うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
慌(あわただ)しい城を抜け、騒ぎの気配を追い、走る。
こんな時、少数である雇兵団(アンクァウラ)は機動力の点で圧倒的に有利だ。
個々好き好きに進路をとった某(それがし)たちは、整然と進む軍の兵を追い抜き、逸早(いちはや)く現場に辿りついていた。
咆哮に震える深緑の森、巨木の群れを前にして、思わず足を止める。
「この、森は……」
人の齢を遥かに越える黒々とした木々。
神代の森は独特の霊気を放ち、排他的な気配に満ちている。
濃密な空気は水のような、あるいは毒のような重さを伴い、一歩を踏みこむ事すら躊躇わせた。
それでも、進まぬわけにはいかない。
折り倒される木々の悲鳴と共に、獣の咆哮が確かな戦いの気配を運んできているからには。
わずかな気がかりに隣を見る。
『――クェセ、アルルゥ、ポトゥム、ソトゥカイ――』
森の母(ヤーナマゥナ)は静かな祈りを捧げた後、凛としたまなざしを闇の奥へと向けた。
それだけで、少しは気配の禍々しさが薄れた気がする。
「トラ、いく」
「よし」
覚悟は決まった。
アルルゥを乗せたムックルと共に、森への一歩を強く踏む。
更に一歩、また一歩。
歩みが疾駆に変わる頃、重い水のようだった森の気は、身の内で燃える炎に変じていた。
進むほどに流れていく木々と枝葉。
耳を過ぎていく風の音は、自らが切り出したもの。
その中で、さらに強くなる咆哮と衝撃の響き。
刹那で飛び去っていく緑色の風景には、明確な変化が現れていた。
巨大な爪と、巨大な刃による傷跡が。
――近い――
思い、気を締めた次の瞬間、
目に飛びこんできた光景に、勢いのすべてを止められていた。
『ヴオオオオオオオ!!』
一つは巨大な獣の姿。
その巨躯は、ムックルをも凌ぐ灰色熊(グルィボゥ)。
吼える巨獣は赤い瞳に怒りを燃やし、巨木のような双腕を振り回していた。
触れるもののことごとく、神代の齢を経た木々を、枯れ木のように打ち砕く。
圧倒的な破壊の力は自然の猛威そのもので、人の身で近づくなど考えにすら及ばせない。
――にも関わらず。
もう一つの姿は、その前に立ちとどまっていた。
「ハアアアアアアアアア!!」
獣の咆哮を打ち消さんばかりの叫びを上げ、襲いかかる暴力のすべてと向き合っている。
小さな人影は豪腕の一撃一撃を、鉄塊でもって打ち払っていた。
いや、それは、巨大な剣だ。
身の丈の三倍はある剛剣を、少女は灰色熊(グルィボゥ)に負けぬ威力で繰り出している。
「すご、い……?」
幻想的というよりは悪夢めいた光景に、力を揮うその主が小さな女の子である違和感を、一瞬本気で忘れていた。
身の丈などユズカ殿ほどもない。
見ているものは未だ信じられないが、現実であることは間違いのない事実だ。
ようやく思い至った加勢の念に、足を前へと持ち上げかけたその瞬間、
『ゴアアアアアアア!!』
少女の一撃に弾かれ、獣の巨躯が某(それがし)の上に降ってきた。
「のわ?」
慌てて避けたその場所に、灰色熊(グルィボゥ)が沈み、潰れる。
意識を失いでもしたのか、そのままピクリとも動かない。
あまりといえばあまりな光景。
声を失くした某(それがし)に、前から声が飛んでくる。
「そんなところにいると危ないですわよ」
幼くも軽やかな声は紛れもなく、剛剣を振るっていた少女から放たれたものだった。
短い黒髪に円(つぶ)らな瞳。
虎を思わせる大きな耳。
歳の頃は七か、八か。
幼いながらも大人びた笑みは、立ち振る舞いにも似つかわしい。
何故か首には、剣奴(ナクァン)がするような鋼の輪がはめられていた。
「い、や、某(それがし)は……」
「カルラ、おねーちゃん?」
放心した言葉は、ほぼ同時に。
横から聞こえてきたアルルゥのつぶやきは、多分に疑問を含んだものだった。
自分でも信じられない、という響きだ。
無理もない。
剛剣を肩に担いでいるとはいえ、少女の姿はアルルゥが姉と呼ぶには幼すぎる。
だが、当人はそのつぶやきに、某(それがし)たちとは異なる反応を示していた。
「あらあなた。
お母さまをごぞんじなの?」
「おかーさん?」
「ええ。
カルラはわたしのお母さまの――」
「カリン!」
自慢げな声は、叫ぶような呼びかけに遮られた。
後ろに現れたのは、怒りの相を顕(あら)わにしたデリホウライ皇。
そのまま某(それがし)たちを気にもかけず、少女の前へと進んでいく。
途中の獣も踏み越えて。
「お前はまた、勝手にそんなものまで持ち出して」
「そんなものとは失礼ですわね。
お母さまからの大切なおくりものですのに」
「まったく、姉上も余計なものを」
「そんなことより叔父さま。
そんなところにいると危ないですわよ」
「なに――」
デリホウライ皇が疑問を結ぶより先に、その意味が背を襲う。
『ゴアアアアアアアアア!!』
再び立ち上がった灰色熊(グルィボゥ)が、咆哮に続いて鋭い爪を振り上げていた。
「デリホウライ皇!」
慌てて剣を握るが、既に遅い。
刃を疾らせる意識よりも遥かに速く、獣の凶爪はデリホウライ皇を貫いていた。
――場に残された気配だけを。
「フンっ!」
神速の身こなしは、事も無げに振り返り様の一撃を叩きこんでいた。
鋼鉄の手棍が容赦なく灰色熊(グルィボゥ)の腹へと吸いこまれ、その巨躯を木々の狭間へ弾き飛ばす。
尾を引いた苦痛の叫びは、そのまま闇へと消えていき、そして、返ってこなかった。
「な……」
「しまった。
殴りすぎたか」
「はあ。また逃がしましたわ。
叔父さまのせいで」
声も出せぬ某(それがし)の緊迫を、二人はやはり気にもせず、気軽な言葉を交わしていた。
場所の神妙さも無関係に、日常の雰囲気を漂わせている。
「……あのなぁカリン。
元はといえばお前が勝手に
飛び出してきたからだろうが。
もう少しで包囲も完成していたものを」
「知りませんわ、そんなこと。
あとはトドメだけでしたのに」
「そう簡単に仕留められる相手でない事は
わかっているだろう。
お前は城で大人しくしていればいいんだ」
「そんな退屈なことしてられませんわ。
だいたい叔父さまは――」
繰り広げられていく口喧嘩。
次第に団の皆が集まってきたが、説明のしようもない。
二人のやりとりが終わるまで、某(それがし)たちにはただ黙って見ている事しかできなかった。