うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
「ティティカ、姉……」
近づこうとして、知らず足を止めていた。
数多の戦(いくさ)を越えてきた経験が囁(ささや)く。
それは、頭で否定しても、心が納得してしまっている事実。
ティティカ姉の胸に穿(うが)たれた傷は、明らかに致命傷だった。
同じものを感じているのだろう。
リネリォ殿もテルテォも、沈痛な面持ちで見守るばかり。
一言も発することの出来ない武士(もののふ)の自分が、今だけは無性に口惜(くちお)しい。
慟哭(どうこく)する三人を前にしてはなおさらだ。
顔を血と涙で濡らしながらも、アルルゥは治療の手を止めようとはしない。
「おねーちゃん、ティティカおねーちゃんっ。
やだ、だめ、だめっ」
「アルルゥ……」
「傷、ふさぐ。
血も、すぐにとめる。
こんな怪我、すぐになおる。
だから……」
「ありがと。
でも、もういいんだ。
その気持ちだけで――」
「やだっ!」
ティティカ姉のささやきにも耳を貸さず、アルルゥは懸命に手を動かす。
傷口に薬布を当て、間髪入れずに巻き締めながら、不安を叫びでかき消して。
「アルルゥ、いっぱい勉強した。
どんな怪我もなおせるように、
どんな病気でもなおせるように。
だいすきなひとが、いなくならないように……。
アルルゥ、もっといっぱいがんばるから。
だから……」
それでも血は止まらない。
流れ抜けていく命を前に、アルルゥはいつの間にか硬く目を閉ざしていた。
小さな肩を震わせながら、消えていく温もりにすがりつく。
「おねーちゃん、いかないで……」
「アルルゥ……」
怯えて揺れる黒髪に、ティティカ姉は優しく触れた。
死人めいた体を持ち上げ、それでも苦悶一つ浮かべることはない。
「ありがとう。
でも、ごめんよ」
「ティティカ、おねーちゃん……」
撫(な)でるように、梳(す)くように。
動きは遅く、たどたどしくも、確かな親愛をいっぱいにこめて。
顔には笑みが浮いていた。
口の端(はし)から血を流した笑みは、限りなく優しく、温かい。
「アルルゥの気持ちは、すごく嬉しいよ。
大切な人のために頑張ることは
これからも続けておくれ。
アルルゥならきっと、
なんでも治せる薬師になれるよ」
「じゃあ……」
「でも、これだけはダメだ」
だが、静かに告げる細い目は、一際(ひときわ)真剣を増していた。
それは常の陽気に潜(ひそ)めていた、揺らぐことのない確かな想い。
「いいかい。
人の命は一度だけのものだ。
すでに決した生き死にはどうにもならないし、
しちゃいけない。
それは誰にも、
神様にも、許されないことなんだ」
「おねーちゃん……」
「生きることを諦めるんじゃない。
死を、受け入れるんだ。
あるべきことをあるがままに、ね。
アタシの一族はそうやって生きてきたよ。
使命も、病も、運命も受け入れて」
「……でも、でもっ……」
アルルゥの声が揺れる。
血に濡れた想いを、きちんと受け止めようとしているのか。
震えるその身を、ティティカ姉は抱きしめた。
今や弱々しい細腕に、あらん限りの力をこめて。
「ティティカおねーちゃん……」
「ありがとうね。
アタシも、アルルゥが大好きだよ」
「っ、ぅ、ぅぅぅ……」
流れ続ける涙と血がアルルゥを濡らしていた。
頬を、顔を、体を、心を。
最後のぬくもりにすがりながら、アルルゥは声を押し殺している。
隣で涙に暮れているカリンへの、せめてもの配慮なのだろう。
「ティ、ティティカ姉様!」
「カリン……
なんだい、アンタまで。
子供みたいにわめいちまって」
「わたしは、まだ子供ですわっ。
姉様がいなくなったら、わたしは……
誰に甘えればいいんですの……」
泣きじゃくるカリンの姿に、日頃の大人びた様子は欠片もない。
母にすがる子のように、ただただ我を張るばかり。
それを、ティティカ姉は笑い飛ばした。
いつもと同じ、陽気な笑みで。
「わかってるのなら問題ないじゃないか。
甘える相手なら周りにたくさんいるだろう?」
「……わたしは、
ティティカ姉様がいいのですわ」
「やれやれ。
わがままだねぇ」
子供そのもののすねた声も、いまだ小さなその体も、すべてまとめて抱きよせる。
「これからもそうやって
みんなを振り回してやっておくれ。
カリンのまま、自分らしく、さ。
アタシからの、最後のお願いだよ」
「……そんなお願い、
聞きたくありませんわ」
「ふふ」
二人の妹を抱いたまま、ティティカ姉はカミュに目を向けた。
両手を胸に置き、涙を堪えている、もう一人の妹に。
「カミュにも色々と苦労かけたね。
かけられることも多かったけどさ」
「ティティカ姉様……
でも、カミュは楽しかったよ?」
「そうだね。
アタシもだよ。
本当に、退屈しないお転婆なお姫様だよ、アンタは」
いつもと変わらぬ様子のカミュの、細い声だけが泣いていた。
話を続けるその内に、変化は次第に表にも。
肩の震えはゆっくりと、手足や羽の先にまで進んでゆき、
「お転婆でも、いいよ。
カミュも、もっとティティカ姉様と一緒にいたいよ。
みんなと、一緒に……」
「カミュ……
わかってるんだろう?
アタシは、もう、ね……」
「でもっ、でも……」
閉ざした瞼(まぶた)は堰(せき)にならず、止めどない涙を溢(あふ)れさせていた。
差し伸べられた手に引かれ、カミュもティティカ姉の胸に導かれる。
三人をまとめて抱きながら、その声はどこまでも優しい。
「オンカミヤリューの姫であるアンタが背負ってるものは、
アタシよりもずっと重いんだろうね。
負けるんじゃないよ?
カミュには、みんながいるんだから」
「うん……」
「もちろん、アタシだって、ね」
「……うん……」
しばし、四人は静かに抱き合っていた。
温もりをわけあうように、その温かさを忘れぬように。
見ているだけで胸が痛むのは、傷ついたからではない。
同じ温もりを、某(それがし)たちも与えられているからだ。
「ムティ」
「はい」
「カミュを支えてやっておくれ。
大変だとは思うけど、
アンタにしかできないことだからね」
「はい。はい……」
涙ながらに短い返事をくり返すムティ殿の切なさが、嫌というほど理解できた。
告げられたその言葉を、彼は生涯忘れることはないだろう。
それは、続いて視線を向けられたテルテォも、また。
「アンタにも、悪いことしたね。
ごめんよ。信じてくれたのに、
騙(だま)すようなことになっちまって」
「なにを……
なにをおっしゃられる、ティティカ殿」
声はどこまでも深く、重く。
胸を張って答えるテルテォの姿は、自信と確信にあふれて見えた。
某(それがし)が目指すべき、理想の武士(もののふ)のように。
「貴女は、俺に道を示してくれました。
進むべき真の道を。
貴女の下で槍を揮えたことを、
俺は誇りに思います。
今までも、そしてこれからも」
「テルテォ……
ありがとうよ。
これからアンタの進む道に
幸多いことを祈ってるよ」
「それは面白くありませんな。
幸よりも敵の方が望ましい」
「はは、そうかい。
じゃあそうしとこう。
強い敵に恵まれるように、ね」
相変わらずの過剰な自信を前に、ティティカ姉は朗(ほが)らかに笑う。
いつもと変わらぬその笑みは、そのまま隣のリネリォ殿へ向けられた。
なんの憂(うれ)いも感じさせぬ、揺るがぬ信頼のまなざしで。
「リネリォ。
後のことは頼むよ」
「それは難しいな。
お前の代わりなど誰にも務まらん。
私に出来るのは、せいぜいアルルゥ様を
お守りすることぐらいだ」
「そのついでで構わないさ。
他の連中も面倒見てやっておくれ」
「ふむ……
約束はしかねるが、
まあ可能な範囲でな」
「そんなこと言って。
本当は放っておけないクセに」
クツクツと笑うティティカ姉に対し、リネリォ殿は迷惑そうな面持ちを見せていた。
それが本心でないことは、今や皆が知っているというのに。
一時(ひととき)、笑みの音が止む。
二人の視線は静かに絡みあっていた。
「もう一度一緒に飲みたかったね。
あの桜の下で」
「……飲めるさ。
私は、いつでも相手になるぞ」
「そう、だね。
ありがとうよ……」
それは、友愛と信頼に満ちたまなざし。
無言で通じあう両者の姿を、羨(うらや)ましくも誇りに思う。
この方の生き様に触れられたことを。
向けられた、温かくも厳しい笑みに、自然と姿勢を正していた。
「タイガ」
「はい」
「アンタは、強くなったよ。
剣だけじゃなく、心がね」
「ティティカ姉……」
「自信をもちな。
アンタは、このティティカ姉さんに認められた
武士(もののふ)なんだから」
偽りのない言葉と視線に、全身が粟立(あわだ)ち、震えた。
緊張が歓喜に変わる。
涙と共にこみ上げてくる、心の底からの熱い感激に、思い知った。
その言葉と想いこそ、某(それがし)の望み続けた本物の名誉であり、
決して堕としてはならぬ至宝なのだと。
「……身に余る光栄、
ありがとう、ございます。
『ティティカルオゥル』の旗に誓いましょう。
某(それがし)は生涯、
決してティティカ姉の名を穢すような真似はいたしません」
「その言葉に偽りはないね?
アタシの名は安くないよ?」
「無論。
……ティティカ姉が認めた武士(もののふ)は、
決して約束を違(たが)えません」
それは今の某(それがし)にとって、エヴェンクルガの血よりも濃く、重い約定。
トウカ姉の罵声と剣閃に曝(さら)されることになろうとも、曲げるつもりは毛頭ない。
この想いが挫(くじ)ける時は、すなわち、この生が終わる刻だ。
某(それがし)の定めた覚悟を、ティティカ姉は正しく受け止めてくれた。
まなざしが厳しさと真剣さを増す。
「……そうかい。
それじゃ、一つだけ守りな。
命を名誉より軽んじないと。
他人の命も、自分の命もだ」
「それは――」
「どんな苦境に立たされても
名誉の死に逃げるんじゃないよ。
屈辱にまみれ、汚泥をすすり、外道下劣と蔑まれても、
必ず生き抜いて目的を果たすんだ。
どれほど過酷な戦場に置かれても、
絶対に死ぬんじゃない」
……なんと残酷な言い分だろう。
信念のために死ぬことこそが武士(もののふ)の本懐だというのに、その道を閉ざせとは……
いや、違う。
そうではない。
閉ざされたのではなく、示されたのだ。
新たな、より困難な道を。
「どうだい。
約束できるかい?」
「……はい。
それが、ティティカ姉の想いであるなら」
「想いっていうか、願い、かな。
かわいい妹たちを、
これ以上悲しませたくないじゃないか」
語る声は、いつの間にか穏やかなものに戻っていた。
身をよせる三人の妹を、ティティカ姉は愛おしげに抱きしめる。
「アルルゥたちのこと、任せたよ?」
「それは、もちろん」
「そうだね。
言われるまでもないか」
『ヴォウゥ』
『キュイィィ』
「ああ。
ムックルとガチャタラも、その辺はしっかり頼むよ。
まだまだタイガだけじゃ心もとないからね」
笑いながらの言い草は、どこまでもいつものティティカ姉だった。
まなざしは、最後の一人に向けられる。
「さて、ニコルコ」
「ハ、ハイ?」
「最後に、アンタに言っておきたいことがある。
アタシと同じ、アンタにだ」
「ワタクシが、同じ……?
一体、なにが……」
首を傾(かし)げるニコルコに対し、ティティカ姉は言葉を続けていた。
阻(はば)む声を聞きもせず、ただ己の意思を示す。
「アンタがなにを抱えているかは知らない。
過去のことに興味はないし、
今アンタがなにを考えているかも
アタシにはわからない」
「ティティカ、様?
貴女は――」
「でも、これだけは覚えておきな。
誰がなんと言おうと、
アンタはアタシの家族だよ」
「っ……」
告げられた温かな言葉に、ニコルコは息を飲んだ。
動揺するその様は、今までに見せたことがないほどの慌て様で、
それも、すぐに落ち着いた。
「そ、そんな、恐れ多い……」
「アタシだけじゃない。
『ティティカルオゥル』のみんながだ。
いいかい?
人は血で繋がるわけじゃない。
心で繋がるもんなんだよ」
「心……」
「ああ。
アンタにも色々とあるはずだ。
苦しかったこと、悲しかったこと、
嬉しかったこと、楽しかったこと」
「そんな、そんな、ものは、俺には……」
「少なくとも、アタシの思い出の中にはアンタがいる。
大切な思い出の中に、ね」
止まらぬ、ティティカ姉の心からの意に触れて。
「アンタがどう考えるかは自由だよ。
でも、忘れないでおくれ。
アタシの、せめてもの置き土産だ」
「ティティカ、様……」
ニコルコは、それ以上口を開かなかった。
今はその目を硬く閉ざし、息を飲んで震えているばかり。
心を揺らすその様に、ティティカ姉は満足そうな笑みを浮かべていた。
本当に、心の底からの安堵の笑みを。
「ああ、流石に、喋りすぎたよ。
喉が渇くねぇ……
アルルゥ、最後に一杯だけ、いいだろ?」
「ティティカ、おねーちゃん……」
甘えるような声に従い、アルルゥは薬の袋を開けていた。
取り出した小さな瓶の、口から香るほのかな甘味。
気付けのためにと備えたものは、皆で求めた祝いの酒だった。
そっと差しだされた盃を前に、ティティカ姉は動きを止めた。
揺れる酒の音を聞き、深い感慨に沈むように。
だが、それも一瞬のこと。
小瓶に満ちた無色の酒を、ティティカ姉は一息で飲み干した。
そこに溶かした想いのすべてを、一滴たりとも残さない。
「……ふぅ、美味い。
アタシは幸せ者だね。
死に際を、こんなに美味い酒で、
迎えられ、たんだ、から……」
「ティティカ姉っ」「おねーちゃん!」「ティティカ殿!」
「姉様!」「ティティカ、様……」
一斉の呼びかけを聞きながら、ティティカ姉はほほ笑んでいた。
瞳がゆっくりと閉じていく。
その端から、小さな雫が流れ落ちた。
初めて見せる最後の涙は、ただ、その一筋のみ。
真紅に濡れた唇が、最期の言葉を紡ぐ。
「たのしかったよ、みんな……
ありがとう……
アタシの、大切、な………………」
それは、流れる血に乗って。
震える声はかすれて、揺れて。
すべての想いを伝える前に、光と共に消えていく。
閉じた目は、二度と開くことはなかった。