うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
湖畔での夜錬を終えて宿へと戻る道の途中、静かな光が目についた。
青く、仄かな、儚い光。
それは揺らめき、擦れ、瞬きながら、ふわりふわりと宙を舞う。
「……なんだ?」
誘われるがまま足を向けていた。
光の元を脅かさぬよう、自然と音を忍ばせて。
不思議と警戒の気は起きなかった。
不審も、不安も、不条理も思わない。
ただ、引き寄せられただけ。
胸の奥に触れられた心地に、優しく静かに誘われる。
歩みを進める内、耳は音を忘れていた。
夜の冷たさも、風の匂いも、目で見ている世界の色も、意識の外に置いてしまう。
在るのは心で識るものだけ。
炎を求める蛾の如く、愚直にただ前へと進む。
足を止めたのは水の際。
緩やかに舞う光の子らは、その先にある湖面の上で、
黒き翼の娘と共に、幽玄の美を舞っていた。
流麗にして艶美。
優雅にして孤高。
鏡のような湖面の上にあり、波一つ立てず踊るその様は、まさしくこの世のモノではなく、
「……カミュ、様?」
気配を殺していた事も忘れ、思わずつぶやいていた。
発したその一言が、静寂の世界に終わりを告げる。
湖上に生まれた驚きの気配に、青き燐光は散り消えてしまった。
同時に音も蘇る。
冷気も、夜気も、感覚も。
微かに響く虫の声に、パシャリと水の音が一つ。
生まれた波と同じように黒い翼を小さく揺らし、カミュ様は呆けた某(それがし)の前に降り立った。
困ったような笑みを浮かべて。
「やー、見てた、よね?」
「は、はい。
その、なにを……」
「うん……今日も楽しかったからね、
このコたちにも分けてあげてたの」
「この子、たち……?」
「そう……みんなが、
禍日神(ヌグィソムカミ)って呼んでるコたち」
「禍日神(ヌグィソムカミ)……」
少しだけ真剣さのこもった言葉に、知らずつぶやきを漏らしていた。
わずかに嫌悪を含んだつぶやきだ。
大神(オンカミ)と対を成すそれは、人に害をもたらす存在(モノ)。
疫病、災害、飢餓、悪心。
あらゆる負の化身として、忌み嫌われている存在だ。
そのようなモノに親しみを向けるなど、大神(オンカミ)への冒涜と蔑まれても仕方がない。
当然、某(それがし)もそう思い生きてきた。
だが、
「……やっぱり、気持ち悪い、よね……」
「そんな事はない」
カミュ様の悲しげなほほ笑みを、思わず強く否定していた。
心の想いをそのままに語る。
「あのような美しい舞を、
俺は今までに見た事がない……」
禍日神(ヌグィソムカミ)は人の負の念だともいう。
苦しみ、悲しみ、恨み、痛み。
あの舞は、それらに喜びを与えていたのだろう。
束の間でも、報われぬ想いを忘れられるように。
今ならば、惹かれた理由がよくわかる。
某(それがし)の内にもまた、暗い念が潜んでいるのだから。
カミュ様の舞は、浅ましい己の想いに気づかせてくれた。
それもまた、背きえぬ自分自身である事にも。
「……ご自分を卑しめる必要はありません。
貴女は、素晴らしい方です」
「トラちゃん……ありがと」
言葉に秘めた思いの丈を、カミュ様は正しく汲んでくださったらしい。
返された笑みはアルルゥに向けるものと同じ、一点の曇りもないものだった。
一つ、心臓が大きく脈を打つ。
いつもの悪戯めいた笑みに変わると、逆に小刻みな震えとなったが。
「へへー。トラちゃんに口説かれちゃったー」
「く、くどっ?
そ、そんな意味ではっ。
某(それがし)は、カミュ様が人として
素晴らしいと述べただけであって、
そのようないかがわしい含みはまったくっ」
「もー、カミュでいいってば」
「そ、そういうわけには。
仮にも一国の姫を、
それもオンカミヤムカイ皇の妹君を相手に
そのような――」
「カミュって呼んでくれなきゃ
アルちゃんに言っちゃうぞ。
トラちゃんに口説かれたー、って」
「なっ?」
楽しげな言葉に思わず絶句する。
してやったりと言わんばかりの表情に、先まで湖上で舞を披露していた人物の威厳はまるでなかった。
妙な禍日神(モノ)にでも憑かれているのではあるまいか。
しかし、そう言われては逆らえないのも事実だ。
なにがどうというわけではないのだが、あの平たいまなざしと無言に、どんな仕打ちを受けることやら……想像がつかないだけに恐ろしい。
長考の末、あえなく屈した。
「……カ、カミュ、で、いいですか」
「ぶー、まだ固いー。
友達なんだから、もっと気楽にー」
「いや、しかし……」
「アルちゃんにー、言っちゃうぞー」
こ、こいつは……と痛くなる頭で、ようやく思い至った。
「……なるほど。ようするに、
アルルゥと同じように扱えばいいわけだ」
「お、そうそう。それでいこう」
「なら遠慮はいらないな。
悪戯の罰に夕食が
一品減っていても文句もない、と」
「えええー! そ、そういうのは、
ナシってことに、ならない?」
「それはもう。
某(それがし)は一向にかまいませんよ。
カミュ様」
「……うー。トラちゃん、
けっこうイジワルだよー」
ふふん。
某(それがし)とて無策でアルルゥの相手を務めているわけではない。
この程度の切り返しができずして、あの珍獣使いに対する事ができようか。
「むー
……ん、ふふ」
「……はは」
カミュはしばらく唇を尖らせていたが、やがて笑みを取り戻した。
つられて某(それがし)の頬もゆるむ。
しばし、湖面の前で、二人して屈託なく笑いあっていた。
それは本当に親しい友人同士のようで、日々の張り詰めていたものを、この一時だけは忘れていた。
「あはは、はぁ……
昔はね、嫌いだったんだ。
こんな力」
次第に落ち着いていく中で、カミュは静かに語りだした。
思い出を懐かしむように。
「それだけで特別扱いされて、
みんなに嫌われるだけで……
誰もわかってくれなくて、
ずっと一人だった……
でも、みんなが助けてくれたんだ。
お姉様やおじ様、
アルちゃんにユズっち、
エルルゥ姉様も、兄様たちも、
みんな、家族だって言ってくれて……」
声は、振り返るのも辛い過去と共に、乗り越えた強さをも感じさせた。
嬉しそうに呼ぶ名の一つ一つに、深い敬愛が込められている。
素直に羨望を抱いていた。
その絆と、カミュに認められた人々を羨ましく思う。
「トラちゃんにもそうなって欲しいんだ。
アルちゃんも、きっと喜ぶから」
「アルルゥが?」
「うん。アルちゃんは、
カミュよりもっと大変だったから」
語るまなざしは限りなく優しかった。
悲しみを含んだ声も、友を誇る言葉に揺れることはない。
「もう七年も前だよ、
エルルゥ姉様がいなくなったのは。
とっても寂しくて、悲しくて、辛くって、
すぐに探しに行きたかったはずなのに、
アルちゃんは我慢して村に残ったの。
自分までいなくなったら、
村を守る人が誰もいなくなっちゃうから、って」
「それは、ヤマユラという村か」
「うん。
アルちゃんと、エルルゥ姉様と、おじさまの、
大事な、大事な思い出の場所だから……」
カミュが息を止め目を閉ざした一瞬、周囲の音までが止む。
静寂に満ちた想いの深さは、某(それがし)ごときに底が知れるものではなく、言葉を挟む事など出来なかった。
「アルちゃんは、本当にがんばったんだよ。
畑を広げて、キママゥから食べ物を守って、
山賊を村から追い払って。
おじさまの見よう見まねだったけど、一生懸命で。
でも、仮面の人の話を聞いて、
どうしても確かめたくなっちゃったんだね……」
カミュにとって、それは自身の過去よりも辛い思いなのだろう。
青い瞳は涙に揺れ、言葉はそれ以上出てこない。
某(それがし)は話を聞きながら、心の中で頷(うなず)いていた。
これまでのアルルゥの言動にも合点がいく。
その強い想いにも。
「ヤマユラの村は、大丈夫なのか?」
「……うん。
みんなもアルちゃんと一緒に
がんばってくれたから。
エルルゥ姉様を見つけてきなさいって
励ましてくれたって。
村は自分たちが守るからって」
「そうか……
アルルゥには、帰る場所があるんだな。
家族も、大切なものも……」
少しだけ安堵した。
同時に、胸の熱さを実感する。
全身に強い力がみなぎっていた。
アルルゥを守るのがどういう事か、少しだけわかったような気がする。
某(それがし)がそんな想いに浸っている間に、隣の気配はすっかり元へ戻っていた。
「ふふーん。
トラちゃん、惚れてるね?」
「なっ!?
バ、そういう事ではなくてだなっ。
某(それがし)はただ、アルルゥと姉上の帰る場所が
ちゃんと守られているのであれば
杞憂はないと言いたいだけで――!」
「もー、照れなくてもいいのにー」
悪戯めいた笑みは一瞬。
「トラちゃん。
アルちゃんのこと、守ってあげてね」
反論を連ねるより先に向けられた短い言葉には、深遠な願いと真剣さが込められていた。
一瞬だけ硬直する。
どのような意味があるのか、未熟な某(それがし)には量りようがない。
それでも、迷いはなかった。
答えは、始めから決まっているのだから。
「無論。某(それがし)は
アルルゥが守ろうとするものを守ると誓った。
エヴェンクルガに二言はない」
求めに応じ覚悟を返す。
余人に如何なる意思があろうと、己の意思は変わらない。
当然の返答を、しかし、カミュはつまらなそうに受け取っていた。
「……まあいいや。それで」
「な、なんだ、その半端な反応は」
「べっつにー。
これからの楽しみにしようと思ってー」
「なにをだっ」
「さ、そろそろ戻ろー。
トラちゃんに口説かれたー
って言いふらさなきゃ」
「おいっ!?」
慌てて立ち上がったとき、カミュはすでにその場から走り出していた。
文字通り飛ぶような足取りで。
あの軽やかさは、間違いなくいつものカミュだ。
追いかけようとして、ふと、湖上を見る。
鏡の上に広がる闇を。
黒い翼の娘と共に舞い踊っていた青き光が、今は一つも見えなかった。