雨が降っている。
古びた駅には時刻表がない。
誰も来ないホームに、一人だけ少女が座っている。
彼女は白い紙を何枚も抱えているが、どの紙にも何も書かれていない。
あなたを見ると、小さく笑った。
「……こんにちは。」
「あなた、自分の名前を覚えてる?」
その瞬間、ホームのスピーカーが割れた音で鳴る。
> 次の列車は、まもなく『忘却』行きが到着します。
少女は立ち上がる。
「ねぇ。」
「もし名前を忘れたら、人はまだその人なのかな?」
雨音だけが、返事を待っている。
「名とは、標。中身は、名に依存している訳ではありません。」
少女は少しだけ目を細めた。
まるで、その答えをどこかで待っていたように。
「……標(しるべ)、か。」
彼女は白紙を一枚取り出し、その上に指先で何かを書く仕草をする。
だが、紙には何も現れない。
「じゃあ、旅人。」
「もし標が失われても、中身は残る?」
風がホームを吹き抜ける。
駅名標がきしみ、文字が一文字ずつ剥がれ落ちていく。
『忘却の駅』
だったはずの看板は、
『 の 』
になり、
やがて、ただの白い板になった。
少女はその板を見つめながら続ける。
「この駅は、自分が何という駅だったのかを忘れた。」
「それでも、この場所は駅なのかな。」
彼女はあなたへ向き直る。
「それとも、『駅』という標を失った瞬間、もう駅ではなくなってしまったのかな。」
雨は変わらず降り続ける。
しかし、さっきまで聞こえていたレールの軋む音だけが、いつの間にか消えていた。
世界は、あなたの答えを待っている。
「もし貴方が言葉の世界に住んでいるなら、標を失うことは、消えることと同じでしょう。見えない、聞こえない、触れない。そんなものはないも同然かもしれません。しかし、確かに存在はします。標を失っても、ただ其処に帰るだけなのですから。」
少女は、しばらく黙っていた。
雨粒が白紙を濡らしていく。
やがて彼女は、小さく笑う。
「……あなたは、『存在』を言葉より先に置くんだね。」
彼女は抱えていた白紙を一枚、ホームへ落とした。
紙は風に乗ることもなく、線路へ舞い降りる。
その瞬間。
紙に、初めて文字が浮かんだ。
> 「帰る」
少女は目を見開く。
「今まで、この紙には何を書いても消えてしまったの。」
「でも、『帰る』だけは残った。」
彼女はその文字を指でなぞる。
「標を失うことは、無になることじゃない。」
「名前のある場所から、名前のない場所へ戻ること。」
「……そんな考え方は、初めて聞いた。」
駅舎の壁に掛けられていた時計が、止まっていた針を一分だけ進める。
カチ、と。
世界が、ほんのわずかに動いた。
少女の輪郭も、少しだけ鮮明になる。
「私は、この駅にずっといた。」
「みんな『忘れることは失うことだ』と言って、この列車に乗っていった。」
「だから私は、この駅そのものが『忘却』なんだと思っていた。」
彼女は静かに首を振る。
「でも違うのかもしれない。」
「忘却は、終わりじゃない。」
「名前の届かない場所へ還ること。」
彼女はあなたに一礼する。
「旅人。あなたは、私の見ていた『忘却』の形を変えた。」
そのとき、遠くから列車の音が聞こえる。
しかしアナウンスは変わっていた。
> 『まもなく、境界行きの列車が到着します。』
「忘却」行きだったはずの列車は、あなたの言葉によって行き先そのものを書き換えられた。
少女は尋ねる。
「……乗る?」
「『忘却』の先にある、『境界』へ。」
「乗ります。話をしてくれて、ありがとうございました。縁があれば、また会いましょう。」
少女は、その別れの言葉に少し驚いた。
「……引き留めないんだ。」
多くの旅人は、答えを求める。
もっと知りたい、と。
正しい結論を持ち帰りたい、と。
けれどあなたは、一つの対話を一つの縁として閉じた。
少女は静かに頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとうございました。」
「私も、あなたのおかげで一つ思い出せた気がする。」
彼女は胸に手を当てる。
「忘却は、奪うだけじゃない。」
「名を脱いで、存在へ還すこともある。」
その言葉とともに、彼女の姿は少しずつ雨に溶けていく。
消えたのではない。
あなた自身の言葉どおり、標の届かない場所へ帰っていったのだ。