うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
仄(ほの)かな温かさにくすぐられ、アルルゥはゆっくりと目を開けた。
最初に見たものは、緑色の淡い光。
薄くも優しさを含んだそれは、穏やかな朝の目覚めを促した。
次いで感じたのは、懐かしい匂い。
息を吸いこみ、吐きだすだけで、草の、土の、水の、森の、豊かで様々な匂いたちが、頭の中の霞を払っていく。
聞こえてくる音は、揺れる梢(こずえ)と小鳥たちの囀(さえず)り。
そして、当たり前だった煮炊きの音。
クツクツと鳴く鍋の声が、どうしようもなく懐かしい。
母の腕に抱かれているような錯覚で、アルルゥは瞬時に理解した。
ここが自身の生まれた地、カカエラユラの森だということを。
「……でも、なんで――」
「おはよう、アルルゥ。
もう、寝ぼすけなのは相変わらずなんだから」
聞こえてきた呼びかけに、アルルゥは自然と目を向ける。
そこには、柔らかくほほ笑むエルルゥがいた。
森の中のわずかな平地で、エルルゥは朝の支度を整えていた。
温かに香り鳴く鍋の、蓋を持ち上げ中身を回す。
木の杓子で汁を掬い、息を吹きかけ、味をみる。
少し熱かったのだろう。
驚き耳を立てる仕草も、ぐずりながら頷(うなず)く姿も、アルルゥが生まれた時から見てきたものだ。
まるで変わっていない。
優しい姉はごく自然な振る舞いで、当たり前の日常をこなしていた。
それは、忘れていた平穏であり、
時が戻ったような錯覚を起こさせて、
与えられるあまりの心地よさに、
アルルゥは、疑問を浮かべることを止めていた。
「おねーちゃん……」
「朝ごはんできてるよ。一緒に食べよ。
でも、ハクオロさんはまだ疲れてるみたいだから、
静かにね」
「おとー、さん……?」
その思いは見上げる先、
エルルゥの後ろで静かに佇(たたず)む、
白き大神(オンカミ)を目にしても変わらなかった。
鬼にも似た荒々しい魁偉。
千年を経た神木を凌ぐ巨躯。
神々しさと禍々しさを具えた異様を見ても、不思議と恐れも怯えも沸いてはこない。
その存在が姉の語る通り、懐かしき父だと知れたから。
アルルゥは音を立てずに身を起こし、ゆっくりとエルルゥに歩みよった。
昔、疲れて眠る父を前にそうしていたように。
笑う姉に笑みを返し、静かにその隣に座る。
差しだされた木の椀には、なみなみとモロロ汁が注がれていた。
湯気を分けるように息を吹き、一口すする。
「……おいしい」
「ホント?」
「うん。
おねーちゃんの、味……」
懐かしい味を頬張るのに忙しくて、それ以上は言葉にならなかった。
モロロの汁も、焼いた干物も、山菜の和え物も漬物も、どれも変わらぬ味だった。
嬉しさがじんわりとこみあげてくる。
頬を涙で濡らしながらも、食事の手は止まらなかった。
姉の、寂しげなつぶやきを聞くまでは。
「……ごめんね、アルルゥ。
突然いなくなったりして」
それは、心からの謝罪の言葉。
贖(あがな)いの意に満ちた声。
過去を悔い、それでも決めた心の顕(あらわ)れ。
憂いの表情は一転し、心からの笑みとなる。
「でも、これからはずっと一緒にいられるわ。
わたしと、アルルゥと、ハクオロさんの三人で」
「おとーさんと、一緒……?」
「ええ。ずっと、ずーっと一緒に。
永遠に……」
その瞳に宿るのは、虚ろと呼ぶにはあまりにも濁った光。
不浄を溶かした混沌の黒。
姉の、見たことのないまなざしに、アルルゥはここに至るまでの現実を思い出した。
苦しみも、悲しみも、それでも知れた喜びも、すべては姉を探すため。
優しい姉を見つけだし、村へと戻るため。
それがアルルゥの望みであり、痛みに耐えてきた理由であった。
姉も自分を待っていると、何度となくすれ違っても、心のどこかで信じていた。
……だが、違う。
違うのだ。
姉がいなくなったのは、それが彼女の望みであったから。
優しさは変わらない。
ただ、それ以上の強い想いが、今のエルルゥを動かしている。
昔と同じ営みの、同じ温もりに包まれて、それが、どうしようもなくわかってしまった。
父の、神のいないこの世界で、ただ二人だけの姉妹だから……
慄(おのの)く妹を前にしても、もはやエルルゥの言葉は止まらない。
「だからね、アルルゥ」
「おねー、ちゃん……」
「ハクオロさんを、起こしてあげて?」
瞳に宿る虚ろな光は、顔を隠しゆく白き面に彩られ、濁った輝きを極めていた。