皆さま、色々四葉家の当主について感想で考察していただいているようですが、まだ出ません。
原作だと追憶編に収録されている西暦二〇六二年の悪夢から始まります。
一応伏線はあったのですが、多分気付いた人はいないでしょうね( ˘ω˘ )
精神に働きかける魔法の研究を主体とした旧第四研究所の成果を引き継ぎ設立された四葉家は、他の十師族と比較してもその秘密主義は別格である。
当主とごく直近の親族しか名前が知られておらず、関東近辺ということ以外、本格的な所在地も不明。稀に外部から人を呼ぶことがあったとしても、直接の住所は知らせず、家からの使いが出向き、屋敷に到達するまでもいくつもの関門と術で隠遁された地域を抜けていく。
閉鎖主義であるが、秘密裏に繋がった政財界の大物や息のかかった企業の利益を含め、その影響力は家の設立当初から追従する家はない。
そんな四葉でも、身内以外に全く外部とのつながりがないわけではない。
特に精神系の魔法に関しては他の魔法と比べても未解明な部分が多く、精神系の魔法に関して適性を持つ者についてはある程度調べがついている。
大した影響力のない小規模な魔法ならばそのまま放っておくが、時にユニークな才能を持つ者については私的に囲うこともある。
空木譲と呼ばれる少年もその一人だった。実際は九重家の遠縁にあたり、四葉の庇護を必要とはしていなかったが、自身の魔法を解析するため四葉と利害が一致し、研究所に顔を出すことが許された数少ない外部の人間である。
空木家は元々、洗脳や自白といった古式魔法の中でも情動に働きかける魔法を得意とする家だが、その中でも空木譲の持つ特異な魔法に『因果返し』というものがあった。
これは自身に傷を負わされた場合、相手にも同等の傷を与えるという魔法であった。現代魔法的に言い換えれば、自身の情報体を変化させた情報を相手の情報体に強制的に転写させることができるカウンター魔法であり、防御はほぼ不能である。
空木家を庇護している九重家としては譲は四葉家とのパイプ役であり、四葉家としては彼の魔法を解明し、体系化させることを目論んでいた。
「あら、お使い?」
「そんなところだ」
研究所に出入りする傍ら、譲は九重を筆頭とする四楓院家の使いとして稀に四葉家本宅に顔を出すことがあった。
そんな中で当主の娘である四葉真夜や四葉深夜と顔を合わせたことはそれなりにあり、特に真夜の方は、元々魔法研究に熱心だったこともあってか、気安く研究成果を語り合う程度には親しい間柄だった。
「これからお父様とお話なの?」
「終わって帰るところだよ」
「毎度毎度大変ねえ」
空木家は兵庫県の明石市に居を構えており、いくら公共交通の便が良くなっているとはいえ、片道半日程度は覚悟しておく必要がある。
「慣れればそんなでもない。ところでお前、七草の長男と婚約するんだって」
「そうよ」
「おめでとう。どうぞ幸せにな」
譲は社交的にそういうと真夜は素っ気ない態度が気に入らなかったのか、やや口をとがらせて下から譲を覗き込む。
「ありがとう。そういえば、貴方は恋人とかいないの?」
「余計なお世話だ」
譲はマセガキと呟き、真夜の額を指ではじいた。
この家で真夜にそんなことをする人物は、おそらく存在しない。
小さい頃は深夜と喧嘩もしたものだが、仮にも次期当主候補であり最近は淑女らしく見た目上大人しい彼女たちにそんなぞんざいな扱いをする者は、この四葉家にいれば文字通り首を切られていてもおかしくはない。
しかし、あくまで譲は客人であり、真夜も物珍しさから邪険には扱っていなかった。
当時、真夜と譲の年齢は12歳と17歳。
やや離れてはいるものの年齢の頃合いは悪くはなく、今後の九重との関係性を鑑みて真夜との婚約話も浮上したことはあるが、当主は十師族として七草家の長男の七草弘一との婚約を選んだ。
七草家にとって、秘密主義ながら他を圧倒する力を持っている四葉家は無視できない存在であり、その秘密主義の一端を垣間見るための婚約であることは間違いない。顔見知りの間柄とはいえ、この婚約については当人の感情は二の次になる。
九重家からは良縁ではないと遠回しに七草家との縁談を否定されたが、当主をはじめとした重鎮らからは空木譲と縁組させたい故の苦言だろうと相手にされていなかった。
「レディの扱いがなっていないのではなくて?」
真夜は額を両手で押さえ、譲を下から睨み付ける。
小気味のいい音がしたが、大した力で弾いたわけではなく、真夜が大げさに痛がっているだけだ。
「淑女というには色気がねえよ。あと10年修行しな」
「本当に何時も失礼よねえ」
会話だけ聞けば不穏当だが、当の本人たちはいたっていつもの軽口の叩き合いであり、幸い出くわした廊下には口うるさく目敏い使用人もいなかった。
「はいはい、リトル・レディ。機嫌を直してはくれませんか」
「あら、どうしようかしら」
真夜は考え込むように人差し指を顎に当て、小首を傾げる。
譲は色気が足りないと言ったが、少女から女性へと変わりつつある発展途上の色気は愛らしい顔立ちも相まって蠱惑的にさえ見える。真夜も自分の容姿がそれなりに優れていることを自覚しているので厄介である。
だが譲はそんな真夜の遊びを歯牙にもかけず、ため息一つでやり過ごすので、真夜としては面白くはない。
「ではこちらをどうぞ」
不機嫌に傾きそうな真夜に対し、譲は掌に納まる大きさの桐の箱を取り出した。
「七草の坊ちゃんとの婚約祝いだ」
「綺麗ね。真珠?」
「ああ」
真夜がその場で箱を開けると、中には真珠の光沢をもつ白い牡丹のブローチが収められていた。花弁の一枚一枚はとても薄く、写実的でありながら柔らかく光を反射している。
大人びたデザインだが、華美すぎることはなく、真夜の雰囲気を上品に引き立てるような良い品であることは確かだった。
「今度台北で交流会があるんだろう。そこにでも持って行ってくれ」
「気が向いたらそうするわ」
真夜は1週間ほど先に、国際魔法協会アジア支部主催の
「……初の海外だから迷子になって迷惑かけるなよ」
「そう一言多いからモテないのよ、アナタ」
「余計なお世話だ」
まるで小さい子供に言い聞かせるように本当に心配そうに譲がそう言うものだから、クスリと笑って真夜も皮肉を重ねるのだった。
そして、四葉が『
四葉家は非常に重苦しい空気に包まれていた。
何も知らない者でさえ、この敷地に足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような殺気と憎悪を煮詰めた雰囲気にまるで息すら許されないような感覚に陥っただろう。
その理由は、三日前に交流会に参加するために台北を訪れていた真夜が誘拐された先で受けた惨状を知ってのことだった。
一緒にいた七草弘一も誘拐犯との戦闘で右手足の骨折、裂傷に右目の眼球を失う大怪我だった。
だが、真夜が受けた屈辱は、たった三日で行われたことが信じがたいほどだった。
誘拐された真夜が発見された場所は泉州、悪名高き崑崙方院の支部研究所だった。
当時、中国大陸は大漢と大亜連合の二国に分断されており、大漢は世界群発戦争勃発の早い時期に中国の南部が分離してできた国である。大亜連合が対馬に進軍したことをきっかけに、大漢と日本は大亜連合を共通の敵として同盟は組んではいないが軍事面で共同歩調を図っていた。
物量では大亜連合が勝っていたが、現代魔法の研究を担っていた崑崙方院が大漢に付いたこともあり、大亜連合は現代魔法のノウハウのほぼすべてを失い、南北は緊迫状態のまま膠着していた。
魔法師開発研究所として機能し、悪名高いことは四葉も同じことだが、崑崙方院は特に女性にとって聞くに堪えない内容の数々の実験が行われていると魔法師たちの中では知られていた。
真夜を救出した際にその支部は壊滅させたが、そこには真夜に行われていた数々の実験と凌辱の限りが記されていた。そのデータは既に研究者と共に灰に消えている。
「真夜、気が付いた?」
懐かしい、聞き覚えのある双子の姉の声を聞き、真夜はゆっくりと目を開けた。
「姉さん……ここは、第四の病室?」
「ええ、そうよ。気分はどう?頭痛がしたりしない?」
「頭痛は……ないわ。意識も記憶もはっきりしている」
「記憶も?」
真夜は迷いに揺れた瞳の姉を不思議そうな顔で見上げた。
「姉さん。私、ずっと夢を見ていたの」
淡々と語りだす真夜に深夜は思わず目を背け、膝の上で手を握りしめる。
「夢では私が男たちに酷いことをされているのに、起きたら私には一切傷がないの」
「傷がない?」
確かに真夜の体は帰国してすぐ第四研の病院で検査、治療が行われたが、救出当初から真夜の状態は研究所に残されていた記録よりずっと軽傷だった。
繰り返し実験するため治癒魔法をかけられた形跡もなければ、研究記録が改ざんされた様子もなく、実験を行った研究者たちの証言も取れている。
間違いなく真夜は耐え難い仕打ちを受けたはずだった。
「可笑しいでしょう?だって私は強姦されていたはずなのに。体の中も外もぐちゃぐちゃにかき回されて、アイツらに汚されていない場所なんてないのに、その感覚は全く覚えていないの」
真夜の言葉を聞きながら、深夜はスツールから立ち上がりそうになる自分の膝を必死に押さえつけていた。
「ねえ、譲は?」
「彼がどうしたの?」
「だって謝らないと。せっかくもらったブローチが壊れてしまったの」
真夜は掌に握りこんでいた白いブローチの欠片を見せた。
持ち物はおろか着ていたものすら剥ぎ取られてしまったが、これだけは何とか手元に残ったらしい。ブローチは大部分が欠け、残った部分もかろうじて真珠でできたと分かるほどくすんではいるが、真夜がこれに執着していることが深夜には不可解だった。
確かに譲と真夜は気が合っていたようだが、助け出されて一番にそれを心配するほど彼に入れ込んでいた様子は見ていない。
「しばらく研究所には来れないと言っていたけれど、お父様が京都に向かわれたから何かあれば分かると思うけれど」
「京都?」
「真夜の居場所を特定するために千里眼の力を借りたの」
「そう……」
真夜は本当に大事なもののようにその欠片を胸の上で握りしめた。
これがあったから助かった。そのように思えてならなかった。詳しくは覚えていないし、そもそも自分が汚されたことすら現実か定かではないのに、どうしてもこれは手放せなかった。
真夜の様子に疑問は残るものの、深夜は決心したように切り出した。
「真夜、私はお父様からあなたの“記憶”を“知識”に変えるよう言われたわ」
「記憶を知識に?」
「貴方が受けたあの三日の出来事を自分が体験したこととしてではなく、知識としての容器に作り替えるように言われたわ」
元造は真夜が四葉家に戻ってくるまでに真夜が受けた凄惨な実験の数々を報告されていた。
救出時は気を失っていたが、おそらく状況から心の傷も著しいと判断し、深夜に真夜の心を守るためにその魔法の行使を命じた。
「姉さんがその魔法を使ったから、私は夢をみていたと感じるのかしら」
「いいえ。まだ魔法は使っていない。貴方の心はまだ壊れていないと分かったから。けど、私には三日だけの記憶を知識に変換することはできないの。貴方がこれまで生きていた全ての記憶を知識の器に作り替えることしかできない」
深夜の魔法は記憶を操作する魔法ではなく、たとえ特定の事柄についてそれが精神の領域にあるものが記憶であるか知識であるか分かるだけであり、一部の記憶を都合よく意味記憶として知識化することはできない。
「真夜、貴方が望むなら私は魔法を使うわ」
「今までの私を殺すということ?」
真夜のあどけない声の問いかけは深夜の心臓を突き刺す。
背筋が急に寒くなり、全身の血が凍りつくようだった。
「だってそうでしょう?人は経験によって形作られていくものだもの。過去の自分があって今の自分がある。過去の経験が全てデータになるのだとしたら、今までの自分が自分以外のものに作り替えられて消えてしまうという事……」
楽しかったことも、苦しかったことも、姉と喧嘩したことも、悪戯をして父に叱られたことも、これまで過ごしてきたすべての思い出は思い出ではなく、知識としては残るがそこに伴う感情はそうだったという事実の認識でしかなくなる。
「私は昨日までの自分を姉さんに殺されるの?」
真夜の闇のように黒い瞳が深夜を見つめる。
同じ顔をしている妹なのに、生まれてきたときからずっと一緒にいて見てきたはずの妹なのに、ここにいて自分を見上げる妹はまるで知らない他人のようだった。
「貴方が望むなら、私はそうするわ」
それでも深夜の決意は揺らがなかった。
魔法の行使は深夜が決め、元造が責任を持つと言っていた。
それでも真夜の心がまだ生きていたから、まだ希望が見えたから、深夜はその魔法を使うことを真夜に委ねた。
「………少し、考えさせてちょうだい。疲れてしまったわ」
一度に色々なことを話したのだ。
まだ目が覚めたばかりに重たい話だったことは間違いない。
「ええ。ゆっくり眠って頂戴」
今度は悪夢なんて見ないようにと、深夜は祈る気持ちで真夜の頭をゆっくりと撫でた。
京都九重が持つ屋敷の一室で、当代の九重家当主と四葉家当主である四葉元造が対面していた。
「この度は、娘の救出にご尽力いただき、痛み入ります」
「ご息女が戻られたことは、何よりだった。今回のことは心中お察し申し上げる。悪い噂の絶えない場所と聞いていたが、一日も早い回復を願っている」
「ありがとうございます」
元造の掌は血が滲まんばかりに固く握りしめられていた。
国外のこととあって手の者を総動員しても真夜の救出に時間がかかると判断した元造は、九重家の当主の【千里眼】を頼り、真夜の最終的な居場所を突き止めた。
本来ならば一秒でも長く真夜の傍にいたいが、九重には義理ができたため、元造自ら京都まで救出の報告と感謝の意向を伝えに出向いたのだった。
「千里眼ならばこれから我らが行うことも見通しておられるのでしょう」
元造は一度息を吐き出し、沸き起こる怒りを腹に留め、九重当主を見据えた。
「これは私怨です。娘を犯された親の復讐です。私は魔法師を家畜とし奴隷とする愚かな『国家』に我々の意地を見せつけるのです」
元造の瞳は憎悪と憤怒に燃えていた。
歯向かう全てを殺しても足りないと思えるほど、娘を弄ばれた父は怒りに突き動かされていた。
「私にあなた方を止める理由はありません。どうぞ最期まで存分に」
元造の覚悟を知ってか、おそらく今生の別れと分かっているのか、九重の当主は静かに深く一礼した。
「一つ、一度戻られるのならば真夜さんに伝言を頼めるだろうか。無論、すぐにではなくとも、貴方の口からでなくとも構わない」
「承ります」
九重には大きな借りをしたが、おそらくそれは元造には返すことができない。今できる些細な頼まれごと程度は大恩を返すまでの利息にはなるだろう。
「譲はもうそちらに出向くことはできないでしょう。彼の残りの日々が息災であること私たちは祈っていると」
「彼にも何かあったのですか?」
真夜の一件で四葉全体が慌ただしく動いており、元造は数々の指揮を取っていたため彼のことは正直抜け落ちていた。
真夜の誘拐以前にしばらく来られない旨は聞いていたが、今後も出向くことはできないとなれば、時期を同じくして何かが彼にも起きたと考えるのが自然だ。
「なかったとは申し上げられませんが、彼が決めたことの結果です」
九重当主の言葉は今までどおり冷静さを保っており、拳は膝の上から動いていないにも関わらず、先ほどの元造と同じようにきつく握りしめられていた。
元造は京都から戻ると、真っ先に真夜のいる病院へと向かった。
元々研究所が母体になっているとはいえ、病院には最新鋭の設備だけではなく治癒魔法師も揃っており、主に一般の病院では検査ができない調整体の魔法師や薬物投与の実験を行っている子飼いの魔法師の研究にも用いられている。
このように怪我を負った者が収容される通常の病院としての機能もあるが、真夜の病室は病院の中でも格段広く、シャワーやリビングなども備えられた個室となっていた。
昼間に一度目を覚まし、大きな混乱もなく今は静かに眠っていると担当医師に聞いてはいるが、いつフラッシュバックがあってもおかしくはないため、病室は24時間監視されている。
まだ寝ているようだったので元造は極力音を立てずに病室に入る。
そこには安らかな顔で静かに息をする娘の姿があった。
娘の寝顔など幼少期のごく一時期しか見たことがなかったが、まだあどけなく幼さが残る顔や体には痛々しい治療の跡が見られる。
それだけで言葉にしようのない怒りが込み上げ、娘に暴虐の限りを尽くした大漢と崑崙方院への復讐を心に刻む。
地獄に落とすだけでは足りない。
許しを乞う者がいたとしても容赦はしない。
地獄の釜すら温いと感じさせる絶望を味合わせたところで、この怒りは死ぬまで消えようもない。
この胸に渦巻く怒りと痛みは、自分が例え真夜と同じ目にあったとしても感じることはないだろう。
四葉が血の池に落とした者たちに後ろ指を指されようとも、元造たちは止まるつもりはない。
復讐に正義などありはしない。
本当ならば父としてできるだけ真夜の傍にいてやりたいが、四葉家当主たる元造にはこれからすべきことが多くある。
名残惜しいが、元造は病室を後にすることにした。
もう一度娘の寝顔を確認すると、元造は偶々ベットサイドの机に置かれた小さな塊を見つけた。
一見すると薄汚れた陶器の欠片のようにも見えるが、わずかに真珠の輝きを残している。元々は何かの細工だったのだろうが、今や優美さの面影もない。
真夜が誘拐時に身に着けていたものだろうかと、その欠片を手に取る。
その欠片に目を凝らす。
魔法的な痕跡は既にほとんど残渣のようなもので、魔法戦闘の余波が辛うじて残っている。
しかし、それとは別の独特の波長には覚えがあった。
とても強力な精神干渉魔法の使い手である元造だから分かったその波長は空木譲のものに相違なかった。
なぜ、と思うと同時に今日の九重当主の様子が思い浮かぶ。
なぜこのタイミングで譲が長くないと話したのか、なぜ譲の魔法の気配がするものがここにあるのか、真夜の傷が記録より小さなものだったのか、そして譲の特異的な魔法は何だったのか。
元造はこの時、ようやくその理由が分かった。
「そうか。彼だったのか……」
ぽつりと零した声は静かな病室に溶けて消えた。
元造は真珠の欠片を元の位置に戻すと、静かに病室を後にした。
真夜が救い出されて3か月。
体の傷は癒えたものの、心の傷は深かった。
自分が犯された実感は覚えていなくても、客観的に自分が犯されたと言うことは認識しており、自分を犯した男性に似た者を見かけるとその場で足が止まり、動けなくなってしまったり吐き気を覚えていた。それでも真夜は、深夜の魔法を受けることはなかった。
深夜の魔法に頼り、記憶を記録にしてしまえばおそらく真夜の苦しみは今より軽くなる。
しかし客観的にその事実を受け止められるようになるだけで、過去が変わるわけではない。
食欲も落ち、何も食べられない時期もあったが、精神分野のスペシャリストが揃う第四研究所の成果を元に少しずつ真夜は回復の方向に向かっていた。
魔法の発動も以前と変りなくできるようになると、忌まわしい記憶を振り払うように真夜は魔法研究に傾倒していった。
時には寝食すら疎かにしかねない妹の様子に、深夜は父から預けられた一通の手紙を真夜に差し出した。
「お父様からあなたが落ち着いたら渡して欲しいって」
「お父様が私に?」
四葉当主が大漢に復讐を決めたその日から、大漢では次々に政府関係者や魔法師が暗殺されているらしい。表沙汰にはなっていないが、すでに日本国内でも一部掲示板には大漢での不可解な事件が
崑崙方院のやり口に魔法師の恨みを買ったのだろうという意見や、はたまた大亜連合の魔法師による工作説、あるいは新ソ連の暗殺部隊やUSNAの大統領の極秘任務など眉唾な話はあるものの、まさか一つの家の私怨によるものだとは誰も思っていないようだ。
「とても大切なことが書かれているそうよ」
正直、まだこの手紙を渡すには早いのではないかと深夜は悩んでいた。
深夜はこれを渡された時の父のあの眼を今でも覚えている。
苛烈な怒りを瞳に映しながらも、誰よりも二人のことを案じていた。
この手紙の内容は知らないが、心の代わりに身を削るような真夜の姿は見ていられなかった。
真夜は何も書かれていない味気ない白い封筒の封を切る。
元造からの手紙には真夜の体を案じる旨と、真夜が救出された日に九重家当主からの伝言が記されていた。
譲がもうあまり長くないという一文に、真夜の持っていた手紙が手から零れ落ちる。
居ても立っても居られなくなった真夜は、九重へ向かうと今にも家から飛び出そうな勢いだった。
あまりの慌て方に深夜どころか、留守を預かっていた叔父の栄作も出てきて真夜を止めにかかった。
その日はもう日暮れが近い時間であり、先方の予定も伺わないといけないと真夜を引き留めることができたが、あれほどまで感情をむき出しにする真夜を見たのは、深夜ですら久しく感じることだった。
それから数日後、手紙の内容を確認するため、真夜は京都の九重家を訪れていた。
護衛は万全を期し、真夜の状態を鑑みると遠出にはまだ早い時期だったため、医師も同行している。
真夜の来訪に対応したのは現当主ではなく、先代当主である九重千代だった。真夜は全ての男性が受け入れられないわけではないが、真夜の状態を鑑みてのことだろう。
真夜は譲が療養しているという離れに案内された。
九重家の庭は丁寧に手入れがされ、夏の盛りを過ぎた木々の緑は少しずつ秋の装いを整えていた。
観光客の多く集まる九重神宮がすぐ近くにあるはずだが、雑多な喧騒は聞こえてこない。
枯山水の庭を横目に、ただ静かに、ゆっくりと時間が流れるように穏やかな空気に満ちていた。
千代に案内され、真夜は離れの敷居をまたぐ。
香が焚かれているのか、かすかに涼やかな香りが漂っている。
千代が一声かけてから、居室の襖を開けると、真夜は立ちすくんだ。
「なんで……」
先ほどまで感じていた穏やかさは、今や指先まで凍えるように冷え切っていた。
そこにいた譲は真夜の知る譲ではなかった。
神職の見習いらしからぬしっかりとした体の筋肉はこそげ落ち、屈託な笑みを見せていた頬は窪み、己を律するように強い瞳は今や見る影もなく空虚だった。
身なりこそ周りの者が整えてはいるようだが、心はここにないかのように虚空を見つめている。
爪は噛んでしまったのか、すべて深爪になっており、血が滲んでいるところもある。
いつものような気の利いた皮肉は口から一つも出ず、薄くかさついた唇が力なく開いている。
襖が開いたというのにこちらを見向きもしない。
体としては生きている。息をしている。
それは確かだ。
しかし心はここになかった。
たった数か月顔を合せなかっただけ。
それなのに、真夜はそこにいる譲が譲であるとは信じられず、足も重石を乗せられたかのように動くことができない。
辛うじて視線だけ隣にいた千代に向けると、千代は小さく頷いた。
「譲さんは【
『空木』は“ウツルギ”、すなわち移り気の隠語であり、気とは精神を表す。
空木家は精神情動系魔法を継ぐ一族であったが、その特性は個人でかなり異なる。
ある者は物に自分の魂の一部を定着させ、その物がどこに移動しようとも周囲の状況を把握することができる。またある者は、任意の相手に好きな幻覚を見せ、発狂させることも自殺させることもできた。
強力な魔法であるせいか短命な者が多く、空木譲の親族も片手で数えるほどしかおらず、精神系魔法が受け継がれている者は譲とその父だけだった。
そして空木譲の魔法『因果写し』の真の特性は、身代わりとなることだった。
誰かの傷や害を引き受ける。
任意の相手の情報体に一定以上の身体機能を損なう情報が付加されると、その情報を自身の情報体へと転移させる。
指定した相手が一度傷つくことは避けられないが、受けた傷は全て譲に移されるため相手の傷はなかったことになる。
譲が引き受けたのは真夜が本来受けるはずだったものだった。
故に、譲は生殖機能を失った。
精神を患った。
真夜が身に受けるはずであった傷だけではなく人体実験のモルモットにされ、男たちに凌辱される感覚も全て譲が請け負っていた。
しかし、一人が受けられる災は限られている。
譲の魔法は不完全であったため、真夜の体にも傷が残り、まして心の傷まで引き受けるわけではない。
それでも、生きていた。
死んでいないだけだとも言えた。
目の前にいる真夜が誰だか分かっていない。
それどころか自分のことすらままならない。
「馬鹿な人……」
真夜は静かに呟いた。
そんな声すら譲には聞こえていない。
「本当に、何考えているのよ……」
真夜はただ、その場に立っていることしかできなかった。
それからさらに3か月後。
大漢と崑崙方院を悪夢が襲う。
ある研究施設は一夜にして人が全て窒息しており、研究データがことごとく破壊され、ある高級官僚が開いていたパーティでは参加者も使用人も全てが絞殺されており、ある軍事施設では突如同士討ちが発生し、最後の一人は拳銃で頭を打ち抜いていた。
まさしく悪魔が到来したような日々が続いており、おそれを成した政府官僚や魔法師の一部は国外逃亡を図っていた。
たった半年にして大漢の力の象徴でもある崑崙方院は崩壊し、大漢の四千人の閣僚、高級官僚、士官、魔法師と研究者が暗殺され、中華大陸の現代魔法研究の成果を須らく破壊された。
その一年後、大漢は内部崩壊し、大亜連合が中華大陸を統一した。
東アジアにおける南北の統一は、北半球における世界群発戦争の収束に繋がった。
四葉家はこの戦いで当主と一族の者合わせて三十名を失い、戦力の半分を欠くこととなった。
一つの家が一国を崩壊させたこの真実を知る者たちによって四葉家は『
空木譲の伏線は、横浜騒乱変、その後の最後に記載されています真夜の回想です。
これは当初から決めていた話なのですが、若干当初から軌道修正してますね。本当は真夜様の妊孕性は残すつもりでしたが、16巻の衝撃により亡くなりました。
達也の過去と四葉家の当主指名については次回です。
半分以上書けたので、おそらく今月中には更新できるかと|д゚)期待はしないでね!