うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
段を刻んだ円形のくぼみ。
周囲にそそり立つ牙のような大岩。
輪の内には石柱が規則正しく並び、清らかな青い光をたたえている。
すべり降りた崖下の光景に、某(それがし)は言葉を失った。
心を震わせているのは、畏れと既視感。
思い出すまでもない。
それは、光と闇の差こそあれ、黒き宮に置かれていた光景と、とてもよく似たものだった。
謳うような呪の響きも、また同じ。
浮かび上がる白い陣。
天へと向けて光を伸ばすその前に、ハクビは静かに佇(たたず)んでいる。
エヴェンクルガの武士(もののふ)と、悲哀をまとった女人と共に。
「リュウガ兄」
「おねーちゃん……」
こちらのつぶやきに、呪が止まる。
だが、事ここに至って、相手の動きなど気にしてはいられなかった。
構うことなく一行の周囲をとり囲む。
「動くな。
いかなる悪事を企(くわだ)てているのかは知らぬが、
貴様らの狼藉もここまでだ」
刃と共に一声を叩きつけた。
全員の挙動に気を配るが、目はどうしても兄上を捉えてしまう。
変わらぬ沈着な表情には、少しの呆れと苦みが浮いていた。
「タイガか。
まったく、無駄なことを」
「無駄かどうかを決めるのは某(それがし)です。
リュウガ兄もわかっているのでしょう。
その行いが、義に沿わぬことであると」
「お前もわかっているだろう。
主の為ならば義を捨ててでも尽くすのが
エヴェンクルガの宿命だ」
父を彷彿とさせるまなざしに迷いはない。
……そう、わかっている。
再会した時から、里を下りた時から、リュウガ兄は何一つ変わっていない。
エヴェンクルガの武士(もののふ)としての生き様も、また。
「……では、
義の下に斬り捨てられるのも
覚悟の上なのですね」
「その考えが無駄だと言うのだ」
「それは、やってみなければ――!」
「意味が違う。
お前は、僕(やつがれ)を斬る必要などないのだ。
……なるほど、そう考えれば、
この巡り合わせは天の配剤かもしれぬ」
爆発しかけた某(それがし)の気勢を、リュウガ兄は静かに止めた。
妙に得心する姿と言葉には、対等な立場への配慮が見える。
不意に、幼き日々を思い出した。
剣を握った修行の中で褒められたことは稀にしかなく、だからこその嬉しさはよく覚えている。
「兄、上……?」
「今のお前にならば、
介錯(かいしゃく)を任せるのも悪くはない」
いつの間にか、リュウガ兄は腰の剣から手を離していた。
静かに語るその様は、昔からよく知る懐かしいもので、某(それがし)の切先も自然と下がってしまう。
「僕(やつがれ)が里を下った理由を
知りたがっていたな、タイガ」
「はい……
ですがそれは、
主の意に従ってのこと、では……?」
「そうだ。
僕(やつがれ)はハクビの望みを叶える為に、
この剣を里から持ち出した」
言いながら示すのは、腰の一振り。
エヴェンクルガの宝剣『冥獄』。
天地の力を宿す黒刀は、変わらぬ禍々しさをまとってはいたが、決して邪(よこしま)なものではない。
リュウガ兄のまなざしも、同じ気を宿している。
「そして、この場で死ぬために」
「……え?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
死ぬ? 兄上が?
……なぜ?
白く染まった思考に問いたい気持ちが募る。
しかし、問うべき言葉には至らない。
たとえ問いかけたとしても、答えは得られなかっただろう。
リュウガ兄のまなざしは、もう彼の主へと向けられていたから。
ハクビの佇(たたず)まいはいつもと変わっていない。
違うのは、腕に黒い像を抱いていることだけだ。
闇の瘴気を吐き続けるその形は、今や完全な幼子の姿をとっている。
見た目の変化を語るのならば、対するカミュの方が大きかった。
日頃は青く美しい瞳が、今はまた紅玉(ティ・カゥン)の輝きを見せている。
血の色に変じた視線を向けられ、白き鬼面の女は、小さな驚きと納得に頷いていた。
「黒い翼のオンカミヤリュー……
では、貴女もお父様の」
「やっぱり、あなたもカミュと同じなんだね……」
変わらぬ冷静を前にして、カミュは赤い瞳を細めた。
色を青へと戻しながら、端には涙の雫が浮かぶ。
だが、向けられる悲しみにすら、ハクビは微動だにしなかった。
瘴気を吐く赤子を抱いたまま、彼女の言葉はそれ以上の寒気を誘う。
「ならば、理解していただけるでしょう。
私が『地獄(ディネボクシリ)』を蘇らせた意味を、
『大封印(オン・リィヤーク)』を訪れた意味を」
「……うん。
とっても、よくわかるよ。
カミュも、ムツミもそうだったから……
でも、でもね……」
「これは、私の一族が代々受け継ぎ、
研鑽を重ねてきた使命。
お父様の真の望み。
そして、私たちの叶えるべき願いなのです」
静かな言葉には、積まれてきたという時の重さが宿っていた。
迷いのないまっすぐな声に、黒い翼が大きく揺らぐ。
「そんな、そんなの……」
「邪魔はしないでください。
貴女ならば止めはしないでしょう?
すべてはお父様のための――」
「そんなの、ちがう!」
消えそうなカミュの声、捉えるようなハクビの言葉を、より強い思いが否定した。
思慮も遠謀も裏もない声は、アルルゥが姉へと向けたもの。
「アルルゥ……
わかって。
これは、ハクオロさんが望んでいることな――」
「そんなのうそっ」
エルルゥ殿が語るハクビと同じ意思の言葉を、アルルゥは思いのままにつき返した。
「こんなことしたって、
おとーさんよろこばないっ。
こんな、みんなにめいわくかけて、
ムックルにひどいことして、
人を、いっぱい殺して……」
「アルルゥ……」
「おとーさん、
こんなことぜったいしないっ!」
涙にむせぶ妹を前に、エルルゥ殿は動かない。
表情の悲哀を深め、苦しげに我が身をかき抱きながら、それでも、場から動こうとはしなかった。
離れていても伝わってくる動揺は、見ているこちらの心が痛むほど。
それでも動けない理由が、彼女にはあるのだろう……
代わり、リュウガ兄が動いていた。
「あと少しだけ大人しくしていろ。
そうすれば、すべてが終わる」
腰から黒い剣を抜き、数歩を前に歩み出る。
まとう剣気は、一瞬で周囲の大気を刃に変えた。
語りの時は終わり、ということか。
某(それがし)は解ききれなかった疑問を飲みこみ、腰を落として構えを正した。
「……それが聞き入れられぬことは、
おわかりでしょう」
「そうか……
どうしても邪魔だてするというのであれば、
容赦をする理由はない」
「某(それがし)たちのすべてを相手に、
たった一人で応じるおつもりか」
「十分だろう」
返された言葉に気負いはない。
無論、油断も、慢心も。
リュウガ兄は彼我の力を正しく把握し、ただ現実を告げているだけだ。
某(それがし)とて、それはわかっている。
わかってはいるが、ここで退くことなどできようか。
リュウガ兄を相手にしては、カリンやカミュとて結果は見えている。
某(それがし)が押えなければならないのだ。
せめて、皆がハクビを止めるまでは……。
考えている間にも緊張は膨らんでいく。
動かぬ世界が拍車をかけた。
硬くなる筋肉を必死に弛緩させながら、集中をリュウガ兄へと向ける。
瞬間、世界から音が消えた。
時に崩れる岩の音も、天井から滴る水の音も、自分の中の鼓動の音も、なに一つ集中の妨げにはならない。
だから、テルテォの絶叫と、それを補うリネリォ殿の声にも、寸前までまったく気づかなかった。
「うおおおおおおおお!?」
「な?」
「皆、伏せろ!」
それは、通って来た崖の上から落ちてくる二人の姿と共に、降ってきた。
思わず振り返ったところで、問うべき理由を一目で知る。
『ヴオオオオオオオオオオオオオオゥ!』
二人の後には、洞穴を砕き現れた『地獄(ディネボクシリ)』の姿があった。