うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
流民たちの蜂起による騒乱は不穏に満ちた街を抜け、今や城下の中核にまで達しようとしていた。
屋を壊し、蔵を割り、通りをさらに中心へ向かって。
流民の怒りは街の不満を喰らい、向きも定めず広がっていく。
その勢いたるや、枯葉の山に放たれた炎の様を思わせた。
我を忘れた民の群れは人の言葉を忘れさり、ただ流れるがまま触れるものすべてを崩していく。
城の兵たちが見せる威も、その進みを妨げることは叶わないだろう。
あまり時間はない。
路地の一つに身をひそめ、近づいてくる騒ぎを聞きながら、某(それがし)はアルルゥのまなざしにうなずきを返した。
先にはトゥスクルの高官が一人、マルシェロの屋敷が置かれている。
「大丈夫か、本当に」
「さあ……
アルルゥを信じましょう」
同じように息を殺したトウカ姉の問いかけに、拭(ぬぐ)いきれぬ不安を返した時、門前にそれは現れた。
灰色の、見上げるほどの巨大な影だ。
「ぬおわ?」
「な、なんだ、こいつは?」
『グゥルオオオゥ!』
門番の上げた驚きに、影が咆哮を返す。
その威は穂先を向けられても変わらず、むしろ一歩を近づき迫る。
正体は分からずとも、いや、わからないからこそ、押しよせる恐怖は並々ならぬものであろう。
「な、なんなんだ、
くるな、くるなぁ!」
「く、曲者だっ、出会え!」
響き渡った叫びに応じ、門前には続々と兵が集まってきた。
一国の高官とはいえ、この混乱の中でずいぶんな数だ。
これを正面から相手にしていては、流石に身がもたなかっただろう。
「今のうち」
「よし」
獣の咆哮と人の声が周囲の音をかき消している間に、二人は塀を上っていた。
トウカ姉はともかく、アルルゥも堂にいった身のこなしだ。
日頃なにをしているのか、軽く問い質(ただ)したくもある。
「あっちは大丈夫なのか?
後で怒るぞ、あいつ」
「だいじょうぶ。
後でトラがいっぱいゴハンあげるから」
「……聞いてないぞ、そんな話は」
食事より先に某(それがし)に喰いついてきそうな気がする。
まあ、後のことは後で考えるとしよう。
灰をかぶったムックルの雄姿を一度だけ振り返り、二人の後を追って塀を跳び越えた。
ティティカ姉の号令の後、『ティティカルオゥル』の面々は三つの班に分かれ、各々(おのおの)が疑わしい者たちの下へと向かった。
混乱に乗じて彼らの住居に忍びこみ、その嫌疑を確かめる算段である。
某(それがし)はアルルゥ、トウカ姉の二人と共に、マルシェロ殿の屋敷へと侵入した。
あの実直そうな印象からは想像しにくいが、ティティカ姉たちの調べに上がったからには、疑わざるを得ない。
裏があると言われれば、確かに疑わしい相手ではある。
ともあれ某(それがし)は、門前の騒ぎに引かれて守りの薄くなった屋敷の中を走っていた。
それでも残っていた見張りを切り伏せていくトウカ姉の後を。
「まったく、
無駄に数が多いな」
「よほど臆病なのか、
守るべきものがあるのか。
しかし、トウカ姉。
急いでいるとはいえ――」
「な、なんだお前たちはっ?
曲者――」
「ハッ!」
進む先から現れる兵を、上がる悲鳴より先に斬り落とす。
峰打ちの一撃は、相手の意識を鮮やかに刈りとっていった。
恐ろしいほど見事な手際に思わず感心してしまうが、やはり斬りっぱなしはまずいだろう。
「フ、この程度の者が何人こようが
某(それがし)の敵では――」
「いたぞ、曲者だ!」
「まてい、この狼藉者が!」
「はへ?」
聞こえてきた背後からの、波打つような無数の声に、トウカ姉の動きが大きく揺れた。
鞘に収めようとした剣が盛大に左手を突く。
「な、なぜバレたのだ?」
「……トウカ姉。
そりゃ、これだけ派手に張り倒せば
気づかれもするでしょう」
「はっ?
しまった、某(それがし)としたことが」
なにか考えがあるのかと黙っていたが、いつもの悪い癖だったらしい。
某(それがし)はため息を吐き、殿(しんがり)の務めを果たそうと剣を抜きかけ、
「トラ、こっち」
「アルルゥ?」
アルルゥの唐突な導きに、強引に進路を変えさせられていた。
手を引かれた先は、真横にあった部屋。
広い一室は奥と左右に広がっている。
とりあえず抜けた口の上部を斬り落とし、後続の進路を絶ってから、止まらぬアルルゥの後を追った。
「どうした。
マルシェロ殿を見つけたのか」
「ちょっと違う。
知ってる匂いがする」
「知ってる匂い?」
「ん。
トラと同じ匂い」
「某(それがし)と、同じ……?」
脳裏を過ぎった小さな疑問が明確な答えを得るまでに、要した時はごくわずか。
目指す先の戸を斬り飛ばすまでの間だけ。
現れた長身の後姿は、某(それがし)のよく知るもので、
振り向いたその顔もまた、思った通りのものだった。
「……リュウガ、兄……」
「タイガ。
それに、トウカ姉か……」
リュウガ兄はまるで変わっていなかった。
堂々たるたたずまいや雑把な尾髪。
母譲りの細面に、父に似た強いまなざし。
そして、刃のような雰囲気も。
トウカ姉を前にしてわずかに懐かしさを含ませながら、それでもなにも変わりはしなかった。
「なんだ、貴様ら。
なぜここに」
久方ぶりの再会に、他の存在は邪魔にしか感じない。
捜し求めてきた存在、リュウガ兄のすぐ隣でわめいているマルシェロにしても、今はただ目障(めざわ)りなだけ。
「そうか、この騒ぎに便乗して……。
だが、こうなってはただの盗人と変わらぬ。
私の屋敷に無断で侵入した者を私の裁量で裁くのは、
当然の権利であり義務だ。
しかし、簡単には終わらせぬぞ。
貴様らに斯様(かよう)な愚行をそそのかしたのは誰か、
時間をかけてはっきりと――」
「黙れ」
「なに?」
某(それがし)のつぶやきに、マルシェロの慌てた口調が止まる。
「貴様、何様の――」
「少し、黙っていろ」
重ねられようとする言葉を、あらん限りの殺意をこめ、問答無用で斬り捨てる。
邪魔するなら、次の一声で殺す。
念じた思いはきちんと伝わったらしい。
マルシェロは口を開けたまま、息すら吐こうとしなくなる。
水を打ったように静まった場の中で、某(それがし)の放った高い声は、我ながら幼い響きを宿していた。
「リュウガ兄。
今度は、答えてもらいます。
あの女の正体、なにを企(くわだ)てているのか……
リュウガ兄は、なにを考えているのですかっ?」
「…………」
「兄上! 答えて――」
返されぬ答えに踏み出しかけた一歩は、目の前に伸びたトウカ姉の右腕に遮られた。
まなざしは、真っ直ぐリュウガ兄を見据えている。
黒い剣に手をかけた、一挙で刃を抜き放つ構えを、敵を見る鋭さで。
背筋の凍る感覚に、ようやく気がついた。
あと一歩、いや、わずかにも脚を進めていれば、某(それがし)の首はリュウガ兄の一太刀によって、永遠に胴から離れていただろう。
トウカ姉の気がさらに強まる。
流石に、応じずにはいられなかったらしい。
表情一つ変えぬまま、リュウガ兄はようやく重い口を開いた。
「お久しぶりです、トウカ姉。
お元気そうでなにより」
「どうやら、正気のようだな」
冷静な言葉には冷静な声で。
リュウガ兄の視線を真っ向から受け止めながら、トウカ姉はただ静かに語りかける。
「今さら、里を下りたことは問わぬ。
エヴェンクルガの名に恥じるものでないのなら、
お前の信ずる道を往くがいい。
だが、その剣だけは置いていけ」
その内に、絶対の意思を確かにこめて。
「エヴェンクルガの宝剣『冥獄』。
それは天地の力を繋ぎ、大神(オンカミ)にすら至る剣。
ただの一振りが死を招き、
大いなる災いを呼ぶといわれる凶剣だ。
今のお前に持たせておくことはできぬ。
大人しく某(それがし)に渡せ」
「それはできません」
だが、大太刀の斬撃じみたトウカ姉の意思を前にしても、リュウガ兄は微塵も揺るがなかった。
あまりの威圧に揺れる尾髪を気にもせず、ただ淡々と自らの意を並べていく。
「姉上はなにも分かっていない。
里の言い伝えをただ盲目的に信じるだけで、
その真の意味を解そうともしていない」
「なに?」
「この剣には意味がある。
凶剣と呼ばれながらも長きに渡り、
我等エヴェンクルガに伝えられてきた意味が。
僕(やつがれ)は、ただ天命に従っているだけ。
善悪を超えた無垢なる意思に」
「ならば秘する必要はあるまい。
疚(やま)しさがないのであれば、
真意をその口で語ってみせろ」
トウカ姉の促(うなが)す声に、答えは返ってこなかった。
もたらされたのは無音。
大気まで止まってしまったかのような沈黙は、どこか死にも似た尊(とうと)さがあり、
それを破った言葉には、相応の覚悟が感じられた。
「……やめておきましょう。
姉上には理解して頂けますまい。
強者のために弱者を犠牲にしなければならぬ運命(さだめ)は」
「どういう意味だ」
「これ以上語ることはありません。
それでもというのであれば――」
それは、いや増す剣気と共に。
先の無音が嘘のように、室内には風が吹き荒れていた。
心だけが感じ取れる、嵐の如き殺意の風だ。
目を開けていることすら困難な威の中で、しかしトウカ姉は動じることなく、
「……いいだろう。
必ず聞かせてもらうぞ。
その口を斬り裂いてでも、な!」
愛剣を手に、死闘への一歩を踏み出していた。