体調が悪い時に文章を作ると、文章が全く整いませんね。
書いては消して、消しては書いての難産でした。何時にも増してシーンがかなりコロコロ入れ替わります。
1シーズンで2回インフルエンザになる人もいるらしいので、この冬まだまだ気が抜けませんね。
師族会議編1
新学期を翌日に控えた1月7日の夕刻。
雅は京都から東京へと戻り、司波家に足を運んでいた。
「二人とも中々連絡が取れなくてごめんなさい。遅くなったけれど明けましておめでとう」
「おめでとう。今年もよろしく頼む」
「こちらこそよろしくお願いいたします、お姉様」
3人とも実際離れていた日数より、こうして顔を合わせるのは随分と久しぶりな気がしていた。深雪や達也からすれば年末からの騒動と元旦の慶春会での発表で気を揉んでおり、雅もまた神楽と年末年始の行事に追われ、更に主だった親戚への婚約内定の発表もあり、目まぐるしく忙しかったため、体感としては実際の日数より多くの日が掛かったように思えていた。
「その……なんというか、驚いたでしょう?」
雅は申し訳なさそうに言葉を選んだ。
何についてなど今更聞かなくても深雪も達也も分かっていた。
「ええ、とても驚きました」
「私も28日に知らされたのよ。信じられる?」
雅は呆れ顔で隠しもせずため息をついた。口ぶりからするに、悠に振り回されたのは雅も同じだったようだ。
「お姉様にも本当に秘密だったのですね。ですが、叔母様の口から聞かされた私の身にもなってください」
「ロマンチックなプロポーズは後日に期待しましょう。流石に深雪に何も語らないほど人でなしではないとは思うわ」
不貞腐れてみせる深雪に、雅はいつも通りに髪を梳いてやりながら宥め聞かせた。
リビングには3人掛けのソファがもう一台向かい合わせであるというのに、三人は向かい合って座るのではなく、一つのソファに雅を真ん中にして座っていた。
使用人らしくキッチンに控えていた水波は、仲の良すぎる義理の姉妹についてはこの1年で散々見せつけられたので、既に慣れてしまっているが、例えばここに下品なクラスメイトがいたら花の名前を囁き合っていたことだろうと思考を飛ばしていた。
「悠お兄様も人が悪いですね」
「本当よ。親戚を集めての発表も大変だったんだから」
流石の雅にも声に疲れが滲んでいた。
生まれた時から九重家次期当主としてほぼ確定していた悠の婚約者の地位は、四楓院を初めとした有力な縁戚関係者のみならず、古式魔法師の家々は元より十師族や百家、さらに非魔法師の名家からも申し出があった。千里眼の星巡りは自身で見つけることが内々の
世界的な情勢が不安定な方向に傾きつつあるこのタイミングでの婚約発表、それも兄妹揃って四葉家に縁がある者となれば一波乱起きても不思議ではない。
「深雪の名前はまだ出していないけれど、四葉家当主にごく近い存在だという事は伝わっているわ。聞いているかもしれないけれど、12日の土曜日に両家の顔合わせをして、14日の午後には魔法協会を通じて正式発表するみたいだから、覚悟しましょう」
「分かりました」
「それと今更かもしれないけれど、今後私たちに向く目も増えるから私が司波家に居候という立場はよろしくないそうよ」
雅が学校に届け出ている住所は司波家ではなく、九重家所有のマンションの一室である。実態としては司波家とそのマンションを行ったり来たりしている生活ではあるが、深雪たちの立場が明らかになるに伴い、今まで以上に行動が注目される。多少の滞在ならば問題はないだろうが、年頃の男女が同棲しているというのはいくらなんでも外聞が悪い。
「大丈夫なのですか」
深雪が案じているのは、例え雅が九重家という名前に守られていたとしても、達也との関係が明らかになれば四葉の恨みを買う者から襲撃を受ける可能性がないわけではないということだ。現在は登下校の大半は達也や深雪と一緒であるため、仮に襲撃があったとしても対処はしやすかったが、一人の時間が増えるという事はそれだけ狙われやすくなる。
雅自身、魔法戦闘にも長けているため軽々しく手出しをできる者がいないとはわかりつつも、深雪の心配は尤もであった。
「元々セキュリティの高い物件で、部屋の方も魔法的な防御も父が仕掛けたものだから問題はないと思うわ。あとは伯父に目を光らせてもらうっていう事で話が付いているわ」
「師匠にはもう話が通っているのか」
3が日の内に九重寺には深雪と達也で挨拶に出向いているが、多少達也が雅との関係を揶揄われた程度で、四葉家のことを追及された記憶はない。
知っていて無反応なのは何か思惑があってのことだろうが、元々腹の内を読ませる相手ではないため、知っていたかどうかは今のところ判断が付かない状態だ。
「出家しているとはいえ、私の伯父であることに変わりはないから、今日のところで母から話が行っているはずよ。兄の相手が四葉家に縁のある人物という事は伝えているけれど、深雪だという事は正式な発表を待ってからになると思うわ。私もこの後挨拶に行く予定なの」
「事情は分かりましたが、お姉様と過ごせる時間が減ってしまうのは少し残念です」
「私だって寂しいわ。でもその分、深雪は今のうちに思う存分お兄様に甘えておくといいわ」
「分かりました」
雅が悪戯顔で深雪を唆せば、深雪は達也を見ながら同じように悪戯顔でくすくすと忍び笑いを漏らす。
達也にしてみれば雅と過ごす時間が少なくなった分、深雪がどのような行動をとるのかという事は予想の範囲内だった。
「それと、これはうちのお兄様から深雪に」
雅は比較的大きなサイズの紙袋を深雪に手渡した。紙袋の中は更に箱のようなもので包装されているが、外側にブランド名がないことからおそらく市販品の類ではない。婚約話云々で驚かせてしまったことを含めた、悠から深雪へのご機嫌取りとみて良さそうだ。
「深雪、俺は雅を送ってくるから部屋に上がって見てきたらどうだ」
悠からと聞いて、深雪は澄まし顔を気取りながらもとっさに緩んだ頬に嬉しさを隠しきれていなかった。
中身が気になるのか、ややそわそわとしていることも達也にはお見通しだった。
「九重寺までは自動運転の範囲内だ。今からコミューターを呼ぶより早いだろうから、送っていくよ。それに師匠がどこまで知っているか気になる」
司波家には自家所有のロボットカーがあり、自動運転の範囲内であるため移動には免許は必要としない。幸い九重寺も自動運転の範囲内であるため、コミューターを捕まえるより手間は少ない。
「じゃあ、せっかくだからお言葉に甘えるわね」
当然、雅にも深雪の焦れる心の内はお見通しで、達也の提案に了承すると深雪は申し訳なさそうにしながらも、どこか嬉し気だった。
「お兄様、今日は少し遅めに夕食をご用意いたしますので、私たちのことは気にせず先生とお話してきてくださいね」
それならば、と深雪も兄と姉が少しでも一緒にいられる時間を増やせるように言葉を添える。
深雪に気を使われると、やはり雅としては気恥ずかしいところだった。
1月8日、火曜日。
新学期初日のこの日は、晴れ渡る快晴ながらも、風は手がかじかむような寒さであり、時折風が強く吹くときもあった。
この時期となると三年生は既に自由登校のため、改札を通る生徒は以前より少ない。
雅と達也、深雪の3人は人通りが2学期と比べて少なくなった学校へと続く道を歩いていた。水波も改札を降りたところまでは一緒だったのだが、クラスメイトがいたため、そちらに合流して今は別々に学校に向かっている。
「新しいガウンだけれど、よく似合っているわ」
「ありがとうございます、お姉様」
深雪はその場でくるりと回って見せた。まるでファッションショーの一幕のような可憐な動作に、思わず他の生徒が足を止めるほどだった。
女子生徒が着用を許可されているインナーガウンは、月・花・雪のいずれかのデザインと基本の型紙こそ決まってはいるが、公共良俗に反しないならば、生徒が独自にガウンの色やそれに施す図柄を決められる。勿論いくつか既にデザインされたものの中から直接購入する生徒もいるが、テーラーマシーンが安く一般に貸し出されているため、オリジナルを作ったところでそれほど手間もお金もかからない。中には友人同士でお揃いのものにしたり、季節に合わせてデザインを変えたり、憧れの先輩からデザインを引き継ぐ生徒もいる。
ちなみに男子生徒にはそのような自由に選べるガウンなどはなく、精々ジャケットの下に着るベストが数種類あるだけだ。
深雪や雅も何着か自分好みのガウンを持っているが、深雪が今、身にまとっているのはその中でも特に意匠が凝らされていた。
「図案化されているとはいえ、五十里先輩や幹比古あたり、分かる人には分かるんじゃないか」
「分かったとしても納得するだけの理由があるならいいんじゃないかしら」
一見分からないようになっているが、インナーガウンの柄は厄除けのための魔法陣になっている。白から若緑のグラデーションの下地に、雪輪柄と雪華模様をモチーフにしたデザインが散りばめられており、雪和柄の中には紗彩模様が描かれているなど少し和のテイストも入れ込まれているが、特定の線や模様を繋げると厄除けの図柄になるように配置されている。
術としてはかなり高度であり、尚且つ刻印も目立たないように上手に隠されているため、よほど魔法幾何学や魔法陣に精通していなければ分からない仕様になっているが、分かる者には随分と手の込んだ守りを固めていることは分かってしまう。
「あら、お兄様。似合いませんか?」
「そんなことはない。よく似合っているよ」
これが悠からの贈物という点に釈然としないが、この頃可愛いというより大人びてきた美しさが滲むようになった深雪には上品さと可憐さを兼ね備えたデザインだった。デザインとして月を用いることもできただろうが、使わなかっただけ悠も遠慮や自重の気持ちはあるのだと、達也は自分を納得させていた。第一、深雪が喜んでいることに達也は水を差すつもりはなかった。
新学期は始まったが、雅が会頭を務める部活連はしばらく活動自体に余裕がある状態だ。
3年生の部活動の引退は部によって異なるが、本格的に2年生が主担当となり活動が始まるのは2学期からであるので、すべての部活は既に新体制に移行している。防衛大や警察学校の魔法科に進む3年生の中には体力づくりや魔法戦闘の訓練のため、所属していた部活動に顔を出す者もいるが、基本的に運営は2年が行っている。
来年度の予算要求についても部活連が取り纏め、昨年中に生徒会に提出しているため、予算の配分結果が生徒会から提示されるまでは定期の活動程度であり、目立って忙しい予定はない。その定期活動の一つである部活時間中の見回りについても、既に新しいシフトについては部活連の委員に電子データで配布されている。
「あけましておめでとう、九重さん」
「おめでとう。今年もよろしくね、十三束君」
「なにか冬休み中に問題でもあったかしら」
昼休みの時間になって十三束と五十嵐がB組を訪ねてきていた。
冬休み期間中の部活動の揉め事や陳情などもそれほど多いわけではないので、役員の雅もしくは十三束や五十嵐のところに直接持ち込まれる。
「いや、特に大きなことは無かったよ」
「僕の方も何も連絡はないよ」
端末で連絡しても済む内容だっただろうが、二人とも律儀に挨拶を兼ねてわざわざ教室まで出向いたらしい。
「マーシャルマジックアーツは、寒中稽古ってあるのよね」
「強制じゃないけど、2日に初稽古は終わったよ。寒中稽古っていっても、流石に雪の中とか上半身裸でマラソンとかじゃないけど、指導に来たOBの一人が防衛大の教官だったから、結構厳しかったかな」
「年明け早々ハードだね」
力なく笑う十三束君の遠い目に、五十嵐君は同情の目を向けていた。
「おっ、十三束君と五十嵐君じゃん」
「明智さん」
エイミィが雅の机のところへと寄ってきた。
新年のあいさつを交わすと、エイミィは嬉々としてお菓子の袋を取り出した。
「さっき購買で買ったんだ!よかったらどうぞ」
赤と白の手毬模様の大粒の飴が三人に配られた。
「ありがとう。可愛いわね」
「でしょ。受験シーズンだから購買で結構そういう商品多くなっていたよ。あと雅って飴なら大丈夫?」
「これからしばらく舞台はお休みだから大丈夫よ」
新春の大きな舞台が終われば、雅の次の舞台の出番は3月となっている。無論、その間にも先々の舞台に向けた稽古はあるが、2月には古典部の発表もあるため、雅としては1か月舞台がない月があるかないかで心構えは大違いだった。
「あ、そっか。九重さんのところはそれこそお正月が本番か」
「有難いことに、報道の影響はそれほどなかったみたいで例年と変わらない賑わいだったわ」
思い出したように言った十三束に、雅はわざとらしくため息交じりに笑って見せた。
魔法師を取り巻く国際的な情勢は厳しく、日本もその例外ではない。
九重神宮の宮司が魔法師であることは調べればすぐにわかることではあるが、元々京都に古くからある名の知れた神社であり、地元の基盤は強く、それほど参拝客の足は遠退いてはいなかった。また麗しすぎる神職と噂になった悠を一目拝んでみたいという興味半分の参拝客も今年は多かったのではないかと、冗談半分で言われていた。
「皆はあいさつ回りとか初詣とかは行ったのかしら」
「スバルと初詣には行ったよ。ウチは親戚も海外だったり、遠方だから挨拶はメールか電話で終わりだね」
「僕のところも挨拶回りと新年会はあったけど、一応部長だから2日の稽古の日は免除されたよ」
エイミィや十三束に続いて、五十嵐も似たようなものだと答えた。
「そういえば、十三束君のお母様って、今は魔法協会の会長よね」
「そうだよ。協会の会長は百家で持ち回りだからね」
雅がそう尋ねると、十三束は少し恥ずかしそうに頷いた。
日本魔法協会の会長任期は1年間であり、今期は十三束の母である十三束翡翠が務めている。
「今年は師族会議もあるから大変ね」
「正月に帰ってきたときに流石に愚痴ってたよ。今年は平穏でありますようにってね」
「任期は7月からなのよね。引継ぎをしてすぐ夏の九校戦の種目変更があったし、論文コンペの時も本部が開催の主導だから随分と忙しい1年だったんじゃないかしら」
「そうそう。厄年だよ、本当に。九重さんのところでお祓いでもしてもらったらいいかな」
「お気軽にどうぞ。今年もお世話になると伝えてもらえると嬉しいわ」
来週すぐまた忙しくなることは目に見えていたが、その理由を十三束に伝えるわけにもいかず雅は心の中で謝罪をしていた。
1月12日、土曜日。
魔法科高校ではカリキュラムの都合上、土曜も祝日も基本的には授業があるのだが、この週は珍しく授業のない土曜日であった。
今回の九重家、四葉家、両家の顔合わせは黒羽家が諜報の一環で使用している静岡県某所にある料亭を貸し切りで使用することになっている。
両家の距離があることに加え、東京ではいくら用心していても人目に付きやすく、逆に京都に近いところでは九重の婚姻について探っている者たちの目につく可能性があるため、このような形が取られることとなった。
両家顔合わせという名目だが、達也と深雪の実父の龍郎やまして継母の小百合には婚約のことすらまだ知らせていない。
14日の正式公表に合わせて、龍郎には連絡が行くことになっているが、本人たちからではなく、四葉家の使用人から伝えられる手筈となっている。
顔合わせには四葉家として叔母である真夜が参加していた。
「本日はお忙しいところお時間を頂きまして、このような場を設けていただきありがとうございます」
そもそも顔合わせと言っても双方知らない間柄ではないため、形式上、悠が進行を務め、会食の方は、当たり障りない話に終始した。
料理は料亭らしく懐石料理となっており、口紅が落ちにくいようにと配慮されているのか、一口で食べられるようにしながらも見た目も美しく切り揃えられている。
量は成人男性には物足りないだろうが、着物で腹部が圧迫されている女性のために少量で品数が多くなっている。
「後は二人でゆっくりとお話もしたいでしょうから、私たちは別のお部屋に行きましょうか」
会食も一通り終わり、一息ついたところで雅と悠の母、桐子がそう切り出した。
「そうですね。雅さんもこの頃お忙しかったようだから、達也さんと一緒がいいわよね」
真夜は雅を気遣っているようだが、大人は大人で話があるため、外すようにということだ。
「お心遣いありがとうございます」
達也は雅を伺うと、予想していたことだったのか、特に困惑はしていなかった。
「お隣のお庭は椿が咲き始めたそうよ」
「そうですか。では、少し見て回ってきます」
真夜にそう提案された達也は、大人達の会談の内容が気になりつつも大人しく従うことにした。
部屋には悠と深雪だけが残された。
料亭の人数も給仕については人数をかなり制限しているため、人の足音もしない。
都市部の喧騒からも少し離れているため、日常から切り離されたような静けさが部屋に満ちていた。
「約束通り、聞きたいことがあれば答えるよ」
悠はいつも通りまっすぐ深雪を見ながら優美に微笑んでいた。
深雪にとって悠はどういう存在なのか再度思案する。
九重家次期当主であり、【千里眼】の異能持ち。
九重神楽の稀代の舞手。
現代魔法を使うところはあまり見たことは無いが、あの雅をして未だ底を知らないと言わしめる実力者であると聞いている。
深雪や光宣のような作り物ではない、まさに天の采配の末、この世に誕生したとしか思えない神のごとき美貌。
深雪の敬愛する雅の兄であり、達也のことも深雪のことも少なからず可愛がってくれている。
幼少期に遊んだ記憶は深雪にほとんどないが、深雪が中学以降のころには達也が京都に出向いた時のことを内緒で教えてもらっていた。
じれったい達也と雅のことで、何度か相談したこともあれば、自分の懺悔を告白したこともある。
何度か一緒に出掛けたこともあるが、とても紳士的だ。
深雪に意地悪を言うことはあっても、決して嫌な言い方ではない。
天邪鬼のような深雪の態度も、恥ずかしげもなく可愛いと繰り返す。
甘やかされているのだという事は深雪にも分かる。
だが、知っているようで、深雪が悠について知っていることはそう多くはない。
「いつから、私のことを?」
「深雪ちゃんのことを?」
悠はゆったりと言葉の続きを待った。
悠に深雪が言いたいことを分からないわけがない。
悠が分かっていながら聞いていることを、深雪もまた理解していた。
「いつから、私のことをその……想ってくださっていたのですか」
深雪は尻すぼみになりながら言葉を選んだ。
直接的な言葉ではないにも関わらずこれほどまで緊張してしまうものかと、深雪はやけにうるさい心臓を押さえつけていた。
何とか目線だけは逸らさないようにしているが、悠からの言葉はまるで審判を待つかのように思えた。
千里眼に見通せないものはないと言われている。
深雪の葛藤だってきっと彼には手に取るように分かっている。
それでいて悠は全く緊張も動揺も見せないものだから、自分の質問が間違いだったのかと不安になり深雪は逃げ出したくなるような衝動に駆られていた。
「何時からって言われたら、君が生まれた時からかな」
「そんな」
「初めて顔を見た時ね、ああ僕はこの子と結婚するんだなあって漠然と思ったんだ」
悠の声には、堪えきれない嬉しさが滲んでいた。
深雪には知られていないことだが、九重悠は凪の海のようだと称される。
この世の者とは思えないほど左右の均整が取れた美貌に、名家の跡取りとして恥じない洗練された所作。
大学こそ受験しなかったものの、高校時代は常にトップの成績を維持し、また舞台稽古で鍛えられているだけあって細いなりに体にはしっかりと筋肉が付いている。
光り輝かんばかりのその顔立ちとその経歴や家柄に普通の人ならば距離を取ってしまうのだが、話をしてみれば冗談を交えたり、さらりと時事ネタを盛り込んだりと話はウイットに富んでいる。
そしてなにより、彼が感情を荒らげた場面があるかと彼を知る者に問えば、記憶にないというほど彼は穏やかな人物だった。
サラリと皮肉を交えることがあっても、それもまた美しさの中に孕んだ茨を彷彿とさせる。
凪の海のように、穏やかで美しく、心地よい雰囲気にこちらも自然体でいることができる不思議な相手だと言われる。
「だから待ったんだよ」
神のごときと称されるその顔が、この世の春を手に入れたかのように微笑む。
「16年間、ずっと」
だが、凪の海だとしても、そこは海である。
穏やかに見えて底が深く、小さな人間には計り知れない。
そして海には昼もあれば、夜も存在する。
空が黒雲に覆われ、風が轟轟と飛び回り、波が飛沫を上げる嵐の時の海よりも、凪の海は暗く、まるで闇に引き込まれるように静かで恐ろしい。
飲み込まれたら最期、どちらが上かさえ分からず下へ下へと降りて死に至る。
そんな危険を秘めている。
それでいて月の光を反射する凪の海は、夜空の星屑を散らすように美しい。
「深雪ちゃんは僕のことが好き?」
「分かりません。けれど、尊敬しております」
小首を傾げて尋ねる悠に、好きか嫌いかというならば、深雪は悠のことは好きだった。
ただこの感情が恋愛感情かどうかということは、深雪は分からなかった。
身を焦がすほど心のすべては悠で占められているというわけではない。
この顔をみていると胸が忙しなくなるのも、整いすぎた顔立ちにときめかない女子などいないからだ。
身近な年上の男性に、思春期特有の憧れを恋という感情に錯覚しているという可能性もある。
だから、まだ深雪は悠を好きだと、この感情が恋なのだとは言えなかった。
「本当に?」
「―――分かりません」
深雪の頑なな様子に悠はゆるりと目を細める。
「可愛いね」
「悠お兄様は意地悪です」
「そう?………嫌いになった?」
「いえ、そんなっ」
悠がしょんぼりと眉を下げ、あまりにも悲しそうな声で問うので、深雪はとっさに否定してしまったが、それは墓穴を掘る行為に他ならなかった
その証拠に悠は悲し気な顔から一転、先ほどと同じように愛おしいものを見るように穏やかでありながら楽し気な笑みを浮かべている。
「……やっぱり意地悪です」
深雪の口から出てくるのは、やはり小生意気なことばかりだった。
悠はそんな深雪の様子さえ可愛らしいと微笑んで見せる。
「深雪ちゃん」
深雪の名前を呼ぶのはどこまでも甘い声だ。
普段から祝詞を読み上げていることもあり、よく磨かれた声は深雪に耳から指先まで甘い痺れをもたらす。
「僕に君の名前をくれるかな」
あの日、彼は重すぎる深雪の名前を取ることができると言った。
その意味を深雪はようやく理解した。
「あら、名前だけでよろしいのですか」
おどけた様に笑いながらそう言うことが、深雪の精一杯の強がりだった。
達也と雅の玄関までの案内は、使用人として同行していた水波が務めている。慶春会と異なり、今日の水波は旅館の職員と似た色味の着物姿だった。
「達也様、雅様。庭の方には茶室がございますので、そちらをご用意しております」
どうやら料亭らしく庭を見ながら茶を楽しむことができるように、茶室が建てられているらしい。
外は身の引き締まるような寒さだが、日差しは温かく、風も穏やかであったが、大人たちの話し合いがどれほどになるか分からないため、時間をどう潰すか達也としては考えていたところだった。
「分かった。適当に見て回ったら、そちらに向かう」
「畏まりました」
水波は二人を庭まで案内すると、一言申し出でてから茶室の方へと向かっていった。
よく手入れされた庭は喧騒から隔絶されたように静かで、良く晴れた冬晴れの空は澄み渡り遠く雪化粧した山々まで見渡すことができる。
冬の時期で花は少ないが、聞いていた通り赤と白、ピンクの椿が蕾を膨らませていた。
「タイミングを逃してしまったが、振袖よく似合っている」
「ありがとう」
今日の雅は振袖姿であり、白地に桜や菊、牡丹など色とりどりの花々と、縁起物の扇が描かれている。達也は着物の審美眼があるわけではないが、一点ものと言われるような名品であることは確かだった。
外に出るという事で、達也がクリスマスプレゼントとして贈ったストールも羽織っている。
「雅はあちらで何が話されているか知っているか」
「詳しくは聞いていないけれど、兄がしばらく国内外ともに荒れるって言ってたからたぶんその話だと思う。詳しい内容はまだ私も教えてもらっていないけれど、何かしら大きな事件が起こることは覚悟しておいた方がいいかもしれないわ」
達也の視線は本館の方を向いていた。思案しているように見えて、付き合いの長い雅にはどことなく達也が所在なさげにしているように見えた。
「それより深雪が気になる?」
「気にならないわけではないが、悠さんに聞きたいことも溜まっていただろう。深雪が納得できればそれで十分だよ」
ここ数日、口に出すことは無かったが、深雪があれこれ思い悩んでいたことを達也は見ていた。
「達也としては、やっぱり複雑かしら?」
「悠さんに不満はない。俺が語るのも可笑しな話かもしれないが、深雪なら九重の中でも立ち回っていける。深雪は俺に守られているだけの女の子ではない。そう分かっていたつもりだったんだが、俺は深雪の色々な表情を知っているようで、実はそれほど多くを知らなかったんだなと思ってな」
データという意味で言えば、達也のほかに深雪のことを深雪以上に分かっている者はいない。パーソナルデータだけではなく、日々のCADの調整の結果、達也は深雪の情報をデータとしてはよく把握している。
実際一緒に生活するようになったのは、中学生になってからだが、それよりずっと前から達也は深雪のことを見てきたし、深雪のことを守ってきた。深雪を守るために生かされてきた。
好き嫌いも、主義主張も、達也や雅の前だけで見せる子供っぽい仕草も、献身的な姿も、優しい心根も、達也は見てきた。
けれど、深雪が悠に抱く感情を、向ける視線の意味を、達也は分からないふり、気づかないふりを無意識にしていたのかもしれない。
「ちょっと寂しい?」
茶化したように尋ねる雅に、達也は眼を丸くし、足を止めた。
「―――そうか。寂しいのか、俺は」
まるで独り言のように、達也は息を吐きだした。
達也の胸にあるこの言いようのない漠然とした空白は、悠と深雪の婚約を聞いた時も、達也が知らない深雪の表情を見た時にもあった。その感情に戸惑い以外の感情があるのだとしたら、きっとそれは寂しさに他ならなかった。
何時か手放さないといけないことは知っていた。
少なからず、深雪のその手を達也以外が取る日が来ると分かっていた。
それでも直面してみれば、心の方はまるで追い付いてはいなかった。
深雪以外に強い感情を持てないように魔法で制限されているから仕方のないことだと言ってしまうこともできる。
それでも、どうしようもなくその感情は達也の胸に居座っている。
理性的に状況を判断できたとしても、本当の意味での納得という事は達也にはまだできそうになかった。
「寒くなってきたし、中に入りましょう」
雅は静かに達也と手を重ねた。
なぜかいつもよりその手は小さく感じた。
この続きも書いていたのですが、話として乗せるには続きが書ききれていなかったので、次回。この次はようやく甘い話です。
感想、評価、誤字脱字の報告ありがとうございます。特に感想は毎回ドキドキしながらお待ちしております。