白い砂浜、透き通る水面。あたりは柔らかな光に満ち、心地良い風が吹き抜けていく。
水面を覗き込めば魚の群れが踊るように泳ぎ、砂浜を歩けば鳴砂の音とともに足跡を刻み込み、歩く者の童心をかき立てる。
まさに理想郷。どこを切り取っても旅行会社のパンフレットとして採用できる癒しに満ちた光景だった。
ただし、不規則に立ち並ぶ本棚と空を遮る壁がなければの話ではあるが。
本棚は砂浜どころか水の中からも顔を出し、ビジネス街のような密度で立ち並んでいる。
高さや形状、その材質、そして向きの裏表に至るまですべてが不規則に立ち並ぶ本棚の森。
その一帯の迷宮じみた構造のせいで、南国の楽園といった雰囲気はかき消されていた。
その上四方の壁が本来あるはずの青空を隠すうえ、壁には木の根が縦横無尽に走っており開放感など微塵もない、いわば古代遺跡の石牢と言った様子だった。
やわらかな謎の光源に満たされる迷宮の奥、水の中から突き出た本棚の上に腰掛け、釣竿から糸を垂らしている少年はあくびをかみ殺しながら水面を見つめていた。
「よっと……3匹目、あと一匹ぐらいか?」
餌を付けず、魚の腹に引っ掛けるようにして釣り上げた魚を放り投げ少年はそのまま水面に糸を垂らし、釣竿を足の下に挟み込み、手近に置いていた本に手を伸ばしパラパラとページをめくり始めた。
「これだけ本があって読める本はこの一冊だけとは……ホント頼むよ
少年は昨日と同じ愚痴をぽつりとつぶやく。しかし、その顔はどこか穏やかな顔つきだった。
少年は本を膝の上に乗せ目当てのページを探し始める。
少年のめくる本は所々焼け焦げた跡のある古びた本で、後から継ぎ足されたのか紙の変色具合が裏表紙側だけ薄い。
少年はその中で比較的新しい紙の色をした後半部分を目当てのページを探しながらめくっていた。
「えーと、地の章、海の章、空の章と来て、バーンとの戦いについて書いているのが時の章だから…あ、ここだここだ。竜の騎士の……」とページをめくる手を止めるのとほぼ同時に、少年の体が弾かれたようにビクリと跳ね上がった。
「……記憶と能力だけ受け継いだだけとはいえ、あれだけリアルに追体験すればトラウマにもなるか……」
抑揚のない声で自らを静めるような声色で呟き、一度痙攣したきりの右手を見る。
少年は手を何度か握りこむような動作を繰り返し、自らを鼻で笑った。
そして、この世界には“存在しない”の文字で「アバンの書」と記された本に目を落とした。
――――竜の騎士とは、人・魔・竜の三神が集まり生み出された、究極の戦士である。――――
少年はそんな書き出しから始まる文章を母から受け継いだ記憶に照らし合わせ始めた。
この世界で初めての目覚めを経験する少し前、竜の姿をした母に抱きかかえられた感触を少年は忘れない。
額に優しく押し当てられる竜の紋章の暖かさもその裏にある母の体温も忘れてはならないことだと思っている。
母の紋章に触れた瞬間に感じた、焼けつくような痛みも忘れられない。
そしてなにより、紋章から痛みと共に流れてきた過去の竜の騎士達の記憶は、どれだけ時間が流れようとも薄れることは無いだろうと確信していた。
聖母竜が少年を胸に抱き胸元の紋章が閃光を放つほんのわずかな時間、少年は限りなく無限に引き延ばされた地獄を味わっていた。
過去の竜の騎士の記憶を子供に写す。それは記憶を文字通り焼き付ける程度の苦痛ではない。
普通の人間であれば、肉体が滅び、精神が摩耗し、魂すら消滅しかねないほどの精神的エネルギーが竜の騎士の記憶群にはあった。
口が開けば絶叫を上げ、体が動けばのた打ち回り、目が開けば水分をすべて涙に変えてしまうような苦痛が少年の内側を駆け巡る。
しかしまだ覚醒していなかった少年には、苦痛を漏らさず耐える以外の選択肢などなかった。
その記憶群を表すなら、受け継がれるべきではない記憶だった。
その記憶は一片の例外も無く、神が生み出した究極の戦士という名に恥じぬ戦いの記憶であり、
血反吐を吐く研鑽と神経をそのまま研磨するような戦闘経験は少年に染み込んで、いや浸食していった。
しかし、本来ならあるはずのない自らの上書きとでも言うべき異常に驚いている余裕など微塵も無かった。
それに付随する煮えたぎる鉛のような憎しみの記憶に、生まれたばかりの無垢な心が押しつぶされようとしていたからだ。
まず、竜の騎士達が生み出されるほどに世界のバランスを破壊する強者たる悪。
そして、文字通り命賭けで強者たる悪を倒し、世界を繋ぎとめて見せた竜の騎士。
しかし、世界を救ったはずの竜の騎士たちは、強者を恐れる救ったはずの弱者に謂れ無き罪を押し付けられ、糾弾され、蔑まれ、その生涯の行きつく果ては常に処刑場であった。
そのあげく、最後の強者を殺し覇者となった弱者たちの末路は例外なく互いに憎みあい、争い始め、大地を自らの血で染め上げる戦争を引き起こす、といったものだった。
一連のサイクルは例外無く悲劇で幕を閉じており、それは世界に平和をもたらした竜の騎士達への裏切り以外の何物でもない。
三界の調停者たる竜の騎士に受け継がれるべきではない記憶群の正体は何よりも苛烈な人間への憤怒であり、それは母の胸から魂を震え上がらせるような殺気を伴って少年の心に流れ込んできた。
全てを飲み込むマグマのような激情を内包する大波に、産まれたばかりの少年の心は為す術も無く一息で飲み込まれてしまう。
そんな激情に砕かれまいともがき足掻く少年が出会ったのはある一人の竜の騎士の記憶だった。
その記憶は竜の騎士として初めて子を生すほど人間を愛し、竜の騎士が悪と呼ぶに足る大魔王に膝を折るほど人間を憎んだ、真なる最後の竜の騎士の記憶だった。
その騎士は人を救い、人を愛し、愛する人を人に殺され、人を憎み、人を殺し、血を分けた息子と殺し合い、魔族の息子の遺志を継ぐ人に圧倒され、そして血を分けた息子と共闘し、その子を守って死んだ父であった。
母から受け継いだ記憶の中であれほど人を愛し、人を憎んだ竜の騎士は彼、バランだけだった。
その他の激情が持つ世界全てを呪うような憤怒と、世界全てを殺し尽くすような殺気にただ怯えたのだと言われても否定はできない。
何も知らない真っ白な心を一番強い激情で染め上げられたのだといってしまえばその通りだ。
濁流のような殺気の中にあった、ただ一つの愛の記憶に逃げ込んだのだと言ってしまえば反論の余地は無い。
しかし、少年はその激情に愛憎の区別なく、深く感銘を受けたのだ。
他者を守る美しさに憧れ、他者を許さず自らの意思を断行する苛烈さに身震いした。
そして、彼と彼の子が守った世界を汚すものがあるのなら、たとえ人間でも敵として戦おうとすら未熟な心で考えた。
「でもなぁ……歴史どころか地図まで違う…下手すりゃ世界すら違いかねん…果たすべき恨みも誠意もありゃしない…」
少年は肩を落とし、大きくため息をつきほんの数時間前の自らの行動を思い出す。
少年が目覚め、最初に行ったことは現在の位置や状況などの情報収集だった。
幸いにも、少年の周りは見渡す限り本棚が立ち並び、情報の鮮度はともかくとして、受け継いだ記憶からどの程度時間が経っているかなどはすぐにわかりそうなものだった。
意気揚々と少年は本棚の前に立ち最初の本を開くも、すぐにそれを閉じ、次に開いた本でも同じような動作をして、それを本棚にして三つ分は繰り返した。
「知らない文字ばっかりだ……」
最初の本棚では、世界にはさまざまな国や文化があり、当たり前のことながらそれぞれ異なる言語を使っているという常識が少年を支えた。
次の本棚では、世界には時間の流れがあり、国が亡びれば無くなってしまう言語も多いという竜の騎士の記憶が少年を支えた。
しかし何一つ成果のないまま三番目の本棚を調べ終わってしまうと流石に脂汗が止まらない。
どの竜の騎士の記憶から情報を引き出しても読める文字が見当たらない。
シンプルで重大な問題だった。
さらに悪いことに途中に見かけた地図らしき絵も全く見覚えのない大陸だけで構成されている。
その上年表をさかのぼっても見知った国旗すら見当たらない。
―――ひょっとして全く別の世界に産み落とされたのか?
不意に湧いて出た推論に背筋が凍るような思いがした。
母を見失った幼子のようにキョロキョロとあたりを見回しながら歩き回り、ようやく「アバンの書」と銘打たれた自分の知る文字が乗っている本を見つけた時は、
思わず全力のガッツポーズをとってしまうほどに少年は追い詰められていたのだ。
「そして、元の場所でこの釣り竿を見つけてこうして釣りをしているんだが……どうだろうね?」
と、少年はおもむろに後ろを振り返り、そこに脈略の無い言葉を投げかける。
数秒前であったならその言葉は意味不明な独り言にしかならなかっただろう。
しかし、少年が声をかけたまさにその瞬間に一人の男が音も無く少年の背後に立っていたため、その言葉は会話としてかろうじて成立した。
男はフードつきのローブをすっぽりと顔が隠れるまで深く着ており、その外見からわかるのは成人男性であることぐらいだった。
音も無く表れた男は、普通なら急に振り返り言葉までかけてきた少年に驚いた様子を見せるはずが、
「どうだろうね? と言われましても……」
と、ほんの少しだけ困惑を混ぜた声を上げるだけで、特に驚いた様子は無い。
素性を隠すような風体で音も無く後ろに立つ行動と、いきなり話しかけられたにもかかわらず驚きも無く優しそうな声色を維持しているのが何とも胡散臭い。
「最初に出会った人が信用しにくい人間と言うのは……」気配無く背後に立った人間に一瞬で気が付いた自分を棚に上げながら少年は内心でそうつぶやき、運の無さを悲観した。
「いや、この釣竿がもしあなたの物なら勝手に借りてすまないと思ってな」
「あぁ、それでしたら元々お貸しするつもりでしたので、お気になさらず」
「それはどうも。3匹ほど釣ったんだがこの魚はどう調理するのが一番かな?」
「新鮮な淡水魚はシンプルに焼くのが一番ではないでしょうか」
まさに雑談と言うほかない簡単な会話を終えると、少年は深い安堵と共にゆっくりとその手を天に伸ばし静かに、しかし力強く生涯二度目のガッツポーズを取った。
―――言葉が通じてよかった…
それは少年の心を占める偽らざる歓喜だった。
「あの……」
「いや、人との会話というのは素晴らしいものだなと思ってな……」
「はぁ……?」
深い、それは深い安堵のため息と共に万感の思いを口にする少年と比べ、フードをかぶった男の相槌はどこまでも平坦なものだった。
少年の突然の奇行に当然のことながら二人の会話が途切れ、何とも身の置き場のない時間が流れる。
少年が歓喜のガッツポーズの後に学ぶことになるのは、おそらくスベるという居心地の悪さだろう。
目深にかぶったフードの内側でアルビレオ・イマは緊張感の無い現状に困惑し眉をひそめていた。
昨夜の内に殺気をまき散らす何者かが図書館島の奥深くへ入り込んだことには気づいていた。
それに対処するために一晩かけ入念な準備をし、学園長である近衛近右衛門から宝玉を持った黒竜の情報を受け取り、秘密裏ながらも依頼という形でバックアップ体制も整え緊張感のある調査を行っていたはずだ。
魔力の残滓をたどり、過去に遭遇した最強の竜と照らし合わせても実力を量る目安にならないほどの強大な竜の気配を追って用心に用心を重ねて調査を行っていたはずだった。
だがその魔力残滓の中心にいたのは青い顔をして歴史書を引っ張り出してはすぐに戻すという謎のルーティーンワークを繰り返す少年だけだった。
その少年はしばらく謎の行動を繰り返した後ある本を手に取ると唐突にガッツポーズを取り、あろうことか友好的接触のきっかけになれば御の字と置いた釣竿を何の疑いも無しに手に取り釣りを始めたではないか。
その上、らちが明かないと直接接触した後の行動も脈略の無いものばかりであった。
まず先ほどの会話とガッツポーズの関連性がわからない。
大体気配を消して近付いたのにもかかわらずあっさりと気づくこの子は何者なのだろうか?
そもそも学園長の前情報ではいるはずの黒竜はどこに行ったのか? そして、黒竜が居るはずの場所でこの子は何をしているのか?
積み重なるように謎が増えていき、疑問が疑問を呼ぶ現状に困惑だけが深まっていく。
自分らしくないペースを相手に握られっぱなしの状態に相手の策を疑うも、こちらが渡した、何が仕込まれているかわかったものではない釣竿を何の疑いも無く使っている段階でその線は薄い。
何より本棚に腰掛け、膝の上に本を置き足をプラプラさせながら釣りを続ける少年に緊張感などあるはずも無く、一連の行動や言葉に裏があるとは考えにくい。
子供のような行動と大人のような言葉遣いが何ともチグハグな変な子供、というのがアルビレオ・イマが少年に抱いた第一印象だった。
「いわゆる天然というやつでしょうか……? その割には理知的な話し方と声、それに加えて随分と引き締まった顔つきですが……」
と、アルビレオ・イマは少年の能力に対して褒めているのか貶しているのかよくわからないとりあえずの評価を下した。
ともかく天然であろうと、全てが策の一環であろうと自分のペースを取り返さなければと思い直し、どのようにこの硬直を打開しようかと思案する。
しかし、その硬直を打開したのは、
「あー……その……ぶしつけで申し訳ないのだが助けてもらえないだろうか?」という目の前の少年の申し訳なさそうな声だった。
「……はぁ???」
自分らしくない。そう理解しつつも、アルビレオ・イマは自身の口から洩れる困惑を抑えることが出来なかった。
突然の援助要請を受けたアルビレオ・イマはとりあえず落ち着いて話を聞こうと図書館島深部にある自分の拠点へと少年を招き入れた。
「はぁ……人・魔・竜の神が作り出した究極の戦士、竜の騎士ですか……」
目の前で3枚目のお茶請けのクッキーを頬張る少年に目を向け、そのまま返事をしようとする少年を手で押しとどめる。
「にしても、まさかあの黒竜の息子と言うのは……いささか報告しにくいですねぇ」
口の中のクッキーを一息に飲み込んだ少年が黒竜の息子というのも含めて報告しにくいことこの上なかった。
「……いきなり黒竜の息子だ。などと言われて疑わないのか?」と、少年が窺うように尋ねる。
「まぁ近所に齢600歳を超える真祖の吸血鬼もいますしねぇ……全部信じませんが頭ごなしにウソとは言いませんよ」
―――私自身人間ではありませんし。
余計な言葉は口に出さず、そのうえほんのり他人を売り、とりあえず疑ってはいないことを少年に伝えた。
「あー……一応息子だと証明はできるんだが……」
「? 何か不都合でも?」
「……物理的には物騒ではないが……初めに言っておくが敵意はないぞ?」
「よっと」と、少年がその年恰好に似合わない掛け声とともに立ち上がると、まるで角砂糖を紅茶に入れるような気軽さで拳を握り、力を込める。
その瞬間アルビレオ・イマは引きつりそうになる顔を何とか抑え込んだ。
「なるほど、これは確かに物騒ですね……」
「だろう?」
少年の額に黒く光る竜の顔をかたどった紋章が浮かび上がると同時に瀑布のようなエネルギーと昨夜感じた底の知れない殺気があたりに満ちる。
アルビレオ・イマは何とか表情を変える事無くやり過ごしたが、紋章の光が消えるのに呼応するようにじっとりと広がる背中の冷や汗を感じていた。
「確かに、昨日の黒竜の息子で間違いないようですね。それで?」
「……? それでとは?」
「何か助けが必要なのでは?」
「あぁ、この場所から穏便に外に出たいのだが……何とかならないだろうか?」
少年が紋章を消し、アルビレオ・イマの目を見ながら少し申し訳なさそうに尋ねる。
顎に手を当て、椅子の背もたれに軽く背を預けるようにしてアルビレオ・イマは考える。
本当に黒竜の息子だろうか? ―――あの紋章を見る限り少なくとも関係者だろう。
害意はあるか? ―――おそらく無い。あるのなら交渉などしない。
演技では? ―――それこそゼロだ。本気になれば壁を壊して外に出ると考えるだけの力はある。
ここから力尽くで外へ出られる力を持ちながら、あくまで交渉で必要のない許可を求めたうえでの穏便な外出を望んでいる。
彼に害意は無く外で紋章を出さない限り黒竜の息子だと考える人間もいない。と、アルビレオ・イマは結論付ける。
「ただ外に出すだけであれば学園長と二人で揉み消してしまえば問題はありませんねぇ…」
と、アルビレオ・イマは胸の内で呟いた。
「……許可が出ないとすればどうしますか?」
「……信用されるまでここで魚でも食べて過ごすしかないな。……あまり言いたくはないが、魚を取りつくすなどの限界が来てしまえば、……あー、それなりの手段を取らざるを得ない」
―――まぁ道理だろう。その段階になるまでここに閉じ込めておくのであれば監禁に当たるし、そうなれば彼の生存権の行使は当然のことと言える。
そうなれば餓えたドラゴンの大暴れだ。下手をすると今彼を出すよりも大きな被害が起きかねない。
「……外に出たいというのは何故?」
「正直な話、右も左もわからないままにここへ連れてこられたからな。まず外に出なければ何もわからん」
「外に出て具体的に何をするつもりですか?」
「具体的な目的は無い。ただ自分が居る場所がどんな場所か知りたいだけだ」
「……外でその紋章や力を発現させるつもりはありませんね?」
「それこそまさかだ。」
少年はアルビレオ・イマの目を見て、答える。
「嘘ではないようですね……」と、アルビレオ・イマは口の中でつぶやく。
外に出す学園側のメリットは? ―――友好の姿勢を示しておけば今後有利になるかもしれない。
では、私のメリットは? ―――……あのタヌキのお爺さんが慌てる姿が見られそうだ。
「……面白いですねぇ…」
学園側のメリットは正直どうでもいいが、自分へのメリットが魅力的だ。
ただでさえ娯楽の少ないこの地下で久々に面白いものが見られそうだと、アルビレオ・イマはわずかに口角を釣り上げ、胡散臭い笑みをより深くした。
目の前の少年が不審そうな目を向けるのに気づき、いつもの笑顔に戻す。
「今の笑…「では、いくつかの条件があります」…聞けよ」
少年のツッコミをあえて無視し、先ほどの笑みとは違うタイプの笑みを深めるアルビレオ・イマを見て、少年はため息とともに笑みの理由を問うのをあきらめた。
「第一に紋章を出さないこと、第二に日が暮れるまでに一度戻ってくること、第三にエレベーター内の監視カメラに学園長宛のメッセージを持って映ること。何か質問は?」
「三つ目のメッセージとその送り主は? あと監視カメラとは?」
少年が黒竜に連れてこられ、なおかつ監視カメラを知らないことを知り、アルビレオ・イマは少年の出身をおそらく魔法世界の閉鎖的な地域出身だろうかと大体のあたりを付けた。
「メッセージの内容は第一第二の条件の内容、送り主はこの都市の長である学園長ですね。ここには電話はありませんし、念話だと傍受される可能性があります。
私もチョットわけありで、ここに学園長と協力して隠れ住む身ですので他人にそれがバレるのはマズいのです。あぁ、監視カメラとはいわば機械で出来た見張りです」
少年は途中電話という単語に良く分からないといった顔を浮かべたがため息とともに、「…わかった」と小さく頷くと、アルビレオ・イマはニッコリとした作り笑いを顔に浮かべ上機嫌のまま、少年に握手を求める。
少年は自分ではない誰かに向けられた悪意を、アルビレオ・イマの笑顔から読み取ったが追及は無駄だろうと諦めた。
「そういえば自己紹介もまだでしたね。私はアルビレオ・イマと申します。そちらは?」
「あー……。信じてもらえないと思うがまだ名前が無いんだ」
「なら偽名でも構いませんよ。私も最近お気に入りの偽名が出来ましたので、改めてそちらで、私はクウネル・サンダースと申します。」
「2・3質問があるんだが…?」
「貴方のためにも質問しない方がいいと思いますが?」
アルビレオ・イマは笑顔のまま差し出した手をわずかに動かし、握手をせかす。
少年は何度目かわからないため息をつき、他に選択肢は無いとはいえ内心頼る人間を間違えたことを後悔しながらその手を取った。
「もし偽名も無いのならそちらの本からお借りしてはいかがですか?」
アルビレオ・イマは偽名が無いのが異常と言ったような口ぶりで、少年がその手に持つ『アバンの書』へ目線を向ける。
「普通偽名を持っている人間の方が珍しいと思うんだがな?」
「黒竜から産まれるのは普通ですか?」
どうやら口では勝ち目はないらしいと観念した少年は偽名を口にする。
「……バラ、いや…ディーノと名乗っておく」
少年は軽くアルビレオ・イマの手を握り返し、お互いにその手を軽く振った。
その時のアルビレオ・イマはとてもイイ笑顔をしていた。
握手を解きアルビレオ、いやクウネル・サンダースへ促されるままに少年は出口へと歩を進める。
「監視カメラは知らないようですが、エレベーターはご存じですよね?」
上機嫌を隠そうともしない、アルビレオ・イマは出口へと向かいながら軽口と共に少年に尋ねた。
「流石に知っている。足でスイッチを押すと動く床だろう? デパートと言う場所にある物だ」
「あー……エレベーターまで御案内しましょう」と、言いながらアルビレオ・イマは外へと続く扉を開けた。
何かを言いよどむように会話を打ち切られ、何かを誤魔化す様にセカセカ歩くアルビレオ・イマを訝しりながらも少年は後に続く。
が、何故かアルビレオ・イマは出口を塞ぐように立ち止まった。
少年がアルビレオ・イマの背中越しにひょっこりと顔を覗かせると、この部屋の門番を務めるドラゴンであるワイバーン種が平伏すように頭を垂れていた。
少年は見慣れぬ光景に眉を顰めるアルビレオ・イマを追い抜き、頭を垂れるワイバーン種の鼻にポンと軽く手を置きそのまま歩き続ける。
手を置かれたワイバーン種は小さく「グルルル」と喉鳴りで返事をし、ただ少年を見送った。
―――黒竜から生まれた、人・魔・竜の神が作り出した究極の戦士、竜の騎士
「意外と本当かもしれませんねぇ……」
笑顔を浮かべ、アルビレオ・イマは少年を追いかけた。