35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第11話 吸血鬼、日本吸血鬼協会から招待される

 鳥カゴでの模擬戦から数日後の平日、午前十一時。

 

 株式会社〇〇ソリューションズのオフィスで、久我陽介は黙々とPCのキーボードを叩いていた。

 

 画面には、顧客向けのプレゼン資料、若手が作成した見積もり書、他部署からの障害報告書、そして課長からチャットで飛んできた意図不明の追加タスクのリストが開かれている。

 

 魔眼の処理能力と、長年の社畜経験がもたらすタスク分解スキルが完璧に噛み合い、仕事の処理速度は以前よりもさらに上がっていた。

 

「……よし。これで午後の会議用の資料は全部終わったな」

 

 久我は色付きのPC用メガネのブリッジを押し上げ、小さく首を回した。

 

「痛っ……」

 

 肩から背中にかけて、鈍い痛みが走る。

 

 数日前に能力者待機施設の地下で、普通のおじさんに身体能力強化三倍+総合格闘技(MMA)でマットに叩きつけられた時のダメージが、未だに少しだけ残っていたのだ。

 

「久我さん、今日ちょっと肩痛そうですね。大丈夫ですか?」

 

 隣の席の佐藤が、心配そうに声をかけてきた。

 

「ああ、ちょっと運動しただけだよ」

 

(能力者の秘密基地で四十代の男性にボコボコにされました、とは言えないからな)

 

「運動ですか? 久我さんが?」

 

 佐藤が露骨に意外そうな顔をした。

 

「失礼だな。俺だってたまには身体を動かすよ」

 

「いや、すごく健康的でいいと思います! 最近ちゃんと早く帰れてますし、顔色もすっかり良くなりましたもんね!」

 

 佐藤が嬉しそうに笑う。

 

 その視線の先、フロアの奥の自席から、総務の高橋がこちらを見つめて小さく頷いていた。

 

 久我は苦笑を噛み殺した。

 

(俺が今、こうして社会人としてこの席に座れて定時で帰れているのは、高橋さんのおかげでもあるんだよな……)

 

 吸血鬼としての夜の活動と、昼間の会社員としての日常。

 

 綱渡りのような二重生活だが、周囲の善意と行政の支援のおかげで、今のところどうにか破綻せずに回っていた。

 

       *

 

 午後一時。

 

 昼休憩を終えて席に戻った久我の私用スマートフォンが、鞄の中で短く震えた。

 

 画面を確認すると、八咫烏の専用アプリ経由で一通のメッセージが届いていた。

 

 差出人の名前に、久我は一瞬だけ仕事の手を止めた。

 

『差出人:日本吸血鬼協会』

 

『件名:新規覚醒者歓迎会 正式招待のご案内』

 

 ……日本吸血鬼協会?

 

 文字の圧に戸惑いながらも、久我は周りの目を盗んでこっそりと本文を開いた。

 

『久我陽介様

 

このたびは、吸血鬼型能力者としての仮登録および初期安定処置が無事に完了されましたことを受け、日本吸血鬼協会より、新規覚醒者歓迎会へのご案内を申し上げます。

 

本会は、新たに覚醒された吸血鬼型能力者の皆様に、同族との交流、生活上の情報共有、および当協会が提供する支援制度の説明を行うためのものです。

 

なお、会場への移動は協会指定の転移門(ゲート)にて行います。指定時刻に、本メール下部の指定座標へお越しください。

 

日本吸血鬼協会 新規覚醒者担当』

 

「……転移門」

 

 久我は無意識のうちに呟いていた。

 

「久我さん? どうしました?」

 

 佐藤が不思議そうに顔を覗き込んでくる。

 

「いや、なんでもない。ちょっと迷惑メールが来てただけ」

 

 久我は慌ててスマホを伏せ、エクセルの画面に視線を戻した。

 

(日本吸血鬼協会……案内文の途中で、急に異世界ファンタジーの単語を自然に混ぜてくるなよ)

 

 直後、今度はチャットアプリの通知が連続で鳴った。

 

 相手は七瀬澪だった。

 

『澪:陽介さん! 日本吸血鬼協会から招待のメール来ました!?』

 

『澪:転移門って書いてあるんですけど!? 異次元ゲートですか!?』

 

『澪:私、こういうの初めてなんですけど、どうしたらいいですか!?』

 

 画面の向こうで完全にテンパっている澪の姿が目に浮かび、久我は思わず小さく吹き出した。

 

 すぐに返信を打つ。

 

『久我:来ました。俺もこういうのは初めてです。とりあえず今日の夜、皇さんに詳細を確認してみましょう』

 

『澪:はいっ! 陽介さん、一緒に行ってください! 私、一人で吸血鬼のパーティーに行くのはちょっと怖いです!』

 

『久我:俺も一人は怖いので、一緒に行きましょう』

 

 三十五歳と十六歳。

 

 世代も立場も違う二人の吸血鬼だが、未知のオカルトイベントに対する怯えのベクトルは完全に一致していた。

 

       *

 

 退勤後。

 

 久我は駅前の静かなカフェで、皇かれんと合流した。

 

 少し遅れて、学校指定の鞄を持った澪が、制服姿のまま小走りでやってきた。

 

「お疲れ様です! 陽介さん、かれんさん!」

 

「お疲れ様。急に呼び出して悪かったね」

 

「いえ! 私、気になって授業どころじゃなかったですから!」

 

 澪は席に座るなり、スマホの画面をかれんへ突き出した。

 

「あのっ、かれんさん! 転移門って、本当に異世界に繋がるゲートなんですか!? ダンジョンの入り口みたいなやつですか!?」

 

 かれんはアイスティーのグラスを置き、冷静に答えた。

 

「技術体系としては似ていますが、用途が違います。日本吸血鬼協会の招待ゲートは、野生の異界ではなく、協会が独自に管理・構築している異次元空間への一時的な接続です」

 

「異次元空間への一時接続」

 

「はい」

 

「皇さん、最近説明が普通にSFとファンタジーの境界線を反復横跳びしてますね」

 

「慣れてください」

 

「その言葉が最近一番怖いんだってば」

 

 久我のツッコミを華麗にスルーし、かれんは協会の概要について説明を始めた。

 

「日本吸血鬼協会は、吸血鬼型能力者によって構成された互助組織です。八咫烏とは別の独立した機関ですが、長年の強固な協力関係にあります」

 

「つまり、公的な行政組織ではないってことですか?」

 

「民間団体に近い立ち位置ですが、会員の多くが八咫烏の登録能力者であり、行政の認可を受けた正式な協力組織です。血液製剤の配布ルートの改善要求、吸血鬼型特有の生活相談、職場・学校・家族へのカミングアウト対応、そして同族間の交流をメインに担っています」

 

「吸血鬼同士の交流……」

 

 澪が呟く。

 

「最大の目的は孤立防止です。吸血鬼型は、他の能力分類に比べて生活スタイルの変化が極端に大きいマイノリティですから」

 

 血液の摂取、日光過敏、完全な夜型化、そして飢餓衝動の管理。

 

 確かに、これらを一人で抱え込んで普通の社会生活を送るのは不可能に近い。

 

「協会の歓迎会って、具体的に何をするんですか?」

 

「新規覚醒者の顔見せ、先輩吸血鬼との交流、生活上の注意点の共有、協会独自の支援制度の案内などです。表向きは華やかな懇親会ですが、実態はただの情報交換と孤立防止のセーフティネットです」

 

「パーティーの皮を被った互助会か」

 

「その認識でおおむね合っています」

 

 澪が恐る恐る手を挙げた。

 

「あの……怖い人とか、いませんか? すごく古くて偉い吸血鬼とか……血を飲む怪しい儀式とか……」

 

「安心してください。会場内での生身からの直接吸血は厳格に禁止されていますし、オカルト的な儀式も一切ありません。提供される飲食物は、すべて衛生管理された医療用血液製剤と一般食品のみです」

 

「それをわざわざ明言しなきゃいけない時点で、十分に怖いんですけどね」

 

「誤解されやすい分類ですので」

 

 かれんは淡々と告げた後、少しだけ声のトーンを落とした。

 

「ただし、当日、指定されたゲートをくぐって、すぐに華やかな歓迎会場へ通されるわけではありません」

 

「え、違うんですか?」

 

「初参加の新規覚醒者は、まず協会側の受付空間にて厳重な認証を受けます。血液反応のチェック、飢餓衝動の安定度テスト、未成年者の滞在時間制限の確認、当日のドリンク摂取可能量の上限設定、そして会場内ルールの詳細な説明です」

 

「えっ……そんなにあるんですか?」

 

 澪がげんなりとした顔になる。

 

「あります。吸血鬼型の会合は、管理を一歩間違えれば大惨事に直結しますから。空腹状態の参加者がいないか、未成年の吸血鬼がいないか、覚醒直後で理性が不安定な新規がいないか、血液製剤のアルコール濃度に相当する成分は許容量か、日光過敏への配慮はされているか、感情の高揚による暴発リスクはないか。……すべてが厳格な管理対象です」

 

「吸血鬼のパーティー、入場前の事務処理が重すぎる」

 

「現代日本ですから」

 

「出た」

 

 当日の服装についても確認しておく必要があった。

 

「久我さんは、いつものスーツで構いません。過度に装飾や仮装をする必要はありません」

 

「……スーツで吸血鬼のパーティーに行くの、逆に浮いて変じゃないですか?」

 

「社会人の吸血鬼の多くは、仕事帰りにスーツで参加します。むしろ一番無難で目立ちません」

 

「吸血鬼の世界になっても、スーツが正装として最強なのか……」

 

「私は、この制服のままでもいいですか?」

 

 澪が尋ねる。

 

「構いません。ただし、未成年参加者であることが一目で分かるように、入り口で協会側の識別リボンが渡されますので、必ず着用してください」

 

「識別リボン……」

 

「吸血鬼の未成年マークか」

 

「絶対に必要な措置です。未成年者には、摂取できる血液製剤の濃度や滞在時間に法的な制限がかけられていますから」

 

「えー……」

 

「えー、ではありません。ルールです」

 

「澪さん、そこは大人しく従いましょう」

 

「はーい……」

 

       *

 

 歓迎会の当日までの数日間、久我は少しだけそわそわしていた。

 

 とりあえず、一番マシなスーツをクリーニングに出した。八咫烏から支給された遮光グラスの汚れを拭き取り、鞄の中に緊急用の血液パウチを一本忍ばせる。

 

 かれんからは「会場内に管理された血液製剤が豊富に用意されているので、緊急用だけ持参してください」と言われている。

 

 一番悩んだのは、会社の名刺入れを持っていくべきかどうかだった。

 

(……吸血鬼協会のパーティーで、株式会社〇〇ソリューションズの営業名刺を配る三十五歳。これ、社会人として正しいのか間違っているのか、誰かビジネスマナー講師に正解を教えてほしい)

 

 迷った末に、一応名刺入れを鞄の底に放り込んだ。

 

 澪も澪で、服装にかなり悩んでいるようだった。

 

 前日の夜、チャットアプリで相談が来た。

 

『澪:制服と私服、どっちがいいと思いますか!?』

 

『久我:皇さんは制服でもいいと言っていましたよ』

 

『澪:でも、吸血鬼協会のパーティーですよ!? 普通の高校の制服だと浮きませんか!?』

 

『久我:俺は普通のスーツなので、制服でもバランスは取れると思います』

 

『澪:それは、大人と学生としての保護者的なバランスでは?』

 

『久我:たしかに』

 

 結局、澪は当日の気分で決めるということになった。

 

       *

 

 そして、歓迎会当日の夜。

 

 指定された集合時刻は、午後七時三十分。

 

 ゲート開門時刻は、午後七時五十分。

 

 場所は、都内のオフィス街の一角にある、古びたビルの裏口前だった。

 

 人通りは少ないが、大通りに出れば普通のサラリーマンや学生が歩いている、ごくありふれた街並みだ。街灯が一つ、薄暗い光を落としている。

 

 久我はクリーニング下ろしのスーツ姿。

 

 少し遅れてやってきた澪は、高校の制服の上に、少しだけ綺麗めな淡い色のカーディガンを羽織っていた。学生感を残しつつ、少しだけおめかしをした形だ。

 

 かれんも付き添いとして来ていたが、いつもの制服姿のままで、どこかリラックスしている。

 

「陽介さん、緊張してます?」

 

 澪が、カーディガンの袖をきゅっと握りしめながら聞いてきた。

 

「してますよ。会社の役員懇親会に参加する時より、遥かに緊張してます」

 

「そんなにですか?」

 

「会社の役員は、乾杯の挨拶のあとに血液ドリンクを出してきませんからね」

 

「それはそうですね」

 

「直接吸血やオカルト儀式はありませんと、何度言ったら理解してもらえるんですか」

 

 呆れ顔のかれんに、久我は即答した。

 

「何度聞いても安心しきれないのが、一般社会人の性なんですよ」

 

 開門時刻が近づき、かれんが最後の注意事項を口にする。

 

「指定時刻になりゲートが開いたら、中から協会の迎え役が出てきます。案内があるまで、絶対に勝手に中へ入らないでください」

 

「勝手に入る人がいるんですか?」

 

「稀に、せっかちな新人が」

 

「いるんだ……」

 

 澪が呟く。

 

「異次元接続は、外から見て安定しているように見えても、協会側の通行権限がシステムで確認される前に入り込むと、転送先が受付空間ではなく中間空間でエラー停止することがあります」

 

「中間空間」

 

「次元の迷子になります」

 

「異次元迷子は絶対に嫌だ」

 

「ですので、必ず迎え役の指示に従ってください。いいですね?」

 

「はいっ!」

 

「絶対に従います」

 

 久我と澪が深く頷くのを見て、かれんは少しだけ表情を和らげた。

 

「私はここまでです。協会内部では、協会側の案内役の指示に従ってください」

 

「えっ、皇さんは来ないんですか?」

 

「八咫烏側の監督として、外部での通信連絡は受け付けます。ですが、今回の会はあくまで吸血鬼型同士の交流が主目的です。非吸血鬼である八咫烏の人間が同席すると、参加者が腹を割って話しづらくなりますから」

 

 澪が不安そうに久我の袖を掴んだ。

 

「かれんさんがいないの、ちょっと不安です……」

 

「澪さんは久我さんと一緒です。久我さん、澪さんを絶対に一人にしないこと」

 

「もちろんです」

 

「久我さんも、何かイレギュラーがあればすぐに連絡してください」

 

「分かりました」

 

 久我は、かれんの言葉の端々に、不器用ながらも確かな信頼が混じっているのを感じていた。

 

「もう一つだけ」

 

 かれんは久我の目を真っ直ぐに見つめた。

 

「久我さん。協会の中には、久我さんよりも遥かに過酷で大変な経験をしてきた吸血鬼が多くいます。彼らの身の上話を聞きすぎて、精神的に引きずられないようにしてください」

 

「……分かりました」

 

「貴方は、他人の事情を自分の責任のように重く抱え込みがちです」

 

「俺、そんなことあります?」

 

「あります」

 

「ありますね」

 

「澪さんまで」

 

 二人に即答され、久我は苦笑した。

 

 午後七時五十分。

 

 久我の腕時計がゲート開門時刻を指した、その瞬間。

 

 周囲の街の喧騒が、すっと遠のいた。

 

 久我の魔眼が、反射的に熱を帯びる。

 

 何もない空間の空気に、赤い線が走った。まるで、見えない巨大なナイフで空間そのものに切れ目を入れたように、縦に一本、深紅の裂け目が口を開いた。

 

「……っ」

 

「これが、転移門……」

 

 裂け目がゆっくりと左右に広がる。

 

 その中には、暗い赤の光と、黒い石造りの床。足元には豪奢な赤い絨毯が敷かれ、遠くにはアンティークな蝋燭のような照明が揺れているのが見えた。

 

 ゲートの向こうから、少し冷たい空気が流れ込んでくる。

 

 血生臭くはない。

 

 むしろ、古い図書館と高級ホテルのラウンジを混ぜたような、上品で静謐な匂いだった。

 

(ダンジョンの無骨なゲートより、ずっと演出が吸血鬼っぽいな)

 

 ふと視線を横に向けると、大通りを歩くサラリーマンがスマホを見ながら普通に通り過ぎていく。

 

 誰も、この異様な光景に気づいていない。

 

「周囲の人、誰も気づいてないんですが」

 

「認識阻害の結界が展開されています」

 

「現代日本の道端で異次元ゲートがパッカーンと開いているのに、認識阻害の一言で済ませるな」

 

「済んでいます」

 

「済んでるのが怖いんだよ」

 

 ゲートの向こうの赤い絨毯の上を、足音を忍ばせて一人の女性が近づいてきた。

 

 年齢は三十代前半くらいに見えるが、吸血鬼の実年齢は外見では測れない。落ち着いた黒のドレススーツに身を包み、首元には協会の紋章らしき銀のブローチを光らせている。

 

 丁寧で柔らかい物腰だが、その洗練された所作には確かな吸血鬼としての格の高さが滲み出ていた。

 

「久我陽介様、七瀬澪様ですね。日本吸血鬼協会、新規覚醒者歓迎会へのご招待を承っております」

 

「あ、はい。久我です」

 

「な、七瀬澪です……!」

 

 女性は優雅に微笑み、一礼した。

 

「案内役の白石玲奈と申します。本日はお越しいただき、誠にありがとうございます。……まずは協会側の受付空間にて、入場認証と事前説明を行わせていただきます」

 

「歓迎会場へ直行、ではないんですね」

 

「初参加の方を、いきなり広間へお通しすることはございません。特に、久我様は新規覚醒から日が浅く、七瀬様は未成年でいらっしゃいますので、確認事項が多くございます」

 

「ですよね」

 

「確認事項、多いんだ……」

 

 澪が肩を落とす。

 

「現代の吸血鬼の会合は、事前の安全確認とコンプライアンスが命ですから」

 

「吸血鬼協会の人もそれ言うんですね」

 

「はい。現代日本ですから」

 

「決め台詞が組織を越境してきたぞ」

 

 白石は、ゲートの外にいるかれんへ向けて軽く頭を下げた。

 

「皇かれん様。八咫烏側での初期案内、感謝いたします。お二人は当協会で責任を持ってお預かりします」

 

「よろしくお願いします。久我さん、澪さん。何かあれば連絡を」

 

「はいっ!」

 

「行ってきます」

 

 白石がゲートの横へと一歩下がり、手で内側を示す。

 

「それでは、こちらへどうぞ」

 

 澪が一歩踏み出そうとして、少しだけ足を止めた。

 

「怖いですか?」

 

 久我が小声で尋ねると、澪はこくりと頷いた。

 

「ちょっとだけ。……でも、陽介さんが一緒なら大丈夫です」

 

「俺も怖いので、ちょうどいいですね」

 

「怖がり同士ですね」

 

「長生きするらしいですよ、怖がりは」

 

 源の言葉を借りて笑いかけ、久我は澪と共にゲートをくぐった。

 

 足元の感覚が、街のアスファルトから冷たい黒石の床へと変わる。

 

 背後の東京の夜景が、深紅の裂け目の向こうへと遠ざかっていく。

 

 ゲートをくぐった瞬間、空気の質が完全に変わった。街の雑音がすべて吸い取られ、自分の心臓の鼓動だけが少し大きく聞こえる。

 

 久我の魔眼には、この異次元空間の壁の向こう側に、まるで巨大な生物の血管のような赤いエネルギーの線が幾重にも走っているのが見えた。

 

「……これは、またすごいですね」

 

「ようこそ、日本吸血鬼協会へ」

 

 ゲートの向こう。

 

 そこはまだ華やかな歓迎会場ではなかった。

 

 黒い石造りの広い前室。赤い絨毯。高い天井。壁には古い肖像画のようなものが飾られている。

 

 しかし、そのすぐ横には、最新型のタッチパネル式受付端末と、空港の保安検査場にあるような電子認証ゲートが設置されていた。

 

 吸血鬼らしい古風なゴシックの演出と、現代的なIT管理設備がシュールに混在している。

 

「まずは入場認証、血液反応のチェック、未成年者向けの説明、そして新規覚醒者専用の控室へのご案内となります。歓迎会場への入場は、そのすべての確認が終わってからとなります」

 

 白石が流れるような事務的トーンで説明する。

 

「……吸血鬼の異次元ゲートをくぐった先でも、まず受付と事前説明なんですね」

 

「はい、当協会の規定ですので」

 

「でも、なんか……本当に吸血鬼の世界に来たって感じがします」

 

 澪が目を輝かせながら周囲を見渡している。

 

 久我は振り返った。

 

 ゲートの裂け目はすでに閉じられ、もう東京の街の明かりは見えない。

 

 深紅の照明だけが静かに揺れている。

 

(役所、病院、夜の学校、ダンジョン、鳥カゴ。そして今度は、日本吸血鬼協会の異次元受付。……吸血鬼になってから、俺の生活は順調に社会の表通りから逸脱している)

 

 しかし、その逸脱したオカルトの先にも、必ず受付と手続きが存在しているのが現代日本という国の恐ろしさだ。

 

 こうして久我陽介と七瀬澪は、華やかな歓迎会場へ向かう前に、まず日本吸血鬼協会という名の『異次元の受付窓口』へと足を踏み入れたのだった。

 




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