千雨の家に着いた少年は、背負われたまま玄関のボタンを押す千雨の隙をみて屋根を確認する。
確かに竜の残り香とでも言うべきか、黒竜の殺気の残滓が黒い靄のように漂っていた。
それは屋根の上に頼りなさげにフワフワと漂っているが、少し強い風が吹いても移動するどころか形すら崩さずにその場に漂い続けている。
その靄から染み出すように漏れる殺気も、気付きにくいものになっているが生き物全てを呪う本質は変わっていない。
そして、性質の悪いことに自然消滅する類のものではなさそうであった。
地獄に仏とでも言うべきか、殺気自体には直接的な害は無い。
が、弱まっているとは言え竜の残り香。
それが良くないものを引きつけるというのは容易に想像できた。
―――早急にアレを何とかしなければマズイ。
少年は屋根の上の竜の残り香を睨み付けたまま内心じっとりとした油汗をかく思いだった。
玄関から慌てた様子でかけよってきた母親に「お礼にお茶でも」と言われたが少年は固辞し、
何か言いたげにチラチラと振り返る千雨が母親に背負われ家の中に入っていくのを見送った。
そして彼女たちが家の中に入りカチャリと言う金属音が響くのを合図に、少年は弾かれたように図書館島へ走り出した。
「―――――――ぉぉぉぉぉ」
竜が女の子を泣かせている。
「――――おおおぉぉぉぉぉ」
神の一柱に数えられる聖母竜が女の子を泣かせている。
「うおおおおおおぉぉぉぉぉ!!」
自分の母親が見ず知らずの女の子を泣かせている。
少年は約束も何もかも忘れてただひたすらに図書館島へとひた走る。
それでも少年が紋章の力を使わなかったのは、最後の理性で踏みとどまったからではなく、そんなことに気が回らないほど焦っていたからに他ならない。
「弱い者イジメってレベルじゃねーぞ!!!」
少年が叫んだ言葉はそのあまりの速度からドップラー効果さえ起こしながら麻帆良の街に木霊した。
街行く人々は砂塵を舞い上げ鬼気迫る表情のまま疾走する子供という異様な光景にギョッとしたが、
「麻帆良だから」とすぐに日常へと戻っていった。
「外で力を使う許可が欲しい。今すぐに」
「とりあえず説明をお願いできませんか?」
アルビレオ・イマの私室に戻り開口一番に物騒な陳情をする少年にアルビレオ・イマは説明を求めた。
少年が千雨と出会ったことと、千雨の家に竜の残り香があることなどをかいつまんで説明するのを聞き終えたアルビレオ・イマは「んー困りましたねぇ」とだけ呟く。
率直にアルビレオ・イマの感想を述べるなら、少年が急いで帰ってくる気持ちは理解できるも、「ハイ分かりました」とすぐさま返事が出来るレベルの話ではない。
先ほどのエレベーターや外出許可のように、危険極まる『遊び』のレベルであれば事後承諾の名を借りた強行も可能なのだが、流石に力を振るわれるとなるとこの地の管理者近衛近右衛門の許可無しには行えない。
「それに加えて、この魔法石が必要と言われましても……」
少年が見せたアバンの書の中の挿絵と少年による口頭での説明から、アルビレオ・イマは少年が求めている魔法石が何なのかまでは思い至ったが、それを準備できるとは到底思えなかった。
「あー……、すごく値が張るのか?」
「いえ、全然」
あっさりと言い捨てるアルビレオ・イマの言葉に少年は思わず脱力する。
「言うなれば、これは『古代の石ころ』なんですよ。考古学的な価値すらない『古代の石ころ』に金銭的価値を見出す人間なんていませんし、ましてやそれを後生大事に保存しておく人間なんてもっと居ません。魔法石は適切な保存法がありますから……」
「適切な保存法で保存してなければ、加工前のただの石くれに戻る……と言うわけか」
「えぇ、その通りです。適切な保存法と言っても長期保存時に一定の魔力濃度を維持した環境に置いておく程度ですが。そしてこれを作る加工法は失伝したというよりも魔法技術の進歩に伴う技術の生存競争に敗北したというべきでしょう。したがって…」
「現在の技術から見れば程度が低すぎて魔法石そのものの価値も、技術を伝承する価値も無い。
なので新たに生産する方法も無ければ、それを保存している可能性も絶望的に低い。
よって価値は無いが手に入れる手段も無い『古代の石ころ』……言い得て妙だな」
少年は深くソファーに背を預け、考え込むように眉間に手をやった。
「理解が速くて助かります。そのついでと言っては何ですが竜の残り香でしたか? そちらの処理も学園側に任せて頂ければ丸く収まるんですが……」
「ガクエン側のことをまるで知らないというのもあって、軽々しく信用すると言えないのも確かにあるんだが、何よりも身内の恥を他人に雪がれるのは流石に不味い。何より…」
「チサメ…さんの安全の早期確保が最優先ですか」
「まぁ、差し迫った危険があるわけでもなく、直接的に害をもたらすような代物ではないが放置は不味い…気がする」
「曖昧な話ですねぇ」とアルビレオ・イマは手を広げヤレヤレといった様子で肩をすくめた。
「悪いな。俺と言う存在自体が竜の騎士の歴史から見てもイレギュラーだからな。はっきりと確証のあることは何も言えん」
「おや、どういう事でしょう?」
「通常の竜の騎士は圧倒的な力ではあるが、あんな呪い染みた残り香など残したりしない。ましてや聖母竜は神の一角だ。あんな呪い染みた靄などとは程遠い存在だよ。
そして何より、私のように生後1日足らずで紋章を自由に操れるなどイレギュラーもいい所だ。
通常であれば成人するまでは操るなど不可能だ。とんでもない天才で、良い師、良い戦にこれでもかと恵まれたとしても最低でも10年以上は年を重ねていないとおよそ操るなんて出来るはずがない」
「という事は……貴方は伝説の竜の騎士のなかでも歴代1位の天才と言うわけですか。
跪いて拝謁の栄に浴せたことを感謝すべきですかねぇ?」
アルビレオ・イマはおどけた口調でからかうように、大げさな身振りで少年を褒め称えた。
少年はその様子に軽く笑いながら手を振り否定する。
「とんでもない。歴代1位の席は不動でとうに埋まっている。何より私は純正品かすら疑わしい。
本来捨てられるはずだった切れ端で出来たパッチワークがいいとこだな」
その言葉にアルビレオ・イマの張り付けられたような笑顔がピクリと硬直する。
「おや、どういう事でしょう?」
と、アルビレオ・イマは芝居がかった口調で先ほどと同じセリフでもう一度少年に問うた。
が、少年もアルビレオ・イマの意図を察して、
「さすがにこれ以上は教えられない。さっきのも魔法石の情報への礼だと思って受け取ってくれ」
と、軽い口調でアルビレオ・イマが予想していたであろう返事を返す。
自らの意図が正しく伝わったことに気を良くしたアルビレオ・イマはあったかい紅茶をカップに注ぎながら笑みをこぼした。
「なるほど、仕方ないですね。では実際に竜の残り香を確認しに行った学園長がそれを消し払っていることでも祈りましょうか。」
「残念ながらその恩を着せて聞き出すというのも難しそうじゃぞい」
アルビレオ・イマの恩を着せる作戦はガチャリと扉を開けこちらへ歩み寄る老人によって否定された。
腰をトントンと叩きながら「ふい~」と声を漏らしながら机を挟んで少年の対面に当たる位置のソファーへ深く腰掛ける。
アルビレオ・イマは「お疲れ様です」と、お茶請けと一緒に湯気の立つ湯呑を老人の前にコトリと置いた。
少年は、横を向いて「スマンの」と言う老人のおよそ人間とは思えないほど長い後頭部に目を見張るが、魔物特有の邪気は無い。
ズズ~と音を立てながらお茶を飲む老人の魔力も、量が多く練り上げられてはいるが魔物や魔族のそれとは程遠く、また変身呪文(モシャス)のように魔力を纏っている気配も無い。
少年が頭を捻ってあらゆる可能性を考慮すればするほど、老人が人間であるという結論にたどり着いてしまう。
少年は内心の驚愕を悟られぬようひた隠しにし、動揺を隠すために紅茶で口を湿らせた。
そんな少年の様子を見逃さなかったアルビレオ・イマは少年の内心を知ってか、いや確実に理解したうえでお茶を運んできたトレイで口元を隠しながら、
「この人は悪魔や妖怪の類ではないので大丈夫ですよ。」と、とんでもない爆弾を耳打ちする。
「……ングッ!!」
そのあまりにも露骨なアルビレオ・イマの言葉に少年は紅茶を吹き出しそうになるも最後のラインだけは死守する。
少年はトレイで口元を隠しながらクスクスと笑うアルビレオ・イマを軽く睨みつけながら、
「流石に初対面の、そのうえ今から物を頼む相手の冗談はやめてくれ」
とだけ言い、そのやり取りを「フォッフォッフォ」と笑いながら眺める老人、近衛近右衛門
へと向き直る。
「これは失礼を」とクスクス笑いながら、まるで心のこもっていない謝罪をするアルビレオ・イマが近衛近右衛門と少年の間、ちょうど三人で正三角形を描くように座りこむ。
ここに麻帆良と正体不明の黒竜の息子の会合が始まった。
「まずは麻帆良へようこそと言うべきかな? 黒竜の息子殿よ。この地の管理者、近衛近右衛門としてひとまず歓迎の意を申し上げる」
その口火を切ったのは順当と言えば順当か、麻帆良の管理者である近衛近右衛門であった。
「歓迎に感謝します。麻帆良を治める管理者、近衛近右衛門様。そしてまず二つ謝罪をさせていただきたい。」
「敬語なぞ使わずともアルと話す時と同じ言葉づかいで良いんじゃが、流石に今は無理じゃな?」
少年は笑みを浮かべ近衛近右衛門の気遣いだけ受け取り、
曖昧に笑いながら頭を下げて敬語を使うなという申し出を断る。
「まぁそちらは仕方がないとして、管理者と言っても王と言うわけではないからの。
様付けだけはやめてくれんかのぅ? 学園長とでも呼んでくれればありがたいんじゃが…?」
近衛近右衛門はむず痒さを誤魔化す様にカリカリと頭をかいた。
「では学園長殿。まず昨夜の黒竜、聖母竜(マザードラゴン)の突然の来訪による混乱、誠に申し訳ありませんでした」
少年は年相応の小さな体を畳み、深々と学園長に頭を下げる。
「殿付けもむず痒いんじゃがの、まぁこれはお互い様か。」
と、学園長は好々爺然とした笑い声をあげて、白く長いあごひげを撫でながら言葉を続けた。
「昨夜のことじゃが、ガラス一枚割れたわけでもなく、警備にあたっていた魔法先生達が殺気に中てられて何人か気絶した程度じゃ。その殺気も息子殿の、…あー、御母堂で良いのかのぅ? ともかく息子殿がやったことではない。親の罪を子に着せるほど我々は狭量でも愚かでもないぞ。謝罪は受け取るが、賠償や償いなどいらぬ心配せんようにな」
その言葉を受け、少年はもう一度、今度は感謝の意味を込め深々と頭を下げた。
学園の被害に対しまっすぐと謝罪する少年と、謝罪を年長者の深い度量で受け入れながらも大人の良識を持って無かったことにする知恵のある老人。
その両者の間に流れる空気は温かいものであった。
場の空気に導かれるようにお互いの顔が緩み、心地良い空気を共有するもの特有の笑みが自然に生まれたのも当然だろう。
「フォッフォッフォッ、礼儀正しいが、緊張しておるのかの?」
と、それまでの笑みから悪戯っぽさを混ぜた笑顔に変え、近衛近右衛門は少年の目を見る。
キョトンとした少年の顔を見て、笑い声を漏らしながら近衛近右衛門は少年に尋ねた。
「出来れば名前を教えてもらえんか? 流石に息子殿と呼び続けるのは心苦しい。」
「あー……」
少年の顔が何かに思い至ったように笑顔のままヒクリと固まり、先ほどまでの柔らかな空気がどこかぎこちないものに変わった。
―――ワシ、なんかやっちゃった?
学園長がチラリとアルビレオ・イマへ視線を向けると、少年が黙った理由に思い至ったらしく困ったように苦笑いを浮かべながら、
「学園長。彼にはまだ名前が無いそうです」と、簡潔に少年の笑顔が固まった理由を述べる。
「あーそりゃ……答えづらいことを聞いたの。スマン」
「いえ、こちらもちょっとややこしすぎる事情なので……」
話の接ぎ穂を失った両者に、ヤレヤレと肩をすくめながら助け舟を出したのアルビレオ・イマだった。
「とりあえず急場しのぎとして、先ほど私と交換した偽名を名乗られてはいかがですか?」
ただし、差し出された舟は泥船としか思えないものではあったが。
直前に謝罪したばかりの人間に偽名を名乗れ。
少年がアルビレオ・イマの言葉に当惑したように眉を顰めるが、視線を向けられた本人は優雅に紅茶を飲むばかりで、視線をずらし学園長を見るも、彼もまた柔和な笑みを浮かべたまま手で偽名での名乗りを促すばかりだった。
「では失礼ながら……ディーノと名乗らせて頂きます」
「ディーノ殿か。良い名じゃの。偽名にしてはありきたりでは無いが、何か名前の由来でもあるのかの?」
「アルキード語で強き竜と言う意味だそうです」
「なるほど。黒竜の息子殿にはぴったりの偽名じゃの」
名前の由来を聞いた近衛近右衛門が茶目っ気を含んだ表情で、恐縮そうにしている少年の偽名を褒めた。
「ありがとうございます。それでもう一つの方の謝罪なのですが……」
「あぁ、あの屋根に残った靄のことじゃな?」
「はい、あの家の屋根に残った殺気を早急に消すために外で力を使……じゃなく、アレを残してしまったことをまず謝罪させて頂きたい」
「ホホ、律儀じゃの。が、我々としても話が速い方が良いのでな、謝罪は受けた。先ほどと同じ理由でディーノ殿には責任は無い。では、本題に入ろうかの」
近衛近右衛門が居住まいを正し、少年の顔を真正面から見据える。
「てっとり早く結論から入れば、アレを放置するわけにはイカンが、我々には対処法が無いというのが現状じゃな」
「……そんなにも竜の残り香とやらは強固なのですか?」
アルビレオ・イマが仮にも学園最強の位置にいる学園長が処置なしと断じたことに少なからず驚き、眉を顰めた。
「強固と言うよりも実体が無いとでも言うべきかの? 昨日の黒竜が結界を通過したように我々の干渉による影響を全く受けないんじゃよ」
「見えはするが崩せないですか……まるで影を踏むような話ですねぇ……」
「いくら目の前の影を踏もうとも影が消える筈も無いからのぅ。
儂らの結界を何事も無くすり抜ける黒竜の産みだしたものじゃ。
儂らにはどうしようも無いじゃろう。儂らにはな……」
近衛近右衛門はアルビレオ・イマとの会話を打ち切り、再び正面へと向き直る。
「さて、ディーノ殿よ。我々としてはディーノ殿にあの竜の残り香の処理を正式に依頼したいと思っておる」
「おお! では……」
喜びの声を上げる少年を手で制し、近衛近右衛門は言葉を続けた。
「しかしじゃ、ディーノ殿よ。ものを頼む立場ではあるが我々として、誠におかしな話じゃが依頼の遂行にあたって条件が二つ飲んでいただかねばならん。
一つは今日の依頼遂行時に監視をつけること。
もう一つはディーノ殿には今後しばらく我々の依頼を受け続けることを飲んでほしいんじゃよ」
近衛近右衛門としては一つ目もさることながら、二つ目の条件こそが最も重要なものであった。
一つ目は言うまでも無く麻帆良管理者としての、はっきりと言ってしまえば余所者による力の行使に対する正当な要求と言える。
二つ目の要求。それは麻帆良の関西呪術会等への対抗力を強化するという側面も確かにある。
が、麻帆良管理者として、最も優先すべきは昨日の黒竜来襲による混乱の鎮圧であった。
黒竜の襲来と世界樹前での邂逅。近衛近右衛門はその邂逅を通じ、黒竜が害をもたらしに来たのではないことを直感的に理解し確信するに至った。
しかしそれは近衛近右衛門のみが得た物であり、全員が同じ思いとは到底言えない。
当然のことながら現在の魔法先生達は図書館島へと潜っていった黒竜に対し警戒を強めており、一部の熱心な先生たちは表の仕事の休暇を申し出て調査に当たりたいと直訴してくるほどで、それを「信頼のおける精鋭に秘匿を重視した調査を依頼しておるから黒竜を刺激しかねない個人的な調査は控えてくれ」となだめすかしてなんとか抑えているのが現状であった。
実際に調査を行った結果が、黒竜は消えその息子がそこにいた。
などと証拠も無しに言ったとして誰が一体信じるというのか?
―――ぶっちゃけた話息子殿から証拠添えて黒竜が消えたって言ってもらわないとアルの存在がバレちゃうんじゃよね。
アルビレオ・イマの存在と彼が封じているモノは絶対に秘匿しなければならない。
そして、過剰に向けられた図書館島への警戒を完全に払拭するためには黒竜が消えたことをディーノ殿に証言してもらわなければならない。
そのためにはさらなる混乱と警戒を招きかねない息子殿、ディーノをある程度制御できると証明せざるをえない。
つまり、ドラゴンに首輪をつけその手綱を握らなくてはならない。
―――老骨に鞭打つにも限度と言うものがあるぞい…………。
自然に強張ろうとする体を無理やり自然体に保ち、ポーカーフェイスを保ったまま少年を見据える老人に帰ってきた返事は予想通りとはいえ拍子抜けするものだった。
「是非も無い。それぐらいなら何の問題も無い……です。」
いくら近衛近右衛門とはいえ、ドラゴン相手の交渉の果てに望む返事を引出した矢先に、慌てて敬語を取り繕う少年の微笑ましさを見て少しばかり笑い声が漏れてしまったのは仕方のないことであろう。
「よし。では実行は魔法の秘匿も兼ねて今夜12時に行う。魔法石の方は持っていそうな知り合いがおる。儂と一緒に紹介がてら譲ってくれるように頼みに行けばよかろう」
「おお、有り難い! こちらも準備がありますので早速取り掛かってもよろしいか?」
「ああ、良いぞい。ただし図書館島からは出んようにな」
バネ仕掛けのように立ち上がり老人に一礼して退室する少年を老人は柔和な笑みで眺めていた。
「随分と御執心ですね」
と、笑みを浮かべているにもかかわらずどこか胡散臭いアルビレオ・イマは少し冷めてしまった紅茶を飲んだ。
「孫の木乃香があの子ぐらいの歳での、どうにも重ねてしまっての。……アルよ、どう見る?」
柔和な笑みを消し、声を潜める近衛近右衛門の顔は長年麻帆良を守ってきた長に相応しい鋭い顔つきに一瞬にして変わっていた。
「交渉事が苦手、言葉の裏を読むことが出来ず、また出すべき情報の取捨選択も不十分といったところでしょうか?」
「そんなことはわかっておるよ。あの首輪はフェイクかどうかを聞いておる」
「あれは本人としては本物のつもりでしょう。彼はチサメと言う少女を助けることを第一に行動している。それに昨日生まれて、正確には生後一日も経っていない子供に裏も何もないでしょうね」
と、アルビレオ・イマは客観的な事実を羅列し少年の立ち位置を照らし出す。
「その割には、ま、聞き苦しくは無い程度じゃが、敬語は話せたぞ。その点はどう見る?」
「学園長がここに来るまでのわずかな間に話したんですが、報告した竜の騎士。
やはり、と言うか当然ながら彼が最初の一人目と言うわけではなく連綿と続いているもののようです。
そして、これも彼がこぼしたものなのですが、どうやら彼には過去の騎士の情報、もっと端的に言えば記憶があるように見えます。
おそらく敬語はその記憶からのものでしょう。
その証拠に、敬語や振る舞いは何とか対応できてはいますが、知識より経験が物を言う交渉では記憶が活用できず、あのように相手のペースに飲まれたまま要求をほぼ呑むなんて言う失敗を犯しています」
一息に語ったアルビレオ・イマは会話のボールを相手に譲るように残り少なくなっていた紅茶を飲んだ。
「管理者である儂をまるで王のように様付けで呼んだのはそこが原因か。目上に対する古すぎる接し方とアルキード語などと魔法界でも聞いたことも無い言葉を出すあたり、過去からやってきたか、もしくは……」
「黒竜が結界の影響を受けない、この世界の法則に縛られないことを考えればここでは無いどこかからやってきた。そう考えるべきでしょうね。」
長年魔道書やってますけどそんな言語聞いたことありませんし。とアルビレオ・イマが空になったティーカップに暖かい紅茶を注いだ。
「……首輪は本人は本物のつもりと言ったな? 誰かに操られているなんてことは無いかの?」
「それは有り得ません。時間的にも彼と接触し操るなんて不可能ですし。何より彼を操れる存在は唯一の例外以外思いつきませんし、その例外は……」
アルビレオ・イマが不自然に言葉を切り、壁を走る世界樹の根に目をやると近衛近右衛門は何かを察したようにフンと鼻を鳴らした。
「竜の騎士とやらはそんなにも強力なのかの?」
「えぇ。その力の一端を垣間見ましたが、久しぶりに冷や汗を掻きましたよ。」
その言葉にわずかに目を見開きその続きを待つ近衛近右衛門を尻目に紅茶で口を湿らせるとアルビレオ・イマは言葉を続けた。
「彼は必要であれば首輪を受け入れるほど、ほぼ人間と一緒と言っていいレベルで理性的です。しかし、その本質は竜です。手ひどく扱うのはもちろん、彼の文字通り逆鱗に触れるようなことをした場合も首輪は簡単に引きちぎられその牙はこちらを向くでしょう。
ですがそれ以上に、彼の持つ膂力は首輪程度で制御できるものではありません。本人にその気は無くとも何気ない動作だけでその手綱の持ち手を振り回すほどの力があります。彼を完全に制御できると考えるのは危険です。」
本人は本物のつもりだろうというのはそういう事です。とアルビレオ・イマは言葉を切り、空になっていた近衛近右衛門の湯呑にお茶を注ぐ。
「彼女に会わせるのでしたら、用心しすぎるという事はありませんよ?」
トポトポと注がれるお茶の音に混じった忠告はやけにはっきりと聞こえた。