見上げるような空高く吸い込まれそうな夜空を滑るように飛んでいる。
体を包む分厚い鱗は月夜の中でもなお暗く、淡い月光を不吉な色合いを乗せて反射していた。
その体躯は巨木のような力強さに満ち、苔むした巨岩のように重厚さを物語る。
雄々しく伸びる角は平伏したくなるような威容を、低い喉鳴りとともに覗かせる牙は本能的な恐怖を、真っ直ぐただ前を見据えるその眼は己が全てを見透かされるような畏怖を呼び起こす。
悠々と翼を広げ夜空を統べるように羽ばたくその姿はまさに生命の頂点、暴君と呼ぶに相応しい有様だった。
竜は飛び続ける。
大地そのものが眠りに落ちたような森林も、眠ることを忘れたかのような大都会もその目に留まることは無い。
今まさに異形の化け物に焼き尽くされそうな村すら意に介さず、海を渡りその先に広がる大陸へとその影を進めていく。
歪みひとつない見事な真円を描くそれは竜の腕の中でも一層暗く、まるで黒曜石の宝玉のように月明かりを照り返す。
まず目を引くのはその大きさだ。人ひとり軽く飲み込むような大きさは彼女をして抱えるほどだった。
だが、真に注意を払うべきはその宝玉から発せられる殺気だろう。
音すら帰ってこれない深淵を覗き込むような不吉さと、極地に吹き荒れる吹雪のような殺気が、根源的な恐怖を煽り立てる。
「どうか中身がこぼれ出ることがありませんように」そう願わずには居られないほどの殺気が漏れ出ていた。
竜は冷たい夜風から宝玉を守るように両の腕で包み込む。
そこには世界の空を独占する暴君の姿はなく、弱い卵を守る親鳥そのものだった。
竜は決してその身を休めない。
宝玉を抱き、真っ暗な夜空をあてもなく飛び続けるその姿は、揺り籠を探す母のようだった。
◇
麻帆良学園都市。
いつもなら陽気な声が響き、夜も休まず乱痴気騒ぎが続く騒音公害一歩手前のこの街が、異様な空気に包まれていた。
始まりはこの学園都市を束ねる学園長であり、関東魔法教会理事でもある近衛近右衛門からの急な伝達であった。
「魔法先生及び魔法生徒は非番の者含め、全員担当地区にて警戒にあたれ」
前触れもなく知らされた、何に警戒するのかすら定かではない、理不尽ともいえるこの指示に対し魔法関係者達は当然のように混乱し、学園長室へ詰め寄せた。
―――関西呪術教会からの宣戦布告でもあったのか?
―――それとも魔法世界で何か一大事が起きその余波への警戒なのか?
まるで取り囲むように学園長の机を囲み、様々な憶測を次々に口にする魔法関係者への学園長への返答はただ一言、
「胸騒ぎがする」という簡潔なものだった。
学園長室にひしめくほどに詰め寄った魔法関係者があっけにとられ言葉を失う中、学園長はゆっくりと立ち上がり、
「すまんのう、具体的なことは何も言えん。本当にただの胸騒ぎでしかないんじゃ。申し訳ない。今日一日だけこの老いぼれの胸騒ぎに付き合ってはくれんか?」の言葉と共に、その体を小さく畳むかのように頭を下げた。
いつものように人を食った話術を駆使し、スルスルと曲芸師のように望む結果を引き出すでもなく、見え見えのか弱い老人を演じて同情を誘うわけでもなく、上に立つ者として真摯に頭を下げ、この街を守るために骨身を砕いてくれ、と頼むのだ。
腐っても学園最強、名実ともにこの学園のトップに立つ人間がその身を縮めて頭を下げる姿に魔法関係者たちは慌てて、「やめて下さい!」「頭を上げて下さい!」と口々に声を上げた。学園長はその言葉に答えるように頭を上げ、そしてまたゆっくりと椅子に腰掛けた。
その様子を見届け、ふうっと息をつき辺りを見回す魔法関係者たちは何かを確かめ合うように頷き合った。
学園長は彼らを見つめ、目を細め、「スマン、恩に着る」とポツリと呟き、それを隠すように「警戒は今この瞬間より明日の夜明けまでとする!」と、ピンと緊張感のある声で指示を飛ばした。
「ハッ!!」と短い了解の意を示し、それぞれの持ち場へと駆けて行く魔法関係者の背中を見送る。
最後の一人が出ていき、ドアが完全に閉まるのを確認すると一仕事終えたようにため息をつき、椅子に体を投げ出すようにして腰掛けた。
近衛近右衛門はうつむくように額をくみ上げた指の上に乗せ、低いうなり声と共に苦悶の息を漏らした。
それぞれの担当地区に散らばった魔法関係者達は、日が傾くにつれて学園長の言う胸騒ぎを実感として認識し始めていた。
いつもであれば聞こえるはずの部活動や、騒ぎを起こす生徒たち、不良と呼ばれる生徒たちの小競り合い、人を呼び込む屋台の喧騒、それら全ての音がいつもより小さいのだ。
それも夕闇が迫るにつれ、スピーカーのボリュームを引き絞るように声が消えていく。
日がとっぷりと暮れる頃には営業時間であるはずの屋台ですら暖簾を下して家路についていた。
その中で中等部の制服に身を包んだ魔法生徒が、十字路の真ん中に立ち警戒に当たる。
「まるで麻帆良大停電の時みたい……」
認識疎外の術をかけ誰からも認識されない、いわば幽霊のような存在となった少女の独り言は十字路に沿うように広がり消えていった。
最初に明確な異変を感じ取ったのは学園の外周部の森を警戒していた魔法先生達だった。
普段は人の良いオバサンとして購買部で人懐っこい笑みを浮かべている女と、その傍らに、芝生の上にドッカリと胡坐をかき、日本刀を抱くようにして座っている男の2人組だった。
男は麻帆良外周部と森を隔てる茂みを睨み付けながら、日本刀の鯉口をもてあそぶ。
親指で鍔を跳ね上げ鯉口を切り、重力に任せるがままに納刀し、その度に鯉口から甲高い金属音が辺りに響く。
一定のリズムで繰り返されるその音は決して心地良いとは言えなかったが、それが座り込む男のコンセントレーションを高めることを知っていた彼女に不満の色は無く、慣れた様に感知結界を張り周囲の警戒を続けていた。
いつも通りのコンビの姿がそこにあった。
「来たか……」
男が呟き鯉口を切る音が止むのと、彼女の感知領域に何者かが踏み込んでくるのはほぼ同時だった。
男はゆっくりと立ち上がり重心を落とし抜刀術の構えを見せる。
「小動物の反応多数。およそ150。来るよッ!」
麻帆良へ小動物が追い立てられるように、自然には発生しないであろう規模で突入してくる。
それは確かに異常事態ではあったが、よく使われる手でもあった。
関西呪術協会が麻帆良に動物を模した式神を忍び込ませる際、野生動物を追い立てそれに紛れて結界を抜けさせるなど、外周部の警備をしていれば誰でも一度は経験する手だ。
彼女の言葉通り、様々な動物たちがまるで何かから逃げ出すような勢いで男と彼女を避け、足元や、股の下を潜るように駆け抜けていく。
「式神、無し。なんらかの危険から逃げてきた可能性大。不味いわね……」
彼女の言葉に呼応するように男はさらに柄頭を下げ、完全な戦闘態勢に入る。
が、待てど暮らせど何者かが襲い掛かってくる予兆は無い。それどころか生き物がいなくなったよう不気味な静けさがあたりに満ちていった。
「……おい」
「ええ……」
事態の報告と指示を仰ごうと彼女は学園長へと連絡を取ろうとした瞬間、森を警戒していた男が跳ね上げるかのように顔を上げ遥か上空を睨み付ける。
「
彼女が男の視線を追いかけ見上げると、感知領域の遥か上空に黒い宝玉を抱える黒竜が居た。
魔法世界にしか居ないはずのドラゴンが、日本の上空で悠々と羽ばたいている。
あまりに非現実的な光景に、彼女は自らも魔法使いであることを忘れ眩暈さえ覚えた。
黒竜はそんな二人など気にもかけず羽ばたきを止め、滑空の態勢を取る。
一度高度をグンと下げ、その落下の勢いを速度に変え、流星のように突っ込んでくる。
「グオオオオオオオオオン!!!」
遥か遠くから聞こえてくる黒竜の嘶きは、分厚い雨雲から響く雷鳴のような響きですべての生き物を畏怖させる。
麻帆良の地に
「学園長! ドラゴンです! 黒竜が麻帆良上空に現れました!」
「報告はどこじゃ?」
「麻帆良西地区外延部の森を担当している魔法先生達からです! 同様の報告が複数グループから上がっています!」
「周辺地区からの戦闘担当関係者の結界内への引き上げと、退却時の黒竜の状況報告の徹底。索敵担当者はその場にとどまりこの機に乗じて乗り込む者たちへの警戒を続けさせるんじゃ。ただし、戦闘は極力避け索敵に反応があった段階でその報告を上げ即時退避を徹底させよ」
「麻帆良の認識阻害を強化させます。よろしいですね?」
「ウム、構わん。電力の確保は緊急メンテナンスの名目で必要最低限以外の電力をカットしてかまわん。まだ外にいるものは魔法生徒たちに誘導させ、帰宅させよ。魔法の使用も許可する」
「黒竜の情報を全魔法関係者へ伝達します!」
「落ち着けバカモン。担当地区の関係者には箝口令を敷く。こちらから知らせるのはタカミチ君と葛葉君を筆頭にある程度の実力者だけに知らせる。麻帆良大結界へ突入してきた場合の対策班を組ませ、即座に突入予測ルートへ向かわせよ。」
「予測ルートの絞り込みがまだできていません!」
「……現時点で予測されるどのルートでも対応できる位置にとりあえず向かわせるんじゃ。とりあえずこの住宅街でいいかの。ここで対策班を合流させよ。」
「電力の確保、および結界の強化、認識阻害の引き上げ完了しました。学園長。ご指示をお願いします」
「認識阻害を最大限にまで引き上げた。総員空を飛んでも構わん! 全速力で配置につけ!」
「「「「「ハイッ!!!」」」」」
ビリビリとした緊張感のある声に合わせるような緊迫した了承の声が魔法先生達から発せられる。
「ここで出す指示は大体こんなもんかの」
近右衛門はフゥと息をつき、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「学園長どちらへ?」
「なに、
黒竜強襲に慌てふためく面々を安心させるため、あえて軽い口調で言いウインクまでつけて返事をする。
建物から外に出るとあたりに人の気配のないことを確認し、天狗のような軽やかさで屋上へと飛び上がった。
屋上から黒竜が居る方角をチラリと睨み付け、自らも麻帆良最重要防衛ポイントである神木・
途中、空を飛び現場に急行する魔法先生達とすれ違いながらも、その速度を緩めるどころかさらに加速していく中、近右衛門はある種の覚悟をしていた。
おそらく麻帆良大結界は破られるだろうと近右衛門は覚悟している。
元々の機能からして侵入を防ぐことではなく侵入者を弱めることに主眼を置いている。
如何にありったけの電力を結界に回したとて、相手は魔法世界でも最強の一角を占める竜種。
時間は稼げるであろうが、その侵入を防げるとは考えにくい。
麻帆良学園都市最強の戦力は最後の加速をすませ今までの倍以上の校舎や家屋を一足飛びで越え、世界樹の根元へたどり着く。
「じゃが、それで良い」
黒竜が飛来してくるであろう方角を見据えながら、その口元から長く伸びる白い髭を撫で付ける。
麻帆良大結界の本質は魔物や妖怪の力を封じ込めることにある。
その威力たるやある意味
魔力を抑え込めさえすれば竜種の重量だ。その翼がいかに頑強と言えど羽ばたきだけでは自重を支えられず、急にバランスを崩されては滑空すら維持できないであろうことは想像に難くない。
「遠からず黒竜は地に墜ちる」
そうなれば、力を付けてきたタカミチ君や、最近西からやってきた京都神鳴流の使い手 葛葉刀子君などの精鋭達で十分に対処が可能。
「そうなれば万が一に備えこちらに詰めていた儂も黒竜の対処に向かい、万事抜かりなく事が終わる……はずじゃ」
そうつぶやく近右衛門の声は鉛のように重い。
解決の見通しが立ったというのに近右衛門の顔色は晴れず、口元は固く引き結ばれている。
麻帆良を長年守ってきた経験が大丈夫だと言っている。
魔法使いとして生きてきた知識が問題無いと証明している。
だが、胸騒ぎは一向に収まる気配はない。
何か想像もできないことが起こる気がしてならない。
結界で時間を稼いでいる間に配置が完了することを祈り待つことしかできない。
そんな近右衛門に飛び込んできたのは、黒竜が結界に「接触」した、でもなく「突破」された、でもない「通過」された、という知らせだった。
「通過されただって!?」
魔法先生の精鋭集団の先頭に立ち、配置へ向かうべく住宅街を移動していたタカミチに飛び込んできた知らせは悪い知らせ以外の何物でもなかった。
「いたっ!!」タカミチの横で並走する葛葉刀子の指し示す先を見れば、黒竜が翼を広げ高度を下げつつ滑空を続ける姿が飛び込んできた。
「結界の影響をまるで受けないのか……」タカミチの声が深く沈み込む。
結界による減衰を全く受けていない竜と対峙する。
それは子供に読み聞かせる寝物語の中の英雄の所業だ。
言い換えるのであれば虚飾や誇張無しに「伝説へ戦いを仕掛ける」ことに他ならないのだ。
未熟な身として、出来るならではなく絶対に戦うことを避けなければならない相手であった。
しかし、この緊迫した状況はタカミチから逃げるという選択肢をすでに奪っていた。
最悪なことに黒竜がこのまま真っ直ぐ進むと、絶対に世界樹にぶち当たる。
この魔法使いの街ともいえる麻帆良をそう足らしめる神木・
「せめて感卦法が完成していれば……」
タカミチは悔しそうに奥歯を噛みしめる。
十全に力を発揮できる絶対的上位種から逃げる事無く、不十分な戦力で相手取る。
その言葉がもたらすあまりのプレッシャーに膝が震え、漠然とした迷いが頭を掠める。
しかし、迷いは数瞬。
タカミチを奮い立たせたのは、過去に実際に見てきた「偉大な英雄達」の姿だった。
「このままだと世界樹に興味を持つかもしれない。僕がオトリになり気を引くよ」
仲間に動揺を気取られないように努めて平静を装う。
今いるメンバーの中で一番成功率が高い自分がこの役目を負わなければ、街に甚大な被害が及びかねない。
「オトリになるのはいいがどこに向かわせる?」
「近くで住宅もなく、隠蔽も事後処理も容易い図書館島の湖上に向かわせて、そこで対処しかないだろうね」
タカミチはそう答えると、仲間たちの答えを待たずに天高く滑空する黒竜を威嚇するかのように魔力を立ち昇らせる。
それは暗に反論を認めず、タカミチをオトリとした作戦の遂行を強要するものだった。
「危険すぎます! もう少し様子を見るべきです!」と伝令兼サポート役の魔法生徒が声を荒げた。
若いというよりも幼さの残る少女は、目に涙で滲ませながらタカミチを制止する。
それは誰にでも優しく、特にタカミチに懐いていた少女が初めて見せる激情だった。
タカミチは苦笑いを浮かべつつ、妹をなだめるような口調で少女へ語りかけた。
「地上から相手の興味を少し引くだけだからそんなに危険な役目じゃないさ。」
「相手は竜ですよ!? 頭だって良いんです! そんなに簡単に行くはずないじゃないですか!」
「だからこそ大丈夫なのさ。馬鹿な獲物が隠れる場所の少ない方へ逃げ出していくんだから、頭の良い竜は獲物が墓穴を掘るのをわざわざ邪魔なんてしないよ」
「でも、でも……」
少女はこらえきれず遂に涙をこぼし始めた。
「それにね」
タカミチは少女の頭に手を置いて言葉を続ける。
「この街を守る。世界樹も守る。両方しなくちゃいけないのが麻帆良の
タカミチは少女を安心させるためにわざと軽い口調でそう言い、優しく指を滑らせた。
タカミチは生来呪文詠唱ができず、魔法使いとしては落ちこぼれと言わざるを得ない。
子供であれば憧れて大人であれば志す存在が
タカミチが決してそんな
しかし、一種自虐的ですらあるタカミチの言葉を笑うものは誰一人としていなかった。
「それに、ほら。図書館島の湖上までつれてったら僕の仕事は逃げてくる黒竜を追い返すだけになるから。最初だけ苦労してあとは楽させてもらうよ」
魔法先生達の間にうっすらとした笑いが起こった。
もちろん、タカミチの言った仕事が簡単なはずは無く、むしろ死に物狂いで逃げてくる黒竜を追い返すといった一番危険な仕事であることは全員が承知している。
それでも場を和ませるためにタカミチが言った冗談を受けての笑いだった。
笑いが引くにつれ、関係者それぞれの目に決意の灯がともっていく。
自分の仲間たちがタカミチの目を見つめ、力強く頷く。それだけでタカミチの憂いはきれいに無くなった。
訪れるかもしれない最悪の未来に怯える少女も、それ以上何も言わずスカートの裾を握りしめ零れ落ちる涙を必死に抑え込もうとしている。
タカミチはその少女の頭から手を離し、その目に覚悟を宿して空を見上げた。
黒竜の気を引くために魔力をさらに高ぶらせようとしたその瞬間、黒竜が予想外の行動に出た。
黒竜が前触れなく滑空を止め羽ばたきながら高度を下げ始めたのだ。
「不味い! 葛葉さん! その子を頼みます!」
そう言い残しタカミチを先頭に魔法先生達は弾かれたように走り出す。
最悪空を飛べる者のみでその身をオトリにし、文字通り決死の覚悟で図書館島の湖上まで連れて行くしかない。
自らの命ではなく、仲間の命を賭けなければならない。
最悪な未来のイメージに頭が塗りつぶされていく。
そんな焦りに答えるようにタカミチのスピードは加速し続けていく。
心臓は早鐘のように鼓動し、頭の中は「間に合ってくれ!」という思いでいっぱいだ。
「クソッ! 気まぐれなドラゴンだ! 行動なんて全く読めや……ッ!!」
黒竜が屋根へと着地し手元の宝玉が鈍く光った瞬間、タカミチの全身に心臓を冷たい手で握りしめられたような悪寒が走った。
あれだけ焦る心に答えていた足が動かない。
後ろから仲間たちの杖や武器が転がる音と地面に倒れ込む音が聞こえてくる。
その音を聞きながら徐々に荒く、そして短くなっていく自らの呼吸を感じていた。
荒くなる呼吸に引きずられるように、ゆっくりと全く別の感情がナイフのように差し込まれていく。
タカミチの心に差し込まれた感情は、敵を恐れるという原始的な恐怖だった。
死ぬのが恐ろしいのではない。
その
まるで人間であることそのものを呪うかのような殺気に全員が地面に縫い付けられた。
自分の呼吸が気取られることすら恐ろしく、息も出来ない。
他人から呪いや憎しみを向けられた時とは全く違う、喉笛を噛み千切られそうな獣染みた殺気。
そんなものが特定の対象に向けるでもなく世界を染め上げるかのように放たれている。
魔法先生達が顔を伏せ膝をつき肩を抱いて震えるなか、タカミチだけが歯を食いしばりながら黒竜を睨み付ける。
手を膝につき震えを無理やりに抑え込み、何とか立てている状態ではあったがその目に宿る街を守るという決意に陰りは見えなかった。
そんなタカミチを気に留めるそぶりも見せない黒竜は、角地に立つ民家の屋根から何かを探すように顔を持ち上げあたりを見回していた。
幾度かあたりを見回すと、一点を見つめその動きを止める。
その先あるのは世界樹だった。
しばらくそちらを見つめていた黒竜は着地の時と同じく、音もなく飛び立つ。
「グッ…… 待てぇ!」
タカミチは震える足に力を籠め全力で後を追う。
その場から動けたのは彼一人だけだった。
近右衛門は黒竜の世界樹への接触が確実であると確信すると、目を閉じその瞬間を座して待っていた。
タカミチ君を始め、魔法先生達に全幅の信頼を置いていることにウソはない。
魔法先生達は自分の出した指示を順守しようとし、事実黒竜がこちらに向かう途中散発的に魔法が放たれたのも目撃している。
例えその数が少なくとも、狙いが全く定まっておらずとも、一秒たりとも時間を稼ぐことが出来なくとも、彼らは自らの使命を懸命に果たそうとしたであろうことは想像に難くない。
しかし、どこか心の隅では「こうなること」がわかっていたかのように近右衛門の心は落ち着いていた。
目を静かに開ける。
離れた場所、しかし戦闘の間合いとしては近すぎる位置から、黒竜がこちらを見据えていた。
近右衛門は動かない。
もちろん彼もタカミチの感じた殺気を全身に浴びている。
その殺気の凄まじさたるや、修行を重ね精神が植物の域に至る近右衛門ですら全身泡立つような苛烈さであった。
それにもかかわらず、近右衛門の視線は殺気が発せられる宝玉ではなく黒竜の目に向けられていた。
その目はこちらの全てを見透かすような、黒竜を畏怖する心を煽りはするが敵意は無い。
報告を聞いても、迎撃に当たった誰かが傷つけられた報告も無ければガラス一枚すら割れたとの報告も無い。
上がってくるものは関係者達が戦意を喪失し、倒れ伏したというものばかりであった。
確かに訪問時こそ荒々しいものではあったが、その後は可能な限り穏便にことを済まそうとする珍客と言えなくもない。
近右衛門は目線の先に静かに佇む黒竜の苛烈な殺気と実際の被害の差に違和感を覚えた。
春先の冷たい空気が張りつめる中、互いに互いを見極めるかのような視線が交差する。
月明かりの下の人と竜の邂逅は言葉もなく、穏やかな風のように時間だけが流れていった。
――――――ひょっとしてこちらが騒ぎ過ぎているだけなのか?
近右衛門がそんな考えに至るのにはそう時間はかからなかった。
一人と一匹の間に漂う、張りつめた一本の糸のような空気だけが支配する世界樹広場に、不意に大声が鳴り響いたのはその疑念が湧いた直後だった。
「学園長! 離れてください!」
脇目も振らず全速力で黒竜を追ってきたであろうタカミチは、左右の手にそれぞれ「魔力」と「気」を乗せ、減速することなく突っ込んでくる。
途中両手を重ね、「ぐぅッ……!!」と、唸るような声を漏らしながらもその速度が緩まる気配は無い。
両の手を合わせた瞬間生み出されたエネルギーは先ほどまでとは比べ物にならず、未熟な感卦法ながらも張りつめた糸を切るには十分過ぎるほどだ。
「タカミチィ!! それ以上動くでない!!」
近右衛門の一喝でタカミチが慌ててブレーキをかけるも、均衡はすでに破壊された後であった。
黒竜は近右衛門から視線を切り、ふわりと羽ばたき空へと飛び立っていく。
黒竜はあっという間に天高く昇っていき、数度羽ばたきを繰り返すと何とか見えるほどの小さな黒点となっていた。
老人と若い男が鏡写しのように同じ動作で夜空を見上げているうちに、黒竜はどんどんと離れていく。
「あー……やっちゃいましたかね?」と、タカミチはバツが悪そうにしながら尋ねるも返ってきたのは、
「……ま、今回ばかりは仕方ないじゃろ。」と、黒竜を見上げながら髭を撫で付ける近右衛門の軽い声だった。
「まさか黒竜に穏便な訪問、ましてや前もってのアポイントと書類上の手続きを求めるわけにはいかんじゃろうしな」と呟き、「儂も無駄に不安をあおるようなこと言っちゃったし……」誰に聞かせるでもなく口の中だけでモゴモゴと続ける。
近右衛門の言葉を聞き取れなかったタカミチが首を傾げていることに、気が付いた近右衛門は「どうせあの殺気に
痛いところを突かれたタカミチは顔をしかめ、恥ずかしさを誤魔化すように頬を指で掻くばかりだった。
それを見た近右衛門は「未熟、未熟」とニンマリと笑うと、
「追跡隊を組んで行動の監視、まぁ街に迷惑をかけることは無かろうて」と言い、踵を返し歩き出した。
タカミチは了解の意を示し葛葉刀子達へ連絡を取ろうとするなか、不意に近右衛門が口を開いた。
「あーそうそう。さっきのあの感卦法じゃったかな? あの両手を使うやつ。あれを己が目標より一週間早く完成させよ。」
と、近右衛門は軽い口調でとんでもなく無茶な課題をタカミチへ言い渡した。
「それを持って今回の件のケジメとする」との、どこまでも軽い口調で続ける近右衛門の言葉に
タカミチは天を仰ぎ、オデコに手を落とす。あたりにぺチンという何とも間の抜けた音が響く。
近右衛門は楽しそうに「フォフォフォ……」と笑いながら学園長室に戻っていった。
「図書館島の湖に波紋も無く、まるで通過するように黒竜が潜っていった」
との魔法先生達からの悲鳴のような報告が学園長室へ上がってきたのは、30分後のことだった。
「―――――ケケケ、御主人。ドラゴンダゼ。トンダトコロデ、珍シイ物ヲ見ルモンダナ」
森の中にあるログハウスの窓辺にどこか平坦な声が響く。
その言葉への返答は
「フン、うるさいぞチャチャゼロ。今魔法薬の調合中だ。静かにしていろ」
という、どこかキツい声色を含む少女の声だった。
電気もつけていないその部屋で揺らめくアルコールランプの炎に照らし出されるその少女は、ほのかな光を発する液体の入った試験管を片手に何やら思案顔をしている。
「アー懐カシイナァ。御主人。覚エテルカ? 魔法世界デ何カ月モ彷徨ッタアゲクニ馬鹿デカイドラゴントヤリアッタコトモアッタナァ」
相変わらず窓辺から、それも人形が置いてある辺りから聞こえる声は平坦ながら、どこか楽しそうな声だった。
「うるさいぞ。チャチャゼロ。今デリケートな作業中だ。静かにしていろ」
それに対する少女の返答は先ほどと同じ調子で、平坦な声の主をたしなめるものだった。
「ナァ、御主人。チョットドラゴンヲ見ニ行コウゼ? 黒イヤツハ、マダ斬ッタコトガネェ」
その声色は相変わらず楽しそうな声色ではあったが、何か相手を伺うような響きを含んでいた。
「うるさいぞチャチャゼロ。ドラゴンなど昔イヤというほど狩っただろう。……それに満月でもない夜に出来ることなどあまり無い。…静かにしていろ。作業中だ」
その返答も相変わらず事務的に相手をたしなめるような声色であったが、何か自分を押し殺すような響きを含んでいた。
「―――――ケケケ……」
ログハウスの窓辺から平坦な笑い声が響く。
その声の発生源と思しき人形は窓に額を押し当て顔を支えるようにして、空高く飛び立つ黒竜を見つめていた。
図書館島の奥深く、月明かりを必要とする魔道書が数多く蔵される一角に
ひび割れた石畳の上に数多の古の知識を収めた本棚が立ち並び、その間を世界樹の根が縫うように張り巡らされるその場所は、まるで時が止まったような静謐で満たされている。
その中にあつらえた様に開いたスペースに、竜は宝玉に寄り添うようにして体を横たえていた。
巨躯に似合わぬ静かな呼吸と共に竜の魔力が周囲に飛散していき、その度に魔道書が淡い光を放つ。
その明滅が部屋全体に広がるまでにそれほど時間はかからなかった。
竜の魔力にあてられ、魔道書がぼんやりと緑色に発光する幻想的な光景の中、宝玉が砂山に風が吹いたように消えていき、入れ替わるように少年が現れた。
幼いながらもどこか厳めしい顔つきをしたその少年は、竜に身を預けるようにして眠っている。
竜は顔を持ち上げ、守るように彼の周りをグルリと自らの体で囲った。
少年の安らかな寝顔をまっすぐに見据え、時折鼻先で前髪を撫でるようなしぐさを見せる。
グルルル…と穏やかな喉鳴りをあたりに響かせ、竜はそっと目を閉じた。
周りの魔道書が寝息のように穏やかな明滅を繰り返すなかその声は響きだした。
「聞こえますか? 私の愛しい………よ…」
その声はあたりに反響し、どこから発せられているのか定かではなく、
まるでその一角全体の空気が震えその音を奏でているような声だった。
「あな…がこ……界に、生……は偶然……ません。……使命を持っ……世界に……れたのです。……たは……戦…宿命……この世に生を受…ました。数多の思いを継ぎ、新たに学…なすべきことを定め、それを行いなさい」
魔道書の明滅する感覚が徐々に長くそしてその光が弱まっていく。
それはまるで命が燃え尽きようとする生き物の鼓動のようであった。
「力を……、心を育…、魔を極……さい」
竜の体が宝玉と同じように霧散していく。
「そして、
最後の力を振り絞るような言葉を紡ぐと、竜は首を伸ばし大きく嘶きを上げた。
まるでそれが最後の一息であったかのように竜の体躯が黒い粒子となって霧散していく。
竜は消え行くその最中、男の子の体を優しく寄せる。
鼻先で前髪を少しかき分け、愛おしそうにその顔を見つめていた。
そして竜は男の子の頭を、胸元にある竜の顔をかたどった紋章に優しく押し当てる。
「―――――――――」
黒竜が人の聴力では聞き取れない音域で何か呪文のようなものをを唱えると、
男の子に押し当てられた紋章が空気が歪むような音を立てて光り輝く。
それは数多の竜の騎士の記憶を引き継ぐ儀式だった。
厳かに、愛おしそうに、その目に憐みとも悲しみとも申し訳なさとも取れない、それら全てが混ざり合ったような表情を浮かべた黒竜は、竜の騎士の記憶を今だ目を閉じたままの少年へと引き継がせていった。
自らの躰が黒い粒子となり霧散していく中、男の子の頭をそっと世界樹の根の上に置く。
最期まで男の子を見つめるその顔は、安らかに眠る我が子を見て安心する穏やかな親の顔だった。
竜が完全に消え去った後、残された黒い粒子は吸い寄せられながら男の子の周りに漂っている。
やがて、最初の一粒が男の子に触れると、粉雪が溶け出すように次々と男の子に吸収され、最後の一粒まで額に溶け込んでいった。
ほんのわずかの静寂を挟んで、男の子の額にも竜の胸元にあった紋章と同じものが浮かび上がる。
それは黒く発光し吹き荒れるような殺気をまき散らすも、やがて何事も無かったかのように消えて行った。
その光景を見届けるかのように淡く明滅を繰り返していた魔道書は発光を止め、あたりは今までがウソのように静まり返った。
月明かりだけが世界樹の根に抱かれるようにして眠る男の子を照らし出している。
男の子はやがて眼を覚ますと、ゆっくりと何か探すようにして周りを見渡し、
「さしあたり、私はどこで何をすれば……?」と呟いた。
周りを見渡しても古めかしい本と木の根っこぐらいしか見当たらない。
唐突に腹の虫が音を立て、食欲を訴えた。
もう一度辺りを見回しても見つかるのは、やはり古びた本と木の根っこぐらいなものだ。
生まれて最初に口にする物さえ自分で用意しなければならない。
そのあんまりにもあんまりな状況に深いため息が少年の口から零れ落ちる。
「
ため息とともに零れ落ちた呟きに返事をするものは無い。
男の子の人生初の愚痴は誰の耳にも届くことは無かった。