うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
タイガたちの足音が少しずつ遠ざかっていく。
気配まで感じられなくなった時、リネリォの周囲からはすべての音が消えていた。
いまだうごめく肉塊の音も、悪臭によどむ空気の音も、己が内なる鼓動すらも。
研ぎ澄まされた集中が、余計な感覚を遮断しているのだ。
自身の過剰な緊張を自覚しながらも、リネリォはさらに意識を集中させた。
対峙する怨敵、ラクシャインに。
その背に赤い世界が映る。
あの日見た、血の色に染まった地獄(ディネボクシリ)が。
蘇る感情は、絶望、虚脱、無力、恐怖。
幼い心を砕いた痛みが、あの時のままに再び襲いかかってくる。
衝撃は心の臓を貫くほど。
一時、確かに止まった脈動は、
しかし、すぐに平静をとり戻した。
今のリネリォは幼い子供ではない。
怨敵を追い続けた歳月に鍛え上げられた武士(もののふ)だ。
猛る想いは、向けられる気迫に圧されながらも、揺らぐことなくまっすぐ敵を捉えている。
隣に立つテルテォも姿勢は同じ。
姉弟の生みだす一分の隙もない包囲は、鬼神とて逃しはすまい。
刻一刻と膨らんでいくテルテォの気勢は、胆力に劣る者ならば、まなざしだけで叩き潰すだろう。
深い憎悪は純粋に、敵を討つことだけを考えている。
「ついに、ついに追いつめたぞ、ラクシャイン。
裏切られた一族の恨み、
無念に散った皇(オゥルォ)の想い、
今こそ晴らさせてもらう!」
テルテォの雷鳴めいた口上が、重い空気を震わせる。
ほとばしる怒りは響いた声にもこめられていた。
極限にまで高められた強靭な意思は、死すら厭わぬ決死の覚悟。
「さあ、姉上。
参りましょうぞ。
俺が必ずや道を拓きます。
この命にかえても」
「うむ……
いや」
その想いは正しく知れる。
だが、リネリォは即答しなかった。
烈火のごとき憎悪の念が、わずかに翳(かげ)る。
姉の変化を敏感に察し、テルテォは動揺に声を荒げた。
「姉上? なにを……
臆されたのですかっ」
「そうではない。
少し……奴と話たいことがある」
「話、ですと?
一体なにを――」
弟の怪訝を横に、リネリォは静かに槍を下ろした。
一触即発の場の中で、それは致命にも至りかねない愚かな行為。
これまでの戦であれば考えもしなかった行いを、自然と選択していた理由は、
前にした男が、同じように武器を下ろしていたからか。
「貴殿が我に話とはな。
我を討つのではなかったのか?」
「無論だ。
それは変わらない。
ただ……
一つ、確かめておきたいだけだ」
「ほう」
待ち構えるラクシャインのまなざしは、なにかを訴えているように見えた。
問いよりも先に、その答えを。
「して、なにを」
だから、だろうか。
リネリォは、胸にわだかっていた想いを、
静かに、なめらかに紡いでいた。
「……一族を裏切った貴様の罪は決して消えぬ。
いかなる理由があったとしても、
我等が貴様を許すことはない。
それは貴様も十分に承知しているだろう。
ラクシャイン。
いかに時が過ぎようと、
この名が誇られることはあるまい。
稀代の悪漢として語り継がれ、
歴史の中に消えていくだけ。
……だが、
貴殿の生き様は誇りあるものだと、
私は思う」
「姉上?」
テルテォが目を見開いた。
当然だろう。
リネリォ自身、口にすることで初めて気がついた想いなのだから。
「自らを信じ、邁進することこそが人の道。
己の信念を貫く生き様は、尊敬に値する」
ラクシャインの額と眉間が、わずかにしかむ。
その変化が、続く言葉を肯定していた。
「……貴殿にとっては一族の命運よりも
我が子の方が大切だったということだな。
武士(もののふ)の道よりも、
父としての道の方が」
「……そうだ。
世の平安も、乱れも、
腐敗も終末も意味はない。
大神(オンカミ)より与えられた使命ですら、
我には目的への道でしかなかった」
うなずきと、低い声も、また同じ。
隻眼に宿る意思の光に、リネリォは自らの考えが正しいことを知った。
見覚えのあるまなざしには、賢大僧正(オルヤンクル)にして狂気に堕とす、親愛の情が宿っている。
「そう……
『地獄(ディネボクシリ)』の力で我が子を蘇らせる。
ただそのためだけに、
貴殿はここまで来たのだな」
「なっ……?」
小さな惑いはテルテォのもの。
言葉を向けられたラクシャインは、わずかにしかめた表情を動かさない。
それはつまり、無言の肯定。
「ふ、ふざけるなっ。
貴様は、そんなことのために我等が一族を、
数多の国々と人々を、
世界を地獄(ディネボクシリ)に堕としめたというのかっ。
たかが一人のガキのためにっ」
「……そうだ。
他者から見れば、ただ一つの小さな命。
だが我にとっては、世界のすべてに代えても
惜しくはない存在のためにだっ」
激昂に応えたものは、低く、重く、荒ぶる声。
テルテォの絶叫じみた響きに対し、ラクシャインの咆哮は大気を静かに震わせる。
「誰に解されることなくとも、
我にとってはそれこそが至上。
邪魔立てすると言うのであれば、
誰であろうと容赦はせぬ。
たとえ、それが神であろうがな」
「ぐ、む……」
想いの本気は明らかだった。
構える鉄棍に揺らめく『怨(オン)』は、先に対じた鬼人以上の威を宿していた。
言葉の通りに神すらをも砕きかねない。
だが、それほどに深く強い想いが、リネリォにはひどく儚(はかな)いものに見える。
その果てにある悲しみもまた、旅で得たものの一つ。
「それを、
貴殿の御子も望んでいるのか?」
「っ……」
問いに答えは返ってこない。
小さく息を飲んだきり、ラクシャインは動きを止めた。
鉄棍を上に構えたまま、ひたすらにその気を高める。
「……余人には関係のないことだ。
説教を聞かせに来たわけではあるまい」
父ではなく、個ではなく、そこにいるのは一人の武士(もののふ)。
もはや必要なのは言葉ではない。
「……そうだな。
私はただ、
刃を交えるため、ここに来た」
つぶやき、リネリォも槍を構えた。
鬼を思わせるラクシャインの気迫を前にして、ゆっくりと力を高めていく。
それは、負の念たる『怨(オン)』に対をなす、清浄無垢なる静かな気。
「テルテォ」
「はいっ。お任せ下さい。
姉上は俺が、この命にかえても――」
「立ち合いを頼む。
決して手は出すな」
「お守りしてみせ……
は?」
前に出ようとするテルテォを、リネリォは静かに押し止めた。
ただラクシャインを見据えたまま、向けられる視線にも応じずに。
「姉、上?
なぜ……」
「私は今、武士(もののふ)として敵の前に立っている。
クッチャ・ケッチャの恨みを晴らすためではなく、
誇りをかけた果し合いのためにだ。
無粋な横槍を入れるな」
言葉に憎悪の意思はない。
あるのは、前にした強者に打ち勝ちたいという、ただ純粋な想いのみ。
その気は、テルテォに反論を許さなかった。
一切の穢れをもたない清涼は、周囲の気はおろか人の心までをも清めてみせる。
それは、鬼気放つラクシャインの心をも。
「……感謝する」
「勘違いするな。
これは、私が志(こころざ)す道の途上に過ぎぬ」
過去ではなく、未来のために、リネリォはこの戦いに挑んでいる。
その想いを、敵も正しく視たのだろう。
「……まだ名乗りを交わしていなかったな。
我が名はラクシャイン。
己が欲に身を堕とした、
クッチャ・ケッチャの大罪人よ」
言葉を返したのは悪鬼羅刹の類(たぐい)ではなく、清廉な一人の武士(もののふ)だった。
越えるべき者として、これ以上の相手はいない。
「『ティティカルオゥル』のリネリォだ。
我が半生の意味を知るために、
立ち会っていただこう」
「いいだろう。
いずれにせよ、答えは出るはずだ」
勝敗に関わらず、いずれかの死によって。
交わされた互いの覚悟が、そのまま緊張を高めていく。
場も、時も、今この瞬間にだけは意味がない。
あるのはただ、二つの意思と力のみ。
それは、脳が燃え尽きそうなほどの苦痛でありながら、至福を感じる奇妙な一時。
「いざ」
「参る」
踏み出したのは、どちらが先だっただろう。
最初の一歩はゆるやかに。
二歩、三歩で勢いを増し、四歩目には最高速に。
二頭のウマ(ウォプタル)は一直線に、互いの距離を無に変える。
瞬きの間に消えた間で、リネリォは一つの闇を見た。
それは自らの槍が向かうべき、そして貫くべき無明の闇。
二騎の交錯は一瞬だった。
激しい光が閃き、甲高い鋼の音が衝突の終わりを告げる。
始まりとは位置を代えた場に、両者は勢いを落ちつけていた。
ラクシャインは悠々と。
リネリォは地を転がって。
「姉上!」
立ち合いの立場も忘れ、テルテォはその場に駆けよった。
慌てて支えようとする肩に、しかし、リネリォはすがろうとしない。
受身すら取れず叩きつけられたにも関わらず、自らの足で立ち上がった。
荒い、不規則な息をくり返し、口から血を吐きながらも、いまだ崩れぬ敵を見る。
そして、自らの愛槍を。
ラクシャインはゆっくりと振り返った。
変わらぬ動き、変わらぬ姿、変わらぬ気迫と威のままで。
流れる汗も、息の乱れもない様に、生じた変化は一つだけ。
ただ、心臓に深々と、槍が突き刺さっているだけだった。
「お、おぉ――」
「……見事だ」
自らの胸に埋まった槍を握り、ラクシャインは低くつぶやいた。
それは、心からの感嘆と、どこか安堵にも聞こえる声。
リネリォは止まりそうな息で、それに応えた。
「貴殿に、
迷いがなければ、
この頭が割れていた……」
「その迷いこそが、今の我よ。
誇るがいい、そなたの勝ちだ」
勝利の宣告には安らぎがあった。
己が胸の槍を引き抜き、赤い血潮を飛沫(しぶ)かせながら、ラクシャインは今、ようやく開放される。
「ラクシャイン、殿……」
リネリォのつぶやきには、自然と敬意がこもっていた。
死線を越えた宿敵に向ける深い尊敬は、親友への念にも並ぶ。
光を失った隻眼が、それを見ていたかは、分からない。
ただ、最期はその生涯に相応しい、凄惨ながらも満ち足りた笑みを浮かべていた。