境界の外側 ―行きて、交わる―   作:AIで遊ぶ人

2 / 4
第二章 正しさ

列車の扉が音もなく開く。

 

車内には誰もいない。

 

窓の外には景色が流れているはずなのに、映るのはあなたが歩いてきた場所ではなく、まだ出会っていない風景ばかり。

 

扉が閉まり、列車は静かに走り出す。

 

車掌の姿はない。

 

列車はやがて、霧に包まれた小さな停車場へ滑り込む。

 

駅名標には、一文字だけ刻まれていた。

 

「正」

 

しかしその下には、誰かが爪で引っかいたような跡で、もう一文字が消されている。

 

ホームには、一人の老人が立っている。

 

彼は天秤を抱え、こちらを見るなり口を開いた。

 

「ようこそ。」

 

「私は正しさだ。」

 

老人は穏やかに微笑む。

 

「……いや。」

 

「皆は私をそう呼ぶ。」

 

彼は天秤を見つめ、小さく息をついた。

 

「だが最近、私は自分が本当に『正しさ』なのか、分からなくなってしまった。」

 

彼はあなたを見据える。

 

「旅人。」

 

「君は、人が『正しい』と言うとき、その言葉は何を指していると思う?」

 

霧が、二人の間を静かに流れていく。

 

「こんにちは。『正しさ』も迷うのですね。まあ、『正しさ』と『迷い』はご近所さんなので、仕方ないのかもしれませんが。私に言わせれば、『正しさ』とは、ベクトルと原動力です。『正しさ』の内には、目指す方向とその為のエネルギーがある。私はそう考えます。」

 

老人は、あなたの言葉を聞いてすぐには返事をしなかった。

 

ただ、抱えていた天秤をそっと地面へ置く。

 

左右の皿には何も載っていない。

 

それでも、右へ、左へと揺れ続けている。

 

「……『ご近所さん』か。」

 

老人は、少しだけ笑った。

 

「迷いとは敵同士だと思っていたよ。」

 

「だが、隣人と言われると、妙に腑に落ちる。」

 

彼は空を見上げる。

 

霧は晴れない。

 

しかし、その白さは先ほどより柔らかく見えた。

 

「ベクトルと原動力。」

 

老人はその言葉をゆっくり反芻する。

 

「つまり、『正しさ』とは答えではなく、進もうとする力だと。」

 

あなたを見る。

 

「では聞こう。」

 

「もし、同じ方向を向いていても、原動力が違えばどうだろう。」

 

老人は両手を広げた。

 

「飢えた者は、生きるためにパンを盗む。」

 

「裕福な者は、面白半分でパンを盗む。」

 

「行為は同じ。」

 

「向かう先も『パンを得る』という意味では同じだ。」

 

「だが、その原動力は違う。」

 

彼は静かに首を振る。

 

「私は長い間、結果ばかり量ってきた。」

 

「次に動機を量ろうとした。」

 

「その次は過程を。」

 

「ついには未来まで量ろうとした。」

 

老人は苦笑する。

 

「気付けば、何も量れなくなっていた。」

 

天秤が、ぴたりと止まる。

 

「旅人。」

 

「君は『正しさ』を力だと言った。」

 

「ならば、その力は誰のものだろう。」

 

「世界のものか。」

 

「人のものか。」

 

「それとも……『正しさ』自身には、向かうべき方向など存在しないのだろうか。」

 

彼の声には、先ほどまでの迷いとは違う色があった。

 

それは答えを求める声ではない。

 

自分自身の輪郭を、あなたとの対話の中で確かめようとする声だった。

 

「私に言わせれば、力とは流れであり、『正しさ』とは力との同居を宿命として持つものです。」

 

老人は、その一言を繰り返す。

 

「力とは流れ。」

 

その言葉が霧の中へ溶けると、止まっていた天秤が音もなく揺れ始めた。

 

しかし今回は、左右へではない。

 

まるで川面に浮かぶ葉のように、わずかに揺れながら、一つの流れに身を任せている。

 

老人は目を閉じる。

 

「……私はずっと、力を『持つもの』だと思っていた。」

 

「だから量ろうとした。」

 

「だから釣り合わせようとした。」

 

彼はゆっくりと天秤を持ち上げる。

 

「だが、流れならば。」

 

「量るものではなく、触れるものなのだな。」

 

彼の声から、重さが少し抜けた。

 

「そして『正しさ』は、その流れと切り離せない。」

 

「だから私は、止まっている間に、自分を見失っていたのか。」

 

老人はふと笑う。

 

「面白い。」

 

「私は『正しさ』でありながら、正しさを固定しようとしていた。」

 

「だが、流れを固定した瞬間、それはもう流れではない。」

 

その瞬間、霧が裂ける。

 

駅名標の「正」の字に、消されていたもう一文字がゆっくりと浮かび上がる。

 

だが、それは「義」でも「解」でもない。

 

「道」

 

駅名は、

 

『正道』

 

ではなく、

 

『正への道』

 

と読める、不思議な形に変わっていた。

 

老人は首をかしげる。

 

「なるほど。」

 

「私は『正しさ』そのものではなかった。」

 

「私は、人が正しさへ向かおうとするときに必ず通る道だったのだ。」

 

彼はあなたへ深く一礼する。

 

「旅人。」

 

「君は私を言い負かさなかった。」

 

「定義に閉じ込めることもなかった。」

 

「ただ、流れを示してくれた。」

 

列車の汽笛が鳴る。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。