転生チャンプは鈴蘭で笑う 作:全てを生成AIにゆだねる者也
1
五月の少し汗ばむような朝の光が、網戸の破れた六畳一間に差し込んでいた。
「……九十八、九十九、百」
畳に両手を突き、蓮見蓮(はすみ れん)は最後の腕立て伏せを終えた。そのまま流れるように仰向けになり、今度は腹筋へと移行する。
ハァ、ハァ、という短く鋭い呼吸の音だけが、静かな室内に響く。
服を脱いだ蓮の肉体は、昨夜の裏路地で見せたものよりも、さらに凄まじい「説得力」を放っていた。大柄なヤンキーのような威圧感のある太さはない。だが大胸筋から腹筋、そして背中の広背筋にいたるまで、まるで余分な脂肪を完全に削ぎ落としたかのような、キレキレの筋肉が張り巡らされている。何より、腰回りと体幹の太さが尋常ではない。服を着ていればスマートに見えるが、その中心には、あらゆる衝撃を受け止め爆発的な力を生み出すための「強固な軸」が完璧に出来上がっていた。
それは、並大抵の根性や街の小競り合い程度で身につく種類のものではない。
気の遠くなるような時間の基礎トレーニングと、科学的な肉体管理、そして何より「本物の修羅場」をくぐり抜けてきた者だけが持つ、戦うための生物としての完成形だった。
「おい、蓮……朝っぱらからフーフーうるせえよ。お前は修行僧かよ……」
部屋の隅、万年床の布団を頭まで被った金髪の男――坊屋春道(ぼうや はるみち)が、迷惑そうに声を漏らした。
昨夜、河川敷での最悪の出会いから路地裏でのカツアゲの逆襲を経て、蓮は行き場のない身の上のまま、この春道の居候先へと転がり込んでいた。
「おい春道、もう八時半だぞ。学校行くんだろ。今日から俺も、お前のクラスに編入だって手元の書類に書いてあったぞ」
「はあ? 学校ぉ? そんなもん、気が向いた時に行く場所だろ……。それより腹減った。飯だ飯」
春道はガバッと布団を跳ね除けると、鳥の巣のようになった金髪のポンパドールをバリバリと掻きながら立ち上がった。そして部屋の片隅に転がっていた段ボール箱から、おもむろにカップ焼きそばを取り出した。
「よし、朝飯はこれだ!」
「……おい、朝一番の胃袋にその油の塊をぶち込む気か? 卵とか、せめて白米はねえのかよ」
「あるわけねえだろ! 贅沢言ってっと、その少ない荷物ごと追い出すぞコノヤロー!」
春道から雑に投げ渡されたカップ麺を、蓮は左手一本で視線すら合わさずに危なげなくキャッチした。
呆れてため息が出る。だが、湯を沸かすために古いヤカンをコンロにかける蓮の唇には、自然と笑みが浮かんでいた。
かつての自分は、一グラムの体重超過も許されない世界で水分を限界まで抜き、塩の一粒にすら怯えて生きていた。それに比べれば、この体に悪そうなジャンクフードを誰の目も気にせず、ただ腹が減ったからという理由だけで口にできる環境は、ある意味で信じられないほどの自由だった。
「まぁ、たまにはこういうジャンクも悪くないか……」
湯気の立ち上るソースの匂いを嗅ぎながら、蓮は一文無しの転生格闘家としての新しい人生が存外に悪くないものであることを、胃袋の底から実感し始めていた。
2
午前十時。戸亜留市の緩やかな坂道を、二人の少年が歩いていた。
一人は緑のスカジャンを羽織り、ポケットに手を突っ込んで気怠そうに歩く坊屋春道。そしてもう一人は黒い学ランのボタンを全て外し、インナーの黒いTシャツを覗かせた蓮見蓮だ。
どちらも同じ、鈴蘭高校の2年生。
「おい蓮、マジで付いてくる気かよ。言っとくけどな、鈴蘭は普通の奴が来るところじゃねえぞ。カラスの学校って言われてる意味が、行けば一発で分かるわ」
「一応、自分の籍がある場所だからな。見ておかないと落ち着かないんだよ」
坂を登りきった先に、その「魔窟」は姿を現した。
コンクリートの頑丈な校門。だが、その表面には赤や黒のスプレーで無数の落書きが殴り書きされており、もはや校名すら判別できない。校舎を見上げれば、割れた窓ガラスがそのまま放置され、そこかしこから不穏な怒鳴り声や、何かが破壊される鈍い音が響いてきている。
グラウンドでは授業中であるはずの時間にもかかわらず、制服を着崩した不良たちがタバコをふかし、地べたに座り込んで大声で笑っていた。
「へえ……」
蓮は足を止め、その光景をじっと眺めた。
「どうだ、ビビったか? 今なら引き返しても――」
「いや、懐かしいなと思ってな」
「はあ!?」
春道が目を丸くする。
蓮が懐かしんだのは学校の風景ではない。そこに漂う「空気」だ。
ルール無用のストリート。剥き出しの敵意。
お互いが「隙があればいつでも首を獲る」と互いを牽制し合う、あの野生の緊張感。それは、彼がかつて、世界中のスラム街から集まってきた荒くれ者たちが集まる地下格闘技ジムで、最初に感じたあの濃密な「殺気」と全く同じ種類のものだった。
「綺麗なリングより、こっちの方が人間の本能が剥き出しだな。悪くない」
「お前、やっぱりどこかネジが外れてるわ……」
春道はため息をつきながら、校舎の中へと進んでいった。
校舎に足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が一変した。
廊下にたむろしていた鈴蘭の不良たちの視線が、一斉に二人へと注がれる。
正確には、昨日転校してきたばかりの春道への警戒と、その横を平然と歩く「見慣れねえ細身の奴」への、強烈な好奇心と敵意だ。
「おい、あの金髪……昨日転校してきた坊屋だろ」
「隣にいる奴、誰だ? 見ねえ顔だな……」
「新顔か? 2年の学ラン着てんぞ」
ヒソヒソと交わされる低い声。中には蓮を威嚇するように、わざとらしく肩をぶつけてこようとする大柄な不良もいた。
だが、その不良が蓮の身体に触れる直前、蓮は歩くペースを一切変えることなく、ほんの数センチだけ左肩を後ろに引いた。格闘技における「見切り」と位置のいなしだ。
大柄な不良は、蓮の身体を強烈に押し出すつもりだったパワーを完全に空振りし、自らの勢いで前のめりに壁に激突した。
「ぶ、ぶはっ!? んだテメエ!」
「すまん。そこに人がいるとは思わなかった」
蓮は振り返りもせず、飄々と廊下を歩き続ける。
「テ、テメエ待てよ――」
怒り狂った不良が蓮の背中に掴みかかろうとしたが、その前に、春道がギロリと冷たい視線をその不良に向けた。
「おい。朝からうるせーぞ、ウジ虫。俺の連れに気安く触んじゃねえよ」
「……ッ! す、すんません!」
春道の一言で、廊下の不良たちは一瞬で静まり返り、モーセの海割りのように二人のために道を開けた。
「サンキュー、春道。まぁ、放っておいてもバックをとって投げるだけだったけどな」
「お前がいちいち騒ぎ起こすと、飯の時間が遅れるんだよ。ほら2年の教室はあっちだ」
二人が階段を登ろうとした、その時。上階の踊り場から、ドタドタと騒がしい足音が響いてきた。
「おい! 本当かよ、その噂!」
「マジだって! 昨夜、商店街の裏路地で、あの他校の凶悪な連中五人が、一瞬で全滅させられたらしい!」
「坊屋がやったのか?」
「違う! 坊屋の横にいた、鈴蘭の学ランを着た『見たこともない細身の奴』が、パンチ一発、キック一発で、全員気絶させたって話だ!」
その会話の内容に、蓮と春道は思わず顔を見合わせた。
「おいおい、蓮。早くも有名人じゃねえか」
春道がニヤニヤと笑う。
「ストリートの口コミってのは、どこの世界でも尾ひれがつくのが早いな。気絶は三人だけだ。あとの二人は心が折れて逃げた」
「どっちでも怖いわ!」
階段を登りきった2階の踊り場。そこには噂の主を探すように目を血走らせた、三人の少年が待ち受けていた。
3
「――おい、待てよ」
階段のトップで腕を組んで行く手を阻むように立っていたのは、端正な顔立ちをしながらも、その瞳の奥に冷徹な知性を宿した少年だった。黒いシャツの襟を立て、鈴蘭の学ランをスマートに着こなしている。桐島ヒロミ(きりしま ひろみ)だ。
その両脇には、一人はトレードマークのマスクをつけ、見事なリーゼントヘアを誇る男、本城俊明(ほんじょう としあき / ポン)。
もう一人は、学ランの袖をまくり丸太のような太い腕を露出させた巨漢の男、杉原誠(すぎはら まこと / マコ)。
彼らの姿を見た瞬間、蓮の脳内の記憶がカチリと合致した。
中学時代から戸亜留市にその名を轟かせ、鈴蘭に入学してからも1年の頃から頭角を現していた実力者たち――「海老塚三人衆」。そして主人公の蓮や春道と同じ、この学校の「2年生」の同級生たちだ。
「あ? なんだお前ら。俺に何の用だ? 今日の俺は機嫌が悪いんだわ。朝飯がカップ焼きそばだったからな」
春道は露骨に嫌そうな顔をして、階段の手すりに寄りかかった。
「あんたに用があるんじゃねえよ、春道」
ヒロミの鋭い視線が、春道の横に立つ蓮へと移動した。
「用があるのは、その横にいる見慣れない新顔の方だ。……お前が、昨夜商店街で他校の奴らを秒殺したっていう、蓮見蓮か?」
蓮はポケットに手を突っ込んだまま、三人衆を品定めするように見つめた。
(なるほどな。これが鈴蘭の海老塚三人衆か。身体のバランスは悪くない。特にあの大きい奴は、いい素質を持ってる)
「ああ、俺が蓮見だ。今日から2年に編入した。……で、同級生の挨拶回りにしては随分と血の気が多いな?」
蓮の挑発を挑発とも思っていない飄々とした態度に、マスクの男――ポンがイラついたように一歩前に出た。
「テメエ、随分と余裕じゃねえか。噂じゃあ、なんか不気味な技を使って奴らをハメたらしいが……。俺たちの知ってる喧嘩ってのはなぁ、そんなチマチマした動きじゃねえんだよ!」
「ポン、待て」
ヒロミが手で制したが、ポンの興奮は収まらない。
「ヒロミ! 鈴蘭のテッペンを狙う俺たちが、こんな得体の知れない新顔をのさばらせておけるかよ! 春道の横にいるからって調子乗ってんじゃねえぞ。まずは俺がこの新顔のメッキを剥がしてやる!」
ポンはそう叫ぶと、蓮の胸ぐらを掴もうと、右手を荒々しく伸ばしてきた。
ヤンキーの喧嘩の常套手段。「まず胸ぐらを掴んでメンチを切る、あるいはそこから頭突きかパンチ」。だが、不用意に直進してくる手が、どれほど致命的な隙であるか、ポンは知る由もなかった。
蓮の思考は、瞬時に静まり返る。
(右手が伸びてくる。軌道はストレート。体勢が前傾しすぎている。……よし、この身体のキレを試させてもらうか)
蓮はポンの手が自分の襟に触れる寸前、わずかに上体を右に傾けた。パンチを紙一重でかわす動きだ。ポンの右手は、蓮の左耳の横を空しく通り過ぎていく。
「なっ……!?」
掴むべき標的を失い、完全にバランスを崩して前傾になったポンの肉体。そこへ蓮の反撃が始動する。
蓮は、自らの左足をポンの左足の内側へと鋭く踏み込ませた。腰の回転をコンパクトに使い、狙い澄ました「ローキック」を、ポンの太ももの内側へ向けて、鞭のようにしならせて叩き込んだ。
パシィィィンッ!!!
肉が弾けるような、鋭い衝撃音が踊り場に響き渡る。
力任せのキックではない。骨の硬い脛の部分を、相手の筋肉が最も緩んでいる瞬間にピンポイントでヒットさせる技術だ。
「ぶ、ふぇっ!?」
ポンは短い悲鳴と共に、まるで足の骨を丸ごと抜かれたかのように、その場に崩れ落ちた。
軸足を完璧に払われ、かつ内太ももの神経を激しく刺激されたことで、脳からの「立て」という命令が足に伝わらなくなったのだ。
「ポン!?」
ヒロミの顔から、冷静さが完全に消え失せた。
「て、テメエッ!!」
親友が倒されたのを見たマコ(杉原誠)が怒号と共にその巨体を揺らし、蓮に向かって突進してきた。マコはパンチを打つのではなく、その圧倒的な体格と怪力を活かし蓮を熊のように抱え込んでコンクリートの壁に叩きつけようとする構えだ。
(ほう、組み付きか。いいパワーだ)
蓮は逃げなかった。むしろ自ら一歩前に踏み込み、マコの巨体を受け止めるように、その懐へと飛び込んだ。
驚くべきことに、小柄な蓮の身体はマコの突進を受けても一歩も後ろに下がらなかった。蓮の「体幹の軸」が、マコのパワーを完全に相殺したのだ。
「何っ……!? こいつ、重い!」
マコが驚愕する。細身に見える蓮の肉体が、まるで鉄柱のように微動だにしない。
蓮は、マコの太い右腕の内側に自分の左腕を差し込み、同時に右手でマコの首の後ろをガッチリと固定した。
「大きい身体を活かすなら、重心をもう少し下げなきゃダメだ。これじゃ、どうぞ投げてくれって言ってるようなもんだぞ」
蓮はそう呟くと、マコの巨体を自らの腰に乗せるようにして、一瞬で身体を反転させた。
首を固定しての腰投げ。
マコの視界が上下に反転する。体重八十キロを遥かに超えるマコの巨躯が、蓮のわずかな腰のひねりだけで、軽々と宙を舞った。
ドスゥゥゥンッ!!!!
踊り場のコンクリートの床が、激しく揺れた。
背中から完璧に叩きつけられたマコは、肺の中の空気を全て強制的に吐き出され「か、はっ……」と息を詰まらせて、その場から動けなくなった。さらに蓮は着地の勢いをそのまま利用し、倒れたマコの腹の上へ流れるように馬乗りになった。
完全に相手を制圧した形。
蓮は右拳を高く突き上げ、マコの顔面へ向けて振り下ろす体勢をとった。容容赦のない打撃の嵐が始まり、試合が決着する場面だ。
「そこまでだ、蓮見!!」
ヒロミが鋭い眼光を放ちながら、蓮の顔面の直前で拳を固めて叫んだ。いつでも飛びかかる構えだ。
だが蓮の拳は、マコの鼻先のわずか一センチ手前で完全に静止していた。ピタリと止まった拳から放たれた風圧が、マコの髪を激しく揺らす。
「……ふぅ」
蓮は構えを解くと、マコの身体からスッと降り、何事もなかったかのように学ランの埃を払った。
「喧嘩をしに来たんじゃない。俺はただ、学校の様子を見に来ただけだ。これ以上のタイマンは、お互いにメリットがないと思うが?」
蓮はそう言いながら、こちらを伺うヒロミと、未だに足が痺れて立ち上がれないポン、参考書のように綺麗に投げられたマコを、静かに見下ろした。
4
踊り場に、静寂が満ちていた。
廊下の遠くから聞こえる他の不良たちの怒鳴り声が、まるで遠い世界の出来事のように感じられるほど、その空間だけが異質な緊張感に包まれていた。
ヒロミは、信じられないものを見る目で蓮を凝視していた。
(なんだ、今の動きは……。喧嘩じゃない。ポンのパンチを避けたのも、マコを投げたのも、全部……まるで最初から決まっていた型のように、無駄が一つもなかった……!)
彼らがこれまで戦ってきた不良たちの暴力は、もっと泥臭く、感情を剥き出しにした「殴り合い」だった。大声を上げ、殴られたら殴り返し、気合と根性で相手をねじ伏せる。それが彼らの知る「喧嘩」のすべてだった。
だが、この蓮見蓮という男の戦いは、全く違っていた。
感情の起伏がほとんどない。相手の動きを予測し、最小限の力で最も効率的に相手の肉体を無力化していく。
「テメエ……一体、何者だ? 本当にただの高校生なのか?」
ヒロミの声が、微かに震えていた。
「言ったろ。今日から鈴蘭の2年だ」
蓮は笑った。
「嘘をつけ! 2年の奴らに、お前みたいな化け物がいるなんて話、聞いたこともねえ!」
ポンがようやく足の痺れを堪えながら、壁に寄りかかって叫ぶ。
「ハハハハハハハハ!!! だから言ったろ、お前ら!」
その時、これまでずっと階段の手すりに寄りかかってニヤニヤしていた春道が、腹を抱えて大爆笑しながら歩み寄ってきた。
「こいつはなぁ、ただの高校生じゃねえんだよ! 蓮見蓮、またの名を『元・世界王者』だ! お前らみたいなガキの喧嘩なんて、こいつから見れば赤ん坊のハイハイみたいなもんなんだよ!」
「世界王者……?」
三人衆が呆然と呟く。当然、海の向こうの格闘技のことなど、戸亜留市のヤンキーである彼らが詳しく知るはずもない。だが、あの坊屋春道がそこまで言うのだから、何かしらのとんでもない背景があることだけは理解できた。
「春道、あんまりからかうな。そんな話を本気にされても困る」
蓮は苦笑しながら、まだ床に座り込んでいたマコに向かって、スッと右手を差し伸べた。
マコはその手をじっと見つめた。自分を軽々と投げ飛ばした男の手。だが、その手には不思議と、自分たちを蔑むような傲慢さは一切なかった。ただただ、対等な男として自分を認めているような、そんな奇妙な温かさがあった。
「……チッ」
マコは不器用にくちびるを噛むと、蓮の手を握り、その巨体を立ち上がらせた。
「いいパワーだったよ、マコ。……それからポン、お前のジャブはスピードがある。ただ、打つ時に顎が上がる癖を直さないと、強い奴には一発でカウンターを合わされるぞ」
蓮の的確なアドバイスに、ポンとマコは顔を見合わせ、言葉を失った。喧嘩で負けて、ここまで爽やかに指導をされた経験など、彼らの人生に一度もあるはずがなかった。
「蓮見……」
ヒロミが、小さくその名前を呟いた。
「お前、鈴蘭のテッペンを獲る気で、ここに来たのか?」
鈴蘭高校において、最も重要な問い。だが蓮はその問いに対して、肩をすくめてあっさりと首を振った。
「テッペン? 興味ないな。俺は組織だの派閥だの、そういうのには、いい思い出はないんだ。俺はただ美味い飯を腹一杯食って、たまに骨のある奴と拳を交えられれば、それで満足さ」
蓮はそこまで言うと、春道の肩をポンと叩いた。
「なぁ、春道。同級生の挨拶回りも済んだことだし、そろそろ屋上とやらに行こうぜ。風通しがいい場所なんだろ?」
「おう! そうだな! よし、 お前らも、蓮の強さが分かったら今度美味いジュースでも奢ってやれよ! こいつ、見た目に反して大食いだからな!」
春道はガハハと笑いながら、蓮を連れて階段を登っていった。
残された海老塚三人衆は、二人の背中を、ただ静かに見送るしかなかった。
「……ヒロミ、あいつ、何だったんだよ」
ポンが、未だに鈍く痛む太ももをさすりながら呟く。
「分からん。だが……春道とはまた違う意味で、とんでもない『本物の怪物』が、鈴蘭に現れたことだけは確かだ。あの男の戦いは、俺たちの知ってる喧嘩の常識を全部ひっくり返しちまうかもしれないな」
ヒロミは自分の拳をじっと見つめながら、これから始まるであろう鈴蘭の、いや戸亜留市の新しい激動の予感に、背筋が震えるのを感じていた。
5
「あー、やっぱり屋上は最高だわ。風は気持ちいいしよ、何よりあのうるせえウジ虫どもの顔を見なくて済む」
錆びついたフェンスに背中を預け、坊屋春道は美味そうに缶ジュースを喉に流し込んでいた。
鈴蘭高校の屋上。そこは遮るもののない青空と、戸亜留市のどこか薄汚れた街並みが一望できる、この学校唯一の特等席だった。床のコンクリートには、歴代の不良たちが残したであろうスプレーの落書きがびっしりと散乱している。
蓮はフェンス越しに街を見下ろしながら、自分の大きな両手を見つめていた。
「いい場所だな。かつての俺の仕事場は地下にあってさ、年中カビと汗の匂いが染みついてた。こういう開けた場所で、ただ空を眺めるなんて時間は、あの頃の俺には一秒もなかったよ」
「へっ、お前がそういう話をするときは、マジでジジイみたいな顔になるな。終わったことをグチグチ言うんじゃねえよ」
「グチじゃないさ。ただ、戻りたくねえなって思っただけだ。……あそこは、勝てば大金が手に入るが、一歩外に出りゃ誰が敵で誰が味方かも分からないドロドロした世界だ。それに比べりゃ、さっきの三人衆はマシだな。殴りかかってくるときの目元が、まだ真っ直ぐだった」
春道はフンと鼻を鳴らし、空になった空き缶を器用に足元で潰した。
「ヒロミもポンもマコも、この街じゃ有名な奴らしいからな。プライドだけは一丁前なんだわ。それが転校してきたばかりの俺と、どこの馬の骨かも分からねえお前にコケにされたんだ。今頃、下の階で悔し涙でも流してんじゃねえか?」
「コケにしたつもりはないさ。マコって奴は、いい腰をしてる。重心の下げ方を少し覚えれば、この街じゃ誰も止められなくなるぞ」
「教えるな教えるな! あいつらがこれ以上強くなったら、俺の昼寝の時間が減るだろうが!」
春道がガハハと大口を開けて笑った、その時だった。
バゴォンッ!!!
屋上へと続く、建付けの悪い鉄製のドアが乱暴な蹴撃によって大きな音を立てて弾け飛んだ。
「――おいおいおい、誰かと思えば昨日転校してきたばかりの金髪野郎と、噂の『お人形さん』が仲良くお気楽に日向ぼっこかよえ?」
嫌味な、いかにも小悪党といった風情の低い声が、屋上の静寂を切り裂いた。
ドアの向こうから現れたのは、これまた彼らと同じ鈴蘭の2年生――亜久津太(あくつ ふとし)だった。
ずる賢そうな細い目に、だらしなく着崩した学ラン。その背後には、いかにも鉄砲玉といった佇まいの不良が四人、手に入れたばかりの武器――鉄パイプや木刀をこれみよがしに肩に担いでニヤついている。
「あ? なんだテメエ。せっかくの昼寝の時間を邪魔しやがって。……誰だっけ、お前? 確か、昨日クラスの隅で消しゴムいじってた奴だな」
春道が露骨に不機嫌な顔で首を傾げる。
「亜久津だコノヤロー!!」
亜久津は顔を真っ刻にして怒鳴り散らした。
「いいか、新顔ども。お前らが昨日他校の奴らをハメただの、さっき下の階でヒロミたちを驚かせたレベルのことで調子に乗ってんじゃねえぞ。この学校にゃあな、明確な『ルール』ってのがあんだよ」
蓮はフェンスから背を離し、静かに亜久津たちの立ち位置(ポジショニング)を確認した。
(前衛にリーダー格が一人。後衛に武器持ちが四人。間隔が狭い。コンクリートの上で木刀を大振りすれば、お互いの武器が干渉するな。あまりにも穴だらけだ)
「ルール? どんなルールだ?」
蓮が静かに尋ねる。
「おい、この鈴蘭は今、阪東(ばんどう)さんが仕切ってんだよ! 阪東一派の許可なく、この学校でデカい顔して歩く奴は全員五体満足じゃ帰さねえ。それがルールだ!」
後ろの手下の一人が、鉄パイプをカンカンとフェンスに打ち付けながら威嚇した。
阪東秀人。現・鈴蘭における最大勢力であり、その名前が出た瞬間、春道の目がわずかに細くなったが、次の瞬間にはまた、つまらなそうに鼻をほじり始めた。
「阪東だか寸胴だか知らねえがよ、俺は誰の下にもつかねえし、誰を仕切る気もねえんだわ。用事がねえならとっとと消えろ。その薄汚いツラを見てると、朝食った焼きそばが逆流しそうなんだよ」
「テメエ……どこまでも舐めやがって!!」
亜久津が完全に頭に血を昇らせ、後ろの手下どもに顎を振った。
「おい! やっちまえ! その金髪も、横の細身のスカした野郎も、まとめて病院送りにしとけ! 阪東さんへのいい土産になるわ!」
武器を持った二人の手下が、雄叫びを上げながら蓮に向かって突進してきた。一人は木刀を大きく上段に構え、もう一人は鉄パイプを横一線に振り抜く構えだ。
武器攻撃。
それは「一撃で仕留める」という殺意には満ちているが、大振りゆえに動作が大きく予備動作が丸見えだった。
蓮の視界の中で、木刀の軌道がブレて見える。
(右からの横振り、上からの縦振り。完全にタイミングが重なっている。なら、中に入るだけだ)
蓮は、鉄パイプが風を切る音を立てて自分の頭部を通過するよりも早く、自ら一歩前に踏み込んだ。
武器の攻撃力が最も高くなるのは、その先端部分(遠心力が最大になる場所)だ。逆に懐まで飛び込んでしまえば、ただの持ち手の部分になり威力は激減する。
「なっ……!?」
鉄パイプを振った男が、自分の目の前に一瞬で現れた蓮の顔面に目を見開く。
蓮は、その男の顎の下に向けて下から突き上げるような短い「左アッパー」を叩き込んだ。拳を大きく引く必要はない。腰の回転と床を蹴った足の力を正確に拳へと伝える、最短距離の打撃。
ゴッ!!!
鈍い音が響き、アッパーを喰らった男は白目を剥いて真上に飛び上がるようにして後方に消し飛んだ。手から離れた鉄パイプが屋上の床に虚しく転がる。
「ヒ、ヒエッ……!?」
もう一人の木刀を持った男が、隣の仲間が一瞬で沈んだことに恐怖し動きを止めた。その一瞬の躊躇は勝負の世界では致命傷になる。
蓮は息を吸う間もなく、その男の軸足(左足)の膝の裏に向けて右の足の裏を鋭く突き出した。
相手のバランスを完全に崩すための、正確な足払い気味のキックだ。
ガクンッ!
男の膝が不自然に折れ、体勢が崩れる。蓮はその男の胸ぐらを右手で掴むと、そのまま自らの身体の回転を利用してコンクリートの床へと叩きつけた。
ドシャアッ!!!
二人が一瞬で沈んだ。かかった時間は、わずか数秒足らず。
「ひ……ひ、ひぃぃぃっ!?」
後ろで控えていた残りの手下二人は、木刀を構えたまま完全に足がすくんで動けなくなっていた。
彼らがこれまで見てきた喧嘩は、お互いが傷だらけになりながら泥泥になって殴り合うものだった。だが、目の前で起きているのは、まるで害虫駆除のように淡々と、かつ容赦なく人間が無力化されていく、見たこともない恐怖の光景だった。
「おい、亜久津と言ったか」
蓮は学ランの袖を少し捲りながら、青ざめている亜久津太へと、ゆっくりと歩みを進めた。
「お、おい、待て! テメエ、マジで何者だ!? 鈴蘭に、こんな動きができる奴がいてたまるかよ!」
亜久津は完全に腰が引け、後ろのドアに向かって後ずさりする。
「ただの同級生さ。……だけどな亜久津。誰かの名前を後ろ盾にして威張る奴のパンチってのは、驚くほど軽いんだよ。俺はそういう奴を何人も見てきた」
蓮の瞳から、それまでの飄々とした空気が消え、本物の戦闘者の冷徹な殺気が剥き出しになった。その圧倒的な威圧感に、亜久津は息をすることすら忘れ、その場にへたり込みそうになった。
「ま、待て! 阪東さんが黙っちゃいねえぞ! 阪東一派の百人が、お前らを絶対に――」
「うるせえな、お前はさっきから」
その時、後ろから退屈そうな声が響いたかと思うと、春道が風のような速さで亜久津の目の前に移動していた。
「あ?」
亜久津が声を上げる暇もなかった。
春道の容赦のない、そして文字通り規格外の右ストレートが、亜久津の顔面の真正面に炸裂した。
ドゴォォォンッ!!!!! ガッ!ガッ!ガッ!
それは、蓮の洗練された技術とは真逆の、純粋な「暴力の結晶」のような一撃だった。
亜久津の身体は、まるで大型トラックに跳ね飛ばされたかのように屋上の床を何メートルも転がり、そのまま鉄製のドアに背中から激突して、ようやく止まった。
「ぶふぇっ……!」
鼻から大量の鮮血を吹き出し、亜久津は一撃で完全に意識を失って気絶した。
「ふぅ。あーすっきりした。阪東だか何だか知らねえが、人の昼寝を邪魔する奴は全員こうだわ」
春道は自分の拳をフーフーと吹きながら、残った二人の手下にギロリと視線を向けた。
「おい、ウジ虫ども。その気絶した粗大ゴミを引きずって、とっとと下の階に失せろ。二度とこの屋上にその汚えツラ見せるんじゃねえぞ」
「ひ、ひえぇぇぇ...! す、すんませんでした!!」
残された手下どもは、大慌てで亜久津と倒れた仲間たちを抱き抱え、脱兎のごとく屋上から逃げ去っていった。
6
嵐が去った後のように、屋上に再び静寂が戻ってきた。
遠くのグラウンドから、相変わらず不良たちの下らない怒鳴り声が聞こえてくる。
蓮は床に転がっていた鉄パイプを足で壁際に転がすと、再びフェンスに寄りかかった。
「……相変わらず、とんでもないパワーだな、春道。お前のその右、まともに喰らえばタダじゃ済まないぞ」
「へっ、俺はただ、ムカつく奴を殴ってるだけだ」
春道は再びコンクリートの上にゴロリと寝転がり、腕を枕にして目を閉じた。
「だけどよ、蓮。あの亜久津の野郎が言ってた『阪東』って奴は、ちょっと面倒かもしれねえな」
「面倒? お前のその拳があれば、百人だろうが関係ないだろ」
「俺はいいけどよ、お前はどうなんだよ。せっかく静かに美味い飯が食いたいとか言ってここに転がり込んできたのに、さっそく学校の最大勢力に目をつけられちまったぞ」
蓮は空を見上げた。どこまでも高い、青い空だ。
かつての自分なら、ここでどうやって敵の勢力を切り崩すか大人の汚い計算を始めていただろう。だが今の自分の胸の中にあるのは、不思議なほどにスッキリとした純粋な高揚感だけだった。
「関係ないさ。俺の戦う場所は、もうあんな狭い場所じゃない。この広いストリートだ。……阪東って奴がどれほどのものか知らないが、もし俺の美味い飯を邪魔しに来るってなら容赦なく叩き込んでやるだけだよ」
蓮の言葉に、春道は目をつぶったまま、不敵な笑みを浮かべた。
「ハハッ、言うじゃねえか。よし、決まりだ。阪東の野郎が来たら、お前が前座で俺がメインイベントだ。……その代わり、今日の晩飯はマジで肉を食わせろよ、蓮。お前のおごりでな」
「分かってるよ。昨日奪い返した残りで、美味い定食屋でも探そう」
二人の少年の笑い声が、鈴蘭の屋上の青空へと吸い込まれていく。
鈴蘭高校の2年生へと交わった蓮見蓮。
彼の持つ本物の技術は、この戸亜留市のヤンキーたちの喧嘩の常識を、これから根底から揺るがしていくことになる。
そして、その風の中心には、常にこの、世界一厄介で、世界一破天荒な「同級生コンビ」がいた。
学校の階段の下では、海老塚三人衆が、そしてさらにその奥の暗がりでは阪東一派の牙が、確実にこの二人を捕らえようと動き出している。
だが、そんなことは知ったことではない。
二人のカラスは、ただ目の前の青空の下で来るべき次のゴングを、不敵な笑みを浮かべながら待っていた。
続きました。