「いやーすごいもんじゃの」
埃を巻き上げ列柱の隙間を縫うように抜けていった両者を見送り、近衛近右衛門は呑気な声を上げていた。
「か、彼は何者なんですか?」
少しヘアスタイルを崩したタカミチが絞り出す様に質問した。
「ウン? 昨日ドラゴンが来たじゃろ? 彼女の息子だと言っておったの」
「…………ハ?」
近衛近右衛門から帰ってきた答えはタカミチの顔から困惑の表情を確かに消した。
が、それはタカミチから困惑の表情を浮かべる余裕を奪い去っただけのことだった。
「ほー、エヴァの奴が主導権を取れぬほどか」
困惑を通り越し無表情になったタカミチを尻目に、はるか遠くで行われるドッグファイトを眺めながら近衛近右衛門は歓声を上げていた。
そんな遠い目を浮かべるタカミチに、更なる追い打ちが無慈悲に降りかかる。
「明日あの子を皆に顔見せするからの。タカミチ君もあの子の実力を良く見ておくように」
近衛近右衛門はそう伝えると、あらかじめそうするつもりだったとしか思えない素早さで耳を塞ぐ。
「…………ハァッ!?」
そして、そのタイミングに合わせる様にタカミチの顔に表情が戻るとともに大きな声が辺りに響いた。
「本気ですか、学園長!? 彼をこの学園に彼を住まわせる気ですか!?」
「あぁ、そうじゃよ? あの子には親も居らず、住む場所も無い。この土地から追い出せばあの子はどうやって生きていくというんじゃ?」
「いや、しかし彼は……」
危険すぎる。と言葉を続けようとしたタカミチの双眸を近衛近右衛門の深い瞳が射抜いた。
「タカミチ君。その言葉を口にする前にもう一度、もう一度それは大人が子供に言っても良い言葉かどうかを検討するべきじゃと儂は思うぞ?」
年月を経て人並みに痩せ衰えているはずの目の前の老人から、冷や汗を滲ませる気配が発せられていた。
「あの子の母親が我々にしたことはなんじゃ? それは許容範囲を超える、我々に決定的な敵対関係をもたらすものじゃったか? そしてそれはあの子がしたことか? あの殺気に中てられ過ぎとりゃせんかの? もう一度考えてみるべきじゃよタカミチ君。儂は大切な仲間を物事の判断の仕方を知らん愚か者などと軽蔑しとうないの」
タカミチの耳に言葉が届くのを一つ一つ確認するように、そしてタカミチの返答を辛抱強く待つように、ただその深い底の見えない瞳はタカミチを射抜き続ける。
近衛近右衛門が提示したのは立った二つの単純な事実だった。
一つは親の罪は子の罪ではないこと。
そしてもう一つは、体にこびり付いたあの殺気が一晩経った今でもタカミチの目を曇らせていることだった。
「ッ!? ……ハァ」
タカミチは近衛近右衛門の言葉を飲み下し深く息を吐くと、自らを戒めるようにその大きな手で頭を揉んだ。
「……彼を穏便にこの街へ住ませるのは骨が折れる作業になりますよ?」
「もちろん分っておるよ。だからこそ一番頼りになる援軍を連れてきたんじゃよ?」
近衛近右衛門の笑顔にタカミチはつられる様に笑うと、敵わないとばかりに頭を振った。
「エヴァの庇護下に置いたのもそれが理由ですか? 少年の保護は彼女の判断とすることで無理を通そうと?」
「エヴァには呪いの件で負い目もあるからの。もちろんそれもある。が、それだけではない。
……助けねばならないのはディーノ君一人ではないじゃろ?」
近衛近右衛門は遥か遠くの空で闘い続けるエヴァンジェリンに視線を向けた。
「彼ならそれが出来ると……?」
「少なくともあの子とエヴァが共にあることで、エヴァの奴が再び人と交わる機会が増える。儂はそう考えておるよ」
近衛近右衛門は長い髭を撫で付けながら、闘いを続ける両者に語りかけるようにつぶやいた。
「なんと言うか情け無い話ですね。僕たちが出来なかったことを彼一人に押し付けるなんて」
「ま、儂らは人間じゃからの。今のエヴァの言葉を借りれば絶対に寄り添うわけにも交わるわけにもイカンらしい。伸ばされぬ手を取るなど、神にも出来ぬその所業を人間の儂らがやるわけにもいくまいて。あ奴が伸ばせるようになるのを待つべきじゃろう……ところでタカミチ君」
「ハイ?」
「ディーノ君のことを彼と呼ぶのは辞めなさい。あの子はまだ産まれてようやく一日たっだだけの文字通りの赤子じゃ。ちゃんと子ども扱いするように」
近衛近右衛門が大人として振る舞いなさいとタカミチへピシャリと言い放った。
「……エヴァとやりあえるような実力者を子ども扱いするのは難しいと思うんですが……」
「ダメじゃ。」
「あー……」
「ここに来るまで出来ておったろ? アレを続ければよろしい」
何も知らないからできたことを知った後も継続しろ、と言う無茶な指示を受けたタカミチが視線を中空に彷徨わせる。
その果てに行きついたのは、やはり海上で闘いを続ける二人だった。
幾重にも急旋回を重ねドッグファイトを続けていた両者はいつの間にか攻守交代したらしく、海面スレスレで飛沫を巻き上げながら飛ぶ少年へ向けてエヴァンジェリンが上空から攻撃を仕掛けている。
少年の背後から豪雨の様に降り注ぐ氷柱が、海面に着弾するたびに巨大な水柱が立ち昇げていた。
少年は恐るべき速度と針の穴に糸を通す精度を両立させながら、攻撃を避け続けていた。
「…………」
「ダメ。」
その曲芸のような空中戦を目の当たりにしたタカミチが何か言いたげな目線を向けるも返ってきたのはすげない返事であった。
高所に陣取り、一方的に攻撃を仕掛けるエヴァンジェリンの表情は曇っていた。
曲芸のように攻撃を避けられる事もさることながら、少年が海面スレスレを意図的に飛び続けていることこそが問題だった。
「ケケケ。ドウヤラバレタミテーダナ」
苦虫を噛み潰したような顔を浮かべるエヴァンジェリンとは対照的にチャチャゼロは嬉しそうな声を上げていた。
その間も少年は自らの影に張り付くように飛び続けていた。
「影ヲ用心スルダケデモ大シタモンナノニ、コノ短時間デ見破ルタァ……アイツハ本当ニガキナノカ?」
そう、チャチャゼロが指摘するように少年が水面に浮かぶ自らの影を脅威と見ていないことが問題だった。
先の塔で開戦の狼煙代わりの氷刃は、あえて少年の影から突き上げるように放ったものだった。
それだけでは単なる攻撃に過ぎない。
が、その後にタカミチの影からエヴァンジェリンが現れるというフェイクを合わせると、少年の思考を影を媒介に魔法を放てると誘導するには十分な代物のはずだった。
その証拠にエヴァンジェリンが姿を現すと同時に少年は自らの影から距離を取るかのように空中戦を選び取った。
が、影のトリックを用いて目論見通りの空中戦に持ち込んだのは良いものの、いざ蓋を開けてみれば主導権を握れたとは言い難いものであった。
「真祖の不死性と竜の鱗、確か竜闘気と呼んでいたか。それに互いの翼……。気持ちの悪いほどの『分け』具合だな」
強者としてのステージが上がるほど、相手を殺す事よりも自らが生き延びることが重要になるとエヴァンジェリンは自身の経験から知っていた。
生き延びるために必要なことは、
自らの必勝パターンを実行し続ける。
もしくは、
相手の必勝パターンを実行させない。
この二種類であった。
その場合、重要になるのは『自分が何をするか』ではなく『相手に何をさせるか』であり、そのために相手の手札を知らねばならない。
逆を言えば、こちらの手札を晒すことは敗北に直結するため、自分の手札を晒さず相手の手札を暴くことが要求される。
エヴァンジェリンは闘争を通じて、我が身を晒してまで相手の手の内を探っていた。
が、少年は膨大な年月を経ねば至れぬ闘争の道理を弁えているかのように、ボロを出さぬ堅実な戦いを崩そうとしなかった。
それどころか身を危険に晒してまで『エヴァンジェリンが影を使ってできること』を掴みつつある少年の、未熟な子供らしからぬ竜の経験とでも言うべき老獪さにエヴァンジェリンは顔を曇らせていた。
「これでガキと言うのだから笑わせる。力だけでなく経験さえも親から引き継いだとでも……ッ!?」
思考を遮る様にエヴァンジェリンの眼前が、突然巨大な水柱で覆われる。
それはエヴァンジェリンが放った魔法の矢の着弾点へ重ねるように、少年が爆裂呪文(イオ)を放つことで通常の倍の体積の水を巻き込み、エヴァンジェリンの居る高さまで立ち昇らせた水柱であった。
少年は水柱に飛び込むと大量の水を押しのけながら内部を駆け上がり、エヴァンジェリンへと襲い掛かる。
が、その程度の不意打ちでは真祖の意識の隙を抜くには力不足だった。
「甘い!」
エヴァンジェリンが違和感を覚えたのは、濡れ鼠になりながら攻撃を仕掛けた少年を、焼き直しの様に海へ投げ落とした直後だった。
「今ノハ臭イゼ、御主人?」
エヴァンジェリンの感じた違和感を裏打ちするようにチャチャゼロも疑念の声を上げる。
少年の攻撃には意識の隙をつく様なひと工夫はあったものの、体感した合気柔術への対策がまるでなかった。
それは、エヴァンジェリンをして舌を巻くような戦いを続けてきた老獪さに似合わない、『焦り』が垣間見える一撃だった。
「時間制限モ無ク、劣勢デモネェ。ソンナヤツガ焦ラナキャナラナイッテコタァ……」
「……スタミナか……?」
足元を見れば自身のスピードすら落下エネルギーに換えられた少年が無理やり体勢を立て直し、再度エヴァンジェリンへと飛翔しようとするところだった。
「コイツで見極めるとしよう……」
少年の焦りから生まれたこのチャンス。エヴァンジェリンが産みだしたのはタメを必要とする、これまでとは比べ物にならない氷の塊だった。
「
魔力によって生み出された大質量の氷球を、故意に自壊させ散弾の様に直下の海へ降り注がせる。
常人であれば押しつぶされる質量ではあるが、少年のこれまでの行動を考えれば中央突破を図るであろうその弾幕。
「チィッ!」
しかし、少年は空へと伸びていた軌道を直角に捻じ曲げ、弾幕の範囲外へと身を躱した。
「ホウ、技後硬直すら見逃すか……」
眼下を埋め尽くす氷塊の隙間からその光景を見たエヴァンジェリンは口角を歪めると、頭上にかざした右手から新たな氷塊を生み出した。
一つ、二つ、三つと増え続けるそれを見上げ、意図に気付いた少年は弾かれたように距離を詰める。
その姿を確認したエヴァンジェリンはより一層笑みを深めると、右腕と共に氷塊を振り降ろした。
「クソッ! 間に合わん!」
海上に降り注ぐ氷塊を眺め歯噛みする少年を尻目に、エヴァンジェリンは手を一つ打ち鳴らす。
そして、抱擁を待つ淑女のように優雅に手を広げると、
ベッドに身を任せるような気軽さで足元の海へとその身を委ねた。
―――さて、エースを晒してもらおうか?
落下するエヴァンジェリンの背中には、幾重にも氷が重なった氷山が広がっていた。
「なるほどのぅ。あの子に対処するとすれば持久戦がベストかの」
塔を離れた近衛近右衛門は海面にプカリと浮かぶ氷に立ち、指で作った輪っか越しにエヴァたちの闘いを覗きこんでいた。
「……彼、いや、ディーノ君を本気で相手取るつもりは無いですよね?」
近衛近右衛門が呟いた物騒な言葉に隣に立つタカミチが念を押すような口調で尋ねた。
「当たり前じゃ。あんな子供を大人が寄ってたかって虐めるなんてできる筈が無かろう? 仮にそれが本当に必要になったとしても犠牲は避けられん。あの子と戦わなければならなくなった段階で儂らの敗北じゃよ。」
「…………」
「それでも情報は集めねばならん。争うつもりは無いから知らずとも良い。なんてことが許されるほど世界は優しくないからの」
タカミチはどこか納得のいかない表情を浮かべるも口から零れ落ちそうになった何かをグッと飲み込んだ。
「……さて、晒せる奥の手はどの程度のもんかの?」
その気配を背中に感じながら近衛近右衛門は結末を悟ったようにポツリとつぶやいた。
冷気が漂う氷山の袋小路へ着地すると、エヴァンジェリンは自らの優位を言葉端に滲ませながら声を上げた。
「さて、『狩り場』へようこそ? ドラゴ……おっと」
不敵に笑い慇懃に挑発するエヴァンジェリンの顔へ、少年の拳が振り下ろされる。
が、命中するはずだったその拳は、波打つ影に膝まで沈めたエヴァンジェリンに易々と躱され空を切る。
空を切ったその手首に、白く上品な指が再度絡み付く。
エヴァンジェリンは手を引き少年のバランスを決定的に崩壊させる。
そして、空いた右手に魔力を込め、力強く握りこむと高らかに声を響かせた。
「男なら女の誘い文句は最後まで聞くものだ!」
自らが潜む影へ引き込むように手を引きながら、エヴァンジェリンが拳を放つ。
ゴムの塊に鉄球を叩きつけたような音が辺りに響き、少年の体が宙を舞った。
「ガハッ!」
少年は打ち上げられたまま滞空し、体勢を立て直していた。
少年の初めて見せる攻撃を躊躇する姿を確認するとエヴァンジェリンは恭しく声を上げた。
「さて、改めてだ。『狩り場』へようこそ? ドラゴン」
歌い上げるように言葉を紡ぐ足元や、辺りに重なる氷に沿うように。
少年の眼下で、いたるところに影が大口を開ける氷山が広がっていた。
「クックック、こっちだこっち」
エヴァンジェリンはパンパンと手を打ち鳴らしながら、影から影へと神出鬼没を繰り返し上空に留まる少年を翻弄していた。
無駄な時間を代償にスタミナを削られることを嫌った少年は、己の不利を知りながら痺れを切らしたように動き出した。
「
「おっと外れだ」
少年が指先から熱線を放つも、エヴァンジェリンは自身の影にトプリと沈み身を躱す。
行き場を失くした熱線が氷を貫くのと無機質な笑い声が響くのはほぼ同時だった。
「ケケケケ! コッチニモイルゾ!」
少年の呪文の隙間を縫いながら、チャチャゼロが遠心力をたっぷり乗せたナイフを眉間目掛けて投げ放った。
「チイッ!」
上空に留まることを不利と見た少年は、放たれたナイフを紙一重で躱すと視線の先で不敵に笑うエヴァンジェリンへ加速する。
それは先ほどの攻防を映したフィルムを切り取ったかのような軌道を描いていた。
「ハハハ! 芸が無いぞドラゴン! また空へとカチ上げ……!?」
エヴァンジェリンが影へと潜り、空を切り死に体となった少年へのカウンター。
それこそがその一手が迎える終着。そのはずだった。
「うおおおおお嗚呼ああああああああ!」
先の一手をなぞるのであれば加速を積んだ恐るべき拳が振り上げられるべきその場所で、少年は顔を保護するように交差させた腕の下から額の紋章を強く輝かせ、猪のように猛進する。
「肉弾かッ!」
エヴァンジェリンが影へと潜り少年の体当たりを躱すものの、肉弾と化した少年はスピードを緩めるどころかさらに加速を積むと、隕石のように氷山を貫いた。
その瞬間、ズシリと氷山全体を震わせる衝撃が走ると、幾重にも積み上げられた氷塊が弾けるように中空に舞い上がった。
「フ、フハ、フハハハハハハハハハハハ! 攻撃と同時に不利を、『狩り場』を崩すか! 呆れるほどにシンプルに合理的だな!」
少年の放った楔の様な一撃の前に、パイ生地のように幾重にも積み上げたに過ぎない氷塊が竜に怯えるように鳴動を始めた。
「見事。だが……、対処できぬほどではないぞ?」
エヴァンジェリンが指を鳴らすと赤子の癇癪の様に繰り返されていた氷山の鳴動がピタリと止まった。
「オマケだ!
エヴァンジェリンは空へ羽ばたくと、先ほどと同じように氷塊を降り注がせる。
その後には、落下した以上の質量を取り戻した氷山が足元に広がっていた。
「ム、しまった。チャチャゼロを忘れていた」
氷山へ降り立ったエヴァンジェリンは些事を思い出したかのように口を開いた。
「ココダゼ御主人」
「なんだ、無事だったか。呪いの人形の癖に運の良い奴だ」
「ハッ、人ヲ氷ノ下敷キニシテオイテ、ヒデー主人モ居タモンダ」
折り重なった氷の隙間から氷を押し上げる様に現れたチャチャゼロは服に付いた霜を叩きながら、表情の変わらぬ人形にもかかわらず器用に非難するような視線をエヴァンジェリンに向ける。
「それだけ減らず口を叩けるのであれば平気だな」
が、視線を向けられた当の本人はその視線を気にするそぶりを見せるどころか、楽しそうな声すらあげていた。
ハァ、とため息一つついたチャチャゼロは首から下を高速回転させヘリコプターのようにフワリと浮かび上がり服に染みこんだ水分を飛ばすと、
上機嫌にククク、と笑う自らの主の背中に語りかけた。
「ソレデ御主人? アノドラゴンニ勝テソウカ?」
「…………」
ポツリと何でもないことのように尋ねられたエヴァンジェリンは、自らの固く口を引き結ぶ。
その姿は駄々をこねる子供の様にもすべてを受け入れる殉教者のようにも見えた。
「モチロン、『外デ』ノ話ダゼ?」
南国の穏やかな風がエヴァンジェリンの頬を撫で、美しく日差しを照り返す髪を波打たせる。
が、その表情は南国に似つかわしい晴れやかなものとは言えなかった。
「……無理だな。ヤツの力を封じ込める手段として持久戦が最も望ましいが、外でアレをフルパワーで闘わせ続けるなど不可能だ」
両の足で立ち背筋を伸ばし、チャチャゼロの主は振り返ることなくそう答えた。
「……ソウカ。ジャアサッサトテストヲ終ワラセテ、夢カラ覚メネェトナ御主人? ココデ千日手ヲ続ケルノモ……ナ」
「分かっている。どうせ次の一手がヤツの見せ札だろう。それを確かめてテストは終わりだ」
珍しく言葉を濁したチャチャゼロへの淀みの無い答えが返される。
そして、それを見届けた様なタイミングで、氷山が再び震え始めた。
先の鳴動が恐れ戦く震恐ならば、今の震動は内側から食い破られる氷山の痙攣だった。
その音の発生源は氷山の終わりを告げるカウントダウンの様に音量を増しながら内部を上昇しているようだった。
「ヤツめ、よりにもよってど真ん中をぶち抜くか!」
一番氷の厚い中心をあえて貫いたこともさることながら、エヴァンジェリンが驚愕したのは少年の持つ次の一手への並々ならぬ自信であった。
氷山に陣取るエヴァンジェリンを引き剥がすことは出来ず、半端な一撃もまた無意味であることは既に証明されている。
それは少年が上空に留まる不利も同様で、攻撃のチャンスがあるとしても飛び出した直後の不意を打った一撃が限度。
その一撃を叩き込む弱点を作るべく、少年は氷山の中を現在進行形で食い破っているのだろう。
たった一撃、その一撃で氷山を砕いてみせる。と、少年の行動全てが雄弁に物語っていた。
「ゴシュジン!」
「来るぞ! ここから離れろ! チャチャゼロ!」
エヴァンジェリンの予測を裏付ける様に一際大きな破砕音が辺り一面に響き渡る。
少年が氷山の中心から瓦礫を辺り一面に弾き飛ばしながら飛び出した。
「クライナッ!!」
チャチャゼロから氷山から離れる前の置き土産と言うには物騒すぎる一撃が少年へと投擲される。
が、眉間に突き刺さったように見えたナイフは鈍い音を立て、傷一つ負わせられぬまま海面へと落下していった。
チャチャゼロをチラリとも見ない少年の額には蝋燭の最期の一燃えと言うには力強すぎる気配を放ち、竜の紋章が爛々と輝いていた。
「エースを切るか!」
エヴァンジェリンは影を渡り飛翔すると、この上無い弱点となった大穴を背後に庇い少年と相対する。
奇しくも先の海上での一幕を入れ替え再現したかのようなその構図。
口火を切ったのも入れ替えをなぞったように、少年であった。
少年が手を左右に広げると、その両手からプロミネンスのようにのたうつ炎が噴出し、互いに互いを食い合うように頭上でアーチを描くと暴力の発露を待ちわび身悶えた。
少年は天焦がす炎の流れに沿うようにアーチを押しつぶした。
そして、両手を頭上で並べるとエヴァンジェリンへ突きつける様に振り降ろす。
全ての工程が流れる様に、瞬きすら許さぬ数瞬のうちに行われた。
ただ軽く握られ寄り添っているだけの両こぶし。
しかし、その内側に圧縮されたエネルギーに、エヴァンジェリンは久しく忘れていた死の気配を感じ取った。
「
しかし、視線ひとつ揺らめかせず万軍の舳先に立つ女王のように号令を放ち、エヴァンジェリンは秘した魔法を解き放つ。
すると、氷山を覆い尽くさんばかりの密度で魔方陣が展開し、間髪入れずヒステリックに回転を始めるとガトリングのように魔法の矢を吐き出した。
一つ一つの魔方陣から飛び出した氷柱が雪崩を打って少年へと殺到する。
それから発せられる魔力光と風切り音、障害物を削り取りながら直進する轟音が辺りに響いた。
その極光と轟音が世界を満たすその最中、
エヴァンジェリンはゆっくりと開いていく少年の手に炎を確かに見て、それが息を吸う音を確かに聞いた。
「極大閃熱呪文(ベギラゴン)!!」
ゴウ、と少年の手から発せられた熱線が触れた端から数多の氷柱を容易く蒸発させながらエヴァンジェリンを、そしてその背後の氷山すら貪欲な蛇のように丸のみにしようと迫っていた。
「リク・ラク ラ・ラック ライラック!」
数の有利を、戦いの定理を覆す質の一撃。
具現し、世界そのものを焼き焦がすように押し寄せる死の気配を前にして、数では足りぬと踏んだエヴァンジェリンは一歩も引かず始動キーを口にする。
「来たれ氷精、闇の精!」
詠唱を続ける間も吐き出され続ける氷柱は極大の熱線へと殺到するも、押し勝つどころか拮抗すらも維持できず、雀の涙ほどの遅延を生むばかりだった。
氷山一面に広がる魔方陣は限界を超え回転し続ける。
だが、熱線は触れる端から氷柱を蒸発させ、減衰どころかその威力と速度を増していく。
そして、遂に、
「闇を従え、吹けよ……!!」
エヴァンジェリンと背後の氷山を一息に飲み込んだ。
氷山中心にポッカリと空いた穴に熱線が突き立てられ、決定的な何かが砕けるような音が響いた直後氷山に亀裂が走り炎が迸る。
吹き上がった火柱は氷山を舐める様に表面を這いまわると、氷山全体を押しつぶす様に蒸発させていった。
巨大な氷山すら容易く蹂躙する熱線はそのエネルギーを増しながら白熱し、遂には光さえ放ち始める。
が、輝きを強める光に共鳴するように熱線の中にポツリと浮かぶ闇が、黒点が太陽を侵すようにその面積を広げ始めていた。
氷山すら蒸発させる熱線をその身に浴びながら、エヴァンジェリンは確固たる闇としてそこにあった。
圧倒的な熱と光の奔流。その中で焼失の痛みも、再生の苦しみも厭わず光の先にいるドラゴンを握りつぶすかのように、エヴァンジェリンは己が右手を突きだした。
そして彼女は、身を焦がし空気すら臓腑を焼く凶器に換える灼熱地獄の中心で、躊躇う事無く息を吸い自らが信じる力を口にした。
「……常夜の氷雪! 闇の吹雪!」
その瞬間、大質量を一飲みにする熱線が卵を飲み込んだ蛇のように膨張し、一息に膨れ上がった勢いそのままに破裂した。
蛇の腹部を内側から食い破った闇の吹雪は鞭のようにその身を一度しならせ空気を打つと、槍のように硬直し、
火の粉を散らし声なき絶叫を上げる蛇の半身を切り裂きながら少年に突き刺さる。
その瞬間、耳をつんざく爆発音と共に容易く人体を吹き飛ばす衝撃波がまき散らされた。
しかし、肉体の再生にごっそりと魔力を奪われながらもエヴァンジェリンは姿勢を崩さず、
我が身に鞭打ちながら濛々と粉塵立ち込める爆心点を睨み付けていた。
やがて煙が晴れると、少年がその姿を現す。
その姿は一見五体満足に見えたが、紋章の輝きはエネルギーを使い果たしたかのように弱々しく、極地に吹きすさぶ寒風のような殺気も鳴りを潜めていた。
そして何より少年の額から、竜の紋章を覆う様に血が流れ出していた。
少年は額を伝う感触に気が付いたのか、額に手をやり指先に付いた血を確認すると少し驚いたように軽く目を見開いた。
「お互いボロボロだな? ドラゴン?」
エヴァンジェリンがテストは終わったとばかりに軽やかな声を上げると、少年も体から力を抜く。
エヴァンジェリンは互いの姿を嗤う皮肉な笑みを浮かてはいるが、その心中では獰猛な欲望が鎌首をもたげていた。
ダメージが通れば、血が出る。
……血が出るなら殺せる。
単純だが明確な事実が蛇の舌のようにエヴァンジェリンを刺激する。
「……ハッ」
が、エヴァンジェリンは自らの欲求を鼻で笑い、下らない考えを振り払うように頭を振った。
そうして顔を上げると、そこには一筋の魔法の矢が少年とエヴァンジェリンの視線を断つように流れていた。
「フン。心配性のジジイめ……」
少年から視線を切り、伝え終わったとでも言わんばかりに塔へ戻っていく近衛近右衛門へエヴァンジェリンは呆れた様な視線を向ける。
そしてザワリと、産毛の逆立つような感覚を味わった。
その感覚は少年から漏れ出る殺気によるものだった。
しかし、そのエネルギーは力なく輝く紋章と同じく、枯渇した水源から漏れ出る水のようにか細く、勢いも無い。
付け加えるなら少年の殺気など、ログハウスでの邂逅に始まり今に至るまで浴び続けてきたものであったはずだった。
例え本来の力であったとしても、エヴァンジェリンを脅かすには及ばないはずのその殺気。
それが彼女に悪寒を走らせた原因は殺気の総量の問題ではなく、先のログハウスの一件のように少年の殺気の質が変化したことによるものだった。
ログハウスで吹き荒れた巨竜のそれを思わせるあの殺気は見上げるような巨躯から放たれる、どこか直線をイメージさせるものであった。
だが今少年から漏れ出る殺気はある種気持ちの良さすらあった直線的なものでは無い。
いわば多頭種。
一つ一つが別個に意思を持つがために一つの胴体の上で互いに争いながら絡み合い、
幾重にも重なりあった殺意が目まぐるしく表情を変える多頭種の殺気であった。
そして、その殺気は目の前にいるエヴァンジェリンではなく、魔法の矢を放った近衛近右衛門へと向けられている。
「……貴様」
エヴァンジェリンの声をかき消し、ガツリと何かを叩きつけるような辺りに響く。
それは少年が、何かを押しとどめる様に自らの額に拳を叩きつけた音だった。
その音の静まりと合わせ辺りに漂っていた多頭種の様な殺気は消え、少年本来の気配が戻ってきた。
それを確かめるような間を取った少年が額から拳をゆっくりと離すと、ポツリと呟く様に話し始めた。
「……三つほど話しておきたいことがある。」
「…………」
告解でもするかのように声を上げる少年に、エヴァンジェリンは何も言わず言葉を待った。
「私には過去の竜の騎士から経験と記憶を受け継いでいる。……当然それに付随する感情も、だ。そして、それらは例外無く人を憎んでいる」
「…………」
「もちろんこれらはただの記憶だ。私が理性を失わぬ限り、それらに振り回されることは無い。そして安易にそれらに迎合する気も無い。だが、私の中にそういうものが確かにある。それだけはマスターに知っていてほしい」
「……残りはなんだ?」
興味が無いのか、それとも何か悟られまいとしているのか。
エヴァンジェリンは能面のような表情を崩さず少年に続きを促した。
「見ての通り、私の力は持久力に難がある。格下相手であれば力押しが出来るが、同格もしくはそれ以上となると容易く地金を晒してしまう。解決法は二つ、持久力を上げるか別の力を手に入れるか。持久力は一朝一夕には伸びん。」
「前置きは要らん。本題を言え」
「……別の力を手に入れるつもりだ。その力は簡単に言えば魔力の増幅、そして貯蔵」
その言葉を聞いたエヴァンジェリンがピクリと反応する。
「そしてその方法で増幅される魔法は破邪呪文、その中には解呪の呪文も含まれる」
「貴様ッ……!」
先ほどまでの疲弊など消え去ったかのように、体を怒気で満たしたエヴァンジェリンは今にも襲い掛からんがばかりに少年を睨み付けた。
当然のことだった。彼がもたらすかもしれない解呪は、彼女が抱えている問題を解決する『ありがたい行為』などでは決してない。
むしろその逆。
彼女にとって自分の意思を無視して他者からもたらされる解呪は『救済』などではなく、『乗り越えねばならぬ壁を奪われる』ことに他ならない。
そしてそれは、呪いを乗り越え勝利する、もしくは呪いとの共存を選び敗北するという二択。
そのどちらも選べなかった、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの惨めな残骸として不死の永劫を生きることに他ならない。
彼女にとって自らの望まぬ解呪とは、どんな魔法を用いようとも決して解けない新たな呪いを背負うことに他ならなかった。
「そう。だからこそ今この場で話をした。私はマスターに望まれぬ限り呪いを解くつもりは無い。」
誰もが恐れる悪の魔法使いの怒気を浴びながら、少年は言葉を紡ぎ続ける。
「私の記憶が煩わしいと思うならば、そして、この言葉が信じられないというのであれば、先の契約を反故にしてもらって構わん。……私が言いたいのはその三つだ」
少年はそう言い終わるとエヴァンジェリンの判断を待つ様に黙りこくった。
「ひとつ、聞かせろ。今回のテスト何故全力を出さなかった?」
そう少年に問うエヴァンジェリンの声からは先ほどの怒気は無く穏やかなものだったが、少年にはそれが台風一過なのかそれとも台風の目なのか判別できなかった。
「たとえ親兄弟の前であろうとも使えぬ奥の手と言うのはあるからだ。そして付け加えるなら奥の手を使わなかっただけで、全力は尽くしたつもりだ」
「フン……」
半ば予測していた答えを受け、エヴァンジェリンはつまらなそうな声を上げていたが、
「が、それはそちらも同じだろう?」
というそれに続く言葉を受け、気を良くしたように口元を緩めた。
「ついでだ、もう一つ答えろ」
「……一つではなかったのか?」
「契約を反故にするまではマスターだ。マスター命令だ、答えろ」
ギリギリ筋を通す横暴な物言いに、少年は頬を緩ませるとエヴァンジェリンの問いを待った。
「なぜ私をマスターに選んだ?」
その質問は静かに少年へと投げられた。
だが少年は、怒気も、不気味な静けさも無いままに投げられたその質問こそ真摯に答えなければならない最も重要な質問だと直感した。
少年は意を決するように小さく息を吐くと背筋を伸ばし、正面を見据えた。
「貴女がルールと誇りを保持する、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだったからだ」
「フン、『在り方を損なうな』か。……随分な嫌味を言ってくれる」
―――そして、もしそれを損なえば容赦無く私の頭を噛み砕くのだろう?
少年の厳しく、取りようによっては無礼とも取れる言葉はエヴァンジェリンにとって好ましいもののように思えた。
そして、両者の間にはそのような殺伐とした関係こそが好ましいと思ってしまった。
「一度言ったことを反故にするつもりは無い。テストは合格だ。ドラゴン」
「……ありがとう。マスター」
その言葉を受け、笑みを浮かべた少年がエヴァンジェリンへと握手を求め、手を伸ばした。
「やれやれ、契約の結び方から教えねばならんか」
伸ばされた手を見てエヴァンジェリンはため息交じりに呟くと、手を取らずに塔を顎で指した。
そして、フワリと浮き上がり移動を始めるとしばらくして後を追うように少年も続いた。
「大体が魔法使いの主従契約が握手で完了と言うのも間が抜けた話ではないか? 貴様の記憶とやらの中ではどうなっている?」
「師弟関係や王に仕える魔法使い、賢者なんていうのはいたが、普通の魔法使いが主従を決めるなどと言うのは覚えがないな」
「……まだまだ聞かねばならんことが多そうだな貴様は」
「? ……ところで契約とは具体的に何をするんだ?」
「まぁ簡単に言えば、魔方陣の上に立ち、手順を踏み、カードが出れば終わりだ」
「随分と簡単なんだな」
「魔力を知らない相手でも出来る契約だからな。複雑な手順など組み込むわけにいかんのだろう。……着いたぞ」
塔の頂上へ戻るとチャチャゼロや、近衛近右衛門達が既にその場に戻っていた。
エヴァンジェリンの姿を確認したチャチャゼロが、身軽にエヴァンジェリンの肩へと飛び乗った。
「ま、夢の中で契約するわけにはイカンか。では、向こうでの」
そう言い煙のように消えた近衛近右衛門達の後を追うように、エヴァンジェリンが指を鳴らす。
あたりの風景がガラスを割ったように飛び散り、いつの間にか少年はログハウスへと戻っていた。
「チャチャゼロ」
「アイサー御主人」
主に名を呼ばれたチャチャゼロは、サラサラと見事な手際でほのかな光を放つ複雑な魔方陣を描きあげた。
ぼんやりと部屋を照らすその光は何処か暖かい。
「なんじゃ、古式か」
「儀式に頼らねば番い一つ見つけられないガキどものやり方などに付き合ってられるか」
いつの間にか戻ってきた近衛近右衛門が面白くなさそうな声を上げるも、それをエヴァンジェリンは素気無く切って捨てると、魔方陣の中へと歩を進める。
そして親指の腹を唇に当てブツリと少し噛み切ると、その指から血が一筋手首を這うように滴った。
「後は魔方陣の中で相手の親指を合わせれば完了だ」
少年もそれに習い指を切り、魔方陣の中心でエヴァンジェリンと向かい合い指を合わせる。
その瞬間、部屋の中をまばゆい光が満ち、それが収まる頃には一枚のカードが少年の手の中に出現していた。
「……綺麗なものだな」
裏に表にクルクルと回転させながら、少年は感心したような声を上げながらカードを確認した。
始めて見る魔法の儀式とその成果に目を奪われる少年の後ろから忍び寄る影が一つ。
忍び足で近寄った近衛近右衛門が首を伸ばし、少年のカードを覗き込もうとしていた。
「……ジジイ。その歳で出歯亀は情けなさすぎるぞ」
「ヒョ!?」
手元でカードを弄びながら様々な角度から眺める少年に合わせるように身をよじらせていた近衛近右衛門を、エヴァンジェリンがキツイ一言でピシャリと打ちつける。
「学園長……」
その光景を見てタカミチはその大きな手でこめかみを揉み込み、力なく項垂れた。
「いやだって気になるじゃろう!? ……気になるんだもん!」
「『だもん!』じゃないわ! いくつだ貴様!? 気色の悪い……」
エヴァンジェリンはそう声を上げると白い目を向け、タカミチもこめかみを押さえたまま深くため息を吐いた。
二人に白眼視された近衛近右衛門が最後の頼りと少年に目を向けるが、少年は我関せずとカードを興味深げに眺めていた。
「ケケケ。味方ハ、イネーミテーダナ」
チャチャゼロの嘲笑が引き金になったように、近衛近右衛門はその場にいる面々に背を向けると、
曲がった腰をさらに丸めトボトボと歩き部屋の隅へ行き、ゴホゴホと小さく咳を漏らしながらチラチラと後ろを振り返った。
「……タカミチ、アレを何とかしろ。鬱陶しくて敵わん」
エヴァンジェリンが心底ウンザリしたような声を上げるほど、部屋の隅で咳をする老人の演技はワザとらしいものだった。
「あー……ディーノ…君? 悪いんだけど、学園長にカード見せてあげてくれないかな?」
「私は構わんが、これは他人に見せても良い物なのか? マスター」
少年の前にしゃがみ込み申し訳なさそうに頼むタカミチの肩越しに、少年はマスターであるエヴァンジェリンに確認する。
「『いくら知ろうとどうしようもないものが力』なのだろう? お前が良ければ構わん」
ソファーに深く腰掛けたエヴァンジェリンは勝手にしろと言わんばかりに少年に許可を出し、
ぞんざいとは言え、マスターの許可を得た少年は申し訳なさそうに手を差し出すタカミチにカードを手渡した。
そして、タカミチが二・三歩進んだ頃に、部屋の隅から小さな声が聞こえてきた。
「……ーティファクト…」
「……はい?」
「アーティファクトが見たい……」
近衛近右衛門の口からポツリとこぼれた図々しい願いがログハウスの中に木霊する。
深くため息を吐いたタカミチが、申し訳なさそうにゆっくりと後ろを振り返った。
アーティファクトと言う言葉が良く分っていない様子の少年の後ろで、
ウンザリしきったエヴァンジェリンが手を払うように言外に勝手にしろとタカミチに告げていた。
「……悪いんだけど、「カードを手に取ってアデアットと言ってくれんかの? そうすれば魔法の道具が出てくるからの」……お願い出来るかな?」
何事も無かったかのようにタカミチの横に立つ近衛近右衛門とは対照的に、
申し訳なさを通り越して沈痛な面持ちを浮かべたタカミチは少年にお願いした。
―――本当に知る必要があるから見せてもらうんですよね? 興味本位じゃないんですよね?
喉まで出かかった質問を無理やり抑え込んでの、大人の対応だった。
「魔力は必要ないのか?」
「あぁ、要らんよ。アーティファクトを出すときはアデアット。ひっこめる時はアベアット。それだけでええよ」
「ふーむ……。アデアット」
少年は裏向きになっていたカードを律儀に表返すと、呪文を口にするとカードが光り、入れ替わる様に小さな金属製の装飾品が現れた。
少年の手のひらに現れたそれは、大きく分類するなら片眼鏡であると言えた。
だが、眼鏡であればあるはずのレンズが無い、いわば伊達眼鏡のようであった。
そして本来円を描く筈のフレームは四角く、そしてその金色にギラリと光る枠組みは眼鏡と言うには厚過ぎるものだった。
そして何より、フレームから外側へ伸びる幾重にも重なる翼を広げたように見える装飾部分は鋭く冷たい光を反射しており、翼と言うよりは牙のようだという方が正しい。
少年のアーティファクトは知性と優雅さとは対極に位置する野性と獰猛さに満ち、
片眼鏡と呼ぶには物騒すぎる存在感が放たれていた。
「……アベアット」
少年は手の平から『竜の牙』を消すと、ソファーに腰掛けるエヴァンジェリンへと振り返った。
「マスター。申し訳ないが先の言葉を訂正したい」
「…………」
ソファーに深く腰掛けてはいるが、くつろいだ雰囲気など微塵も見せないエヴァンジェリンは静かに少年の言葉の続きを待った。
「使わぬ奥の手の他に、使えぬ奥の手もあった。そして、今それは使えるようになった」
「…………」
ついさっき言った言葉を目の前で反故にされるエヴァンジェリンは、意外にも静かに、
まるでそのあとにどんな言葉が続くかわかっているかのように、少年の言葉を聞いていた。
「だが、私はそれを使う気はない」
少年はキッパリと声に出し、自分の意思を示した。
「絶対に使わない」
その言葉は麻帆良の夜に吸い込まれるように消えて行った。
2015年3月9日22:20 『竜の爪』を『竜の牙』へ訂正