うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
鋼鉄の檻に囚われ早数日。
孤独に苛(さいな)まれながら、それでもアルルゥは気勢を保ち続けていた。
強気を失うこともなく、虎視眈々と逃れる機会をうかがっていた。
挫けそうになる心を奮い立たせたのは、その内から溢れてくる思い出。
父との、姉との、祖母との、友との、決して消えることのない記憶。
重ねてきた日々の営みは、彼女の心を強く強く支えていた。
いかなる卑劣な手段であろうと、今のアルルゥに膝をつかせることはできない。
……そう、卑劣な手段では。
人気のない廃れた道、止められた馬車上の檻の中で、アルルゥはたゆめるつもりのない緊張をほどかされていた。
決してその意図はないであろう、日々の営みを見せつけられて。
「リュウガ。
貴方も少しは手伝ってください」
「食料は獲ってきただろう。
さばいてもやったぞ」
「普通、両断しただけの鳥は
さばいたとは言いません」
夜営のために焚かれた火の近くからは、調理のやりとりが聞こえてきた。
いつもと変わらぬリュウガの声と、いつもと少しだけ違うハクビの声だ。
「僕(やつがれ)はエヴェンクルガだぞ。
主の剣となり楯となることが使命だ。
決して包丁になどならん」
「そんなことばかり言って。
炊事洗濯はおろか買い物すら
できないではありませんか、貴方は。
よく今まで生きてこれたものです」
「人には分相応というものがある。
僕(やつがれ)のそれには調理という役がないのだろう。
お前がいればこと足りる話だ。
もう少し上達してもよさそうなものだが」
「肉も魚も生か黒こげで食べていた人に
言われたくありません」
鍋を火にかけかき混ぜながら、ハクビは淡々と言葉を返していた。
冷静な口調でわかりにくいが、多少の怒りが感じられる。
いつもの人形めいた無感情ではない、生身の人としての心だ。
少しだけ、アルルゥは警戒の思いを薄めていた。
剣の手入れをしながら応えるリュウガの挙動を見ていると、どうしても意識の刃が鈍(なま)る。
「エルルゥ殿がおられれば
もっと美味い食事にありつけるのだがな」
「……どうせ私ではエルルゥさんには到底およびません。
食べたくなければけっこうです」
「そんなことは言っていないだろう。
僕(やつがれ)はハクビの食事でも十分に満足している」
「でも、ですか。
そうですか」
「い、いや、だからだな……」
泰然とした態度は崩さぬまま、リュウガは顳(こめかみ)から汗を一滴つたわせていた。
なるほど、間違いなくタイガの兄である。
どうしてもなごんでしまうやりとりは、もう一つの車座(くるまざ)からも聞こえてきた。
「何度言えばわかるのだ、お前たちは。
まずその締まりのない顔をなんとかしろ」
「ハア、そう言われましても、
この顔は生まれつきなもので、ハイ」
「口答えをするな。
いいか、そもそも武士(もののふ)というものはだな――」
「あのう、ラクシャイン様。
ワタクシども、日頃は商人で通っているのですが……」
「黙って聞け。
武士(もののふ)でも商人でも同じことだ。
漢(おとこ)の生き様というものは
思想や言葉で示すものではない。
ただ行動だけが想いを残すのだ。
お前たちのように常から軽薄な言動をとっていては――」
チキナロとニコルコが正座を強いられ、途方に暮れていた。
説教の元は巨漢の武士(もののふ)。
声の質こそ、いつもと変わらぬ重々しいものだが、言っていることには、どこか脈絡というものがなかった。
どうやら酔っているらしい。
横に転がる徳利(とっくり)の数は、早くも七本を越えていた。
「ニコルコさん。
少しよろしいですか」
「ハイハイっ。
なんの御用でしょうか」
「ああ、ニコルコ。
師をおいて逃げるのですかっ」
「イエ、ハクビ様に呼ばれてはしかたなく。
は、離してください、師匠」
「チキナロ、なにをしている。
いいから座れ。まだ話は終わっていないぞ」
「ハ、ハイィ……」
延々と続く説教を逃れたニコルコは、ハクビの下へと駆けつけた後、小さな鍋を抱えてアルルゥの置かれた馬車へと近づいてきた。
行程の始めは見たくもなかったその顔も、今ではさほど気にならなくなっている。
緊張はそこまで解けていた。
手枷足枷が外されているのも理由の一つだろう。
檻から出してはもらえなかったが、自分たちの日常とさほど変わらぬ光景に、アルルゥの心からは逃げ出そうとする意識が薄れつつあった。
「アルルゥ様、お食事でございます。
タイガ様には及ばぬと思いますが、
ハクビ様も随分と上達したようで」
「なか、いい」
「ハイ?」
「みんななかよし。
たのしそう」
「アア。エエ、マア。
あの方々には昔、命を救われていましてね。
ワタクシ、頭が上がらないのです、ハイ。
最初はずいぶん険悪でしたが、
苦労を共にするうちにいつの間にか、という所でして」
口ではそう言いながらも、ニコルコは小さく笑っていた。
多分に苦味を含んではいたが、笑いには違いない。
それは、『ティティカルオゥル』の頃と変わらぬ笑い方だった。
「ふーん……
あのヒト、おとーさんにちょっと似てる」
「ラクシャイン様が、ですか?」
「ん……」
なぜそんなことを思ったのだろう?
自分でもわからぬまま、アルルゥは饒舌を続けるラクシャインの姿を眺めていた。
身長も体格も、容貌も気配も、父とはまったく似ていない。
いかにも武士(もののふ)然としたラクシャインに比べ、ハクオロはむしろ学者然とした穏やかさの持ち主だったのだが。
少しだけ考えて、ぼんやりと思う。
そう、心の持ちようは似ている気がした。
傷ついた面立ちに差す影から感じられる、果てなき苦悶苦悩の想いだ。
複雑な感情に、当然ニコルコは気づかない。
「そうなのですか。
そういえば、エルルゥ様も
同じようなことを仰っていましたよ。
やはり姉妹なのですね」
「おねーちゃん……」
その一言はアルルゥの表情と心に、暗い影を落とした。
「す、すみません。
つい……」
気づかうニコルコの様子は以前と同じように見えて、だからこそ、聞かずにはいられない。
「……ニコちん」
「ハ、ハイ?」
「ニコちんたちは……
おねーちゃんは、なにをしてるの?」
「それ、は……」
「地獄(ディネボクシリ)を開放するって、なに?」
沈んだ気持ちと声のまま、アルルゥは自分が裏切られた理由を問いかけた。
一瞬、すべての音が止む。
光も意味を失う世界の中で、交わすまなざしだけが輝いていた。
かつては明るかった両者の視線が、今は周囲の闇より暗い。
それは、語られる声もまた。
「……そのままの意味ですよ。
地獄(ディネボクシリ)を現界し、
黄泉(レドゥトゥア)の亡者を蘇らせ、
この世(ツァタリル)の全てを終わらせるんです」
答えるニコルコの顔には、先とは異なる笑みが浮かんでいた。
共にいた者の、今までに見たことのない歪(いびつ)な表情に、アルルゥの背にはどうしようもない戦慄が走る。
「どうして、そんなこと……」
「いいじゃないですか。
こんな世界なんて終わってしまえば」
ニコルコは笑っていた。
今までに見せたことのない、心の底からの笑み。
「アルルゥ様にはわからないかもしれませんね。
辛苦を分かちあえる優しい家族に
囲まれて生きてきたアナタには」
「ニコちん……」
「知っていますか?
実の子でも家畜のように
売り払うことができる生き物なのですよ、
ヒトというのは。
イヤ、ただ殺すよりも賢いやり方ですね。
ただの獣とは違うという所ですか」
「な……」
息を飲むアルルゥを気に留めず、ニコルコは言葉を続けていった。
過酷な己の半生を、唄うように、嗤(わら)うように。
「名目上は里子でしたが、
実際は奴隷(ケナム)と変わりませんでした。
知恵も力もない幼子の身では
抗(あらが)うことも逃れることも叶わず、
空腹を地蟲で凌いだ日々は忘れられません。
エエ、我ながら己の惨めさに泣き暮れたものです。
涙もすぐに枯れてしまいましたが。
そんなワタクシを救ってくれたのは、戦(いくさ)でした。
国と共にワタクシを縛っていた
家も、血も、柵(しがらみ)も、
すべて滅んだのです。
あの時の開放感といったら、
思い出しただけでも胸が震えますよ。
それまでワタクシを虐(しいた)げていた連中の
骸を踏みしめながら、
初めての自由を感じたものです。
初めての幸福というものを」
彼の口元は、今や満面の笑みとなっていた。
少年らしい朗(ほが)らかな笑みに、しかし、アルルゥは別の印象しか持てずにいる。
「その後、チキナロ様に拾われ、思い至りました。
この自由で世を満たしたその時こそ、
ワタクシは本当の幸せを手に入れられるのだと。
元から、この世界は地獄(ディネボクシリ)のようなものなのですよ。
人と人との繋がりなど、
殺しあうための準備に過ぎません。
いえ、例え見知らぬ者同士でも
殺しあうのが人の性(さが)。
それを開放してやることは、
ウィツァルネミテアの御心にも沿うことなのです」
それは、語る内容の陰惨ゆえ、ではない。
「……そんなの、ちがう。
おとーさん、そんなこと思ったりしない」
募った思いは小さな心ではとどまらず、黒い瞳から溢れだしていた。
「アルルゥ、様……?」
「ニコちんは、
かわいそう……」
「やめて下さい、同情なんて。
そんな感情もしょせんは……」
嫌悪を示すニコルコの言葉を、アルルゥは首を横に振り、散らした。
流れる涙はそのままに、あの日、血色の別れから揺れ続けている少年の心を見る。
「ニコちん、嘘ついてる。
言いたくないことばっかり言ってる」
「そんなことは……
ワタクシは……」
「アルルゥたちとなかよくしたのも、そのため?
殺しあうために、いっしょにいた?」
「っ、そ、そう、ですとも。
ワタクシは、地獄(ディネボクシリ)を開放するために、
そのためだけに、みなさんに近づいて――」
「アルルゥも、殺すの?」
「そ、れは……」
答えは返ってこなかった。
視線を交わしたまま、ニコルコは一歩ずつ後ろに下がっていく。
遠ざかろうとするその動きから、アルルゥは目を離さなかった。
たとえ見えなくなろうとも、心は決して逃がさない。
「オヤオヤ、
楽しそうな話をしていますね、ハイ」
だが、そんな緊張も、他者の意思には意味がない。
現実の隔たりがあってはなおさらだ。
「この世(ツァタリル)はしょせん泡沫(うたかた)の夢。
血みどろの殺し合いの果てにしか真実はないのですよ」
割り入ってきた明るい声は、ニコルコの建前を的確に代弁していた。
酒精に顔を赤く染め、チキナロは楽しげに管(くだ)を巻く。
「チキナロっ。
なにをしている、
早く戻ってこんかっ」
「ハ、ハイハイ。
まったく、部下だという自覚は
ないんでしょうかね、あの方は。
ニコルコ、もう二、三本おつけしなさい」
「ハ、ハイ……」
呼ばれるがまま、ニコルコはアルルゥの前から逃げ去っていた。
鼠のような素早さで、後をかえりみることもしないまま。
いや、一度だけ振り返っていた。
瞳の泳いだまなざしは、それでも止まりはしなかったが。
「ニコちん……」
つぶやきは闇にむなしく消える。
放心したアルルゥの瞳もまた、しばらく虚ろなままだった。