夜更け。
都内の古いアパートの一室。
時計の針だけが、静かな部屋に時を刻んでいた。
男はテーブルの上に置かれた一枚の写真を見つめている。
そこには、笑顔を浮かべる妻と幼い娘の姿があった。
「……すまない」
誰に聞かせるでもない謝罪が、部屋の闇へ溶けていく。
半年前。
妻は悪質なあおり運転に巻き込まれ、帰らぬ人となった。
相手は資産家の息子。
裁判では執行猶予付きの判決。
事故だった。
反省している。
更生の機会を与えるべきだ。
そんな言葉だけが並び、男の心には何一つ届かなかった。
写真立ての横には、一枚のメモが置かれている。
『ライフ・ライン』
数日前、職場の同僚が酒の席で話していた。
「悩みを親身になって聞いてくれる相談サイトがあるらしい」
「夜中でも電話できるってさ」
その何気ない一言が、男の頭から離れなかった。
男はスマートフォンを手に取る。
検索画面には、もう『ライフ・ライン』のページが開かれていた。
穏やかな色合い。
優しそうな文章。
『あなたの苦しみに寄り添います』
その文字を見つめる。
指が発信ボタンの上で止まる。
(相談したら……)
(何か変わるのだろうか)
心の奥底では、答えは決まっていた。
自分が相談したいことは、悲しみではない。
復讐だった。
それを誰かへ口にした瞬間、自分はもう後戻りできなくなる気がした。
画面を閉じる。
しかし、数秒後にはまた開いている。
閉じては開き、開いては閉じる。
その繰り返しだった。
「俺は……」
小さくつぶやく。
「本当に、あいつを憎んでる」
その言葉と同時に、自分自身が恐ろしくなった。
人を憎むこと。
その憎しみを誰かへ打ち明けること。
そして、その先にあるもの。
男は震える手でスマートフォンを握る。
番号を押しかける。
あと一つ。
最後の数字を押せば繋がる。
だが、どうしても押せなかった。
(もし、最後の数字を押してしまったら)
(もし、本当に誰かが答えてくれたら)
(俺は……)
(戻れなくなる)
スマートフォンを静かに置く。
深く息を吐き、両手で顔を覆った。
涙が止まらなかった。
「嫌だ……」
「俺は犯罪者になりたくない」
自分は確かに憎んでいる。
それは事実だった。
それでも、自分の手で誰かを傷つける未来だけは受け入れられなかった。
男はスマートフォンの電話アプリを消すと、電源を切った。
窓の外では、夜明け前の静かな風が吹いている。
写真立てを胸へ抱き寄せる。
男はそっと目を閉じて、涙を流した。
「……すまない」
「情けない父親で、本当にすまない」
答えは出なかった。
苦しみは消えなかった。
結局、その夜。
男は最後の数字を押さなかった。
そして生涯、その番号へ発信されることはなかった