令和のモリアーティ(旧版)   作:オッパッピー

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第十六話 放課後のモリアーティ(後編)

校門を出た小西と椎名は、夕暮れの住宅街を並んで歩いていた。

 

西日が街を橙色に染め、部活動を終えた学生たちが笑いながら家路を急ぐ。

 

「今日は比較的静かな一日でしたね」

 

椎名が買い物メモを取り出しながら言う。

 

「ああ」

 

「事件も起きなかった」

 

小西は短く答えた。

 

「米花町では珍しい」

 

その言葉に椎名は思わず小さく笑う。

 

「先生らしいご感想ですね」

 

二人は近所のスーパーへ立ち寄り、牛乳や日用品を買い足して帰宅した。

 

---

 

マンションの一室。

 

玄関へ入ると、椎名は手際よく買い物袋を片付け始める。

 

「小西先生、お疲れさまでした」

 

「夕飯まで少々お待ちください」

 

「ありがとう」

 

小西は黒いスーツの上着を脱ぐこともなく、ソファへ腰掛ける。

 

テーブルには今日配布した授業プリントが積まれていた。

 

一枚一枚確認しながら、小さく修正を書き込んでいく。

 

「小西先生」

 

キッチンから椎名の声が聞こえる。

 

「今日の授業はいかがでしたか?」

 

「ああ」

 

小西は手元の授業プリントから目を離さず答えた。

 

「二年B組に、数学へ苦手意識を持っている生徒が一人いる」

 

「そうですか」

 

「だが途中式は理解できている」

 

「焦る癖があるだけだ」

 

「次回は少し教え方を変えてみる」

 

椎名は野菜を切る手を止め、小さく微笑んだ。

 

「先生は本当に、生徒一人ひとりをよく見ていらっしゃいますね」

 

「教師だからな」

 

---

 

やがて夕食が出来上がる。

 

煮魚。

 

味噌汁。

 

ほうれん草のおひたし。

 

白米。

 

質素だが栄養の整った献立だった。

 

「いただきます」

 

二人は静かに箸を取る。

 

会話は多くない。

 

しかし、不思議と気まずさもない。

 

長年共に生活してきた者同士のような、自然な空気が流れていた。

 

「今日の煮魚はいかがでしょうか」

 

「美味しい。塩加減がちょうどいい」

 

椎名は嬉しそうに微笑んだ。

 

「ありがとうございます」

 

食事は三十分ほどで終わった。

 

食器を洗う椎名の背中を見ながら、小西は静かに立ち上がる。

 

「少し仕事をする」

 

「はい」

 

「お飲み物をお持ちしますね」

 

---

 

書斎。

 

ここだけは教師・小西浩平ではなく、黒の組織のブレイン"コニャック"の部屋だった。

 

伊達眼鏡を外す。

 

ヘッドセットを装着する。

 

パソコンの画面には、相談サイト『ライフ・ライン』の管理画面が映し出される。

 

何十人もの一般オペレーターが全国から寄せられる相談へ対応していた。

 

その中の一件だけが、静かに赤く点滅する。

 

【優先転送】

 

小西は回線を開いた。

 

「……お話を伺いましょう」

 

受話器の向こうから、中年男性の震えた声が聞こえる。

 

『息子が……会社でいじめられて、自殺しました』

 

『警察は事件じゃないと言いました』

 

『会社も何もしません』

 

『私は、どうすれば……』

 

小西は目を閉じる。

 

声の震え。

 

息遣い。

 

沈黙の間。

 

そのすべてから相手の感情を読み取る。

 

嘘はない。

 

純粋な絶望だった。

 

「……なるほど」

 

「あなたは復讐したい」

 

『はい。』

 

「その覚悟に偽りはありませんね」

 

『ありません。』

 

数秒の沈黙。

 

やがて小西は静かに口を開いた。

 

「承知しました」

 

「あなたに最適な計画を提示します」

 

その声には感情がなかった。

 

ただ、数学の問題を解くような冷静さだけがあった。

 

---

 

その頃。

 

キッチンでは椎名が温かいコーヒーを淹れていた。

 

静かに書斎へ運ぶ。

 

ノックを二回。

 

「失礼します」

 

机へカップを置く。

 

「小西先生」

 

「温かいうちにどうぞ」

 

「ありがとう」

 

椎名は画面を見ない。

 

相談内容も聞かない。

 

必要以上に踏み込まないことを、二人は暗黙の了解としていた。

 

「本日のご相談も、本物だったようですね」

 

「ああ」

 

「また一つ、日本の警察では救えなかった人間だ」

 

椎名は静かに目を伏せる。

 

「先生」

 

「時々思うのです」

 

「もし先生が普通の人生を歩まれていたら」

 

「きっと、とても優秀な教師になっていたのでしょうね」

 

小西はコーヒーを一口飲み、窓の外の夜景を見つめた。

 

「……今も教師だよ」

 

その一言だけだった。

 

椎名は優しく微笑む。

 

「そうですね」

 

教師として生徒へ数学を教える昼。

 

黒の組織のブレインとして犯罪を設計する夜。

 

正反対の二つの人生を、小西は何事もないように生きている。

 

静かな夜は更けていく。

 

そして誰も知らない場所で、また一つ新たな"数式"が完成しようとしていた。

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