うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
『ヴオオオオオオオオオオオオオオゥ!』
地を震わせる咆哮と共に、『地獄(ディネボクシリ)』が崖をすべり落ちてきた。
漆黒の巨躯は勢いを減ずることもなく、そのまま大地に激突する。
飛び散る石塊。
舞い上がる砂塵。
爆発にも似た轟音の中に、『地獄(ディネボクシリ)』が一時消えた。
本当に一時だけだ。
不安や期待を感じる間もなく、漆黒は薄闇を掻き分け、這い出でた。
『ヴオオオオオオオオオオオオ!』
「ムックル、ムックル!」
アルルゥの悲痛な呼びかけも、赤い瞳には届かない。
『地獄(ディネボクシリ)』はただひたすらに獲物を求め、石化の魔眼めいたまなざしで世界を睨(ね)め回す。
まずは、手近にいたニコルコを。
「ひぃ?」
足を止めた身の上に、巨大な前脚が落とされる。
躊躇のない威力は、触れただけで岩をも微塵に砕くだろう。
人の身が相手となれば、後には骨も残るまい。
「ニコちんっ」
「ええい!」
怯えすくんだニコルコに代わり、カミュとカリンがその脚を迎え打った。
鉄鐘じみた獣の手首に、剛剣と法術が重ねられ、脚の落ち先をわずかにそらす。
潰されるはずだったニコルコは、地を砕いた衝撃に弾き飛ばされていた。
それでも、『地獄(ディネボクシリ)』の腕には傷の一つも入ってはいなかったが。
『ヴゥゥ……ヴォウ!』
「ぬぅん!」
続けて向けられた顎に対して、テルテォが槍を鼻先に叩きこんだ。
さすがに痛みは通るようで、漆黒の巨躯も一つ大きく身をよじる。
打ったテルテォをも巻きこんで。
『ヴオオオオゥ!』
「グあっ!?」
なにしろ元の重さが違いすぎる。
咄嗟の防御も意味はなく、テルテォはウマ(ウォプタル)もろとも地面を転がされていた。
巨獣の苛立ちはそれだけで終わらない。
『地獄(ディネボクシリ)』は憎悪のこもった鋭い爪を、呻くばかりのテルテォに向ける。
それは必殺の軌跡を刻む一撃であったが、だからと黙って通しはしない。
「ハァッ!」
気合一閃。
踏みこみ振り上げた某(それがし)の一刀は、音と共に大気を斬り、『地獄(ディネボクシリ)』の顔を捉えた。
撃った衝撃は黒い巨躯を傾げさせ、振り薙ぐ死爪に空を切らせる。
『ヴウウ……』
鋼じみた獣毛の強さは相変わらずで傷こそ入りはしなかったが、斬打の威力は効果が皆無ではないらしい。
『地獄(ディネボクシリ)』は明らかに某(それがし)の剣を嫌い、唸って身をわずかに引いた。
ならば、と更に踏みこもうとしたのだが、思わぬ重みにつんのめる。
振り向き確かめた足元に、首を振るアルルゥがしがみついていた。
「アルルゥ、なにを――」
「ダメっ。
ムックル、いじめないで……」
切なる願いは雫となって、黒い瞳からあふれ落ちた。
護ると誓った少女の涙に、思わず息と鼓動が止まる。
そう、あれはムックルなのだ。
例え止めるためとはいえ、痛めつけるわけにはいかない。
しかし、
「……あいつを、あのままに
しておくわけに、は……?」
某(それがし)が躊躇している横を、巨大な気配が通り過ぎていった。
『地獄(ディネボクシリ)』に比べてすら見劣りしない巨大な剣気だ。
黒刃は宙を疾(はし)り、巨獣の肩へと吸いこまれる。
一瞬後、
『ヴイイイイイイイ!』
リュウガ兄の一撃は鋼の肌を苦ともせず、『地獄(ディネボクシリ)』から黒い霞と絶叫をほとばしらせていた。
「な?」
「ムックル!」
『ヴオオオオオオオオン!』
巨獣は憤怒の雄叫びを上げながら、激しく両の腕を振り立てた。
砕く足場を気にもせず、自らを傷つけた者を追う。
だが、地を揺らすほどの猛攻も、リュウガ兄には届かない。
落ちくる爪に残像を斬らせ、返す刀を走らせる。
後に残るのは剣風と咆哮。
影と気配を残しながらの巧みな剣技は獣の野生すら凌ぎ、逆に斬撃を浴びせていった。
鋼の肌を斬り裂く力は『冥獄』によるものか。
『地獄(ディネボクシリ)』の身は瞬く間に、血の代わりに噴き出す影のような虚ろの気で覆われていった。
「リュウガ兄っ、止めてください!
リュウガ、兄――」
呼びかけは届かない。
漆黒の巨獣を相手に、リュウガ兄は一歩も退かず、むしろ優位に対じていた。
手にする『冥獄』のためばかりではない。
赤瞳の睨みすら無意味と斬り裂く斬撃は、明らかに手を抜いたものであるからだ。
それが、巨獣にもわかるのだろう。
傷つけられ、憤(いきどお)りを募らせた『地獄(ディネボクシリ)』は、あらん限りの咆哮を響かせた。
『ヴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオゥ!!』
同時に、その体から墨(すみ)のような瘴気がほとばしる。
光の空間に伸び広がった影は、あるいは扉だったのかもしれない。
その闇からは、『地獄(ディネボクシリ)』の力に引かれるように、蠢く血肉の塊が這い出てきた。
「これは……
これが、死者を蘇らせる力……?」
悠長に驚いている暇もない。
同じ変化は別の場所、光の陣の内でも起きていた。
「いけないっ。
ダメだよムックル!」
カミュの息を飲む声は、輝きの奔流に飲まれて消えた。
それは、急速に力を増していく、禍々しくも温かな光。
理解の追いつかぬ状況に混乱するばかりだった心が、不意に温もりに包まれた。
不思議そうな表情は某(それがし)のみならず、慌てるばかりだった他の面々と、ムックルを案じていたアルルゥまでも。
「……おとー、さん?」
彷徨っていた少女のまなざしが、光陣から昇った光の柱を捉えた次の瞬間、
その内に生まれた影が、輝きを割って現れた。
白き巨人の、その魁偉が。