うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
場は光を失った『大封印(オン・リィヤーク)』。
残った血肉の群れを駆逐した某(それがし)たちは、崩れた崖の上で疲弊した心身を休めていた。
いまだ眠りから覚めぬ、敵の首魁を囲んで、だ。
鬼の面を失ったハクビは、血の跡を残したまま無防備な姿を晒している。
周囲には音も声もない。
休息であるにも関わらず、誰も緊張を解こうとはしなかった。
無理もない。
今まで散々煮え湯を飲まされてきた相手を前に、平静でいられる方がどうかしている。
騎兵の姉弟にカリンはおろかアルルゥまでもが牙を剥き、怒りの唸りを上げていた。
その重圧を感じでもしたのだろうか。
「う、ん……」
ハクビは小さな呻(うめ)きと共に目を開けた。
ゆっくりと二度瞬き、身を起こして周囲を見る。
「ここ、は……」
「気がついたか」
「貴方は、リュウガの……。
リュウガ、は……」
自失の間はごくわずか。
ハクビは某(それがし)と目を合わせても驚きも怯えもせず、いつもと変わらぬ落ちつきを取り戻していた。
自分をとりまく今の状況を正しく理解しているだろうに、表情はまったく動かない。
「そう、でした、ね。
大神(オンカミ)も……
私の、傷は」
「アルルゥが治療した。
命にも体にも別状はない」
「そう、ですか。
ありがとうございます」
下げた頭の動きに伴い、長い髪が小さく揺れた。
顎先の細い優美な顔。
雪のように白い肌。
薄い眉、高い鼻、赤い唇、冷たい瞳。
すべての形が美しく整っているにも関わらず、そこにはまるで生気がない。
美しくも儚(はかな)げな様は、触れただけで壊れてしまいそうで、否応もなく庇護の念を掻き立てられる。
だが、某(それがし)の心が揺れることはなかった。
前にいるこの女こそ、すべての元凶なのだから。
「私を、どうするおつもりですか?」
「無論、オンカミヤムカイに引き渡す。
己の悪行をウィツァルネミテアの下に晒し、
正しき罰を受けるがいい。
だが、その前に、
事態の説明をしてもらおうか」
怒りを押し殺した声にも、ハクビの態度は変わらなかった。
空ろな瞳で空ろを見たまま、乾いた言葉を返すばかり。
「説明と言われても、
あの争いの中で語ったことがすべてです。
他に足すべきことも、
偽っていることもありません。
私はお父様を蘇らせ、
そして殺すために生きてきました。
それこそが、永久(とわ)に罪を重ね続けなければならない
お父様の望みであったからです。
他にはなにもありません。
私は成すべきことを成そうとし、
それに失敗しました。
もう、なにもないのです……」
「うそ!」
淡々と語られた言葉を、アルルゥの激昂が否定した。
殴りつけるような勢いに、ハクビの瞳がわずかに揺れる。
「貴女は……」
「おねーちゃんはどこいったのっ。
おとーさんといっしょに、
どこに!」
「エルルゥさんは……」
噛みつかんばかりの形相で迫られ、ハクビは初めて表情を曇らせた。
涙をたたえたまなざしに対し、黒い瞳をわずかに震わせる。
「……わかりません。
エルルゥさんがあのように愚かな行動をとることなど、
私には予想もできませんでした。
なぜ――」
「そんなの、うそっ」
一喝と共に、小さな掌がハクビの頬を打った。
闇の中に、乾いた音が谺(こだま)する。
「アルルゥっ」
「よくも、ティティカおねーちゃんを、
ムックルを……!
かえせっ。アルルゥの大切なものかえせ!
みんな、みんなおまえのせいで……っ。
おねーちゃん、かえせっ!」
後ろから肩を押さえて引き剥がしたが、アルルゥは手を止めようとしなかった。
泣きじゃくりながら暴れる様はまるっきり子供のようで、それ故に想いの純粋さを知らしめる。
悲痛な叫びを浴びせられ、ハクビは元の冷静を取り戻していた。
睨み返すまなざしには、少しだけアルルゥと同じ光が見える。
「……死ねと言うのならば死にましょう。
元より、お父様を殺しておいて
生きながらえるつもりはありませんでしたから。
ですが、自分ばかりが不幸だなどとは
思わないでください」
発せられた言葉は冷たいまま。
だが、確かな痛みが感じられた。
泣きじゃくるアルルゥと同じ痛みだ。
「なんだと?」
「貴様……」
「……私だって、
すべてを捨ててここまで来たのです。
家族を、ジャカウを、リュウガまで……
私の、一族の、お父様の望みを叶えるために、
命を尽くして……」
「そんなのうそっ」
低く、重いハクビの言葉を、アルルゥは短く否定した。
荒くもはっきりとした声には、一切の迷いがない。
思考の余地すら許さない断言に、ハクビこそが声を荒げかける。
「っ、貴女に、なにがっ――」
「おとーさん、そんなことしてほしいなんて言わない。
自分のために誰かが不幸になるようなこと、
アルルゥが悲しむようなこと、
絶対にさせないっ」
アルルゥは涙を流していた。
先までの、感情を乱したものとはまた違う、絶対の確信を訴えるような涙だ。
声こそ震えてはいたが、伝える想いは静かで熱い。
言葉の重さには生き様を誇るような潔さすらある。
命そのものを晒すような迫力を見せつけられ、某(それがし)には挟む言葉が見つからなかった。
直接向けられたハクビもまた、返す声を震わせるばかり。
「そんなことが、貴女になぜ……」
問いかけに答えは返ってこない。
そもそも、聞こえてすらいないのだろう。
あるのは確信を秘めたつぶやきだけだ。
「……おねーちゃんにだって、
そんなことさせない……っ」
「ア、アルルゥ?
お、い……」
涙に暮れたアルルゥは某(それがし)の手を振り切って、闇の向こうへと駆け去っていた。