせいか、姉が隣にいて緊張するせいか、深雪はしばらく寝付けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一高校では例年と比べて1か月前から九校戦に向けて準備に動き出していた。

九校戦前は期末考査もあり、中条先輩の心配性も相まって、早めの調整を行うこととなった。

 

大会の詳しい競技やルール変更等は大会1か月前にならないと分からないが、成績上位者はほぼ例外なく選手候補として名前が挙がる。

それを取りまとめているのは生徒会であり、加えてホテルの準備や大会関係者との連絡調整、選手の最終決定、ボランティアや応援に来る生徒の管轄等々、一部それが生徒会の仕事なのかと疑問に思うような案件もあるが、総じて言えるのはその量が膨大だということだ。

 

部活連や教師陣も選手の選出に大きくかかわっており、各部活動から選りすぐりの選手、スタッフが候補として名前が挙がる。九校戦は定期テスト以上に学校も力を入れており、大学入試の成績にも加味される。

競技選手、エンジニア、作戦スタッフに選ばれた生徒は一律夏季課題免除に加え、A判定がもらえる。

それだけあって、選手選びは慎重になるがここ数年は競技に大きな変更はないため、今年度もそれを前提とした選手選びが行われている。

 

私はその準備の段階で部活連から生徒会へお使いに出ているところだった。

他の教室と変わらない構造に見えて、生徒会室周辺には見えるところ、見えないところにセキュリティ対策が行われている。生徒会室は誰でも気軽に入れる場所ではなく、基本解除キーを持つ生徒会メンバーの同伴が必要となる。

 

生徒会室の扉の横に備え付けられたインターホンを押して開錠を待つ。

 

「雅先輩、こんにちは」

「こんにちは、泉美ちゃん」

 

ドアを開けたのはにっこりと笑顔を浮かべた泉美ちゃんだった。彼女は下級生らしく、こういった細々したことも率先しているようだった。

中に入ると生徒会室には達也を除く生徒会メンバーが揃っていた。

 

達也は図書館で調べものか、おそらく山岳部と一緒に野外演習場でトレーニングに出ているのだろう。私も手伝っていたとはいえ、昨年は達也ほぼ一人で風紀委員の活動記録や学校に上げる報告などを作成していたことから分かるように、達也の事務処理能力は一般の高校生の域を超えて高すぎる。

生徒会でも任せている仕事を早々に片づけてしまうため、中条先輩は苦肉策として達也に早退推奨をしているそうだ。

 

深雪は残って仕事だが、達也が深雪一人を置いて帰るわけもなく、図書館に行ったり、西城君と水波ちゃんが所属している山岳部に顔を出したりしている。山岳部では参加させてもらっている対価として部員のCADを調整しているので、一部からは名誉部員とも言われているそうだ。

 

「あ、推薦メンバーが決まったんですね」

「ええ、これがデータになります」

「ありがとうございます」

 

中条先輩にメモリを渡すと先輩はすぐに専用の端末に接続して中を確認した。

九校戦の選手とエンジニアのデータはネットワークには接続せず、メモリのみでやり取りとなる。生徒会や部活連が使用する端末は当然セキュリティレベルの高いものだが、念のために正式決定まではオフラインでやり取りするのが通例となっている。

 

「はい。確かに受け取りました」

 

名簿には各競技の選手候補の学年、クラス、選手の所属の部活動、活動成績、上位で公表されている定期考査での校内順位、得意魔法などが載っている。学生らには公表されている成績や情報ばかりだが、生徒が扱うにしては個人情報満載過ぎて持ち歩くのも怖い代物だ。

 

「雅さんは今年もクラウドとバトルボードにエントリーですか?」

「いえ、クラウドのみエントリー予定ですが、今年度は九校戦出場も辞退させていただくことを検討しています」

 

私の報告に中条先輩はガタリと乱暴に椅子から立ち上がった。顔面蒼白。手もガタガタと震えている。

他の人たちも何事かと手を止めた。

 

「な、な、なんでですか?!

どこか調子が悪いんですか?もしかして、ケガとか、魔法力を損なうような事故とか、はっ、もしかして司波君と」

「落ち着いてください、中条先輩」

 

何を口走ろうとしたのかわからないが、とりあえず中条先輩を落ち着いてもらわなければ話は進まない。

 

「す、すみません」

 

先輩は周りの目線にも気が付いたのか、火に水を掛けたようにおとなしくなる。なんだか、小動物が叱られて耳を垂れているようにも見え、罪悪感があった。

 

「事故や怪我は今のところありません。今年は家の都合で、神楽の舞台の数が多いので、そちらを優先させていただこうかと考えているところです」

「そんなにですか?」

「正直、大会で月の半分、練習も含めれば1ヶ月半も拘束されるのは厳しくて、出場する日だけ当日会場にいればいいというものでもありませんし、出場辞退が一番良いと考えています」

 

6月末には夏祓、7月は祇園祭に出雲での出張神楽、八月は納涼祭、九月は重陽の節句に月見の宴と、元々神事が多い中で今年は各地で九重神楽が予定されているため、忙しさが段違いだ。

九重には役者も楽師もそれなりに揃ってはいるが、普段の神事も行いながら並行して準備を行うので、正直猫の手も借りたいほど忙しくなる。

 

「服部君は反対しなかったんですか?」

「部活連としては出てほしいと言うしかない、とのことでした」

 

年度替わりの際に今年の神楽の予定は出ていたので、九校戦欠場の可能性も服部先輩には伝えていたが、それでも構わないということで私は部活連入りしている。

競技種目に変更がなければ出ることは可能だろうが、練習もほぼしないまま出場することになる。本選の選手として、それは不満を他の選手から抱かれても当然のことであり、競技種目が変更になれば準備もほとんどできない私を選出しておくより、最初から競技適性に合った選手を探す方が賢明だろう。

 

「練習や準備のお手伝いは可能な限り参加しますので、どうかお許しいただけないでしょうか」

 

私の申し出に、「うー」とか「あー」とか、中条先輩は唸りながら、しばらく悶々と考えた後、苦い顔をしてため息をついた。

 

「分かりました。大会側に当日参加のみでもいいか確認もします。なので、推薦選手の中には名前を入れておきますので、そのつもりでいてください」

 

一高は今年、九校戦総合優勝四連覇の記録が掛かっている。

特に生徒会長である中条先輩にはそれは言われているだろうし、彼女にもプレッシャーを掛けられているはずだ。

 

ここでは語れないが、今年は神楽以外にも出場辞退をしなければならない理由がある。始まる前から嵐が訪れると分かっている九校戦に手出しができない自分がもどかしかった。

 




前回の和歌解説
『うた恋』の超訳百人一首を参考にしてます。
http://utakoi.jp/study/waka.html#accordion

天津風(あまつかぜ) 雲の通ひ路(かよひじ) 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
現代語訳『天を吹く風よ、天女たちが帰っていく雲の中の通り道を吹き閉ざしてくれないか。乙女たちの美しい舞姿をしばらく地上に留めておきたいのだ。』
本作における意味:この和歌は五節の舞姫たちのことを読んでいます。つまり、神楽をしている雅はどうかという問いに対しては、天女のようだと例えています。意味が分かる人が聞いたら完全に達也の惚気です。

・逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
現代語訳『君と出会った後の心に比べれば、片思いをしていた時は心などなかったに等しいほどだ』
本作における意味:雅に出会わなければ恋も愛もを知らない、まるで心がなかったかのようだ。

筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる 男女川(みなのがは) 恋ぞつもりて 淵となりぬる
現代語訳『あるかないかの想いでさえも、積もり積もって君のことがこんなにも愛おしい』
本作における意味:語るまでもないですね。


別件ですが、達也が雅に贈ったピンキーリングは付ける指によって意味が違うそうです。
右手の小指:表現力を豊かにする。身を守る。
左手の小指:幸運を逃がさない。チャンスをつかむ。
達也にとって幸運()を逃がさないってことですね。
気が付いた人、いました|д゚)?

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