カツ、カツ、カツ――。
静まり返った教室に、チョークが黒板を滑る音だけが響いていた。
白い数式が、整然と黒板を埋めていく。
教壇に立つ男は、黒いスーツを隙なく着こなし、銀縁の伊達眼鏡を掛けていた。
帝丹高校数学教師――小西浩平、二十四歳。
その鋭い吊り目と三白眼は、生徒たちに「怖い先生」という第一印象を与える。本人もそれを自覚しているからこそ、寝る時以外は決して眼鏡を外さない。
「数学とは、未来を予測するための言語だ」
低く落ち着いた声が教室に響く。
「人は偶然という言葉を使いたがる。しかし、その多くは条件が揃えば必然になる。人間の思考も、行動も、犯す失敗さえも例外ではない」
教室は静まり返っていた。
生徒たちは誰一人として私語をせず、黙々とノートを取っている。
小西は右手で黒板に式を書き続けながら、ふと左手にチョークを持ち替えた。
左利きを矯正した彼にとって、その動作は無意識だった。
視線だけが教室のある席へ向く。
そこは、今も空席のまま。
かつて日本中を騒がせた高校生探偵――工藤新一の席だった。
(工藤新一……)
(いや、今は江戸川コナンか)
子供の姿になっている理由までは分からない。
だが、人はどれほど完璧に演技をしても、癖だけは消せない。
視線。
歩幅。
相槌の間。
言葉を選ぶ速さ。
小西には、それだけで十分だった。
(君は嘘をついている)
(そして、その嘘は限りなく工藤新一という答えへ近づいている)
その事実を知る者は、世界でただ一人。
小西浩平だけだった。
チャイムが鳴る。
「今日はここまで」
生徒たちが一斉に立ち上がり、教室を後にする。
教壇に一人残った小西は、黒板を静かに見つめていた。
そこに映る数式は、彼にとって過去そのものだった。
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かつて、小西浩平は未来で死んだ。
日本中を震撼させた大量殺人事件。
『神奈川毒物カレー事件』
世間は犯人を求め、警察は結論を急ぎ、世論は一人の青年を犯人と決めつけた。
それが、小西浩平だった。
彼は何度も無実を訴えた。
しかし、その声は届かなかった。
牢獄の冷たい壁。
終わりの見えない日々。
やがて病に倒れ、静かに息を引き取る。
(これで終わりか)
そう思った瞬間だった。
世界が反転した。
目を開けると、そこは高校時代の教室だった。
窓から差し込む夕日。
友人たちの笑い声。
何気ない日常。
二度と戻らないはずだった景色を前に、小西は一人、涙を流した。
だが、その涙は長くは続かなかった。
(絶対に、同じ未来にはしない)
その決意だけが残った。
自分を信じなかった社会。
正義を掲げながら、人を切り捨てた大人たち。
そして、自分を犯人だと断じた未熟な時代の名探偵。
二度と同じ結末は繰り返さない。
そのためなら、自らが悪になることも受け入れた。
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高校卒業後、小西は教師となった。
その一方で、人知れず裏社会にも居場所を築いていく。
常人では思いつかない発想力。
状況を分析する異常な洞察力。
人の心理を読む才能。
その能力は、表では優秀な教師として評価され、裏では「コニャック」と呼ばれる存在へと変わっていった。
黒の組織。
その中でも情報分析と作戦立案を担う頭脳。
小西自身は表舞台に立つことを好まない。
常に一歩引き、全体を見渡す。
傍観者でありながら、誰よりも先を読む存在だった。
そんな彼の隣には、一人の女性がいる。
帝丹高校国語教師、椎名小春。
穏やかな笑顔。
丁寧な言葉遣い。
生徒からの信頼も厚い若手教師。
しかし、その裏では組織の一員「シードル」として活動していることを知る者はごくわずかだった。
彼女は恩義だけで小西の側にいる。
その忠誠は絶対に揺らぐことがない。
「小西先生」
職員室の前で小春が微笑んだ。
「今日もお疲れさまでした」
「ああ」
それだけの短い返事。
だが、それで十分だった。
二人の間には、多くを語る必要などなかった。
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放課後。
小西は廊下を歩いていた。
その時、不意に視線を感じる。
廊下の先。
一人の小学生が、こちらをじっと見上げていた。
丸い眼鏡。
蝶ネクタイ。
どこにでもいるような少年。
しかし、その瞳だけは鋭かった。
小西は立ち止まらない。
少年も声を掛けない。
ほんの数秒。
互いの視線だけが交差する。
(やはり、君か)
(工藤新一)
小西は何事もなかったかのように歩き去る。
少年もまた、小さく息を吐いた。
まだ証拠はない。
だから動けない。
だが二人とも理解していた。
互いが、ただの教師でも、ただの小学生でもないことを。
小西は静かに眼鏡の位置を直した。
「授業は終わった」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「ここからが、本当のゲームの始まりだ」
もしもこんな男がいたら原作の世界観が出来上がるかも知れませんね。