校門を出た小西と椎名は、夕暮れの住宅街を並んで歩いていた。
西日が街を橙色に染め、部活動を終えた学生たちが笑いながら家路を急ぐ。
「今日は比較的静かな一日でしたね」
椎名が買い物メモを取り出しながら言う。
「ああ」
「事件も起きなかった」
小西は短く答えた。
「米花町では珍しい」
その言葉に椎名は思わず小さく笑う。
「先生らしいご感想ですね」
二人は近所のスーパーへ立ち寄り、牛乳や日用品を買い足して帰宅した。
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マンションの一室。
玄関へ入ると、椎名は手際よく買い物袋を片付け始める。
「小西先生、お疲れさまでした」
「夕飯まで少々お待ちください」
「ありがとう」
小西は黒いスーツの上着を脱ぐこともなく、ソファへ腰掛ける。
テーブルには今日配布した授業プリントが積まれていた。
一枚一枚確認しながら、小さく修正を書き込んでいく。
「小西先生」
キッチンから椎名の声が聞こえる。
「今日の授業はいかがでしたか?」
「ああ」
小西は手元の授業プリントから目を離さず答えた。
「二年B組に、数学へ苦手意識を持っている生徒が一人いる」
「そうですか」
「だが途中式は理解できている」
「焦る癖があるだけだ」
「次回は少し教え方を変えてみる」
椎名は野菜を切る手を止め、小さく微笑んだ。
「先生は本当に、生徒一人ひとりをよく見ていらっしゃいますね」
「教師だからな」
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やがて夕食が出来上がる。
煮魚。
味噌汁。
ほうれん草のおひたし。
白米。
質素だが栄養の整った献立だった。
「いただきます」
二人は静かに箸を取る。
会話は多くない。
しかし、不思議と気まずさもない。
長年共に生活してきた者同士のような、自然な空気が流れていた。
「今日の煮魚はいかがでしょうか」
「美味しい。塩加減がちょうどいい」
椎名は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
食事は三十分ほどで終わった。
食器を洗う椎名の背中を見ながら、小西は静かに立ち上がる。
「少し仕事をする」
「はい」
「お飲み物をお持ちしますね」
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書斎。
ここだけは教師・小西浩平ではなく、黒の組織のブレイン"コニャック"の部屋だった。
伊達眼鏡を外す。
ヘッドセットを装着する。
パソコンの画面には、相談サイト『ライフ・ライン』の管理画面が映し出される。
何十人もの一般オペレーターが全国から寄せられる相談へ対応していた。
その中の一件だけが、静かに赤く点滅する。
【優先転送】
小西は回線を開いた。
「……お話を伺いましょう」
受話器の向こうから、中年男性の震えた声が聞こえる。
『息子が……会社でいじめられて、自殺しました』
『警察は事件じゃないと言いました』
『会社も何もしません』
『私は、どうすれば……』
小西は目を閉じる。
声の震え。
息遣い。
沈黙の間。
そのすべてから相手の感情を読み取る。
嘘はない。
純粋な絶望だった。
「……なるほど」
「あなたは復讐したい」
『はい。』
「その覚悟に偽りはありませんね」
『ありません。』
数秒の沈黙。
やがて小西は静かに口を開いた。
「承知しました」
「あなたに最適な計画を提示します」
その声には感情がなかった。
ただ、数学の問題を解くような冷静さだけがあった。
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その頃。
キッチンでは椎名が温かいコーヒーを淹れていた。
静かに書斎へ運ぶ。
ノックを二回。
「失礼します」
机へカップを置く。
「小西先生」
「温かいうちにどうぞ」
「ありがとう」
椎名は画面を見ない。
相談内容も聞かない。
必要以上に踏み込まないことを、二人は暗黙の了解としていた。
「本日のご相談も、本物だったようですね」
「ああ」
「また一つ、日本の警察では救えなかった人間だ」
椎名は静かに目を伏せる。
「先生」
「時々思うのです」
「もし先生が普通の人生を歩まれていたら」
「きっと、とても優秀な教師になっていたのでしょうね」
小西はコーヒーを一口飲み、窓の外の夜景を見つめた。
「……今も教師だよ」
その一言だけだった。
椎名は優しく微笑む。
「そうですね」
教師として生徒へ数学を教える昼。
黒の組織のブレインとして犯罪を設計する夜。
正反対の二つの人生を、小西は何事もないように生きている。
静かな夜は更けていく。
そして誰も知らない場所で、また一つ新たな"数式"が完成しようとしていた。