うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
『ゴアアアアアアアアアア!!』
響く怒りの咆哮と共に、振り下ろされた双腕が地を砕く。
飛散する石片を、皆はかろうじて避け躱(かわ)した。
だが、終わらぬ猛攻に対して効果的な対応であるとは、とても言えない。
洞の口に陣取り、疲れを見せぬ灰色熊(グルィボゥ)の威を前に、『ティティカルオゥル』は混乱から脱しきれずにいた。
「どうなってんだい。
敵の頭ってのは、
あのゴツいのだったのかい?」
「いや、首魁はどうやら
そこに転がっている奴で、
内部での抗争が原因だったらしく――」
「なんだこの煙は、気分が悪いっ」
「吸うな馬鹿っ。
白霊蓮(サラカジャ)の香だぞ」
「内部ってなに? 抗争って?」
「だから、連中の目的は地獄(ディネボクシリ)の開放で、
それに反する連中が……」
「地獄(ディネボクシリ)?
なんだいそりゃ」
「だから!」
終始も定まらぬ会話を交わしながらでは、混乱するのも無理もない。
策を練る余裕もなく、ただ右往左往するばかり。
唐突に灰色熊(グルィボゥ)へ向かったラクシャインの動きにも、即座には対応できなかった。
「なっ」
「待て……」
某(それがし)たちの制止は元より、振り下ろされる爪をも問題とせず、隻眼の武士は灰色熊(グルィボゥ)の懐に潜りこむ。
直後、浮き上がった獣の巨躯が、音もなく投げ飛ばされた。
「う?」
「うおわっ」
『グロアア!』
それは、小さな苦悶を吐いて某(それがし)の前に落ちた。
代わり、洞の口にはラクシャインが立っている。
見知った、悠然たる構えをもって。
「後は好きにするがいい」
「ふ、ふざけるなっ。
待て!」
そのまま去りゆく後姿に、リネリォ殿の叫びは届かない。
立ち上がった灰色熊(グルィボゥ)が、再び進路を遮っていたからだ。
狂ったままの赤い瞳には、対象を定めぬ憎悪が燃えている。
何人たりとて、このまなざしを欺(あざむ)いて先に進む事はできまい。
「リネリォっ」
「……クっ」
それを解する程度の理性は残っていたらしい。
いや、今までのリネリォ殿なら、無謀にも突破しようとしていただろう。
やはり、先のやりとりは、少なからぬ影響を与えているようだ。
などと、冷静に考えている余裕はない。
まずはこの状況をなんとかしなければ。
先陣を切ったのは、下から聞こえてきた幼い声だった。
「好都合ですわ。
決着をつけてあげましょう」
気負いも恐怖もない自然体のまま、カリンは自身の剛剣を揮う。
腕と剣、爪と刃。
互いの一撃が交錯し、釣鐘にも似た重い音を響かせた。
宙に散るのは火花ではなく、刻まれた衝撃の痕跡そのもの。
強すぎる力は大気を割り、小さな歪みを残していた。
だが、森での攻防とは異なり、この場には遮蔽物がない。
一撃の威力が五分だとしても、双腕と一刀では手数の面で圧倒的に不利だ。
体格の差も如実に現れている。
終始余裕を見せていたカリンが、ついに苦しげな表情を浮かべ始めた。
「カリリン!
はやく助けなきゃ」
「し、しかし、
アレが某(それがし)たちの手に負えるのか……」
「負えなくても、なんとかするっ!」
裂帛の気合と共に、宙を一条の閃きが奔(はし)る。
鉄の矢は唸りを上げ、交戦するカリンの頭上を掠めるほどの精密で、一直線に灰色熊(グルィボゥ)へ向かった。
そのまま鋼の獣毛を貫き、左の肩口に突き刺さる。
『ガアアアアアアア!!』
痛みとも怒りともつかぬ叫びの間に、カリンは灰色熊(グルィボゥ)から離れた。
顔には驚愕が浮かんでいる。
当然だ。
森の主(ムティカパ)の守りを貫く射撃など聞いたことすらない。
思わずその射手を見る。
「この程度を始末できないようじゃ、
アタシたちのこれからが思いやられるってもんだよ」
荒い息を吐きながらも、ティティカ姉は不敵な笑みを崩さなかった。
そう、確かにその通りだ。
同じ場所にいたのでは、先に進むことはできない。
まずは、一歩を踏みださなければ。
団長の音頭に皆の意識が集束する。
ただ一つの目的、灰色熊(グルィボゥ)を討つことに。
最初に動いたのはアルルゥだった。
「ムックル!」
『ヴオオオオオオオオゥ!』
カリンへの追撃を遮るように、放したムックルを嗾(けしか)ける。
『グロオオオオオオ!』
『ヴウゥゥゥ!』
ぶつかり、互いに牙を突き立てあう二頭の巨獣。
咬みあう衝撃は足場を砕き、岩の壁をも崩していく。
大地を転がるだけで破壊を撒き散らすその様は、どこか悪夢めいていた。
今さら悪夢の一つや二つ、増えた所でどうという事はないが。
『グヴゥル!』
『ギオオオオ!』
喉首へと喰らいついたムックルを、灰色熊(グルィボゥ)が振り払う。
「ムティ、
『火の陣(ヒム・トゥスカイ)』!」
「は、はいっ」
同時にカミュが動いた。
ムティ殿と呪を合わせ、火神(ヒムカミ)の力を集束させる。
それは蠢(うごめ)く闇から生まれ、すべての存在を焼く炎。
鬼火めいた燐光は、次第に数を増していく。
集った光は業火と化し、灰色熊(グルィボゥ)の貌を包みこんだ。
『ゴオアアア!?』
闇を払った閃光の内から、響く苦痛の叫び声。
「おおおおお!」
「らあああああ!!」
その源へと向けて、槍を構えた騎兵の姉弟が突撃する。
双刃の旋風を見事に重ね、ウマ(ウォプタル)の加速をも威力に乗せて。
炎を散らす熊の腕の、その下に叩きこまれた一撃は、釣鐘を割るような轟音を響かせた。
『ガ、フ……!』
のけぞる灰色熊(グルィボゥ)の身に生じる、必死必殺のわずかな隙。
瞬間、某(それがし)は踏みこんだ。
一足をもって距離を詰め、同時に刀を抜き放つ。
落ちてくる巨木のような腕は、やたらと遅い。
鋭い爪を頬に掠めさせながら、近づく首にへと斬りつけた。
閃く軌跡。
宙を斬る音。
時が再び動き出す前に、刃を鞘に滑らせ、戻す。
刹那の出来事に我が手を疑う。
本当に、今の動きを自分がこなしたのか?
だが、感覚は残っていた。
肉を斬り骨を断つ、疑いようのない確かな感触が。
『ガ……ァ……』
咆哮はもう聞こえてこない。
これから先、二度と響く事もない。
ゆっくりと納めた刃の最後、小さな鍔鳴りの音と共に、灰色熊(グルィボゥ)の貌が落ちてきた。
それは一度地で跳ねた後、転がり、赤い輪を描き、某(それがし)を見つめて、ようやく止まる。
残された、立ち尽くす巨躯の首からは、血の雨が噴き出し続けていた。