うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
宴の声は遠くに離れ、虫の唄が静かに響く。
夜を照らす青い光は、月と星の落とす雫。
常世(コトゥアハムル)を思わせる、街外れの小さな湖畔。
アルルゥはそこにいた。
鏡のような湖面を前に、膝を抱えて座りこんで。
わずかに上を向いているのは、月を眺めているのだろうが、その瞳はどこか虚ろだ。
二匹の獣も一緒だが、いつものような元気はない。
ムックルは身を縮めて彼女の背を支えているばかりだし、ガチャタラもまた心配そうに見上げているだけ。
時の流れを忘れたように、アルルゥは夜の空を見つめている。
その光景は一枚の神聖な絵のようで、触れてはならぬ儚さを思わせた。
さながら、永遠という在り方の悲しさか。
見つけてからすでに半時、声をかけるどころか、近づくことすらできずにいた。
「一体どうしたというのだ、アルルゥ殿は。
宴にも行かず、ずっとあのままだぞ」
隣のテルテォが何度目かのぼやきをこぼす。
心配する気持ちは同様らしく、騎兵の姉弟は某(それがし)が来るより先にアルルゥを見守っていた。
不可侵を感じているのも同じようだ。
「先刻からずっとあのままだ。
体に障ると何度か忠告はしたのだがな」
リネリォの声にも珍しく張りがない。
日頃の気風であれば引っぱってでも連れ戻しそうなものなのだが、アルルゥの憂いはそれすら躊躇わせるということか。
事情を知らぬ身ではことさらだろう。
いや、誰であっても同じことか。
アルルゥの想いがどれほど深いか、某(それがし)にはわからない。
過去も、心も、望みも、絶望もだ。
たとえ知ることができたとしても、すべてを解することはできないだろう。
触れても傷を癒すどころか、かえって痛みを思い出させるだけかもしれない。
――それでも。
一歩を踏み出したその後は、いつもの足取りで進めた。
「お、おい」
「任せてくれ」
「タイガ。お前、どうするつもり――」
「頼む」
短く、しかし強く告げる。
姉弟はそれ以上の問いを控えてくれた。
心の中で感謝を告げながら、アルルゥの下へと歩む。
この世ならざる領域に踏みこむような心地を覚えながらも、足は止めない。
辿りついた少女の隣に、音を立てずに腰を下ろした。
「アルルゥ」
「……」
返事はない。
代わりに、視線が返ってきた。
光も、意思も、魂も、すべてを吸いこんでしまいそうな、常闇のまなざし。
「あ……の、な……」
言葉が続かない。
自分が見てきたいかなる闇より深い漆黒に見つめられ、上辺だけの言葉などまるで無意味と思い知らされる。
ただ空気を震わせるだけの音では、今のアルルゥに届かない。
心からの声、心からの想い、心からの痛みでなければ。
そのための言葉が、出てこない。
彼女に語れるような生き様が、自分にはないのだ。
「そ、の――」
声を潰し、視線から逃げてしまう。
アルルゥはなんの感情も表すことなく、再び空を向いた。
「……はぁ」
あまりの情けなさに息が漏れる。
滲(にじ)む視界を自覚して、あわてて空を仰いだ。
朧(おぼろ)がかった青い光が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
視線の先に、丸い月が浮いていた。
見つめ続けていると吸いこまれそうになる。
そんな錯覚を覚えるほどの鮮やかさは、空に開いた穴のようだ。
見るからに風通しのよさそうな丸い穴が、きっと某(それがし)の胸にも開いているのだろう。
少しだけ心が落ち着く。
思えば旅に出て以来、月はすっかり見慣れたものとなった。
夜を一人で過ごす者にとって、月は唯一の友と言える。
遥か遠くに離れていながら、いつでも身近に感じられる存在であるからかもしれない。
そう考えるなら、彼には友人が大勢いるのだろう。
片思いの友人だ。
孤高の存在でありながらあらゆる者を繋ぐ。
そんな魅力が、月にはある。
闇の中にありながら、そのすべてを包みこむような優しさが。
「……おとーさんも、そんなこと言ってた」
不意に、つぶやきが聞こた。
「アル、ルゥ?」
「疲れたときとか、大変なとき。
辛いときも、苦しいときも、
お月さまを見てると気持ちが落ち着くって」
月を見たまま、アルルゥは言葉を重ねていく。
「父上が……」
「ん。
ヤマユラのお仕事の後も、
お城で忙しかった後も、
戦って痛かった後も、
お月さま見ながらお酒飲んでた」
少しだけ温かさの戻りかけた声が、唐突に元の無感情へと落ちる。
「……あの女の人の顔。
おとーさんのだった」
「顔?」
リュウガ兄がハクビと呼んだ、あの女の仮面のことか。
しかし……
「おとーさんのお顔、おねーちゃんが持ってた。
大事に、大事にしてた」
……ああ、そうか。
「それで、仮面の女の話を聞いて
追いかけてきたのだな?
姉上ではないかと思って」
某(それがし)の問いかけに、アルルゥは小さくうなずいた。
「仮面の人がいるって、
戦いの場所に現れるって、
そんなのおねーちゃんじゃないって、
でも、もしかしたらって――」
少しずつ上ずっていく声と共に、瞳には感情の色が戻っていく。
「やっぱり、違う人だった……」
それは、深い哀しみの色だった。
聞こえる、小さな嗚咽の声。
幼子のような切ない声は、しかし、決して高まらず、哀しみを飲みこみ、消えていく。
月を見上げた姿のまま、色を失った常闇の瞳から、ついに涙が流れ落ちる事はなかった。
その様は、すべてを悟った隠者のようでありながら、意固地に我慢を続ける子供のようでもあり、
「もう、おねーちゃん探せない。
どこに行ったのか、わからない……」
「そんな事はないっ」
それ以上は耐えられず、思わず声を張り上げていた。
「トラ……?」
向けられる、小さな驚きのまなざし。
宿る常闇の虚ろが、今は忌々しくてしかたがない。
「あの仮面が父上のものである事は
間違いがないのだろう?
ならば、あの女は姉上殿の行方を
なにか知っているはずだ。
捕まえて聞き出せばいい」
「でも……」
あるのは不安と、困惑の色。
アルルゥには似合わない色だ。
ああ、まるで似合わない。
それを消してやりたいと思った。
だから、
「大丈夫だ。
俺が、手伝ってやるから」
迷いなく告げていた。
間違いなく、心からの言葉だ。
後に続く沈黙の中、虫の歌が静かに響く。
他には遠くからは宴の喧騒が、風に乗って少しだけ。
その中で、つぶやきは嫌になるほどはっきりと聞こえた。
「トラ……」
驚きとも、呆れともつかぬ声を発したアルルゥの表情は、ほんのわずかだけ変わっていた。
小さな、小さな微笑みに。
……いかん。
なぜだか無性に、顔が熱い。
「も、もちろん、ティティカ姉も
手伝ってくれるだろうし、
ムックルも、ガチャタラもいるしなっ。
手伝いといっても、某(それがし)にできることなど
微々たるものでしかがないが、
うむ、可能な限り尽力することは誓うぞ」
「ん……ありがと」
笑みのまま向けられた感謝の言葉は、ただ素直なものだった。
そして、突き出されたのは、右手の小指。
「じゃ、やくそく」
「あ、ああ。約束……」
考えもせず、小さく細いその指に、自分の小指を絡めていた。
途端、素直な笑みが質を変える。
「むふー、やくそくした」
もはやすっかり見慣れてしまった、いたずら好きの子供じみた笑みに。
「ああ、あ?」
「それじゃ明日からゴハンは一日三回。
食べたあとにはオヤツつき」
「な……なんだそれは?」
「手伝うっていった。
できることするって」
「だ、だからって、
一日三食に間食とは、
労力的にもだな――」
「うー。がんばるっていったー」
「いや、尽力ってのは、
そういう事ではなくて……」
いつの間にか、交わす言葉はいつもの調子に戻っていた。
某(それがし)をからかうアルルゥは、いつものように楽しげで、
だから、まあ、よかったのだろう。
見上げる月は、変わらず優しいままだった。