令和のモリアーティ(旧版)   作:オッパッピー

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第十一話 踏み出せなかった男

夜更け。

 

都内の古いアパートの一室。

 

時計の針だけが、静かな部屋に時を刻んでいた。

 

男はテーブルの上に置かれた一枚の写真を見つめている。

 

そこには、笑顔を浮かべる妻と幼い娘の姿があった。

 

「……すまない」

 

誰に聞かせるでもない謝罪が、部屋の闇へ溶けていく。

 

半年前。

 

妻は悪質なあおり運転に巻き込まれ、帰らぬ人となった。

 

相手は資産家の息子。

 

裁判では執行猶予付きの判決。

 

事故だった。

 

反省している。

 

更生の機会を与えるべきだ。

 

そんな言葉だけが並び、男の心には何一つ届かなかった。

 

写真立ての横には、一枚のメモが置かれている。

 

『ライフ・ライン』

 

数日前、職場の同僚が酒の席で話していた。

 

「悩みを親身になって聞いてくれる相談サイトがあるらしい」

 

「夜中でも電話できるってさ」

 

その何気ない一言が、男の頭から離れなかった。

 

男はスマートフォンを手に取る。

 

検索画面には、もう『ライフ・ライン』のページが開かれていた。

 

穏やかな色合い。

 

優しそうな文章。

 

『あなたの苦しみに寄り添います』

 

その文字を見つめる。

 

指が発信ボタンの上で止まる。

 

(相談したら……)

 

(何か変わるのだろうか)

 

心の奥底では、答えは決まっていた。

 

自分が相談したいことは、悲しみではない。

 

復讐だった。

 

それを誰かへ口にした瞬間、自分はもう後戻りできなくなる気がした。

 

画面を閉じる。

 

しかし、数秒後にはまた開いている。

 

閉じては開き、開いては閉じる。

 

その繰り返しだった。

 

「俺は……」

 

小さくつぶやく。

 

「本当に、あいつを憎んでる」

 

その言葉と同時に、自分自身が恐ろしくなった。

 

人を憎むこと。

 

その憎しみを誰かへ打ち明けること。

 

そして、その先にあるもの。

 

男は震える手でスマートフォンを握る。

 

番号を押しかける。

 

あと一つ。

 

最後の数字を押せば繋がる。

 

だが、どうしても押せなかった。

 

(もし、最後の数字を押してしまったら)

 

(もし、本当に誰かが答えてくれたら)

 

(俺は……)

 

(戻れなくなる)

 

スマートフォンを静かに置く。

 

深く息を吐き、両手で顔を覆った。

 

涙が止まらなかった。

 

「嫌だ……」

 

「俺は犯罪者になりたくない」

 

自分は確かに憎んでいる。

 

それは事実だった。

 

それでも、自分の手で誰かを傷つける未来だけは受け入れられなかった。

 

男はスマートフォンの電話アプリを消すと、電源を切った。

 

窓の外では、夜明け前の静かな風が吹いている。

 

写真立てを胸へ抱き寄せる。

 

男はそっと目を閉じて、涙を流した。

 

「……すまない」

 

「情けない父親で、本当にすまない」

 

答えは出なかった。

 

苦しみは消えなかった。

 

結局、その夜。

 

男は最後の数字を押さなかった。

 

そして生涯、その番号へ発信されることはなかった

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