ひどく不気味な赤色に染まった太陽が山の輪郭に溶け出す様に沈み込んでいく。
人が自らのテリトリーから闇を消し去ってしまった現代において、人の不安を最も強く掻き立てる時間帯。
逢魔が時。
ただでさえ昼と夜が曖昧なこの時間帯に、かすかな木洩れ日によって光と影さえ混じり合った森の中へ二人の人影が脚を踏み入れようとしていた。
「この森を奥にまっすぐ進めば……」
「あぁそうじゃよ。森の奥にあるログハウスが彼女の家じゃ」
先を歩く少年は幾度となく無意識に歩くペースを速めながらも、共に目的地のログハウスへ向かう老人のことを思い出し、その都度ペースを落とし歩調を隣で歩く老人に合わせる。
「ホッホ。スマンの、ジジイの足にはこの森は少し辛くての。予定通りの時間に付く筈じゃから少し辛抱して付き合っとくれ」
近衛近右衛門は手を後ろ手に組み、一歩一歩足場を確かめるようなゆっくりとした足取りで、
少年の後を付いていく。
「申し訳ない。気持ちが急いていたようです」
「別に責めているわけではないから構わんよ。それよりその言葉使い、公式の場でもあるまいしそろそろいいじゃろ。アルと同じように話してくれんかのぅ?」
「いや、しかしそれは……」
「孫と同じくらいの子供に堅苦しい敬語を使われるのは辛いのぉ……。ジジイ唯一の楽しみの孫とのふれあいの時に堅苦しい言葉なんて思いだしたら孫の前で仕事用の怖い顔をしてしまうかもしれんのぉ……ゴホッゴホ」
近衛近右衛門は口元に手を当て、今にも消え入りそうな小さな咳を何度も繰り返し徐々に自らの体を小さく折りたたんで行った。
あからさまに腰を折り曲げチラチラと見上げながら咳き込む近衛近右衛門のバレバレの演技が見抜けないほど、少年は甘くない。
が、それを見越したうえでこの老人はバレバレの演技をしているのだろう、と少年はなんとなく悟った。
つまりはこの老人はアルビレオ・イマの知己であるという事だ。
類は友を呼ぶといった非常に不都合な含蓄のある言葉が脳裏によぎったが、考えれば考えるほど疲れそうなので、少年はさっさとその思考をあきらめた。
「わかりました……。いや、分かったから咳き込むのを辞めてくれ。だが、……」
少年がため息を付き、「必要なときは敬語を使うぞ?」と念を押そうとした瞬間近衛近右衛門は、
「そうか。ではさっさとエヴァの家へ急ぐとしようかの」
と、折り曲げていた腰をピンシャンと伸ばし、スキップすら交えながら不安定な足場の森の中を軽やかな足取りで駆け抜けていった。
余りに露骨な態度の豹変にこの世界の人間に対する不信感を募らせながらも、少年は先を行く近衛近右衛門を見失わないようにため息交じりに駆けだした。
「フム……20、いや用心をして30ぐらい準備しておくべきかの……」
少年の少し先を駆けていく近衛近右衛門の呟きに気付かずに。
ログハウスに差し込む日の光が室内の景色を徐々に変えていく中、そのログハウスの主、
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルはソファーに深く腰掛け、手に持ったシャンパングラスから立ちのぼる気泡を眺めていた。
「フン、……今回のも失敗か」
エヴァンジェリンはシャンパンから刻一刻と抜けていく気泡と同じように、自らの体の内から抜けていく魔力を感じ取っていた。
その事実は自らを縛り付ける登校地獄の解呪が失敗したことを淡々と物語り、エヴァンジェリンもその事実をただ受け止める。
―――試薬K-037 失敗。
エヴァンジェリンは座卓の上に乗っているバツ印が整然と縦に並んで書き込まれているノートを引き寄せ、バツ印の最後尾に新たな失敗を刻み込もうとする。
が、不意に肩口から滑るようにして自らの髪の毛がノートの上に降りかかり、バツ印の最後尾を覆い隠してしまった。
「チッ」
普段であればシルクのような美しい金の光沢を放つ、誇りとすら言える自分の一部がその時ばかりはひどく煩わしく、まるで羽虫でも払うかのように髪の毛を背中に流し、そのままの勢いでノートに乱雑なバツ印を書き込んだ。
ノートを閉じるとエヴァンジェリンは、再びソファーに深く背を預け無聊の慰めとして、手元のシャンパンに視線を落とす。
いつからだろうか? 魔法薬の、解呪の失敗をやり過ごせるようになったのは?
いつからだろうか? ノーテンキなガキを穏便にあしらえてしまうようになったのは?
いつからだろうか? 人間のやり方をわきまえ、それを十全に行えるようになったのは?
紅き翼の大英雄、ナギ・スプリングフィールドによってこの麻帆良の地に登校地獄などと言うフザけた呪いと共に封じられ、ノーテンキなガキどもで溢れかえる中等部に卒業までの期限付きで「光に生きてみろ」と放り込まれた。
六百年を生きた吸血鬼の真祖がたかだか十数年しか生きていないガキの中に放り込まれたところで馴染める筈も無く、当時珍しかった外国人の転校生という事もあり話しかけられもしたが、愛想のかけらも無く最低限の受け答えだけに終始しているうちに、休み時間のたびに話しかけてくる人数が一人減り二人減り、と私の周りからは人が減っていった。
それでも世界には物好きと言うものは居るもので、何度冷たくあしらっても気にする様子も無く私に話しかけてくる女生徒が一人いた。
「ねぇエヴァちゃん。その私服可愛いデザインだけどどこで買ったか教えてくれない?」
ログハウスが出来るまでと押し込まれた女子学生寮で私に話しかけてきたのがその女だった。
吸血鬼となって長い年月を生きた中で、現在のように気軽に大量生産品が買える時代の方が珍しいのは言うまでもない。
その当時は必要だから習得した技術を用い、今となっては手慰みとして作った服が偶々目に留まったようだが、日々の馬鹿騒ぎやノーテンキなガキどもにウンザリしていた私はイラつきを抑え込むように「自作だ」とだけいつものように簡潔に答えた。
さっさと部屋に戻り耳栓でもして寝てしまおうと、彼女の脇をすり抜けようとした瞬間に目をキラキラと輝かせた彼女に手首を掴まれたのが運のツキだったのだろうか。
その女は私を食堂に連れ込み、コーヒー一杯を対価に夜が更けるまで矢継ぎ早に質問を浴びせ続けた。
当時はまだ監視が厳重で、少しでも問題を起こせば各担当者にたらい回しされながらその都度同じ事情説明をさせられるとは言え、アレを我慢できたことが不思議でならない。
その女は服飾のデザイナーになりたいらしく、いつも教室に服飾の教本を持ち込み、休み時間はおろか食事中、果ては授業中にすら読みふけっていることがあるほどの服飾バカだと後になって気付いた時には、いくら不本意な場に放り込まれウンザリしていたとはいえ、もっと周りを観察しておけばよかったと後悔したものだ。
もちろんその日一日で服飾バカの猛攻が終わる筈も無く、次の日から休み時間になるたびにそのバカはある時に流行のファッション誌を片手に、またある時は服飾の歴史から始まるような分厚く硬い教本を片手に、酷い時などは両脇に一冊ずつ抱えて突貫してくる有様だった。
そのくせ最低限の節度はあるのか、時間のない時や麻帆良の警備などで予定が詰まっている時などは動物染みた直感で敏感に察知して諦めるのだから性質が悪い。
いくら追い払っても離れていかないその女の一番効率的なあしらい方はさっさと質問に答えて、礼を言わせ立ち去らせることだと気づいてからは僅かではあるが静かな休み時間が帰ってきた。
が、僅かながらの静けさを取り戻せたのはほんの短い期間だけだった。
服飾バカと入れ替わるように昔追い払ったガキどもが再度私に話しかけてくるようになったのだ。
何がどうなってそうなったのか全く分からないが、自分達より手ひどくあしらわれている人間を見て、耐性ができたらしい。
一人ひとりは服飾バカほど手強くは無いものの、二人・三人と数で来られれば厄介極まりなく、
結果として服飾バカと同じように対応せざるを得なくなった。
そうして彼女たちと話しているうちにポツリポツリと相談事を持ちかけられるようになった。
それらに淡々と答えていくうちに、いつの間にか私の席の周りに出来る人だかりは転校当初よりも大きいものになっていた。
中には思春期の少女が抱える相談を無駄に長い人生経験を生かし次々と処理していく私を見て、
「エヴァちゃんっておばあちゃんみたいね」などと戯けたことを抜かす不届き者もいたが。
しばらくしてログハウスが完成したと近衛近右衛門から言われたが、住まいを移せば馬鹿騒ぎしても問題のない空間を探して虎視眈々と牙を研いでいる馬鹿どもが入り浸る遊び場になるだろうと思い、女子寮に残ると言い転居を断った。
その時の、近衛近右衛門の妙に生暖かいにやけ顔に魔法薬を投げつけたのは当然の処置だろう。
そんな日々を過ごしているといつの間にかひと月が経ち、半年が過ぎ、一年が巡り、クラス替えも無いままに卒業式をあと三日後に控えるまでになった。
ナギが来るとすれば何時なのだろうか?
あのバカが期限を律儀に守るとは思えないから、一週間、いや最低一か月は覚悟した方が良いだろうかなどと、愚にもつかないことを考えていると、私の部屋の戸をノックする音が響いた。
部屋の戸を開けるとそこにいたのは服飾バカだった。
いつもなら三回に一回はノックもせずドアを開け放つ無礼者が、もじもじと指をこねまわし、
「あー」だの「うー」だのと言ったうめき声を漏らしている。
私が訝しげに見ていると、意を決したように私の手首をつかみ、
「ちょっとついてきて!」
と、いつものようにこちらの返事すら待たずに私の手を引いたまま服飾バカの部屋へと駆けだした。
止めても無駄なことをこの三年間で嫌と言うほど経験した私は、無駄な抵抗をせず引っ張られるままに服飾バカの後についていく。
部屋の前までたどり着くと、馬鹿のような笑顔のまま仰々しくドアを開け、
「ささ、中へどうぞ」などと芝居がかった口調で私の背中を押した。
部屋の中央にはちょうど私の目線と同じぐらいの高さの何かが置かれており、
それには白いシーツが被せられていた。
「ささ、前へ前へ」と、私の背中を押し、彼女は私をそのシーツの前に立たせると、
「3・2・1、ジャーン!」とその白いシーツを一息にはぎ取った。
そこには彼女の自作らしい洋服が、マネキンに着せられていた。
「ほう、良く出来ているではないか」
なんてことは無い、見せるまでの手順が仰々しいだけで、やっていることは彼女の作品を私が見て感想を言う、いつの間にか始まった何度も繰り返してきた事だった。
いつも通りであれば、作品を見て二つか三つほど欠点を見つけ、それを指摘し改善点をいくつか上げて終わりであり、またそれが一番早く部屋に帰れる受け答えだったのだろう。
しかし、その洋服には見た目でわかるような欠点が見当たらず、そのうえ一目で分かるほど細部にまで意匠が凝らされており、技術的には拙い部分があるものの彼女の服への愛情のようなものが伝わってくる作品だった。
端的に言えば嘘を言う気を失くさせる作品だったのだ。
「ヨッシャー!!」とおよそ年頃の娘が上げるべきではない雄叫びを上げた彼女は満面の笑みを浮かべたまま、「ね、ね! 着てみて! 着てみて!」と手早くマネキンから洋服を脱がし、私にその服を手渡した。
相変わらずこちらの返事を聞く気は無いようで、ドアの隙間から「じゃッ!」とだけ言い、彼女はさっさと廊下へと出てしまう。
技術的には拙い所もある作品ではあるが、これだけ丁寧に作られた物であればまぁいいだろう。
と、そんな気まぐれにあかせて鏡の前に立ち彼女の作品に袖を通す。
良い服は着ていることを忘れさせる、の言葉が指し示す通り、それはまるで何も着ていないかのように、私の体に馴染んだ。
襟元から髪を外へ流し、鏡の前で普段目につかない場所にチェックを入れるために腕を動かしても違和感が無く、私の体温に馴染むころには自然と笑みがこぼれてしまうような作品だった。
その作品に袖を通し、いつの間にか鏡の前で笑顔を浮かべている自分を見て、
ナギの言った「光に生きてみろ」と言う言葉の意味が少しだけわかった気がした。
サイズを見ればわかるように、この作品は「自分ではない誰かのために」と作られたものだ。
自己のためでなく他者のために、自らの美学まで総動員して、文字通りの総力戦の果てに生まれたであろうこの作品は文句なしに美しい。
その美しさを支えるのは彼女の日々の努力であり、その努力は彼女の夢を原動力に止まることなく前へ前へと進み続けている。
自らを何者か定め、道筋を立て、脇目も振らずがむしゃらに邁進する。
あの服飾バカの持つ、過剰なまでの一途さは私にとって閃光のように眩しいものだった。
眩しさまで覚えるこれこそが人の持つ光であり、ナギの馬鹿が私に言った「光」というのもこれなのだろう。
と、何か大きなものがストンと収まった感覚に私の口から、ふう、と息が漏れた。
しかし、その余韻も感じる暇も無く服飾バカが大きな音を立てて戸を開ける。
このバカは私がまだ着替えの最中なら一体どうするつもりなのだろうか? と思うも、
ズンズンと玄関から興奮した様子で近寄ってくる服飾バカがそんなことを気にする筈も無く、
ご褒美を待つ犬のような顔をしているくせに「どーよ?」と胸を張ってこの私に問いかけてきた。
この六百年生きた吸血鬼の真祖たるエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに、だ。
そのあまりの威勢の良さに思わず笑ってしまい「最高だよ」と答えてしまったのは不覚だったが、
「それ、今まで迷惑かけた分も含めてのエヴァちゃんへのプレゼントだから!」と、
明らかに用意していたと分かるセリフを一息に言った服飾バカに、
「ありがとう」と笑顔のまま素直に気持ちを伝えてしまったのは仕方のないことだっただろう。
卒業式の日、グチャグチャの顔で抱きつこうとする馬鹿を何とかやり過ごし、建てられたまま放置していたログハウスへと脚を運ぶ。
ナギは予想通りまだ来ておらず、近衛近右衛門の話ではもし来月まで来なければ、今度は別の中等部へ入学し、ナギが来るまで待たなければならないらしい。
ジジイの残り少ない髪の毛を凍りつかせた程度で済ませた私にチャチャゼロは丸くなったとブツクサ言っていたが、まぁ馬鹿の行動など予測が付く筈も無いと思い、麻帆良での生活を延長するためにログハウスへと居を移した。
忌々しい花粉が飛び交う季節がようやく終わったころに私はクローゼットの奥から、
あの服飾バカの作品を取り出し、再び袖を通した。
日にちが経っても変わらない着心地に自然に笑みがこぼれ、暇つぶしがてら散策しようと街を出かけると、少し先から歩いてくる高等部の制服を着たあの服飾バカが目に入る。
相手もこちらに気付いたようで、私へといつものように駆け寄ってきた。
その手に持っている鞄からは、付箋まみれで擦り切れている教本が顔を覗かせており、
相変わらず服飾バカを続けているらしいと一目でわかった。
彼女の作品を着て歩いているのが見つかり、気恥ずかしさを覚えたが、今更隠れるわけにもいかず、彼女が駆け寄るに任せていた。
頭の中で、彼女の作品を着て歩いていることをどう誤魔化すべきだろうか、いや誇り高い真祖が一度下した評価を気恥ずかしさなどで誤魔化してもいいものだろうか、などとの
「すいません! その可愛い服、どこで買ったか教えてくれませんか?」
私の中で時が凍った音がした。
彼女の言葉が理解できず口の中が酷く乾いていく感覚を味わい、言葉を返せないでいる私を見て、
彼女は「あ、急に声をかけてしまってごめんなさい。」などと言う出だしから始まる彼女の事情説明は既に知っているものばかりだった。
彼女の名前から始まって、通っている高等部の名前。
自分が服飾のデザイナーになるために努力していること。
服が大好きなこと。
既に知っていることをもう一度、ハキハキとした声で私に説明しているらしいとは理解したが、それらの言葉が頭に染み込むことは無かった。
ただ、震えそうになる膝に力を込め、ともすれば崩れ落ちそうな体を両の脚で支えることに精一杯だった。
「で、ですね。着ている服がすごくカワイイデザインだから売ってた場所か、知ってるならブランドを教えてほしいんです!」
彼女の説明が終わった後、私の口から出てきたのは意外にもなめらかな言葉だった。
「悪いがこれは売り物ではない。人から譲ってもらったものだ。」
「あーじゃあ手作りの一点物ですか? もしよろしければ手に取って見てもいいですか?」
どこまでも無邪気に残酷な彼女の言葉に促されるまま腕をさし延ばせば、彼女は服を傷つけないよう、不必要に私の体に触れないように細心の注意を払い手早く目を通していく。
「うわー、すごく丁寧な仕事してますねー」
と、自らの過去の仕事をそれとは知らずに褒める彼女が、余りにいつもの服飾バカすぎて、
私の視界がジワリと滲む。
「あぁ 自慢の一品だよ」と、誤魔化す様に返す言葉は有り難いことに特に変わった様子は無かった。
「確かに、ここまで丁寧な仕事してる服なら自慢の品にもなりますよねー」と、彼女は何でもない場つなぎの雑談のような返事を返すが目線は服から離れることは無く、また服を扱う手つきから服への敬意が消えることも無い。
全く同じだが、決定的に違う彼女の姿に鼻の奥がツンとしたその瞬間だった。
「これサイズぴったりですけどお友達か誰かに作ってもらったんですか?」
私の中で何が砕ける音がした。
しゃがみ込み意匠を注意深く観察する彼女の顔が上を向くのが恐ろしく、震えそうになる声を無理やり抑えて、
「あ、あぁ……自慢の友達だよ……」
とだけ、絞り出すのが精一杯だった。
それからどうやって自宅へと帰ったのかは覚えていない。
必死になって取り繕って穏便に彼女と別れたおぼろげな記憶はあった。
自宅に帰り、階段を上り、自室の扉を閉めると、なんとなく気づいた。
彼女が私を忘れていたのは麻帆良を覆う認識阻害魔法のせいなんだろう、と。
登校地獄の呪いが続く限り、中学生を繰り返す私と同級生だった、と言う記憶は矛盾を生み出す。
魔法の存在を隠すためには彼女の記憶を消してしまうことは仕方のないことなんだろう。
記憶を消してしまう事には異存はない。むしろ感謝してもいいほどだ。
『闇の福音』、『不死の魔法使い』『悪しき音信』などの異名を持ち、魔法界では子供を寝かしつける時の語り草になる、賞金額600万ドルの札付きの悪の魔法使いが私だ。
そんなやつと友人であった記憶やそんな事実が万が一漏れれば、安っぽい正義を振りかざす『偉大な魔法使い』連中はともかく、金目当ての賞金稼ぎや名声目当てのゴロツキが何をするかわからない。
表の賞金は消されたが裏の賞金が消えた証拠などどこにもないのだ。
彼女の平穏のためにも、彼女から私の記憶を消し、公的な記録からも私があの場所にいたことを消し去ってしまうのは仕方のないことだ。
私も記憶の消去を提案されればそれを望むだろう。
光は確かにあった。だが、そこに私は寄り添えず、交われない。
当たり前のことだった。六百年生きて何度も先に逝ってしまう人間を見て来た。
同じ時を過ごした彼らが消え去ってから五十年も経てば、彼らと過ごしていた場所までも消えてしまうのが当たり前だった。
慣れていたはずだった。
だが頬を伝うこの熱さはなんなのか?
私には皆目見当がつかない。
しかし、胸の中で暴れまわるこの怒りは何なのかだけはすぐにわかった。
「あぁ、そうか。私は弱くなったのか……」
私は私に怒り狂っていた。
光に惑わされ化物としての強さを失い、矜持すら忘れ安穏と登校地獄と言う呪いを三年も受け入れ、悪の魔法使いとして抗わなかった自分自身に怒り狂っていた。
私の、彼女の作品が汚れてしまうのを恐れ、頬を伝うものを拭う事の出来ない脆弱さに、
私の、彼女の作品を破り捨てられない、まるで人間のような価値観に、
私の、この有様を、今の今まで解決しようと思い至らなかった思考に、
自らが『魔』で無くなってしまったことに怒り狂っていた。
いつからだろうか? 人間のやり方をわきまえ、それを十全に行えるようになったのは?
あの服飾バカを最後にあしらってから、だったような気がする。
いつからだろうか? ノーテンキなガキを穏便にあしらえてしまうようになったのは?
一途なやつにあの服飾バカの影を見てしまってから、だったような気がする。
いつからだろうか? 魔法薬の、解呪の失敗をやり過ごせるようになったのは?
まさか、この呪いをナギとの絆と考えているのだろうか?
いや違う、悪の魔法使いとして、この呪いに抗っている瞬間だけは、……
「オイ御主人」
不意に、チャチャゼロの声が響く。
部屋の中はいつの間にか夕日色に染まっており、窓から差し込む今にも沈みそうな夕日が酷く鬱陶しい。
「なんだチャチャゼロ?」
チャチャゼロは相変わらず窓に額を押し当てるようにして、外を眺めたままだった。
「グラスニ注イダ酒ハキチント飲ミナ。酒ヘノ冒涜ダゼ?」
そう言われ手元を見るとわずかにガスが立ち昇るだけの、体温で温くなったシャンパングラスが夕日の赤色に染まっていた。
「フン」
と一息に煽る。完全に飲み頃を逃したそれは、ぬかるみを飲み込んだかのように不快だった。
近衛近右衛門と少年がログハウスのドアの前に立ち、ドアノッカーを打ち鳴らしたのは夕日が沈むその間際、空が一際赤く染まる頃だった。
「邪魔するぞい」
そう言って家主の返事も待たずに家の中へ歩を進める近衛近右衛門に続いて、少年も玄関をくぐりログハウスの中に入った。
玄関から見て正面に位置する座卓を挟んだ向こう側のソファーに、一人の少女が腰掛けていた。
その少女は空になったグラスを手に、不機嫌を隠そうともしない顔でこちらを睨みつけている。
「なんだジジイ。……随分と
少女の声は相手に発言は促してはいるが、対話など望んでいないことは明白な声色だった。
「うむ。ちょっと探し物をしておってな。エヴァならもしかしたら持っとるかと思っての」
近衛近右衛門はそう言い終わると、こちらを睨み付けるエヴァンジェリンに折りたたんだメモ用紙を投げ渡す。
そのメモ用紙は何度かふわりと羽ばたいた後、エヴァンジェリンの前の座卓の上へと着陸した。
エヴァンジェリンはそれを舌打ち交じりに手に取り、眉を顰めながら中身を確かめた後、
「こんな時代遅れの石ころなどどうするつもりかは知らんが、帰れ。私には関係無いことだ」
と、冷たく言い放った。
「いや、まぁそうなんじゃがのう……どうしても必要なんじゃ、お主ならこんな骨董品でも持っておるじゃろ? 出来れば譲ってくれんかのぅ?」
「フン、お前たちの事情など知ったことか。第一必要なのであれば、それを必要としている者こそが頭を下げるのが道理ではないのか?」
と、必要としている者を言外に示すようにエヴァンジェリンは近衛近右衛門の横へと視線を滑らせる。
その凍てつくような冷たい視線を浴びた少年は、臆することなく一歩前へと進んだ。
「貴様、名は?」
「……名は持っていない」
「フン、では名すら持たん半端者がなぜこんな骨董品など欲しがる? こんな石ころを使って何を望む?」
「私の望みのためではない。ある少女のためだ」
ピクリと、エヴァンジェリンの形のいい片眉が跳ねた。
「その少女は罪も無く苦しんでいる。見捨ててはならない理由もある。もし魔法石を持っているのなら、頼む。譲ってくれ」
と、少年は真摯に頭を下げた。
エヴァンジェリンはしばらく少年を見極めるように見つめ、
「……断る」と、小さく、しかしすべてを拒否する確固たる意志を孕んだ声色で少年の願いを切って捨てた。
「エヴァよ。儂らはどうしてもその少女を救わねばならん。人として願う。頼む。譲ってくれんか?」と、近衛近右衛門も少年の言葉に続く。
人として。その言葉を聞いたエヴァンジェリンの目から光が消え、瞳孔の奥から底冷えする闇が顔を覗かせた。
「断る。貴様らが人として望むというのなら、私は悪として、魔として断る。魔は人と決して寄り添わず、決して交わらない」
それが魔の流儀だ。と言葉を切った。
その言葉は近衛近右衛門に冷たく言い放った言葉とも、少年を拒否した強固な意志を孕んだ言葉とも違った。
それはまるで、決して誰も立ち入らせない自らの奥深くに刻み込んだ言葉を読み上げるような声色だった。
「…どうしても断るか?」と、少年が口にする。
「くどいぞ。私は既に答えている」とエヴァンジェリンが返した。
「名すら持たん身の上だ。対価として一度だけ竜の力を振るおう」
「ハッ、この私に力を恵んでやるとは大きく出たな小僧。……なんならその竜の力とやらで、私から魔法石を力づくで奪ってみてはどうだ?」
エヴァンジェリンが言外に出来るものならやってみろと言葉を返した。
ミシリと両者の真ん中で空気が歪む幻聴さえ聞こえるほどの圧力が辺りに漂う。
「そこまでじゃエヴァよ。それ以上の挑発、この地の管理者として見過ごすわけにはイカン」
「黙っていろジジイ。貴様の管理下に下った覚えはない。呪いを管理しているだけの分際で何を言っている? まさか私が貴様の庇護が必要な『人間』だとでも思っているのか?」
「矛を治めよエヴァ。それ以上は実力行使に出ざるを得ん」
「面白い。不死の魔法使いを殺しきるまで月が幾度廻るか……試してみるか?」
火花散らす舌戦の最中にもかかわらず、エヴァンジェリンは少年から目を離さず、少年もまた彼女から目を離さない。
「……自らを悪と言ったな?」少年の声が響く。
「あぁ、悪だ。悪の魔法使いだ」エヴァンジェリンの返答もまた良く響く声だった。
「ではこの世で一番シンプルな法に従う覚悟はあるな?」
「誇りある悪ならば、当然だな」
「……なら、より強大な力に奪われるのも覚悟の上だな?」
少年はそう答えると、再び口元を固く引き結び、エヴァンジェリンを睨み付ける。
それとは対照的に、エヴァンジェリンはその口元を徐々に不吉な三日月のように歪ませていった。
―――来るか。
エヴァンジェリンが撃鉄が絞られる音を察知したその直後に『彼ら』は動き出した。
少年が足元の床板を踏み砕きその木っ端を跳ね上げながらエヴァンジェリンへと駆けだしたのと、近衛近右衛門がディレイスペルを解き放ったのはほぼ同時だった。
解き放たれた魔法は風の中位精霊を用いた捕縛魔法、数にしてきっかり三十。
それらは互いの隙間を縫いあいながら、木っ端を跳ね上げ加速を続ける少年の背中へと迫った。
脇目も振らず一直線に駆けだした少年と、近衛近右衛門が展開し、殺到する風の中位精霊三十機。
通常であれば対象の捕縛に十分な速度を誇るであろう風の精霊だが、残念ながら少年は普通の範疇に居なかった。
その上エヴァンジェリンまでの距離は短く、規格外の少年を追うと言う悪条件が重なれば、いかに風の精霊といえども展開に掛かったワンステップは、この場において致命的な遅延に変じてしまうはずだった。
しかし、少年の三歩目、さらなる加速をすべき場所で歯止めがかかる。
エヴァンジェリンが蹴りだした座卓が少年の視界を覆い尽くしたのだ。
失敗した魔法薬、僅かに残った魔力の残滓をかき集め蹴りだした座卓は少年自身の速度と相まって、踏み込む脚を鈍らせるには十分だった。
「チッ!」
と、少年が裏拳の要領で座卓を左へ弾き飛ばす。
が、少年の視界から目隠しが消えた後、ソファーに座っている筈のエヴァンジェリンの姿は消えていた。
「こっちだ。マヌケ」
そう響く声は少年の視界よりも更に下。
そこには足元にしゃがみ込むようにして膝にバネをためるエヴァンジェリンの姿があった。
無防備に下げられた少年の顎先をカチ上げるようにエヴァンジェリンの全体重の乗ったアッパーカットがさく裂する。
飛び上がったエヴァンジェリンが着地し軽やかなバックステップと共に間合いを取るのと、フワリと頂点にまで浮かび上がり、重さを思い出した少年の体が風の精霊たちに立ったまま床へと縫い付けられたのはほぼ同時だった。
「オオットォーー御主人ノカエル跳ビアッパーガ決マッタァ!」と自らの主人の珍しい行動に、ゲタゲタとけたたましい笑い声を上げながらチャチャゼロが実況する。
その間にも後続する風の中位精霊たちは少年に殺到し、幾重にも絡み合って少年の動ける余地をすべて奪い去っていった。
「フン、ただ投げの入りが見当たらなかっただけだ。……しかしジジイよ。魔法を制御しそこないまさか味方を背中から撃つとはな。貴様もいよいよ耄碌したか?」
と、エヴァンジェリンは
「いや間違ってはおらんよ。」
「……何?」
と、近衛近右衛門の言葉を受け、エヴァンジェリンの意識が目の前の老人へと移っていく。
「ゴシュジン!」
と、チャチャゼロがけたたましい笑い声から一転刺すような声を上げる。
その直後、辺りに極大の殺気が吹き荒れると同時に少年を拘束していた風の精霊が、まるで内側から弾かれるように吹き飛ばされ、その身を引きちぎられながら霧散させていく。
「「なっ!?」」
驚きの声は二つ。
一つは近衛近右衛門の、自らの魔法が破られたことによる声だった。
いかにディレイスペルと言う制限付の魔法であったとはいえ、さしたる抵抗も出来ずに一瞬で破られたことへの驚きであった。
もう一つは少年の正面にいたエヴァンジェリンの、少年の性質の変化に声を上げられた声だった。
ただの人間のガキでしかなかったはずの少年が、人の激情と、人外の魔力を放つ何かに一瞬にして変貌したことへの驚愕だった。
その一瞬のスキを突き、少年の竜の膂力がエヴァンジェリンの頭へと食い込んだ。
その数左右合わせて八本。
両の手の親指を除く残りすべてが指弾と化し、竜の咢の様にエヴァンジェリンの顔を挟み込み、その指先から生命力をエネルギーに変換し紫電を散らす。
「そちらが魔として断るのなら、こちらは竜として我を通す!」
エヴァンジェリンの眼前が、血を飛ばしながら吠える少年の顔で埋まる。
「魔法石を渡すか!?」
己の頭に少年の爪が根元まで埋まっている感触はあれど、痛みは薄い。
「共に滅ぶか!?」
人外の魔力どころか少年の生命力さえ入り混じった紫電がこめかみを焼く熱さもどこか遠い。
「どちらか選べ!!!」
ただ少年の額に輝く黒い紋章。
そこに吹き荒れる殺気が、染み出す魔力が、身動きを許さぬ力が自らの失ってしまった物を呼び起こす。
規格から外れてしまった者、そう呼ぶしかなくなった者、理解の及ばぬ者。
ともすれば拒否の意思があると取られかねないほどの意識の空白。
その意識を覚醒させたのは、不意に響いたガツリという音だった。
「御……主人……!!」
その音の正体はチャチャゼロが床板にナイフを突き刺す音だった。
細い腕を上げナイフを振りおろし、それ以外の全身を引きずるようにエヴァンジェリンの元へと進む音が少年とエヴァンジェリンの耳朶に響く。
が、少年はそちらにチラリとも目を向けず、その指先のエネルギーも高まり続ける。
そしてエヴァンジェリンもまた同様に目の前のドラゴンから目を逸らさない。
それを見た少年は最後のキーを口にした。
「
「……分かった。」
エヴァンジェリンの口元からこぼれ出たその言葉はこの場での彼我を決定するものであった。
エヴァンジェリンの言葉を受け、少年はしばらく彼女を見返すとその額から紋章を消した。
そしてぬちゃり、と粘着質な音を立て、少年はエヴァンジェリンのこめかみから指を引き抜いた。
「ジジイ。下手な死化粧などしてくれるなよ?」
エヴァンジェリンが少年の肩越しに後ろにいる近衛近右衛門を視線で射抜く。
今まさに右手を上げ、呪文の始動キーを口にしようとしていた近衛近右衛門はその場で動きを止めた。
「魔と竜が、互いに一番シンプルな法に従う者同士が、その法に従っただけだ」
「……」
「人の道理など差し挟む余地など無く、この話は現在から未来に至るまで、すでに終わっている。異論も反論も許さん」
「ムゥ……」
「ここにお前の庇護下にある人間など居ない。そうだな?」
近衛近右衛門は静かに右腕を降ろした。
「ジジイから話を聞き、後で必ず届けよう」
エヴァンジェリンのその言葉を聞いた少年は「…分かった」と答え、踵を返して、夜の帳が下りた森の中へ消えて行った。
それを見届けたエヴァンジェリンもまた踵を返しソファーへとその身を預ける。
「ク…クックック……。人の激情、魔族の魔力。それに加えて……」
エヴァンジェリンは陶磁器の様な白い肌に付着した、今だ錆を帯びない鮮血をぬぐい取り口に含む。
「その血に香るは竜の魔素か……ク、ククッ……面白い」
エヴァンジェリンは自らの肩を抱く様に、溢れんばかりの喜びを抑え込む。
彼女は自らが失ってしまった『魔』を少年の中に見出していた。
えーとまず最初に、何の間違いかランキング入りしていたようで、
どうもありがとうございました。
サッサと更新してお礼を書くべきだったのでしょうが、予定がたてこみ今日まで遅れてしまいました。
何と言うかずぶの素人が書いたものですが、楽しんでいただけているのなら幸いです。
今後と言うか今回からになってしまいましたが、週1ペースでの更新が主になるかと思いますが、もしよろしければお付き合いください。
では、ここまでお読みいただきありがとうございました。