うたをつぐもの―うたわれるもの・After―   作:根無草野良

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~第六幕・20~ 夢路・白皇

 

「……ハクオロ、さん?」

 最初の呼びかけは、エルルゥ殿が。

 かすれて消えそうな声で、それでも確かに、はっきりと。

 応えは夢と現(うつつ)の境から、あまりに確(しか)と返される。

「エルルゥ」

 それは、強く、儚く、優しい声。

 聞くだけで不安を拭(ぬぐ)いさる響きに、エルルゥ殿がまとっていた幼い迷い子のような気が消える。

 目端に浮かんでいた小さな雫は、駆ける勢いに流れ、落ちた。

「っ、ハクオロ、さんっ……!」

 抱き倒すほどの勢いを、ハクオロ皇はただ優しく受け止める。

 溢れだす感情と、止め処ない涙も、共に。

「ハクオロさん、ハクオロさんっ、

 ハクオロ、さん……!」

「エルルゥ……

 すまない。辛い想いをさせたな」

「っ……ばか、

 ばかっ、

 ハクオロさんの、ばかぁ……」

「すまない。

 苦労をかけた。

 いや、それは皆にもか」

 泣きじゃくるエルルゥ殿を抱いたまま、ハクオロ皇は周囲に視線を向けた。

 まずは、恐る恐る近づくアルルゥとカミュに。

「おとーさん……」

「おじ、様……?

 本当に……?」

「ああ。

 アルルゥもカミュも、大きくなったな。

 二人とも、綺麗になった」

「う、うう……」

「……本当だ。

 本当に、おじ様だぁ……」

 浮かべられた微笑(ほほえ)みの意味も、それを向けられた二人の胸中も、某(それがし)には推し測りようもない。

 ただ、その絆には、断ちえぬ強さが感じられた。

 神代への時にすら匹敵する、神聖にして不可侵なる重さが。

 しばし、息すら控えていた。

 呼吸で大気を乱すことすら憚(はばか)られる。

 聞こえてくるのは三つの嗚咽(おえつ)だけ。

 エルルゥ殿の乱れた心は、それでもゆっくりと落ちついていったようだ。

 アルルゥたちに支えられ、あるいは支えあいながら、ハクオロ皇の懐を譲るように涙を拭(ぬぐ)い、離れていく。

 募りに募った想いの丈は、他の面々も同じであったようだ。

「兄者っ」

 堪(こら)えていた気を吐き出すように、オボロ殿が一歩を踏みだしていた。

 両の手で、誇るようにユズカ殿を抱き上げて。

「お、おじ様?」

「兄者っ。

 待ち、待ちわびたぞ、

 兄者!」

 示された驚きに構いもせず、数歩の間を全力で駆ける。

 迎え入れたハクオロ皇は、仮面ごしにも分かる苦笑を浮かべていた。

「やれやれ、相変わらずの血気だな。

 ……ん?

 その子は――」

 次いで、鋭いまなざしを。

 片膝をつき、目線を合わせ、前にした小さな少女に臨む。

「あ、あの……」

 その、あまりに真剣な瞳を前に、ユズカ殿の声は小さく震えていた。

 騒乱の最中に生まれた突然の清浄。

 理解も及ばぬ只中で、彼の気に見据えられては、無理もない。

 だがそれも、後に言葉が続くまでのこと。

「ああ、そうだ。

 ユズハの、兄者の子だ」

「私と、ユズハの……」

「え?」

 驚きは両者に、共に。

 ただ、理解の速さだけが異なっていた。

 刃にも似たまなざしが、元の穏やかさをとり戻す。

「そうか……

 そうか。

 ユズハは、生きた証を残せたのだな」

「あ……」

 吐き出すようなつぶやきには、心からの安堵が込められていた。

 それが、混乱を残すユズカ殿の鈍った心を解したのだろう。

「あの……」

「ん?」

「あなたが、ユズカの、

 お父様なのですか?」

「ユズカ……

 そうだよ。

 私がユズカの、お前の父だ」

「あ……」

 伸ばされた手が頭に触れる。

 撫で慈(いつく)しむその動きは、温もりを分かつように、ゆるやかに。

「ああ、そっくりだな。

 白い肌も、黒い髪も、

 触れた心地も、温もりも……

 本当に、ユズハそっくりだ」

 切なる言葉と行為とが、小さな心の堰(せき)を分けたのか。

「お父、様……」

「おっ、と」

 あふれる想いを現すように、ユズカ殿はハクオロ皇の首根にしがみついた。

 流れる涙を堪(こら)えようともしない。

「お父様……

 ユズカは、うれしいです。

 お会いできて、本当に……」

「私もだよ。

 そして、安心した」

「え?」

「ユズカが、母と同じ強い子でな」

「……はいっ」

 安堵をこぼすハクオロ皇に、ユズカ殿は誇らしげな笑みを返す。

 涙はまだ流れたままだが、そこに冷たさは感じない。

 その笑顔を再び抱きしめ、ハクオロ皇は視線の先を変えた。

 彼女を守ってきた者たちに向けられるのは、深い深い感謝の想い。

「オボロ。

 そしてドリィとグラァも。

 ユズカを、よく健やかに育ててくれた。

 ありがとう」

「兄者……」

「そんな、兄者様」「もったいないお言葉にございます」

 渡されるのは誉(ほま)れだけ。

 それだけが、彼らの望みだったのだろう。

「これからもこの子を守ってやってくれ。

 私も、ユズハと共に見守ろう」

「「兄者様……はいっ」」

「っ、当然だっ。

 兄者が気を病むことなどなにもない。

 安心して任せてくれ。

 ユズカは、俺が必ずや立派に育て上げてみせる!」

 詰まらせていた息とともに、オボロ殿は咆えていた。

 離れた場にまで熱を感じさせる気は、新たな決意に燃えている。

 感じる熱意は、見ているだけの某(それがし)すら思わず拳を握るほど。

 ただ、ユズカ殿にはその気勢に、溜息を吐くような思い出が多々あるのだろう。

「おじ様は少し過保護すぎますけど」

「ユ、ユズカ?」

 横から刺されたその声は、水というより氷の冷たさを孕んでいた。

「もう少し考えて行動してください。

 後始末が大変です。

 すごく」

「い、いや、違うぞユズカ。

 俺はだな、お前の事を思えばこそ――」

「もう、いつもそう言って

 誤魔化すだけじゃないですか。

 わたしをダシにして

 狼藉を正当化するのはやめてください」

「はは。

 やはり変わらないな、オボロ」

「くっ、兄者まで……」

 わずかに和(なご)んだ空気の中で、ハクオロ皇が穏やかに語る。

「ユズカ」

「はい?」

「オボロを支えてやってくれ。

 これは、まだまだ学ぶべきことが多そうだ」

「ふふ。

 はい」

「あ、兄者~」

 オボロ殿の情けない声を飾るように、弓の双子が声を殺して笑っていた。

 

「あるじ様」

「カルラ。

 お前も、相変わらずだな。

 いや、妖しさに磨きがかかったか?」

「妖艶、と言っていただきたいですわね。

 女は年を経るほどに熟れていくものでしてよ?

 長く寝かせる清酒のように」

「寝かせすぎたものはどうかと思いますわ。

 あちらこちらと落ちつかないものは、特に」

 オボロ殿が譲った場には、ギリヤギナの親子が立っていた。

 不思議そうなハクオロ皇を、あまり気にしている様子はない。

「カルラ、その子は……?」

「さあ、誰でしょう?」

「誰でしょうって、

 どう見ても……」

 当然の問いに答えはなく、はぐらかされたまま詰めようともしない。

 なにか、妙に警戒して見えるのは気のせいだろうか?

 苦い顔をしたハクオロ皇を、カリンはじっくりと眺めていた。

「ふーん……」

「な、なにかな?」

「あなたがお母さまの選んだ方ですのね」

「あ、ああ。

 どうやら、そういうことらしいが」

「なるほど……

 まあまあですわね」

「あら、失礼な」

「お母さまに手玉に取られているようでは

 まあまあですわ。

 わたしはもっといい男を捕まえてみせますもの」

 唇を尖らせるカルラ殿に対し、カリンは意味もなく勝ち誇る。

 よく似た大小の張り合う姿は、自然と笑みを誘われるもので。

 それは、大神(オンカミ)と称えられる身でも変わらないらしい。

「はは、なるほど。

 いや、よくわかった」

「なにがですの?」

「ん、まあ、色々と、だな。

 名は、カリンだったか」

「ええ」

「そうか。

 よい名だ」

「あ、ン……」

 伸ばされた手はごく自然に、カリンの頭に届いていた。

 柔らかさを覚えようとでもするように、大きく、優しく、撫で触れる。

「母と同じく自由を求めるのだろうな。

 しかし、気をつけるんだぞ。

 あまり心配をかけないようにしてやれ」

「え、ええ、そう、ですわね……」

 子供へ対する扱いに、カリンならば怒りだすかと思ったのだが、意外にも素直に受けいれていた。

 浮かべた難しい表情は、少しだけ朱の色に染まっている。

「あの……」

「ん? なんだい?」

「あの……

 わたしも、その……」

 カリンの口からそれ以上の言葉が発せられることはなく、また、その必要もなかった。

 ハクオロ皇は無言のまま、笑みのままでその意を汲み、触れた頭を抱きしめる。

「きゃ?」

 驚きは一瞬だけ。

 ギリヤギナの力を持ってすればたやすく抜けるであろう束縛を、カリンは解こうとしなかった。

 目の端にはほんの少しだけ、光るものが浮かんでいる。

 静かに見守る母親の目にも、同じ色が滲(にじ)んでいた。

 

 次いでハクオロ皇の前に並んだのは、人の世をつなぐ賢大僧正(オルヤンクル)と、神の腕をも落としたエヴェンクルガ。

「ハクオロ様」

「聖上……

 お久しぶりです」

 某(それがし)であれば恐縮どころか背筋が凍らんばかりの状況にも、ハクオロ皇は泰然たる態度を崩さなかった。

 二人の生み出す緊張と温和を前に、むしろ笑みを深くする。

「ウルトリィ。

 それにトウカも。

 二人には、大きすぎる務めを残してしまった。

 それでも、私の言葉を大切に受け止めてくれたのだな。

 よく力を尽くしてくれた」

「なにを仰(おっしゃ)られるのです。

 某(それがし)はエヴェンクルガとして

 当然の務めを果たしただけ。

 聖上が心を痛める必要など一欠片もありませぬ。

 ……しかし、

 お言葉はありがたく頂戴させていただきます」

「本当に、トウカ様は

 エヴェンクルガの名に恥じぬ、

 立派な働きをみせてくださいました。

 それに比べて、私(わたくし)は……」

 揚々たるトウカ姉に比べ、ウルトリィ様の表情は暗い。

 伏し目がちの姿は、恥じいっているようですらある。

 人の機微に聡(さと)いとはいえぬトウカ姉ですら怪訝を示していた。

「ウルトリィ殿?」

「人と人を、国と国をつなぐぐ調停者などと

 偉そうに説教を唱えながら、

 世はいまだ戦や災いに満ちたままです……

 私(わたくし)などでは、

 ハクオロ様にお力添えをすることなど――」

「なにを言われるのですかっ。

 今の世が保っている事こそ

 ウルトリィ様の尽力によるもの。

 ご自分を誇ることこそあれ、

 卑(いや)しめる必要などまったくありませぬっ」

「ですが……」

「やれやれ、

 自身への厳しさは相変わらずだな」

「ハクオロ様……」

 常ならば考えられない賢大僧正(オルヤンクル)の弱気に、ハクオロ皇は笑いで答えていた。

 互いの信頼が故(ゆえ)か。

 それは、とても自然なやりとりに見え、

「現実は理想の通りになどいかないものだ。

 出来ることを一つ一つ積み上げていくしかない。

 それは人も、神と呼ばれる身でも同じこと。

 目指す先を見失い、嘆くこともあるだろう。

 それが高ければなおさらだ。

 失うものはあまりに多く、

 望んだものが得られるとは限らない。

 

 ウルトの、私たちの選んだ道とは

 それほどに険しいものだ。

 すべてを一人で抱えこむな。

 お前には友がいる。

 妹も、仲間も、家族もだ。

 

 私に、お前たちがいてくれたのと同じように、な」

 

 語る声には確かな信念が宿っていた。

 重ねられたのは言葉ではなく、彼が踏んできた生き様そのもの。

 過去を見るようなまなざしには、懐かしさと、大きな悔いと、それでもなにかを成し遂げた、強い自信が見てとれる。

 それは、迷いのすべてを晴らすことは叶わずとも、今この時の憂いを散らすには十分だったようで、

「はい……

 はい。

 そう、ですね。

 本当に……

 人と人とをつなぐことこそが、

 私(わたくし)の役割ですものね……」

「そうですとも、ウルトリィ殿。

 失敗を恐れる必要などありません。

 ええ、某(それがし)とて、

 今日までに幾つの軍や雇兵団(アンクァウラ)を

 勘違いで討滅してきた事か」

「……いや、それはどうだろうな」

「ふふ」

 誇らしげなトウカ姉の態度とともに、小さな笑みを咲かせていた。

 

「総大将」

「お久しぶりです、聖上」

 続いて、トゥスクルを支える二人の騎兵(ラクシャライ)が進む。

 いつもと変わらぬ豪胆と冷静を前に、ハクオロ皇は絶対の信頼を口元に浮かべた。

「クロウ、ベナウィ。

 お前たちも元気そうだな」

「ええ、おかげさまで。

 寝る暇もないほどに」

 だが、ベナウィ殿の鋭い一言に、その表情は凍りついた。

 ずい、と大きく詰めよられても、一歩たりとて動かない。

「そ、そうか」

「はい。

 聖上がいなくなってからというもの、

 一日たりとて安眠できる日はありません。

 人が動けば戦が起こり、

 物が動けば街が消え、

 天が動けば災いに泣かされ、

 地が動けば飢饉に襲われる有様。

 民を脅かす敵は国の外からのみならず、

 腹の内から湧き出る始末。

 思わず恨みの念を募らせたのも

 両の指では足りぬほどです。

 あのとき聖上がふらふらとせず、

 国の体制を整えておいてくだされば、と。

 そもそも、民を率いるという事は――」

「ち、近いぞベナウィ。

 言いたいことはわかるが……」

「まあまあ、

 そのへんでいいじゃありやせんか、大将」

 延々と続きそうだった説教を、明るい声が遮った。

 トゥスクルの侍大将(オムツィケル)は、いつでもどこでも気を張らない。

「すいやせんね、総大将。

 このところ鬱憤を晴らす相手にも

 恵まれていなかったもんで。

 できれば一杯やりながら、

 と洒落こみたいところですが、

 生憎と酒を切らせちまいやした。

 気付けぐらいじゃ足りやせんね」

「クロウ」

「……やれやれ。

 まったく、貴方という人は」

 それは絶妙な間をもって、萎縮しかけた雰囲気を解(ほぐ)していた。

 幾度となく繰り返されてきた光景なのだろう。

 懐かしむ気配は一層深まり、場を少しだけ和(なご)ませる。

「色々と、苦労をかけたな」

「ええ、本当に」

 答える声は疲れたまま、しかし、もはや非を責める響きはない。

「ですが、トゥスクルは概ね滞(とどこお)りなく、

 民の営みを守り続けています。

 聖上の望みに叶おうと」

「そうか……」

 返された、淡くも平和を伝える言葉に、トゥスクル皇は安堵の笑みを浮かべていた。

 

「カミュ」

「おじ様……」

 ハクオロ皇の呼びかけに応え、カミュはその胸に顔を埋めた。

 黒い翼を震わせながら、小さな嗚咽(おえつ)を響かせる。

 言葉はない。

 ただ、触れた温もりを忘れぬように、静かな抱擁は長く、長く。

 求める動きはハクオロ皇も同じだった。

 優しく頭を撫でる様は、愛し子を抱く父のよう。

 時を隔てた親子の絆が、二人の刻を束の間止める。

 ――翼の震えが消えるまで、その実はほんのわずかな間だけで、

 ゆっくりとハクオロ皇から離れたカミュは、いつもの笑顔に戻っていた。

「カミュ……」

「おじ様……

 うん、平気。

 カミュならもう大丈夫だよ。

 アルちゃんも、きっと……」

 それは、心からの笑み。

 喜びも、悲しみも、痛みも苦しみも知りながら、それでも送る自然な笑顔は、彼女の本当の想いなのだろう。

 たとえ、涙の跡を残していても。

 胸を締めつけられるような切なさに、ハクオロ皇もまた小さく笑う。

「……そうか。

 強くなったな」

「うん。

 だから、おじ様は……

 ……エルルゥ姉様を、助けてあげて」

 悲痛な願いを聞いた後も、笑みの形は変わらない。

 月夜のような瞳を、静かに、静かに閉ざしただけ。

 募る想いが如何(いか)ほどのものか、人の身では知りようがない。

 ただ、再び開いたその目には、黎明の光が宿っていた。

「ああ。もちろんだ」

「っ、おじ様……」

 最後にもう一度だけ、二人は強く抱擁を交わした。

 決して別れえぬように、しかし、短い抱擁を。

 離れた時も、悲痛は変わっていなかった。

 瞳に宿る覚悟も、また。

「ありがとう、カミュ。

 元気でな」

「おじ、様……」

 背を向け、離れていくハクオロ皇に、カミュはもう手を伸ばさない。

「……さようなら、お父様……」

 ただ、雫となった決別の言葉が、静かに頬を流れていった。

 

「お父様……」

「お前、は――」

 向かい合ったハクビからの弱々しい呼びかけに、戸惑いの時は一瞬だけ。

 ハクオロ皇は仮面に手を当て、次には確(しか)と応えていた。

 親を慕う、子の想いに。

「……そうか。

 千年もの時を越えた、ビャクヤの末裔……

 夢すら砂となり消え去る歳月をかけ、

 私たちの望みを叶えるために……」

「はい……」

 労(ねぎら)うようなつぶやきに、しかし、ハクビの答えは重かった。

 背に負った罪のためか。

 褒められるより、称えられるより、ハクビは罰を求めている。

 たとえ彼のためとはいえ、いや、彼のためと思い続けてきたからこそ、苛(さいな)む念は一際に強くなるのだろう。

 対じた機微のその深さを、ハクオロ皇は正しく受け止めていた。

「そうか……」

 静かに伸ばしたその掌で、優しく髪を撫で梳(す)き、とかす。

「お父、様……?」

「すまない。辛い想いをさせたな」

「っ、……!」

 あふれる想いを堪(こら)え切れなかったのだろう。

 掛けられた優しい言葉に、ハクビはすべての言葉をなくし、父の胸に飛び込んでいた。

「う、うあああああああああああああ!!」

 赤子のように叫びながら、ハクビはただ泣きわめいた。

 理性も知性もかなぐり捨てて、乱れる感情のおもむくまま、力を制することもなく、相手を抱きしめ、すがりつく。

 細い女の身でありながら、万力を思わせる心の丈は、掴んだ骨をも軋ませるほど。

 それでも、ハクビを抱きとめたハクオロ皇は、その頭を優しく撫で続けていた。

「お父様、お父様!

 私はなんと、なんと罪深いことを……!」

「ああ、そうだな……」

「数え切れぬ命を、

 おびただしい数の死を、

 地獄(ディネボクシリ)を満たすほどの罪を、

 私は、お父様に……」

「そう、

 私のために、

 お前はすべてを尽くしてくれた。

 すべての責は私にある」

「お父、様……」

 激情は次第に収まっていった。

 掛けられる言葉の優しさと、償いの思いが拍車をかける。

「お前の罪は私の罪だ。

 これ以上、お前が苦しむ必要はない。

 もう過去に捉われる必要はないんだ」

「お父様……」

 それはすべての罪を負い、罰をも継ごうと示す決意。

 許されざる咎(とが)を許し、心の傷を癒す膏(こう)。

 自身を苛(さいな)むあらゆる辛苦から、開放される唯一の機会を前にして、

 ハクビは、本来の自分を取り戻していた。

「……いえ、いいえ。

 そうでは、そうではありません」

「ハクビ?」

 それは冷静で、容赦なく、決して困難から逃げぬ在り方。

 ハクオロ皇からわずかに離れ、細い腕で我が身を抱く。

 あるいは、鼓動を刻む小さな心を。

 人形には宿りえぬ、確かな人の温もりは、彼女が手にした、最初のモノ。

「……この罪は私のもの。

 私が生きてきた証。

 空っぽだった私に、

 心の、命の尊さを教えてくれた、

 友と重ねてきた大切な想い……

 どれほど汚れ、

 どれほど穢れていたとしても、

 この罪こそが、

 私のすべてなのです」

 生を続けていく限り、ハクビがそれを手放すことはないだろう。

「しかし……」

「お願いします、お父様。

 私から、贖(あらが)いの機会を奪わないでください」

 それが、苦しみに満ちた生だとしても。

 対し、語った時は短くも、想いは伝わったのだろう。

 ハクオロ皇は慈(いつく)しみに満ちていた月夜の瞳に、新たな輝きを灯していた。

「……ハクビ。

 私の、もう一人の娘」

「はい」

「覚えておいてほしい。

 たとえ世界のすべてが蔑(さげす)もうとも、

 お前は私の自慢の娘だ」

 厳しさと、誇らしさを。

「お父、様……」

 応じる声は、再び揺れる。

「……はい、はい……

 ありがとう、ございます……」

 交わされた最後の抱擁は、とても静かなものだった。

 

 そして、ハクオロ皇のまなざしは、肩を震わせるアルルゥへと向けられた。

「アルルゥ」

「おとーさん……」

 目を潤ませ、鼻をすすりながら、その表情はどこまでも痛々しい。

「おとーさん、帰ってくる」

「……いや、それは」

「アルルゥがいなくなれば、

 おねーちゃんと一緒に暮らせる。

 幸せに、なれる……」

「アルルゥ……」

 父を見上げるアルルゥの瞳は、切ない覚悟に濡れていた。

 大切な人たちのためならばと、悲痛な思いが溢れだす。

 父と姉が共に生きる、それが唯一の道なのだと、正しく理解しているのだろう。

 ……いや、分かっているのではない。

 思いこもうとしているだけだ。

 アルルゥは、置いていかれる者の辛さを、誰よりもよく知っているのだから。

 そして、その覚悟を聞く皇(オゥルォ)は、置いていかねばならぬ者の苦しみを知っているのか。

「アルルゥはそれで本当に、

 私とエルルゥが幸せになれると思うのかい?」

 優しく諭(さと)す声は、心の痛みに満ちていた。

 聞くだけで過ちだと知れるほど、あまりに重く、鈍い痛み。

「でも……」

 だが、間違いだと悟りながらも、アルルゥは覚悟を引こうとはしなかった。

「そうすれば、一緒にいられる。

 おとーさんと、おねーちゃんと、

 アルルゥも、一緒に……」

「アルルゥ、それは」

「……おばーちゃんと、約束した……」

「っ、あぁ……」

 その一言は二人をつなぐ、大切な絆なのだろう。

 諌(いさ)めるべきハクオロ皇すら、一瞬、言葉を失っていた。

「……そう、そうだったな。

 私は、トゥスクルさんとの約束を破ってしまった……」

「おとーさん……」

「すまない。

 いや、謝ってすむことではないな。

 アルルゥには、辛い思いばかりさせてしまう。

 トゥスクルさんとの約束を破ったばかりか、

 エルルゥのことも、私は……」

「おとーさん……」

「なんと愚かな男だろう……

 私には、父親などと名乗る資格はない……」

「そんな、そんなこと、ないっ」

 いつの間にか逆転していた立場の中で、アルルゥは声を張り上げていた。

 否定の声には絶対の確信がこめられている。

「アルルゥ?」

「おとーさん、色んなこと教えてくれた。

 うれしいことも、たのしいことも、

 おいしいことも、ヘンなことも」

「そ、そう、だったか?」

「そう。

 カミュちーやユズっちと友だちになれたのも

 おとーさんのおかげ。

 トラや、ティティカおねーちゃんと一緒にこれたの、も……」

 

 流れるようだった言葉が、突然止まる。

 大切な人から最後に貰った、宝のような想いの欠片を、語りながら思い出したのだろう。

 その輝きは、対した者にも伝わったようだ。

 先を躊躇うアルルゥを、ハクオロ皇は優しく促していた。

「その人にも、

 大切なことを教えてもらったのだな」

「……うん。

 人の命は一度だけのものだって。

 それは誰にも、神様にも変えちゃいけないことだって。

 ……死を受けいれるのが、生きることだって……」

「……そう、

 そうだ。

 アルルゥならわかるだろう。

 その言葉の意味が」

「…………ん」

 流れたわずかな沈黙の後、悲壮な覚悟は消えていた。

 諦めの気持ちからではなく、生の重さに気づいたからだろう。

 その表情は少しだけ悲しそうで、少しだけ嬉しそうだった。

 日頃は幼げな面立ちが、今だけは、とても大人びて見える。

「その人に、

 いや、皆に感謝しなくてはいけないな。

 アルルゥにもだ」

「え?」

「私がいなくても、

 アルルゥは立派に成長してくれた。

 父として、こんなに嬉しいことはない」

 ハクオロ皇の重い息には、深い安堵がこめられていた。

「おとーさん……」

「ありがとう。

 私は、アルルゥの父親であれて、

 本当によかった」

「おとー、さん……」

 応える声も思いは同じ。

 父の不安を消し飛ばすように、アルルゥは強い意思を示す。

「アルルゥ、もう大丈夫」

「そうか」

「ん。

 おとーさん、ずっと一緒。

 おねーちゃんも、ムックルも……

 みんなみんな、ずっと一緒……」

 それは虚勢でも強がりでもない、心からの確かな言葉で、

「……ああ。

 私は、いつだってアルルゥと一緒だ」

「だから、大丈夫。

 トラもカミュちーもカリリンも、

 ユズっちもティティカおねーちゃんも、

 みんなが一緒にいてくれるから」

「そうか。

 ……そうだな。

 アルルゥなら、大丈夫だ」

「ん」

 互いをつなぐ親子の絆を、さらに深く結んでいた。

 交わす最後の抱擁に、その強さが見てとれる。

「ありがとう、アルルゥ……」

「ん……」

 背に回された想いの丈、締め上げるような父の腕を、アルルゥはただ嬉しそうに受け入れていた。

 

 多くの言葉を交わしたハクオロ皇は、最後に、最も語るべき者の前に辿りついた。

「エルルゥ」

「ハクオロ、さん……」

 エルルゥ殿は涙に暮れるがまま、しばらく動こうとしなかった。

 うつむき、押し黙りながら、それでも堪(こら)えきれぬ嗚咽のまま、ただ子供のように泣いていた。

「なんで……

 なんで、帰ってきてくれなかったんですか」

「エルルゥ……」

「わたしの気持ちは知ってたはずです……

 いつになるのかもわからないのに、

 ただじっと待っているだけなんて、

 わたしには、できませんでした……」

 告白されるのは、心の弱さ。

 いや、それを弱さと呼ぶのは酷か。

 数千数万の人々を、数多の国々を犠牲にし、その罪の深さを知りながら求めたものが、弱さからの願いであるわけがない。

 背を走り抜けるのは、かつて感じたことのない恐怖。

 胸を焼き尽くす、いまだ知りえぬ熱い想い。

 たとえ過ちを犯しても、いかに歪みを孕もうとも、消えることのない強き念。

 

 それが愛なのだと、某(それがし)は初めて知った。

 

「わたしは、ダメなんです……

 ハクオロさんが、いてくれないと、

 わたしは……」

「エルルゥ……」

 涙を伴う告白に、名の他に返される言葉はない。

 きっと、答えなどないのだろう。

 それは恐らく、剣より険しい人の道だ。

 あと百年生きたとて、某(それがし)には手も届くまい。

 至難極まる問題に、ハクオロ皇ですら言葉を詰まらせた。

 だが、それは困惑からではなく、覚悟を定める一拍のため。

 伸ばされる手と踏みだす足、動きはどちらが先だっただろうか。

「ハクオロ、さん……?」

「すまなかった」

 エルルゥ殿を胸に抱き、ハクオロ皇はその想いに応えていた。

 懐かしむような声で、偽らざる心を語る。

「私は、エルルゥがいてくれれば、

 人として生きていけると思った。

 懸命に生きる人々の温もりを、

 人として生きる喜びを与えてくれたエルルゥが

 側にいてさえくれるなら、と。

 だが――」

 同時に浮かぶのは、小さな悔い。

 悔恨の想いはその腕に、いらぬ力を込めさせる。

「それは、エルルゥも同じだったのだな……」

「ハクオロさん……」

 それも一瞬だけのこと。

 抱く力を緩めながら、掛ける声は、どこまでも優しい。

「すまなかった。

 だが、もうエルルゥを一人にはしない。

 これからは、ずっと一緒にいよう」

「ハクオロ、さん……」

 返される安堵の響き。

 雪解けを思わせる声は、

 しかし、途中で冷たさをとり戻す。

「でも……

 でも、わたしは、もう……」

 血の気を引いていく表情、

 小刻みに震える小さな肩、

 光を失う黒い瞳。

 膨らんでいく怯えと恐怖は、犯した罪の重さ故か。

 惨状を目の当たりにしてきた某(それがし)には、掛かる重圧がはっきりと見えた。

 死者の指が、腕が、舌が、痛みを与えた者を捉える。

 腐りかけた血が、肉が、砕けた骨で肌を刺す。

 生への執着、残した未練、尽きるはずもない怨(オン)が、

 恨みを晴らさんと、傷を犯す。

「ひ、ぃ……」

 エルルゥ殿の身を苛(さいな)むのは、地獄(ディネボクシリ)を満たすほどの罪悪だ。

 そこに同情の余地はない。

 果て無きの責苦を負うことは、彼女の選んだ修羅の道の、至極当然の末路であろう。

 それでも、共に在ると思うのならば。

「大丈夫だ」

「でも、でもっ」

「大丈夫だ。

 その重さは、私が共に背負おっていこう」

 ……そう。それしかないだろう。

 無限の罪、無限の悪、無限の罰を負う苦しみに、ハクオロ皇は笑って応えた。

「そんな、ハクオロさん……」

「いいんだ。

 堕ちよう、一緒に……」

 動揺と、困惑と、悲壮を浮かべるエルルゥ殿を、ただ優しく抱いたまま。

「……はい

 …………ごめんなさい……」

 すべてに対する謝罪の言葉を、白面の皇(オゥルォ)は静かな笑みで受け止めていた。

 

 どれほどの間、その様に心奪われていたのだろう。

「そこの侍」

「……はっ?」

 唐突な呼びかけに、某(それがし)は慌てて剣を構えていた。

 気がつけば周囲に敵はなく、ハクオロ皇との間を遮るものもない。

 赤い肉塊も、隆起した根も、あげくは小石の一片すらも。

 それは、まるで花道のように、某(それがし)の踏むべき標(しるべ)を刻んでいた。

「タイガといったな。

 その剣を、『冥獄』を、ここへ」

「……」

 かけられた言葉は、ごく自然。

 迷いのない皇(オゥルォ)の声は、それに従うのが当然と思わせる。

 促されるがまま足を踏みだしかけ、慌ててその意を押さえこんだ。

 

 目の前の男は、あの白き巨人の化身。

 いわば敵の本体とも呼べるモノだ。

 うかつに近づいては、いかなる逆襲を喰らわされることか……

 

 頭ではそんなことを考えながらも、腕は切先を下ろしていた。

 そのまま皇(オゥルォ)の下へと進む。

 アルルゥたちが父と慕い、無条件の信頼を寄せる相手なのだ。

 信じられぬ理由がない。

 それに、諦めもつく。

 彼に裏切られたのなら、某(それがし)はそこまでの漢(おとこ)だったということだろう、と。

 片膝をつき、頭(こうべ)を垂れ、神をも殺す『冥獄』の刃を支え、柄を向ける。

 そのまま一息に押しこまれれば、某(それがし)の喉を容易く貫くであろう――

 結局のところ、まったくの杞憂でしかなかったが。

 

 黒の剣は何事もなく、白き皇の手に渡った。

 

 離れた重さに顔を上げたとき、そこでは一人の父親が、優しいまなざしで微笑(ほほえ)んでいた。

「お前は、エヴェンクルガの武士(もののふ)か」

「はい――

 いえ。

 今は雇兵団(アンクァウラ)

『ティティカルオゥル』のタイガにございます」

「『ティティカルオゥル』……

 アルルゥが旅で得たという新しい家族だな」

「そう認めていただけるのであれば、

 これ以上の喜びはありません」

「礼を言おう。

 私の娘が、娘たちが、

 随分と世話になったようだ」

「……いえ、

 某(それがし)の方こそが助けられました」

 一瞬、数々の労苦が脳裏を過ぎったが、言葉にしたのは本心だった。

 アルルゥたちと出会わなければ、某(それがし)はいまだ人の業を知らず、実のない誇りを掲げて喜んでいただろう。

 喜びも、悲しみも、出会いのすべてが今は宝だ。

 某(それがし)の返した思いに、ハクオロ皇は笑みを深めていた。

「『ティティカルオゥル』のタイガよ。

 一つ、頼まれてくれないか」

「は、なんなりと」

「アルルゥを、

 私の娘たちを、

 これからも守ってやって欲しい」

「それは……」

 身に余る光栄に、しかし、即答はできなかった。

 言葉を詰まらせたその棘に、思案の末、思い至る。

「申し訳ありませんが、

 承諾しかねます」

「……何故だ?」

「某(それがし)、

 その誓いはすでに立てておりますゆえ、

 改めてお約束することはできません」

 心からの謝意と共に、愚直な視線を返していた。

 我ながら気が利かぬとは思いながらも、偽りはなおさらに礼を欠く。

 叱責を覚悟していたのだが、見上げた笑みは変わらなかった。

「そうか……

 はは、それでは仕方ないな」

「はっ、申し訳ありませぬ。

 他のことであれば、なんなりと」

「……いや、やめておこう。

 お前の道はお前が定めるべきだ。

 己に恥じぬ生き様を見極めるといい」

「ありがたきお言葉。

 精進いたします」

「これからも、皆を頼むぞ」

「はい。

 この命に代えましても」

 交わす最後の言葉にだけは、素直に応えることができた。

 

 永劫にも思えた刻も、過ぎてみればただ刹那。

 夢現(ゆめうつつ)に終わりを告げるのは、やはり夢現(ゆめうつつ)を始めた者。

「……それでは皆、

 元気でな」

 居並ぶ一同を見回しながら、ハクオロ皇は静かに『冥獄』を手渡した。

 ただ一人、傍(かたわ)らに残したエルルゥ殿へ。

「……」

 音もなく、声もなく、ただ一つ頷(うなず)いて、エルルゥ殿は剣を握った。

 細腕は黒刀の重さを支えきれず、刃の鍔根を掴んでいる。

『冥獄』は流れる血を喜ぶように、闇の瘴気を撒いていた。

 煮え立つ力は噴煙のように、禍々しさで二人を覆っていく。

 見守る者たちから聞こえてくる、息を飲む小さな音。

 いやます不安に震えているのは某(それがし)だけではなく、隣に並ぶアルルゥも同じ。

 無理もない。

 だが、見届けねばならぬ。

 飛び出そうとするアルルゥを、肩に触れて留まらせる。

「トラっ……」

「……」

 短くも痛切な叫びに無言で応える。

 震える手を握る事で。

「ハクオロさん……」

「おいで、エルルゥ」

 交わした言葉を切欠に、エルルゥ殿はハクオロ皇に一歩近づいた。

 

 黒き剣を握ったまま、彼の腹に狙いを定め、埋める。

 苦痛の声は上がらない。

 それが当然であるかのように、『冥獄』は皇(オゥルォ)の身へと沈んでいく。

 やがて刃は腸(はらわた)を抜け、背からゆっくりと現れた。

 二人の距離が近づくほど、それは無慈悲に、正確に伸びていく。

 

 生まれる瘴気はいつからか、残した傷を侵していた。

 腹から、手から、身の内から、二人を黒に染めていく。

 それはいつしか影となり、遂には深い闇へと変わった。

 絶対の死は漆黒となり、両者を瘴気に溶かしていく。

 やがてはその魂まで、欠片も残さず砕かれるのだろう。

 

 それこそが、愛という罪に要する罰。

 

 永遠の苦痛を受け止めながら、二人は共に微笑(ほほえ)んでいた。

 幸せそうに、安らかに……

 

 

 

 某(それがし)は生涯忘れない。

 向けられた最後の笑みも、握る手から伝わる想いも。

 すべての罪が闇に溶け、それすらも消え去った後、

 場には、力を失くした黒の剣と、

 白き鬼面だけが残されていた。

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