うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
湯気に霞んだ湯の面を、乱さぬように足を入れる。
「っ、痛ぅぅ……」
波も立てぬ慎重な動きであったが、それでも沁みる痛みは変わらなかった。
打撲、擦過、刺切の傷に加え、酷使しすぎた全身の筋肉が、湯の刺激に悲鳴を上げる。
露天に沸いた天然の温泉、本来ならば心身共に解きほぐれているであろう状況に、涙を堪える事になろうとは……
「なにを固まっている。さっさと入れ」
「のっ、はぼわあああっ!」
ゆるゆると身を沈めていたら、いきなり後ろから蹴り押された。
一瞬の浮遊感の後、全身を襲う針に突かれたような痛みに、思わず悲鳴を上げてしまう。
「オボロ殿!
む、無茶をしないでください!」
「なんだ情けない。
それでも武士(もののふ)の端くれか」
呆れ顔のまま、オボロ殿は湯船に浸かった。
そんな些細で生じる小さな波すら、今の某(それがし)には刺激が強い。
一太刀すら与えられなかった結果とはいえ、もう少しは気を配ってくれてもよいだろうに。
広い湯に揺られながら、ただただ熱い痛みに耐える。
正面では、オボロ殿が気持ちよさそうに表情を緩めていた。
「どうだ、いい風呂だろう。
こんな贅沢な隠れ家も滅多にないぞ」
「それはまぁ、確かに」
砦としている社の裏、切り立った岩山の合間には、熱い湯が沸いていた。
量はわずかとはいえ、囲み溜めれば広い湯船を生むには十分だったようで、オボロ殿たちは日々の緊張を、時折こうしてほぐしているのだという。
「この湯には怪我を癒す効能もあるらしい。
お前のような未熟者にはありがたいだろう。
存分に浸かれ……?」
饒舌だったオボロ殿の言葉が、その途中で向きを変えた。
見上げるのは崖の遥か上。
「――カミュちゃん、おむね、大きい」
「――ん、ふかふか」
「――うらやましいです」
「――あんまりイイことないんだけどねー
ユズっちはすぐに大きくなるよ」
「――ほんとうですか?」
「――ホントホント。
お母さんも、ほっそりしてたけど出るとこ出てたし」
「――お母様も……」
「――アルルゥは?」
「――アルちゃんは……
エルルゥ姉さまが、ねぇ」
「――んむぅ……」
切り立った岩壁の上からは、少女たちの戯れる声が聞こえていた。
「アルルゥたちか。
まったく、風呂ぐらい静かに入れないの……
オボロ殿?」
視線を戻したその先では、オボロ殿が岩壁に張りついていた。
「あの、なにを?」
「なに、少し成長を確認しておこうと思ってな。
見つかるとなにかとうるさいだろう」
「なっ。ユ、ユズカ殿もおられるのですよ?」
「だからだろうが。
親代わりとして、きちんと育っているか
常に把握しておかねばならん」
某(それがし)の制止に動じることもなく、オボロ殿は言葉を返していた。
表情は真剣そのもので、微塵の邪(よこしま)も感じさせない。
本気でユズカ殿の身を案じているらしい。
なんというか、いいのか、それは?
それ以上どのように説得すればよいのか考えている間に、オボロ殿は崖の上へと消えていた。
「……ええと。ああ……」
「ああ。若様は、
また懲りもせずに」
「あまり気になさらないでください。
トゥスクル様も、あれは病気だと
仰(おっしゃ)っておられましたから」
「はあ、病気ですか……
って、え?」
同じ嘆息に頷(うなず)いてから、左右の両者に気がついた。
なぜか、ドリィ殿とグラァ殿がいる。
「な、の、
おぁあ?」
「? どうなされました、タイガ殿」
「お顔が真っ赤ですよ?
湯あたりですか?」
思わず飛び退く某(それがし)を、二人はきょとんとした顔で追ってきた。
手拭いで胸こそ隠してはいるものの、ほとんど裸の状態で。
大人びていながら、どこか子供っぽさを残す顔はうっすらと上気し、湯のしたたる長い髪とも相まって、
とても、その、色っぽい。
「どうもこうもっ、
こ、こちらは男用の湯では?」
「はあ、そうですが」
「それがなにか……ああ」
見合った顔が何事かを合点する。
笑みを浮かべた双子は、鏡合わせのように同じ動きで、ますますにじり寄ってきた。
「タイガ殿、聞いてくださいよぅ」
「は、はいぃ?」
「最近若様ってばユズカ様にべったりで、
ちっとも僕たちに構ってくれないんですよ」
「そ、そそそ、それは、ご愁傷様で……!?」
右腕に、ドリィ殿が絡みついてきた。
「だからぁ、少し慰めてくださいませ」
左腕にはグラァ殿が。
いや、こちらがドリィ殿か?
ああ、そんなことはどうでもよい。
「なななな慰めるとは、いったい……」
「ふふ、それはもちろん」
「僕たちに言わせるんですかぁ?」
「なななななな、な……な?」
逃れる先を求めて上を見て、気がついた。
落ちてくる人影に。
「…………ぁぁぁぁ」
それは悲鳴の尾を引いて、
「ぁぁぁぁぁあああああああっ!!」
温泉の真ん中に、盛大な水柱を打ち立てた。
ばしゃばしゃと降り注ぐ湯の欠片を浴びながら、落ちてきたモノを見る。
水面にゆらゆらと揺れるソレは、
「若様?」
「お早いお帰りでしたね」
大の字に浮かんだオボロ殿であった。
「オ、オボロ殿?」
「ふ、ユズカの奴、
いい突きを打つようになったな」
かなりの衝撃であったろうに、オボロ殿は平然と身を起こし、妙に満足げな笑みを浮かべていた。
「……成長は、していましたか」
「ああ、健やかにな。
ん? なんだ、お前らも来ていたのか」
湯面から突き出た顔に、双子が共に笑顔で応える。
「はい」
「タイガ殿にかわいがっていただいておりました」
「なっ?
ち、違いますよ、オボロ殿!
某(それがし)は決して、オボロ殿の御側女(おそばめ)を
寝取ろうなどと考えたわけでは!」
髪の湯を振り落としながら、オボロ殿は心底不思議そうな顔をしていた。
「側女? 誰がだ」
「だ、誰って、だって、お二人は――」
「なにを言っているんだ、お前。
そいつらは男だぞ」
「……………………は?」
言われた言葉の意味がわからず、左右交互に目を向ける。
「いや、でも、だって……」
まったく同じに見える顔が、照れくさそうに笑っていた。
「あはは、バレちゃいましたか」
押し寄せる現実に理解が追いつかない。
まるで人形になったように、体から力が抜けていた。
「ほら」
「なっ、なに、を……?」
拒否の意思も言葉だけ。
掴まれた右の手が、手拭い越しの胸へと導かれる。
触れた感触はほどよく硬い、引き締まった筋肉のものだった。
「本当だ。ない」
「……はっきり言われると少し悲しいです」
「なぜっ」
「おじ様っ!」
混沌とした湯の園に、新たな声が上から加わる。
崖の上の闇の中、怒りを振りまくユズカ殿が、顔だけこちらに出していた。
「お風呂は覗かないで下さいと、
あれほど言ったじゃありませんかっ」
「し、しかしだなユズカ。
俺にはお前の育ての親としての責任が……」
「そんな責任はありませんっ。
だいたいおじ様は……
タイガ、様?」
そのまなざしと目が合った。
途端、怒りの表情が掻き消える。
代わりに現れたのは驚きの相。
まあ、無理もないだろう。
色々ありすぎて、某(それがし)もなにがどうなっているのかさっぱりわからないのだから。
「え、ええと。こんばんわ……」
とりあえず挨拶を返していた。
それどころではないというのに。
「な、なにを、なさって……」
「? なにって、ただ風呂に……!?」
疑問の視線を目で追って、自分の動きに辿りつく。
某(それがし)の右の手は、いまだドリィ殿の胸の上に置かれたままだった。
「や、ち、違っ、これは!」
「トラちゃん、そんな趣味があったのねっ」
降ってきたのは別の声。
驚きに満ちたカミュのものだった。
なぜか異常に嬉しそうだ。
「そ、そうなのですか?
お、男同士なんて、そんな、破廉恥な……」
「カ、カミュ!
わけのわからんことを言うなっ!
ユズカ殿、誤解です。
某(それがし)は――」
「そう。
トラ、みさかいなし。
アルルゥもハダカ見られた」
次いで、いつもの平たい声。
「アルルゥ!?」
「そういえば、カミュにも
メロメロだったもんねー」
「ん。ティティカお姉ちゃんにも。
まさになんでもアリ」
「うぉい!」
姦(かしま)しい二つの声は、混沌とした場をさらにグルグルと掻き混ぜる。
幼い少女の心にとって、それは器を遥かに越えるものだったらしい。
「タイガ様……
ふ、不潔ですっ!」
「ち、違っ。
ユズカ殿、誤解です!
某(それがし)、は……?」
甲高い悲鳴が消える代わりに、音が一つ近づいてくる。
『…………ヴォゥ……』
いや、それは音だけでなく、確かな重さも伴っていた。
近づいてくる白い影に、左右から双子が離れていく。
「ちょ……」
迫る危険を知りながら、身をかわすことはできなかった。
体の痛みは消える代わりに、動きをも奪っていたからだ。
そして、正確に着地する白い巨躯。
『……ォォォォォォオオオオゥ』
「ぐべ!?」
上がる盛大な水飛沫の中、某(それがし)を潰したムックルは、不機嫌そうな声を上げるばかりであった。