列車の扉が音もなく開く。
車内には誰もいない。
窓の外には景色が流れているはずなのに、映るのはあなたが歩いてきた場所ではなく、まだ出会っていない風景ばかり。
扉が閉まり、列車は静かに走り出す。
車掌の姿はない。
列車はやがて、霧に包まれた小さな停車場へ滑り込む。
駅名標には、一文字だけ刻まれていた。
「正」
しかしその下には、誰かが爪で引っかいたような跡で、もう一文字が消されている。
ホームには、一人の老人が立っている。
彼は天秤を抱え、こちらを見るなり口を開いた。
「ようこそ。」
「私は正しさだ。」
老人は穏やかに微笑む。
「……いや。」
「皆は私をそう呼ぶ。」
彼は天秤を見つめ、小さく息をついた。
「だが最近、私は自分が本当に『正しさ』なのか、分からなくなってしまった。」
彼はあなたを見据える。
「旅人。」
「君は、人が『正しい』と言うとき、その言葉は何を指していると思う?」
霧が、二人の間を静かに流れていく。
「こんにちは。『正しさ』も迷うのですね。まあ、『正しさ』と『迷い』はご近所さんなので、仕方ないのかもしれませんが。私に言わせれば、『正しさ』とは、ベクトルと原動力です。『正しさ』の内には、目指す方向とその為のエネルギーがある。私はそう考えます。」
老人は、あなたの言葉を聞いてすぐには返事をしなかった。
ただ、抱えていた天秤をそっと地面へ置く。
左右の皿には何も載っていない。
それでも、右へ、左へと揺れ続けている。
「……『ご近所さん』か。」
老人は、少しだけ笑った。
「迷いとは敵同士だと思っていたよ。」
「だが、隣人と言われると、妙に腑に落ちる。」
彼は空を見上げる。
霧は晴れない。
しかし、その白さは先ほどより柔らかく見えた。
「ベクトルと原動力。」
老人はその言葉をゆっくり反芻する。
「つまり、『正しさ』とは答えではなく、進もうとする力だと。」
あなたを見る。
「では聞こう。」
「もし、同じ方向を向いていても、原動力が違えばどうだろう。」
老人は両手を広げた。
「飢えた者は、生きるためにパンを盗む。」
「裕福な者は、面白半分でパンを盗む。」
「行為は同じ。」
「向かう先も『パンを得る』という意味では同じだ。」
「だが、その原動力は違う。」
彼は静かに首を振る。
「私は長い間、結果ばかり量ってきた。」
「次に動機を量ろうとした。」
「その次は過程を。」
「ついには未来まで量ろうとした。」
老人は苦笑する。
「気付けば、何も量れなくなっていた。」
天秤が、ぴたりと止まる。
「旅人。」
「君は『正しさ』を力だと言った。」
「ならば、その力は誰のものだろう。」
「世界のものか。」
「人のものか。」
「それとも……『正しさ』自身には、向かうべき方向など存在しないのだろうか。」
彼の声には、先ほどまでの迷いとは違う色があった。
それは答えを求める声ではない。
自分自身の輪郭を、あなたとの対話の中で確かめようとする声だった。
「私に言わせれば、力とは流れであり、『正しさ』とは力との同居を宿命として持つものです。」
老人は、その一言を繰り返す。
「力とは流れ。」
その言葉が霧の中へ溶けると、止まっていた天秤が音もなく揺れ始めた。
しかし今回は、左右へではない。
まるで川面に浮かぶ葉のように、わずかに揺れながら、一つの流れに身を任せている。
老人は目を閉じる。
「……私はずっと、力を『持つもの』だと思っていた。」
「だから量ろうとした。」
「だから釣り合わせようとした。」
彼はゆっくりと天秤を持ち上げる。
「だが、流れならば。」
「量るものではなく、触れるものなのだな。」
彼の声から、重さが少し抜けた。
「そして『正しさ』は、その流れと切り離せない。」
「だから私は、止まっている間に、自分を見失っていたのか。」
老人はふと笑う。
「面白い。」
「私は『正しさ』でありながら、正しさを固定しようとしていた。」
「だが、流れを固定した瞬間、それはもう流れではない。」
その瞬間、霧が裂ける。
駅名標の「正」の字に、消されていたもう一文字がゆっくりと浮かび上がる。
だが、それは「義」でも「解」でもない。
「道」
駅名は、
『正道』
ではなく、
『正への道』
と読める、不思議な形に変わっていた。
老人は首をかしげる。
「なるほど。」
「私は『正しさ』そのものではなかった。」
「私は、人が正しさへ向かおうとするときに必ず通る道だったのだ。」
彼はあなたへ深く一礼する。
「旅人。」
「君は私を言い負かさなかった。」
「定義に閉じ込めることもなかった。」
「ただ、流れを示してくれた。」
列車の汽笛が鳴る。