うたをつぐもの―うたわれるもの・After―   作:根無草野良

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~第六幕・16~ 夢路・在りし日の

 

 仄(ほの)かな温かさにくすぐられ、アルルゥはゆっくりと目を開けた。

 最初に見たものは、緑色の淡い光。

 薄くも優しさを含んだそれは、穏やかな朝の目覚めを促した。

 次いで感じたのは、懐かしい匂い。

 息を吸いこみ、吐きだすだけで、草の、土の、水の、森の、豊かで様々な匂いたちが、頭の中の霞を払っていく。

 聞こえてくる音は、揺れる梢(こずえ)と小鳥たちの囀(さえず)り。

 そして、当たり前だった煮炊きの音。

 クツクツと鳴く鍋の声が、どうしようもなく懐かしい。

 母の腕に抱かれているような錯覚で、アルルゥは瞬時に理解した。

 ここが自身の生まれた地、カカエラユラの森だということを。

「……でも、なんで――」

「おはよう、アルルゥ。

 もう、寝ぼすけなのは相変わらずなんだから」

 聞こえてきた呼びかけに、アルルゥは自然と目を向ける。

 

 そこには、柔らかくほほ笑むエルルゥがいた。

 

 森の中のわずかな平地で、エルルゥは朝の支度を整えていた。

 温かに香り鳴く鍋の、蓋を持ち上げ中身を回す。

 木の杓子で汁を掬い、息を吹きかけ、味をみる。

 少し熱かったのだろう。

 驚き耳を立てる仕草も、ぐずりながら頷(うなず)く姿も、アルルゥが生まれた時から見てきたものだ。

 まるで変わっていない。

 優しい姉はごく自然な振る舞いで、当たり前の日常をこなしていた。

 それは、忘れていた平穏であり、

 時が戻ったような錯覚を起こさせて、

 与えられるあまりの心地よさに、

 アルルゥは、疑問を浮かべることを止めていた。

「おねーちゃん……」

「朝ごはんできてるよ。一緒に食べよ。

 でも、ハクオロさんはまだ疲れてるみたいだから、

 静かにね」

「おとー、さん……?」

 その思いは見上げる先、

 エルルゥの後ろで静かに佇(たたず)む、

 白き大神(オンカミ)を目にしても変わらなかった。

 鬼にも似た荒々しい魁偉。

 千年を経た神木を凌ぐ巨躯。

 神々しさと禍々しさを具えた異様を見ても、不思議と恐れも怯えも沸いてはこない。

 

 その存在が姉の語る通り、懐かしき父だと知れたから。

 

 アルルゥは音を立てずに身を起こし、ゆっくりとエルルゥに歩みよった。

 昔、疲れて眠る父を前にそうしていたように。

 笑う姉に笑みを返し、静かにその隣に座る。

 差しだされた木の椀には、なみなみとモロロ汁が注がれていた。

 湯気を分けるように息を吹き、一口すする。

「……おいしい」

「ホント?」

「うん。

 おねーちゃんの、味……」

 懐かしい味を頬張るのに忙しくて、それ以上は言葉にならなかった。

 モロロの汁も、焼いた干物も、山菜の和え物も漬物も、どれも変わらぬ味だった。

 嬉しさがじんわりとこみあげてくる。

 頬を涙で濡らしながらも、食事の手は止まらなかった。

 姉の、寂しげなつぶやきを聞くまでは。

「……ごめんね、アルルゥ。

 突然いなくなったりして」

 それは、心からの謝罪の言葉。

 贖(あがな)いの意に満ちた声。

 過去を悔い、それでも決めた心の顕(あらわ)れ。

 

 憂いの表情は一転し、心からの笑みとなる。

 

「でも、これからはずっと一緒にいられるわ。

 わたしと、アルルゥと、ハクオロさんの三人で」

「おとーさんと、一緒……?」

「ええ。ずっと、ずーっと一緒に。

 永遠に……」

 その瞳に宿るのは、虚ろと呼ぶにはあまりにも濁った光。

 不浄を溶かした混沌の黒。

 姉の、見たことのないまなざしに、アルルゥはここに至るまでの現実を思い出した。

 苦しみも、悲しみも、それでも知れた喜びも、すべては姉を探すため。

 優しい姉を見つけだし、村へと戻るため。

 それがアルルゥの望みであり、痛みに耐えてきた理由であった。

 姉も自分を待っていると、何度となくすれ違っても、心のどこかで信じていた。

 

 ……だが、違う。

 違うのだ。

 

 姉がいなくなったのは、それが彼女の望みであったから。

 優しさは変わらない。

 ただ、それ以上の強い想いが、今のエルルゥを動かしている。

 昔と同じ営みの、同じ温もりに包まれて、それが、どうしようもなくわかってしまった。

 父の、神のいないこの世界で、ただ二人だけの姉妹だから……

 

 慄(おのの)く妹を前にしても、もはやエルルゥの言葉は止まらない。

「だからね、アルルゥ」

「おねー、ちゃん……」

 

「ハクオロさんを、起こしてあげて?」

 

 瞳に宿る虚ろな光は、顔を隠しゆく白き面に彩られ、濁った輝きを極めていた。

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