35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第10話 吸血鬼、鳥カゴで普通のおじさんに圧倒される

 午後四時五十分。

 

 西日が差し込む株式会社〇〇ソリューションズのオフィスで、久我陽介は静かにPCのモニターを閉じた。

 

 机の上に山積みになっていた書類は、すでに綺麗に分類され、決裁用のトレイに収まっている。

 

 顧客向けプレゼン資料の最終修正、他部署から上がってきた障害報告書のレビュー、若手が作ったシステム見積もりの前提確認。おまけに、昼過ぎに課長が丸投げしてきた謎の追加作業の整理まで、今日のタスクは完全にゼロになった。

 

 吸血鬼として覚醒する前の久我であれば、間違いなく夜の九時、いや十時までかかっていたであろう分量だ。

 

(……能力を会社で使いすぎるな、と皇さんにはキツく言われている。言われているんだが……見えるものは見えるし、分かるものは分かるんだよな)

 

 久我は色付きのPC用メガネ、と周囲には誤魔化している遮光グラスのブリッジを押し上げ、小さく息を吐いた。

 

 魔眼の処理能力は、エクセルや仕様書の矛盾を瞬時に視覚化してくれる。それに加えて、長年このブラック気味の職場で培ってきた社畜としての泥臭い実務経験が噛み合うと、自分でも気持ち悪いくらいに仕事が片付いてしまうのだ。

 

「あの、久我さん。この第三フェーズの見積もりの前提確認なんですけど……」

 

 後輩の佐藤が、申し訳なさそうにプリントアウトした束を持って近づいてきた。

 

 しかし、久我の机の上が不自然なほど片付いているのを見て、彼女は目を丸くした。

 

「……え。まさか、もうレビュー終わってるんですか?」

 

「ああ。共有フォルダに修正版を入れておいたよ。三ページ目と七ページ目の工数前提が、昨日の会議の議事録とズレてたから、そこだけ赤字で直してある」

 

「ええっ、あんな細かいところまで見てくれたんですか!? 早っ……!」

 

 佐藤が信じられないものを見るような目で久我を見つめる。

 

「たまたま目についただけだよ」

 

「いやいや、たまたまで見つかるレベルじゃないですよ! 久我さん、最近本当に仕事早すぎません? なんか頭の回転がスーパーコンピューターみたいになってますよ!」

 

(吸血鬼になって魔眼が開眼しました、とは死んでも言えないな)

 

 久我は乾いた愛想笑いを浮かべ、適当に誤魔化した。

 

「しっかり睡眠をとるようになったからかな」

 

 午後五時二十五分。

 

 久我が鞄に荷物を詰め始めると、再び佐藤が驚きの声を上げた。

 

「あれ? 久我さん、今日はもう帰るんですか? 珍しいですね!」

 

「今日はちょっと、この後約束があってね」

 

「約束……?」

 

 佐藤は露骨に意外そうな顔をした。無理もない。これまでの久我は、平日の夜に仕事以外のプライベートな予定を入れるような人間には見えなかったはずだ。

 

 そこへ、フロアの奥から課長が通りかかった。

 

「お、久我。今日は随分と早いな」

 

 一昔前の久我なら、ここでビクッと肩をすくませ、「あ、いえ、まだ残りますよ」と卑屈に笑って追加タスクを抱え込んでいたところだ。

 

 だが、今の久我には『夜の予定』がある。総務の高橋からの厳重な監視の目もあるが、何より久我自身の意識が明確に変わっていた。

 

「すみません。今日はこの後予定がありますので、定時で上がらせてもらいます。明日の朝イチで確認が必要な案件は、すべて課長の共有フォルダにまとめてありますので」

 

 毅然と、しかし角の立たない社会人のトーンで告げる。

 

 課長は一瞬だけ毒気を抜かれたような顔になり、やがて苦笑交じりに頷いた。

 

「そうか。まあ、お前も最近かなり根詰めてやってたしな。たまにはいいかもな。お疲れさん!」

 

「ありがとうございます。お疲れ様です」

 

(たまには、ではなく、本来定時退社は毎日行われるべき普通のことなんだが)

 

 そんな正論を飲み込みつつ、久我はフロアの奥でこちらに向けて親指を立てている高橋に軽く頭を下げ、オフィスを後にした。

 

 エレベーターを待ちながら、私用のスマートフォンを取り出す。

 

 チャットアプリには、すでに三件の通知が入っていた。

 

『皇かれん:本日十九時三十分、能力者待機施設「鳥カゴ」の前に集合です。遅れないように』

 

『七瀬澪:陽介さん、お疲れ様です! 今日、鳥カゴですよね! すっごく楽しみです!』

 

『源玄蔵:酒はある』

 

 久我は画面を見つめ、深いため息を吐いた。

 

「……最後のおっさんの情報、業務連絡として一ミリも必要だったか?」

 

       *

 

 すっかり日が落ちた午後七時二十分。

 

 久我が指定された場所は、都内の駅近にある一等地のオフィスビルだった。

 

 休日に訪れた異界ダンジョンの入り口がある高層ビルとは違い、こちらは一見するとごく普通の雑居ビルだ。エントランスのテナント案内板には、貸し会議室、会員制フィットネスジム、シェアオフィスといった一般的な名称が並んでいる。

 

 ただ一つ、地下階の表示だけが『関係者専用』とだけ記されていた。

 

「陽介さん、お疲れ様です!」

 

 ビルの入り口で手を振っていたのは、澪だった。その隣には、いつものように感情の読めない顔をしたかれんと、すでにワンカップの蓋を開けている源の姿があった。

 

「お疲れ様です。澪さんは、今日は学校終わりですか?」

 

「はい! 今日はちゃんと六時間目まで授業に出ました!」

 

 えっへんと胸を張る澪に対し、かれんが冷や水を浴びせる。

 

「それは本来、褒められるようなことではなく、学生として当然の義務です」

 

「えー……ちゃんと行ったのにぃ……」

 

 しょんぼりする澪を横目に、久我は源の手元に視線を落とした。

 

「源さん、まだ施設に入る前から飲んでるんですか。さっきの『酒はある』って、現地調達じゃなくて持ち込み宣言だったんですか」

 

「準備運動だ」

 

「肝臓の?」

 

「精神のだ。戦う前にはガソリンが要るだろうが」

 

「絶対に労災が下りなさそうな理屈ですね」

 

 呆れる久我をよそに、かれんは慣れた様子で話を先に進めた。

 

「源さんはこの後、すぐに別行動になります。久我さんと澪さんには、まず施設内の案内とシステムの説明を行います」

 

「おう。ワシは一足先に遊んでくるか」

 

 源がニヤリと笑う。

 

「遊ぶ?」

 

「模擬戦です」とかれんが補足する。「鳥カゴの地下には、防護壁で囲まれた能力制御訓練用のフィールドがあります」

 

「今日は誰がいるかねえ。イキがってる若い連中を、少しばかり床に転がしてくるわ」

 

「……源さん、すっごく楽しそうですね……」と澪が引いている。

 

「転がすって表現がすでに物騒すぎるんですよ」

 

「はいはい、無駄話はそこまで。では源さん、後ほど合流で。久我さんたち、こちらへ」

 

 かれんに促され、ビルの中へ入る。

 

 一般用のエレベーターの脇を通り抜け、裏口のような細い通路の先にある業務用エレベーターの前に立つ。かれんが八咫烏のライセンスカードをパネルにかざすと、重々しい金属音と共に扉が開いた。

 

「またエレベーターですか」

 

「今日は異界ダンジョンではなく、純粋な物理的地下施設です」

 

「その説明で『ああ、異空間じゃないなら安心だな』って思えるようになっている自分の適応力が嫌になります」

 

 エレベーターが降下を始める。

 

 地下二階、三階、四階。普通のビルならとっくに基礎部分に到達している深さだ。

 

 やがて、地下五階の表示でカゴが停止した。

 

 扉が開いた瞬間、久我の目に飛び込んできたのは、想像を絶する巨大な地下空間だった。

 

「……うわあーーーっ! すごい! なんか秘密基地みたいですね!」

 

 澪が歓声を上げて駆け出す。

 

 無理もない。久我も思わず周囲を見渡して息を呑んだ。

 

 見上げるほど高い天井には、スタジアムのような強力な白いLED照明が張り巡らされている。中央にはホテルのロビーのような広いホールがあり、ガラス張りの受付カウンター、施設の利用状況を示す巨大なデジタル掲示板、訓練エリアへと続く堅牢なセキュリティゲートが規則正しく配置されていた。

 

 さらに驚くべきは、その充実した生活設備だ。

 

 軽食を提供するカウンター、ずらりと並んだ自販機群、シャワールームの案内板、白衣の職員が常駐する医務室、さらには装備のレンタル窓口まである。

 

 行き交う人々の層もバラバラだ。高校生、大学生くらいの若者、作業着姿の男性、スーツを着崩した女性。誰もが思い思いにリラックスし、あるいは真剣な顔で端末を操作している。

 

「これが、能力者待機施設、通称『鳥カゴ』です」

 

 かれんが歩きながら説明する。

 

「八咫烏管轄の登録能力者が、待機、休息、訓練、そして情報交換を行うための総合施設です」

 

「……鳥カゴって言うから、もっとこう、コンクリートむき出しの物騒な地下牢みたいな場所かと思ってました」

 

「基本的には福利厚生施設に近い位置づけです。有り余る力を持った能力者を街に野放しにするより、快適な居場所と安全な訓練場を用意して囲い込んだ方が、治安維持の観点から管理しやすいですからね」

 

「言い方はドライの極みですが、行政の理屈としては完全に正解ですね」

 

「おう、じゃあワシは行くぞ。遅いと全部の枠が終わっちまうからな」

 

 源が鉄球の入ったポーチをチャキチャキと鳴らしながら、足早に模擬戦エリアの方へと消えていく。

 

「完全に、休日に近所のゲーセンへ向かうおじいちゃんの足取りでしたね」

 

「源さんにとっては、あれが最大の娯楽ですから」

 

「随分と血の気の多い娯楽だ」

 

 かれんの案内で、まずは施設の奥にある『休息スペース』へと足を踏み入れた。

 

 そこは、少し高級な漫画喫茶とカプセルホテルを融合させたような空間だった。

 

 プライバシーが保たれる半個室ブース、高級なリクライニングチェア、壁一面を埋め尽くす漫画の単行本、電子書籍が読み放題のタブレット端末。仮眠用の静音スペースに、種類豊富なドリンクバー。さらには、カップ麺や冷凍食品の自販機まで完備されている。

 

「……へえ。これ、ここだけで普通に丸一日潰せそうですね」

 

「すごいですね! 漫画もいっぱいありますし、ドリンクバーのメロンソーダもあります!」

 

 はしゃぐ澪の首根っこを、かれんが冷たい視線で掴んだ。

 

「澪さん。あまりこのスペースに入り浸らないこと。ここはあくまで緊急時の待機用です。学校にはちゃんと毎日行きなさい」

 

「えー……でもぉ、ここ涼しいし快適ですし、誰も私が吸血鬼だってこと気にしてないし……」

 

「学校、に、行きなさい」

 

「……はい、行きます。まあ、お昼休みに友達とお弁当食べるのも好きですし」

 

 渋々頷く澪を見て、久我は少しだけ微笑ましく思った。彼女の中にはまだ、「普通の女子高生としての日常」を捨てたくないという健気な葛藤があるのだ。

 

「ははは。でも、こんだけ環境が良いと、確かに仕事なんて辞めてここに入り浸りたくなりますね。絶対に辞めませんけど」

 

「その通りです。仕事は大事です」

 

 かれんが真顔で、久我の言葉を強く肯定した。

 

「能力者は、八咫烏との関係においては大抵『個人事業主』や『業務委託』の扱いになります。ですが、表の世界での『社会的な立場』は非常に重要です。安定した収入証明、居住の信用、家族や隣人への説明、日中の行動の正当化。そういった人間社会の足場を支える役割が、表の職業にはあります」

 

「やっぱり、社会的立場って大切なんですね」

 

「はい。どれほど異能の力があっても、社会的な繋がりから完全に切り離された能力者は、遅かれ早かれ精神のバランスを崩して危険領域に落ちます」

 

 久我は改めて、休息スペースでくつろぐ人々を見渡した。

 

(鳥カゴ、か。確かに名前の通りかもしれない。危険な鳥を社会から隠して閉じ込める檻であり、同時に、外の世界で飛び疲れて壊れてしまわないように羽を休める場所)

 

 ふと、ブースの隅にある鍵付きのロッカーに目が止まる。

 

『※血液製剤専用 保冷ロッカー』

 

「……細かいところまで配慮が行き届いてますね」

 

「未成年能力者の滞在時間には厳しい制限がありますがね」と澪が不満げに口を尖らせた。

 

「未成年を深夜まで入り浸らせるような不健全な施設ではありませんから」

 

「俺は深夜の零時から四時まで、学校のパトロールをさせられてるんですが」

 

「貴方は責任ある成人ですから」

 

「成人って、組織にとって本当に便利に使われる言葉ですよね」

 

       *

 

「では、源さんのところへ行きましょうか」

 

 休息スペースを出て、三人は施設の最奥にある『模擬戦エリア』へと向かった。

 

 そこは、巨大なドーム型の体育館のような空間だった。

 

 フロアはいくつもの四角いフィールドに区切られており、それぞれが分厚い透明な防護壁で天井まで完全に隔離されている。

 

 壁面のデジタル表示には、現在の使用状況が映し出されていた。

 

『模擬戦エリア 301』

 

『能力制御訓練中』

 

『対人格闘可/殺傷行為禁止/出力制限あり』

 

 その中央のフィールドで、ちょうど源が戦っている真っ最中だった。

 

 相手は、二十代半ばの血気盛んな若い能力者。全身から陽炎のような熱気を放っており、炎系か身体強化系の能力者らしい。

 

 対する源は、片手にワンカップを持ったまま、もう片方の手をだらりと下げている。

 

 だが、彼の周囲には三つの鋼鉄の球が、まるで衛星のように静かに浮遊していた。

 

「おおおらぁっ!」

 

 若い能力者が、踏み込みと同時に拳を振りかぶって突進する。

 

 源は一歩も動かない。

 

 ただ、視線をわずかに動かしただけだった。

 

 一つ目の鉄球が、側面から弾丸のような速度で飛来し、若者の前進の軌道を強制的に逸らす。若者が咄嗟に防御の姿勢をとった瞬間、二つ目の鉄球が彼の足元の床を強烈に叩き割り、バランスを完全に崩させた。

 

 そして、三つ目の鉄球が。

 

 若者の腹部――ではなく、ダメージの少ない胴体の側面に向かって、まるで巨大なハンマーで殴りつけるような重い軌道で打ち込まれた。

 

「がはっ!?」

 

 若者の身体がくの字に折れ曲がり、十メートル以上吹き飛ばされて防護壁に激突した。

 

 ブザーが鳴り響く。

 

『WINNER:源玄蔵』

 

 久我は防護壁の外で、完全に呆然としていた。

 

「……うわ。なんで、あんな小さなピンポン玉みたいな鉄球が当たっただけで、大の大人があんなに派手に吹き飛ぶんですか!?」

 

「念動力ですからね。源さんは、単に鉄球を飛ばして物理的にぶつけているわけではありません」

 

 かれんがパネルの数値を見ながら解説する。

 

「鉄球そのものの質量に加えて、念動力による爆発的な加速、空中の軌道補正、そして衝突の瞬間の『面による押し込み』のベクトルを同時に計算して付与しています。源さんの場合、鉄球が点として当たるというより、見えない巨大な腕で相手を面ごと弾き飛ばしているような理屈です」

 

「完全に物理法則の詐欺判定じゃないですか」

 

「だからこその、ベテランです」

 

 フィールドの扉が開き、ワンカップを揺らしながら源が出てきた。

 

「おう、来たか。今の若いのは踏み込みが馬鹿正直すぎるな。フェイントの一つも入れりゃいいものを」

 

「源さん、本当に対人戦が好きすぎません?」

 

「相手がこっちの意図を読んで、考えて動くからな。ワンパターンの怪異を叩くより、よっぽど頭を使うし面白い」

 

「俺は一生、その修羅の境地には行けそうにないです」

 

 久我が身震いしていると、かれんが手元の端末を操作しながら冷酷な宣告を下した。

 

「では、久我さんも模擬戦を申請しましょう」

 

「……俺もですか?」

 

「今日、鳥カゴに来た最大の目的の一つです。怪異だけでなく、対人能力者戦の独特の感覚と距離感を知っておく必要があります」

 

「怪異の相手とダンジョン探索だけで、もう手一杯なんですけど」

 

「怪異より、知能を持った人間の能力者の方が遥かに厄介で危険な場面は多いです。経験しておいて損はありません」

 

 有無を言わさぬ論理武装に、久我は肩を落とした。

 

「陽介さん、頑張ってください!」

 

「澪さんはやらないんですか?」

 

「澪さんは見学です」とかれんが即答する。「吸血鬼型の能力者を二名同時に模擬戦に入れると、万が一出血が起きた場合の『血液反応への衝動管理』が非常に面倒になるので」

 

「面倒って言われた……」と澪が頬を膨らませる。

 

「管理上の事実です」

 

 かれんは端末の画面をタップし、マッチングの条件を入力していく。

 

『初心者/吸血鬼型(魔眼あり)/武器:訓練用ナイフ/出力制限あり/対戦相手:フラットな身体能力強化系/殺傷行為禁止/血液流出が起きにくい防護装備の着用/勝敗より訓練目的を優先』

 

「相手は、極端な属性能力、炎や氷などではなく、フラットな身体能力強化系の使い手に絞りましょう。魔眼の視覚情報との比較がしやすいです」

 

「フラットな身体能力強化」

 

「一番分かりやすくて、一番誤魔化しがきかねえ、純粋な地力の相手だな」と源がニヤリとする。

 

 ピロン、と端末が小気味よい音を立てた。

 

『MATCHING COMPLETE』

 

『501―1エリア』

 

『対戦相手:登録能力者/身体能力強化系』

 

「マッチングしました。501―1エリアです。こちらへ」

 

       *

 

 案内された501―1エリアは、先ほどの源のフィールドと同様、透明な防護壁に囲まれた真っ白な空間だった。

 

 床には衝撃吸収用のマットが敷き詰められ、壁には無数のセンサースリット、天井には監視カメラと八咫烏の職員が常駐するモニター室が見える。

 

 久我は入り口で、特殊樹脂でできた訓練用ナイフを受け取った。刃の部分が相手の身体に一定以上の圧力で触れると、センサーが反応してポイントが記録される仕組みだ。

 

 フィールドの中央には、すでに対戦相手が待っていた。

 

 四十代くらいだろうか。中肉中背、短く刈り込んだ髪。服装は、休日にホームセンターで見かけるお父さんのような、少しヨレたグレーのジャージ姿だ。

 

 手には武器を持たず、オープンフィンガーの薄いグローブだけを装着している。その顔には、人の良さそうな穏やかな笑みが浮かんでいた。

 

「どうもどうも。今日はよろしくお願いします」

 

「あ、よろしくお願いします」

 

(……ものすごく、普通の人だな)

 

 ダンジョンで出会ったおぞましい子鬼や、ワンカップを片手に鉄球を飛ばす源の怪しさと比べると、拍子抜けするほど日常的な『普通のおじさん』だった。

 

「吸血鬼型の新人さんですか。対人戦は初めてで?」

 

「はい。能力者同士で手を合わせるのは、ほぼ初めてです」

 

「じゃあ、最初は軽めのペースでいきましょうか。もし痛かったり、息が上がったりしたら、すぐに手を上げてくださいね」

 

「ありがとうございます。助かります」

 

 思いがけない紳士的な対応に、久我は少しだけ緊張を解いた。

 

 防護壁の外では、かれん、澪、源が見学スペースに立っている。

 

 スピーカーから、審判役の職員の無機質な声が響く。

 

『501―1エリア、模擬戦開始。出力制限、三段階以内。殺傷行為禁止。――開始』

 

 ブザーが鳴った、その直後だった。

 

 対面の『普通のおじさん』の雰囲気が、根底から裏返った。

 

 人の良い休日のパパの顔が削げ落ち、冷徹な戦闘者の顔だけがそこに残った。

 

「さて、いきますか」

 

 一呼吸。

 

「――はあああっ!」

 

 短い呼気と共に、男性の足元が数センチ、マットに沈み込んだ。

 

 ボディビルダーのように筋肉が異様に膨れ上がったわけではない。だが、久我の魔眼には、男性の全身の熱量、血流の速度、そして筋出力のエネルギーラインが一瞬にして爆発的に跳ね上がるのが、はっきりと視覚化されていた。

 

「身体能力強化、三倍」

 

 次の瞬間、男性の姿がブレた。

 

「速っ――!」

 

 距離は五メートル以上あったはずだ。それが、瞬きの一回で完全にゼロになった。

 

 だが、男性は直線的に殴りかかってきたわけではない。

 

 極端に低い姿勢で久我の懐に滑り込み、ナイフを持つ久我の右腕の外側へと回り込んだ。

 

 死角。

 

 手首を柔らかく掴まれる。そのまま自身の身体を入れ替え、遠心力を利用して久我の足を払う。

 

 抵抗する間もなかった。

 

 久我は気がつけば、天地がひっくり返り、背中からマットに叩きつけられていた。

 

『POINT:対戦相手』

 

 天井のスピーカーからポイントのアナウンスが流れる。

 

「陽介さん!」

 

 外から澪の悲鳴が聞こえた。

 

 久我はむせながら立ち上がり、信じられない目で男性を見た。

 

「ゴホッ……格闘技、やってるんですか!? 強すぎません!?」

 

「一応、総合格闘技(MMA)を少しだけ。能力者として覚醒する前から、趣味で道場に通ってまして」

 

 男性はジャージの埃を払いながら、再び人の良い笑みを浮かべる。

 

「『少し』の定義が、この世界ではまったく信用できないんですが……」

 

「能力込みの身体強化が加わると、普通の格闘技の踏み込みとは距離感が完全に変わりますからね。戸惑うのも無理はないですよ」

 

 再開の合図。

 

 久我はナイフを構え直し、魔眼の出力を上げた。

 

 遮光グラスの奥で、視界が深く赤く染まる。

 

 見える。相手の重心の移動、呼吸のタイミング、筋肉の収縮の兆候。

 

 男性がステップを踏み、再び距離を詰めてくる。

 

 今度は反応できる。久我は相手の軌道を読み、迎撃のためにナイフを突き出そうとした。

 

 だが――その手が、ピタリと止まってしまった。

 

 見えすぎるのだ。

 

 怪異の無機質な核とは違う。目の前にいるのは、生身の人間だ。

 

 魔眼の視界には、皮膚の下を流れる太い動脈、熱を持った内臓の位置、そして激しく脈打つ心臓の鼓動が、あまりにも生々しく映し出されていた。

 

(ここに刃物を入れたら、どうなる?)

 

 想像というより、視覚的なシミュレーションが脳内で先行してしまった。人間を切り裂き、血を噴出させるビジョンがフラッシュバックし、社会人としての強固な倫理的ブレーキが物理的に腕の筋肉を硬直させた。

 

 実戦において、そのコンマ一秒の躊躇は致命的だ。

 

 男性は久我のナイフの外側に軽々と入り込み、手首を制圧する。

 

 力任せの打撃ではない。体重移動とテコの原理を使った完璧な崩し。

 

 久我は再び、為す術もなくマットに転がされた。

 

『POINT:対戦相手』

 

「いい目をしてますね。反応自体はものすごく速い」

 

 男性が見下ろしながら講評する。

 

「でも、刃物を生身の人間の方へ向ける、その最後の瞬間にブレーキを踏んで止まってますよ」

 

「……見えすぎるんですよ」

 

 久我はマットに大の字になりながら、荒い息を吐いた。

 

「ここに刃を入れたら相手がどう壊れるか、血流と内臓の動きが嫌でも透けて見える。刺せませんよ、普通」

 

「ああ、なるほど。それは吸血鬼型の魔眼持ちだと、精神的にかなりキツいでしょうね」

 

 防護壁の外で、澪が自身の腕を抱きしめながら小さく頷いていた。

 

「分かる……血が出るかもって思うと、怖くて手が出せないんですよね……」

 

 かれんがタブレットに視線を落としながら、静かに分析を口にする。

 

「久我さんは、怪異相手には躊躇なく核を狙えます。しかし人間相手だと、魔眼の過剰な視覚情報が完全に倫理的ブレーキとして働いてしまっていますね」

 

「悪いことじゃねえさ。むしろ、力を持った最初の段階じゃ、そのくらい臆病な方がいい」

 

 源がワンカップを煽りながら弁護する。

 

「ラスト一本、いきましょうか」

 

 男性が構え直す。

 

 久我はゆっくりと立ち上がり、深く息を吸い込んだ。

 

(まともに組み合ったら、絶対に勝てない。身体の使い方も、対人戦の経験値も違いすぎる)

 

 人間相手に刃物は向けられない。なら、どうする。

 

(ナイフで刺すんじゃない。牽制して、距離を作るんだ。魔眼で見えた情報を、攻撃ではなく『回避と判断』に全振りしろ)

 

 開始のブザーが鳴る。

 

 男性が沈み込み、特有のステップで一気に間合いを詰めてくる。

 

 久我は今度は踏み込まなかった。

 

 半歩だけ後ろに下がり、左手に持っていた強光ライトのスイッチを、相手の目の前で一瞬だけフラッシュさせた。

 

「っ!」

 

 男性の目がわずかに細まり、突進の軌道がほんの数ミリだけズレる。

 

 久我はそのズレを見逃さなかった。魔眼で相手の重心が左に偏ったのを読み取り、右側へ大きくスライドする。

 

「お、今のはいい動きだ」

 

 外で源が声を上げた。

 

「観測役としての、的確な判断と距離管理ですね」とかれん。

 

 初めて、一方的に倒されずに間合いをキープした。

 

 だが、十年選手のベテランは甘くなかった。

 

 男性は視界を奪われた状態のまま、音と足捌きだけで久我の移動先を予測し、瞬時にリカバリーして肉薄してきた。

 

(速い、捕まる――!)

 

 久我は倒される直前、ナイフの刃ではなく峰の部分のセンサーを、男性の伸ばしてきた腕にギリギリで当てた。

 

 直後、足払いを受けて三度目の転倒。

 

『POINT:久我』

 

『POINT:対戦相手』

 

 相打ち気味のポイント判定だった。

 

 最終的なスコアは、圧倒的な大差で男性の勝利。

 

『MATCH END』

 

『WINNER:対戦相手』

 

 久我はマットに仰向けのまま、天井の白い照明を眩しそうに見つめた。

 

「……普通のおじさん、強すぎません?」

 

 男性が笑いながら手を差し伸べてくる。

 

「一見普通のおじさんでも、能力者の世界で十年も生き残ってると、こういう厄介な戦い方になるんですよ」

 

 久我はその手を取って立ち上がった。

 

「十年、ですか」

 

「新人さんは、とにかく目が良すぎますね。見えすぎる分、頭で考えすぎて身体が止まってしまう。あと、格闘技のセオリーを知らないから、間合いを詰められた時の選択肢が極端に少ない」

 

「身に染みました……」

 

「でも、最後はちゃんと武器と視界を使って距離を作れてましたよ。あの判断力があれば、まだまだ伸びます」

 

「ありがとうございます。……普通のおじさんに手も足も出ずにボコボコにされる経験なんて、人生でそうあることじゃないんで、貴重でした」

 

「最高の褒め言葉として受け取っておきます」

 

       *

 

 フィールドを出ると、澪が心配そうに駆け寄ってきた。

 

「陽介さん、大丈夫ですか!? 痛いところないですか!?」

 

「身体は大丈夫です。ただ、心が少しだけマットの上に落ちてます」

 

「私、やっぱり対人戦は怖いです……見えすぎるのも、血が出るのも……」

 

「俺も同じ気持ちです」

 

 かれんがタブレットを操作しながら、冷徹な講評を始める。

 

「今回分かったことは三つです。一つ、久我さんの魔眼は対人戦においても情報収集能力として極めて有効であること。二つ、しかし視覚情報が多すぎるため、倫理的ブレーキがかかり判断が遅れること。三つ、対人格闘の基礎がないため、接近戦に持ち込まれるとあっさり崩されること」

 

「耳が痛いですね」

 

「子鬼相手なら、見て刺すだけの作業で済みますからね」と源が笑う。「でも人間相手は、こっちが見ていることを利用してフェイントをかけてくる。相手も必死に考えてるからな」

 

「源さんの趣味が少しだけ理解できましたが、共感はまだできません」

 

 かれんが端末をパタンと閉じた。

 

「今後の課題が見えました。久我さんには、基本的なナイフ訓練に加えて、接近された際の緊急離脱訓練を組み込みます。あと、ライトや環境を利用した距離管理も徹底的に伸ばしましょう」

 

「つまり、俺の夜の宿題がまた増えるってことですね」

 

「はい」

 

「会社員なのに、本業以外の謎の研修タスクがどんどん増えていく……」

 

 訓練を終え、一行は再び休息スペースへと戻った。

 

 久我は自販機で買った冷たいスポーツドリンクを喉に流し込む。

 

 隣では澪が相変わらず心配そうに久我を見つめ、源は楽しそうにワンカップの二本目を開けている。かれんは静かに本日の訓練記録をシステムに送信していた。

 

 久我は、ドリンクのペットボトルを握りしめたまま、広い地下空間を見渡した。

 

 様々な年齢、様々な服装の能力者たちが、ある者は疲れ切って仮眠を取り、ある者は情報交換で笑い合い、ある者は真剣な顔で訓練の申し込みをしている。

 

 ここは確かに『鳥カゴ』だ。

 

 社会の枠組みから外れてしまった危険な鳥たちを閉じ込める、見えない檻。

 

 だが同時に、彼らが誰の目も気にせず、ただの「能力者」として羽を休めることができる、唯一の安全な止まり木でもある。

 

(会社でもない。学校でもない。病院でも、役所の窓口でもない。ここは、能力者が能力者として存在していい場所なんだな)

 

「……陽介さん、またここに来ますか?」

 

 澪が上目遣いで尋ねてくる。

 

「来ますよ。めちゃくちゃ悔しいので」

 

「悔しい、ですか?」

 

「そりゃあね。あんな普通のおじさんに、一方的に負けっぱなしっていうのは、三十五歳の男としてはちょっと引き下がれませんから」

 

 源がニヤリと笑った。

 

「いい顔になってきたじゃねえか、旦那」

 

「無茶はしないでくださいね」とかれんが釘を刺す。

 

「しませんよ。分別ある社会人ですから」

 

「社会人って言えば、何でもブレーキになると思ってるな、陽介さん」

 

 いつの間にか合流していた剣持が呆れ顔で言う。

 

「実際、だいたいの場面で社会人の肩書きは強力なブレーキになりますから」

 

 ビルを出ると、地上はすっかり夜の闇に包まれていた。

 

 久我は駅へ向かう人波の中で、振り返って見上げる。

 

 普通のオフィスビルの地下深くに存在する、鳥カゴという名の秘密基地。

 

 そこで自分は、ただの「普通のおじさん」に完膚なきまでに敗北した。

 

 だが、ダンジョンで子鬼を狩って千円札を拾った時とは違う、奇妙な熱が胸の奥に残っている。

 

 怖い。痛い。情けない。

 

 でも――ほんの少しだけ、面白い。

 

 こうして久我陽介は、鳥カゴという非日常の秘密基地において、能力者の世界には怪異よりも遥かに厄介な『普通の人間』がいくらでもいるという現実を、身を以て思い知らされたのだった。

 




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