うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
罪も、罰も、温もりも、存在していた残滓もない。
死の刃は力のすべてを使い果たし、ただ大地に突き立つばかり。
音もなく、光もなく、時すらなくしたその場所に、残されたものはただ一つ。
白い鬼の面もまた、ゆるやかに地へと落ちていった。
乾いた音が虚ろに響く。
時は止まらないのだと、ようやく思い出した。
「お父、様……」
「エルルゥ姉様……」
ハクビとカミュの呼びかけに、当然、答えは返ってこない。
つぶやきの声はつぶやきのまま、ただ闇に消えていった。
神々しさも禍々しさも、生の気配すらも、もはやない。
あまりにも異常な雰囲気に、得体の知れない不安がよぎる。
某(それがし)は、繋いだままだった手の主をうかがって、ようやく少しだけ安堵した。
父と姉の旅立ちを見送ったアルルゥのまなざしは、いつもの色に戻っていた。
夜空のような黒い瞳に、もう涙の跡はない。
これから先、彼女は幾度となく今日のことを思い出すだろう。
深い苦しみと悲しみは、生き続ける限り消えることはない。
……それでも、きっと大丈夫だ。
「終わったな」
「……ん。
よかった……」
短い呼びかけに返ってきた言葉が、そんな確信を持たせてくれた。
皆にも、同じように伝わったのだろう。
流れる風と揺れる梢(こずえ)、そして木漏れ日を感じるに至り、ようやく張りつめていた緊張が解けていく。
某(それがし)もゆっくりと息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。
「さあ……帰るか」
「ん。
おとーさんも、いっしょ」
「そうだな。
その鬼面と、『冥獄』も……?」
そして、残された品々に向かおうとした途端、
斬られんばかりの悪寒に竦(すく)む。
「アルルゥ!」
「うをっ?」
反射的に引きよせたアルルゥの、頭のあったその場所が、血の色に濡れた肉の触手に貫かれていた。
意識を引き締め、出元を探す。
血肉の筋は遥かな後方、某(それがし)が『冥獄』を振るい戦っていた相手、
吼える『リュウガ』から伸びていた。
「なっ?」
「あいつ、まだ……!?」
「グオオオオオオオオオオ!!」
血の香る咆哮は森を震わせ、同属の力を呼び起こしていく。
注意を促す暇もない。
某(それがし)たちは、再び血肉の海に囲まれていた。
うねる腸(はらわた)に、踊りかかってくる臓腑(ぞうふ)。
酸を飛沫(しぶ)かせ迫りくる様は、醒めぬ悪夢を思わせる。
静寂から一転してのおぞましさに、皆一様に戦いの気をとり戻した。
「くっ、こいつらもかっ」
「ええい、雑魚がいつまでも見苦し、いっ?」
怒りのまま、まずはと振るわれたテルテォの槍は、アルルゥを掠めた触手に触れ、しかし、敢えなく弾かれた。
驚きは当然だろう。
つい先ほどまでは難もなく、微塵に斬り裂いていたのだから。
浮かべた疑問は、すぐに解けた。
伸びた触手のその先には、白い鬼面が掴まれていたからだ。
「なっ!?」
「あれは、ハクオロ皇の?」
「!
いけないっ。
お父様の、大神(オンカミ)の力がっ」
ハクビの叫びを解する間もなく、それは、瞬きの内に引き戻されていた。
あまりに強い勢いに、受けた『リュウガ』がわずかに砕ける。
「グ、ゴ、ガアアアア!!」
苦痛とも取れる絶叫が、肉塊どもを一斉に爆ぜさせた。
腐肉の群れは巨大な津波と化し、残された大神(オンカミ)の巨躯を飲みこんでいく。
「た、大将っ、あのヤロウ!」
「なんということを……」
その様を見たベナウィ殿の声は、驚きと怒りに歪んでいた。
いや、あるいは慄(おのの)きに。
「ヴグルオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
骸であるはずの大神(オンカミ)が、喰われる痛みに咆哮を上げる。
甲殻の腕が、支える脚が、赤黒い腐肉に侵されていった。
それは、徐々に上へと昇る。
腿から腰に、腕から肩に。
侵食が進むほど、咆える響きは質を変えていく。
「オオオォォォ……
グオオオオオオオオアアアア!!」
痛みに耐える叫びから、破壊の衝動に駆られた轟きに。
まとい放つ重圧が、瘴気となって地を潰す。
斑に染まった大神(オンカミ)の咆哮は、それだけで巨木の群れを薙ぎ倒した。
「くっ……
あの野郎、兄者の、
大神(オンカミ)の力を喰らいやがったっ」
オボロ殿の舌打ちを肯定するように、赤黒い巨躯が盛大に爆ぜた。
背から、腹から、頭から、腐血と触手がほとばしる。
それは、木々と大地を貫いて、見渡す限りの森へと広がった。
そのすべてを、赤い黒へと変貌させるために。
「こ、これは」
「また、なんという……」
「あれは、森に加え大神(オンカミ)の力を宿したモノ……
もはや消えゆく力ゆえ、
そう長くは続かないでしょうが……」
「お姉様、
それって、いつ消えるの~」
臓物の壁に覆われた世界は、巨大な獣に飲みこまれたような錯覚を憶えさせる。
余裕をなくす皆の声に、しかし、某(それがし)は目を向けている余裕がなかった。
周囲の変異も鼻突く異臭も、肌に触れる酸すらも、気にならない。
某(それがし)の意識はただ前に、
変わりゆく『リュウガ』のみを捉えていた。
「ルグウウウウロオオオオオオオ!」
鬼面に顔を覆わせて、人型の血肉はのたうっていた。
大神(オンカミ)にも匹敵する咆哮に、憎悪と憤怒を滾(たぎ)らせて。
虚ろでしかなかった瞳には、いつの間にか意思らしきモノが宿っている。
「フウウ、グウウウウ……
コロス、コロスッ、コロス!
シネ、シネッ、シネエエエェェェ!!」
それは原型の面影もない、醜い負の感情でしかなかった。
見るに堪えず、しかし、目を離すこともできず。
嘔吐感にも似た感覚に、ひたすら耐えることしかできない。
「あるじ様の忘れ物にしては醜悪ですわね。
これが『怨(オン)』というものなのかしら」
「珍しく同じ意見だ。
リュウガの姿を、このように……
エヴェンクルガに対する冒涜(ぼうとく)以外の何物でもない」
嫌悪と怒りを燃やしながら、カルラ殿とトウカ姉がそれぞれの得物を手に臨む。
その歩みの前に、某(それがし)は立ち塞がった。
「あら?」
「タイガ、そこをどけ。
このように不愉快なモノ、
某(それがし)が微塵打ち砕いて――」
「それは、聞けません」
「……なに?」
カルラ殿の好奇の目とトウカ姉の苛立ちが向けられる。
怒りの想いはもっともだ。
彼の存在はエヴェンクルガならずとも一時とて容認できるものではなく、可能な限り早々に粉砕してしまいたくなる。
だが、これだけは譲れない。
「お願いします。
リュウガ兄の名誉は、
どうか、某(それがし)に」
血を分けた実の兄に対する、これが最後の孝行であろう。
何人(なんぴと)たりとて、たとえトウカ姉だとて、この役目だけは譲れない。
決死すらこめた覚悟の体(てい)に、カルラ殿は妖艶な笑みで答えてくれた。
「素直ですわね。
わたしは構いませんわよ」
「カルラ、
お前はまたすぐにそういう……」
「もちろん、
あなたが殺されたときには
わたしが潰させていただきますわ」
無情な言葉も本気と知れる。
だがそれは、至極当然の要求だ。
「はい。
その時は、お願いいたします」
どのような形のものであれ、戦に臨む以上は覚悟を定めている。
まして、明らかに己よりも上の相手に対しては、尚更だ。
その差を、トウカ姉もまた見極めていた。
「……わかっているだろうが、アレはリュウガだ。
大神(オンカミ)の力で生みだされた、
本人の力を映した空蝉(うつせみ)。
はっきり言うぞ。
お前の技量では――」
「違います、トウカ姉」
それでも、刃を交えなければ得られぬものがある。
「アレは、リュウガ兄ではありません。
あんなモノが、
リュウガ兄であるはずがない……っ」
感情の乱れは自分でも自覚している。
だが、それでも、この直感にだけは絶対の自信があった。
あんなモノを、リュウガ兄などと呼ばせるわけにはいかない。
「それを、明らかにしてきます」
示す想いの強さは誰にも、たとえ神にも止められぬほどで、
遂にはトウカ姉に納得の、あるいは諦めの息を吐かせていた。
「……わかった。
決して、エヴェンクルガの名を貶(おとし)めるなよ」
「承知」
応えは短く、動きは素早く。
某(それがし)は腰の剣を抜き、唸る『リュウガ』に正対した。
その手に生まれる赤い剣。
いや、血肉を固めた死霊の牙。
紛(まが)い物が、あくまでもリュウガ兄を模するつもりらしい。
――上等だ。
「……いざっ」
「ギアアアアア!」
始まりは、裂帛の気合と咆哮で告げられ。
進む道を埋め尽くした腐肉の壁を、踏み潰さんばかりの勢いを持って、一閃の一歩を踏みだした。