うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
「え?」
「あ……」
「な……?」
なにが起きたのか、分からなかった。
動けぬことすら一瞬忘れ、驚きのままに呆けてしまう。
困惑の声は某(それがし)たちからだけでなく、斬られた当人の口からも漏れていた。
そのまま、力なく崩れ落ちる。
「ハクビっ!」
ゆるやかに進む時の中で、リュウガ兄だけが変わらぬ迅速で動いていた。
声より速くハクビへと駆けより、倒れるその身を抱きとめる。
いつもと同じ冷静な挙動ではあったが、表情には某(それがし)にして初めて見る、焦りと驚きの色が浮いていた。
リュウガ兄に抱かれたハクビにも、同様に。
「そん、な……。
大神(オンカミ)の面が、
外れるわけは――」
驚愕は噴き散る鮮血や振るわれた鉄扇の刃にではなく、己から離れた鬼面へ向けられていた。
今はエルルゥ殿の手の内にある、自身の血に汚れた面に。
「どう、して……?」
すがるように伸ばされた手に対し、エルルゥ殿は冷たいまなざしを返していた。
手にした鬼面を胸に抱き、おだやかな笑みを浮かべてみせる。
「ハクビさんの知識はとても、
とても役に立ちました。
人の心を操る方法や、その仕組み。
外部からの刺激に対する反応に、
それによる内的変化。
匂い、音、光、言葉、そして薬……。
様々な方法の一つ一つを、
あなたは実際に見せてくれましたよね。
心と体、意識と無意識、
理解も判断も理性も本能も
全ては脳が起因となり、
神経を通じて体を支配する。
基本的な構造は人や獣のみならず、
この仮面においても変わらない。
……苦労しました。
あなたの目を欺(あざむ)きながら、
その繋がりを弱める薬を調合するのには」
「まさか……
古き人々が月にまで至る程の叡智をもってしても
達しえなかった境地に、
貴女は、たった一人で……?」
「一人ではありません」
目を剥くハクビの言葉に対し、エルルゥ殿は首を横に振った。
語るまなざしに宿るのは、心からの悦びの色。
「ハクオロさんが、一緒でしたから」
弾む声はそのままに、エルルゥ殿は抱いていた白い鬼面で、満面の笑みを覆った。
放つ気の、神にも通ずるその力は、直前までハクビが宿していたものに相違ない。
迸(ほとばし)る重圧は、リュウガ兄にして気圧されるほど。
「ク……」
「邪魔はさせませんよ、
リュウガさん」
「エ、エルルゥ殿……っ」
状況が理解できぬまま言葉を探していた間に、エルルゥ殿は軽やかに身をひるがえしていた。
光の中で動きはじめた白き巨人、大神(オンカミ)の肩にへと飛び移る。
「ハクオロさんを殺させなんてしません。
あなたにも、ハクビさんにも、誰にも!」
『クオオオオオオオオオオオオオオオオ!』
咆哮をもって大気を震わせ、ついにその巨大な体は、大地の封印から這いだした。
瞳は虚ろな色のまま、野獣の狂気を携えて進みはじめる。
踏み出す足にも躊躇はない。
下で騒ぐ某(それがし)たちも、呼びかけるアルルゥも、まるで見えてはいないのだろう。
「おとーさん……
おねーちゃん!」
「エルルゥ殿っ。
ええい、クソっ。
ハクビ! この術を解け!」
「え?
あ、その、戒めは……」
なにかしようにも、体の動きは封じられたままだった。
呼びかけられて気づいたのか、ハクビは慌てた様子で呪を紡ごうとしていたが、遅い。
「ハクビっ!」
「え……っ?」
息を飲む暇もなく、大神(オンカミ)の拳が虚脱したハクビの頭へと迫っていた。
白い岩塊を思わせる蟹腕(かいわん)は、慈悲も躊躇もなくその上へと落とされ、
リュウガ兄の一刀に、あえなく両断された。
『グオオオオ』
「っフぅぅ……」
闇の線に断たれた塊は、動けぬ某(それがし)たちの前に落ち、盛大に粉塵を舞い上げた。
間近に置かれた巨人の一部は、『地獄(ディネボクシリ)』の腕よりも二回りは太い。
「うおわっ?」
「な、なんという……」
これほどの巨大を誇る敵も敵だが、斬ったリュウガ兄もリュウガ兄だ。
背筋に走る冷たさにもかすかな誇らしさを覚えながら、斬撃の主を目だけで追う。
「リュウガっ」
「大丈夫だ。
お前、は……っ?」
息をつきハクビの身を案じようとしたリュウガ兄は、途中で音を詰まらせた。
一拍の後、その左腕が弾け飛ぶ。
「づぁっ!?」
「リュウガ!」
片膝をついたリュウガ兄の苦悶を、ハクビの悲鳴がかき消す。
甲高い声は当人以上の痛みを感じさせた。
聞いているこちらの方が耳を塞ぎたくなるが、動かぬ身ではそれすらできない。
エルルゥ殿の態度だけが、まるで変わっていなかった。
大神(オンカミ)の肩から地の様を見下ろしたまま、ただ静かに言葉を向ける。
「忘れたんですか、リュウガさん?
あなたの力の一端が
誰に与えられたものであるか」
それはハクビのものとは似て非なる、強い想いを込めた声。
「ク……」
「ウィツァルネミテアの契約は絶対。
主に逆らうことは死を意味します。
大人しくしていてください。
その剣さえ手放してもらえれば、あなたには――」
「そうは、いかぬ」
純粋を感じさせるその声を、リュウガ兄は真っ向から斬り落とした。
同じか、それ以上のまっすぐな声で。
「我が主は、このハクビをおいて他にない。
そして、主に対する尽力こそが
エヴェンクルガの誉れなれば、
相手が神だとて退くことはできぬ」
吹き飛んだ左腕を押さえながら、その威勢はまったく衰えていない。
冷静に語る言葉からは、本気の意思だけがはっきりと伝わってくる。
隣に添う、ハクビへの意思だけだ。
「リュウガ」
「ハクビ……」
互いを血で汚しながら、重なる視線はどこまでも清らかで、
交わされるのは、偽りのない想い。
「……世話をかけたな。先に逝く」
「そんな、私もっ」
「お前は残れ。
そして、千年の願いの先を生きろ。
お前には、まだ知らねばならぬことが残っている」
「リュウ、ガ……」
言葉は短く、潔い。
リュウガ兄は、エヴェンクルガの武士(もののふ)に相応しい振る舞いで、未練の視線を断ち切った。
その目が、某(それがし)に向けられる。
「兄上――」
「タイガ……
結局、最後までついてきたな。
まったく、子供の頃から
まるで変わっていないじゃないか」
鋭く、厳しく、どこまでも強く、それでいて決して温もりを失わない。
リュウガ兄のまなざしは、それこそ子供の頃から変わらぬもので、
「某(それがし)は……
俺は、リュウガ兄の弟だから……
兄さんの後を、ずっと追いかけてきたから、
だから……」
知らず涙を流していた。
これが、最期のやりとりだと知れたから。
泣き暮れる某(それがし)を前にして、リュウガ兄は笑みを浮かべていた。
困ったようなほほ笑みは、昔となにも変わっていない。
「そうだな。
だが、武士(もののふ)はいつまでも
他者の背を追っていてはならぬ。
お前は、僕(やつがれ)を越えていけ」
「そんな、そんなこと、できるわけ――」
「タイガ」
首を振り、慌てて見返したまなざしは、もはや懐かしき兄のものではなく、
武士(もののふ)が武士(もののふ)に向けるものだった。
鋭く、厳しく、どこまでも強く、それでいて決して温もりを失わないまなざしの奥底に、研ぎ澄まされた名刀のような心が宿っている。
それは、エヴェンクルガに継がれ続けてきた、武士(もののふ)としての心得であり、その真髄だ。
あまりの重さに心が潰れそうになる。
それは戦よりも、死よりも、神よりも強い歴史の重さだった。
代々のエヴェンクルガが受け継いできた誇りは、否応もなく自らの矮小を知らしめる。
こんな器の小さな者が受け取るようなものではないと、頭ではなく魂が理解していた。
だが――
湧き上がる弱音の数々を、某(それがし)は痛みもろとも飲みこんだ。
たとえ不相応だとしても、受け継がぬわけには、継げぬなどと言うわけには、いかない。
「兄上……」
これが、エヴェンクルガのリュウガが残す遺志なのだから。
「……確かに、
承(うけたまわ)りました」
血を吐くような情けない返事に、それでも、リュウガ兄は頷(うなず)きを返してくれた。
晴れ晴れとした表情には一片の憂いもない。
「よし。
では、後を頼むぞ」
「リュウガ兄っ」
「そして、願わくばハクビを……」
言葉を終えるより先に、リュウガ兄は立ち上がっていた。
右手に握る『冥獄』の、その切先を敵へと向ける。
白き大神(オンカミ)を相手に見据え、身のこなしにはなんの気負いも感じられない。
高まる剣気は黒刀の闇気をも喰らい、『地獄(ディネボクシリ)』を凌ぐ絶対の殺意を生み出していた。
見ているだけで生気を殺がれていくような感覚は、恐らく、気のせいなどではない。
渦を巻く闇の気は、今や神の光気をも侵していた。
小さな雷光を爆ぜさせながら、徐々に領域を広げていく。
見下ろしていたエルルゥ殿が、初めて怯えの色を見せた。
「死ぬ気、なのですか? リュウガさんっ。
大神(オンカミ)に背いては、例えあなたでも――」
「元より命など捨てている。
神が相手とあらば不足はない。
受けよ、我が渾身をっ!」
裂帛の気勢と踏みこみからの跳躍によって、リュウガ兄は跳んだ。
『冥獄』の闇を跡に残したその姿は、まるで天へと昇る龍。
黒き刃は牙となり、白き大神(オンカミ)の胸を撃つ。
『クオオオオオオオオオオオオオオオオ!』
そして、苦痛の絶叫を吐き出させた。
剣の主の、爆ぜ散る血肉と引き換えに。
「……リュウガ、兄……」
「あ、あ……」
つぶやきに、応えはない。
あるのはただ、降り注ぐ血の雨の音だけ。
微塵と散ったその欠片には、当然、面影も気配もなかった。
周囲には、嗅ぎ慣れた鉄の匂いだけが充満しているばかり。
呆然と眺める凄惨の中、散り行く闇の気の中から、一振りの刃が落ち、地に刺さる。
『冥獄』は変わらぬ死を抱えたまま、そこにあった。
響く苦痛の声を聞きながら、それを喰らい飲みこむように。
『クオオオオオオ、ウオオオオオオオオオオ!』
「ハクオロさんっ。
まさか、これほど……っ」
撃たれた胸から鮮血を迸(ほとばし)らせ、大神(オンカミ)はその巨躯を振り回す。
理性なく暴れる様は、これまで某(それがし)たちが屠ってきた鬼人魔獣と変わるところがなかった。
まとう気こそ確かに神々しいものではあるが、もしや……。
振りたくられる頭にしがみついたまま、エルルゥ殿は仮面から力を引き出していた。
広がる光の球体が、大神(オンカミ)の巨躯を包んでいく。
「あの力は、転移の……?」
カミュの言葉が終わるより早く、力は完成していた。
増していく光の中、暴れる巨体が薄れていく。
鬼面の女の姿も、また。
「おねーちゃん!」
「エルルゥ、さんっ」
呼びかけの一つに、エルルゥ殿は応えた。
氷のように冷たい目で、地に這う者を見下す。
「なぜです、エルルゥさん。
共にお父様の願いを叶えると
約束したではありませんか」
「ハクビさん……
あなたには、分かりませんよ。
心を持たないあなたには」
「心……?
そんな、そんなもの……。
だって、私は……」
ハクビの言葉は流れる血と共にかすれて消え、それ以上は続かなかった。
崩れる姿を下に見て、エルルゥ殿は無言を返す。
仮面の奥に潜んだ目に、感情の動きはなにもない。
それは、呼びかけたもう一人、妹であるアルルゥに対しても変わらず、
「おねーちゃん……」
「…………」
切なる声に応えはなく、ただ消えていくばかり。
一際の輝きを発した力の球洞は、それで動きを止めた。
光の球は、次第に薄れていった。
神々しさも、禍々しさも、すべてが砕け、霧となり、
そして、闇に溶けていった。
満ち満ちていた神気はもはや失われ、一片の光も残されてはいない。
今や『大神の眠りし地(オンカミヤムカイ)』には、虚ろな死だけがわだかまっていた。