35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第18話 吸血鬼、鳥カゴで一秒だけ長く生き残る

 株式会社〇〇ソリューションズでの業務は、相変わらずグレーな綱渡りが続いていた。

 

 久我陽介は、自席のPCモニターを睨みつけながら、己の中に宿った『魔眼の新能力』を使わないようにする努力と戦っていた。

 

(……見れば、分かる)

 

 遠くから書類の束を片手にこちらへ歩いてくる課長の歩幅、視線、足音のリズム。

 

 それらを『内在時間』でコンマ数秒だけ長く観測すれば、彼がどんな厄介事を押し付けようとしているのか、一瞬で先読みして完全な迎撃態勢を整えることができる。

 

(でも、見たら血が減るんだよな……)

 

 あの能力は、使うと確実に血液を消費する。

 

 仕事の効率化のために、協力病院経由で支給されている貴重な血液パックの残量を減らすのは、社会人の生存戦略として何か根本的に間違っている。

 

 久我はPC用メガネの奥でギュッと目を閉じ、ただの三十五歳の中堅社員として、課長の無茶振りに対して普通の愛想笑いで対応した。

 

「……はい、明日の午前中までに方向性だけまとめておきます」

 

 普通にタスクを受け、普通にスケジュールを調整し、普通に疲れ果てる。

 

 その努力の甲斐もあって、最近は会社で激しい頭痛や飢餓感に襲われることはなくなっていた。

 

 そんな久我の私用スマホに、夕方、八咫烏の専用アプリから無機質な通知が届いた。

 

『鳥カゴ訓練予約:再評価メニュー』

 

『担当:皇かれん』

 

『立会:源玄蔵』

 

『対人訓練協力者:斎藤』

 

(……斎藤さん)

 

 久我は通知の画面を見つめた。

 

 前回、鳥カゴの模擬戦フィールドで、久我を手も足も出ない状態まで完璧にボコボコにしてくれた、『普通のおじさん』の名前だ。

 

「皇さん」

 

 退社後、ビルのエントランスで合流したかれんに、久我は尋ねた。

 

「前回、俺を完封したあのおじさん、斎藤さんって名前だったんですね」

 

「はい。鳥カゴの対人基礎訓練において、最も信頼の厚い協力者の一人です」

 

「肩書きが思ってたより強かった」

 

「元々は民間の大規模警備会社で、特殊格闘術の指導員を務めていた方です。能力者として覚醒後に『身体能力強化』を得てからは、現場の第一線ではなく、後進の育成や新人能力者の基礎対人訓練を主に担当していただいています」

 

「……全然、ただの普通のおじさんじゃないじゃないですか」

 

「最初から普通ではありません。私が『フラットな能力の使い手』と言ったのを、久我さんが勝手に一般人のおじさんだと誤認しただけです」

 

「前回、あの鳥カゴの空間で俺だけが普通のおじさんだと思って、変に安心していたのか」

 

 自分の認識の甘さに頭を抱えながら、久我はかれんと共に地下の能力者待機施設――鳥カゴへと向かった。

 

       *

 

 地下五階。

 

 相変わらず、古い公共体育館とスポーツジム、そして秘密基地を混ぜ合わせたような巨大な空間には、様々な能力者たちが思い思いの時間を過ごしていた。

 

 畳敷きのストレッチスペース、ラバーマットが敷かれたウェイトエリア、そして天井まで透明な防護壁で覆われた模擬戦フィールド。

 

 久我は、前回の敗北の記憶が染み付いた『501―1』エリアの前で、一つ深呼吸をした。

 

「……正直、ここへ来るのに今日はちょっと勇気が要りましたよ」

 

「前回の完敗がトラウマ化する前に、もう一度安全な条件で記憶を上書きしておく方が精神衛生上も実務上も良いのです」

 

「治療方針が荒療治すぎませんか」

 

「必要ですから」

 

 見学スペースのベンチでは、源がすでにワンカップの酒を傾けていた。

 

「おう、来たか。今日はどれだけ長く殴られずに済むか、見ものだな」

 

「応援の言葉が控えめに言って最悪ですね」

 

「死ななきゃ、全部成長だ。現場じゃそれが真理だぞ」

 

「それ、完全に上級者のサバイバーバイアスのかかった理屈ですよね」

 

 フィールドの扉が開き、斎藤が入ってきた。

 

 四十代後半から五十代前半。

 

 少し腹が出ているようにも見えるヨレたジャージ姿。

 

 柔らかい笑顔。

 

 どこからどう見ても、近所のスポーツクラブに通っていそうなおじさんだ。

 

 だが、今の久我には分かっていた。

 

 彼の立ち姿には、一切の『崩れ』がない。

 

 歩幅は常に一定で、足音は異様なほどに静か。

 

 肩も腰も、いつでも爆発的に動けるように完璧に脱力している。

 

「久我さん、お久しぶりです。前回はお疲れ様でした」

 

「こちらこそ、その節は全身の筋肉痛が大変お世話になりました」

 

「今日は再戦というより、あれからどれくらい『変化』したかを見るための確認ですからね。気楽に行きましょう」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

 斎藤はにこにこと笑いながら、久我の目を覗き込んだ。

 

「かれんさんから、前より『動けるようになった』と伺っていますよ」

 

「あー……動体視力が、少し上がったということになっています」

 

「ということになっている、ね」

 

 外のベンチで、源が楽しそうに喉の奥で笑った。

 

(……この施設、年長者ほど言葉の裏の『言外のニュアンス』を拾いすぎるんだよな)

 

 訓練の前に、かれんがマイクを通して厳密なルール確認を行った。

 

「本日のルールです。斎藤さんは、身体能力強化を低出力から段階的に使用してください。久我さんは魔眼の使用を許可します。双方は武器なし。斎藤さんの手が久我さんの肩・胸・背中のいずれかに明確に触れたら、斎藤さんの一本。久我さんが斎藤さんの手首・肩・胴のいずれかに安全に触れられたら、久我さんの一本とします」

 

 前回と同じような、完全なポイント制の寸止めルールだ。

 

「投げ技、関節技は禁止。首から上への接触も禁止。……また、久我さんが頭痛、飢餓感、視界のノイズを訴えた場合は即時停止とします。加えて」

 

 かれんの声が、少しだけ一段低くなった。

 

「外在干渉らしき強い能力反応が出た場合も、直ちに訓練を停止します」

 

 久我がビクッと反応した。

 

「……外在干渉らしき強い反応?」

 

「前回の御影坂のボール訓練で、不自然な魔眼の反応数値が記録されました。現時点では魔眼の観測精度向上として扱っていますが、もし同様の反応が『人体』に対して起きた場合、予期せぬ危険性を考慮してストップをかけます」

 

(完全に警戒されてる……)

 

 久我は内心で冷や汗を拭いながら頷いた。

 

「分かりました。無理はしません」

 

(俺自身も、人体にあの『外在時間干渉』を使うつもりは一切ない。あれは重すぎるし、何よりリスクが未知数だ)

 

『第一ラウンド、開始』

 

 最初は、斎藤が低出力でゆっくりと動く。

 

 久我は『内在時間』のスイッチを入れず、通常の魔眼による動体視力だけで相手を見た。

 

「では、行きますよ」

 

 斎藤が踏み込む。

 

 見える。

 

 前回とは比べ物にならないほど、相手の動きの情報がクリアに見える。

 

 肩の脱力。

 

 足裏がマットを捉える圧。

 

 重心の移動。

 

 手首の角度。

 

 だが。

 

 見えているのに、身体がそれに追いつかない。

 

 ポン、と。

 

 久我が反応して身体を捻るよりも早く、斎藤の掌が久我の胸に触れていた。

 

「一本」

 

 久我は悔しそうに顔をしかめた。

 

「……見えてはいたのに」

 

「ええ。相手の動きが『見える』ようになったのは、前回からの非常に大きな前進ですよ。でも、目から入った情報を、筋肉に伝達して身体を動かす回路が、まだ細すぎますね」

 

 外で、かれんがタブレットに記録を打ち込む。

 

「通常状態での反応猶予は増えていますが、身体操作のディレイが課題ですね」

 

「目だけはいっちょ前に新人卒業だが、身体はまだ完全な素人の新人だな」

 

 源の容赦ないヤジに、久我は肩を落とした。

 

「的確すぎる分析だけど、シンプルに傷つく」

 

『第二ラウンド、開始』

 

 久我は、ここで初めて『内在時間』を薄く発動させた。

 

 ズン、と周囲の空気が重くなる感覚。

 

 斎藤の踏み込みが、さらに分解されて遅く見える。

 

 前回なら一瞬で間合いを詰められていた距離が、スローモーションのコマ送りのように視界に焼き付く。

 

 右足の接地。

 

 左肩のわずかな沈み込み。

 

 視線の誘導。

 

(……来る)

 

 だが、久我の魔眼は、その初動の奥にある『嘘』を捉えていた。

 

(違う。本命は左じゃない。これは逆手のフェイントだ)

 

 久我は、一瞬だけ右へ動こうとした身体を強制的に止め、半歩だけ左後ろへ下がった。

 

 直後、斎藤の右手が久我の顔の前を空振りして通り過ぎる。

 

「おっ」

 

 斎藤が声を上げた。

 

 だが、安堵したのも束の間。

 

 斎藤の空振りしたはずの右腕が、滑らかに軌道を変え、そのままの勢いで左手による追撃へと移行した。

 

 ポン。

 

「一本」

 

 久我は膝に手をついた。

 

「……避けた、と思ったのに」

 

「最初のフェイントは、完璧に見破りましたね。素晴らしい反応でした」

 

 斎藤が、本当に嬉しそうに目を細めて褒めてくれた。

 

「ただ、そのフェイントを避けた後の『次の手』まで想定できていませんでした。対人戦は、避けて終わりじゃないんです」

 

「……一手先しか、見えてない」

 

「前回は、その一手目のフェイントすら見えていませんでしたからね。確実な進歩ですよ」

 

 ちゃんと言葉にして褒めてくれるおじさんの優しさに、久我の社会人メンタルが少しだけ救われた。

 

『第三ラウンド、開始』

 

 久我は、今度は内在時間の使い方を変えた。

 

 前回のように、発動したまま引き伸ばすのではない。

 

 相手が動く『直前』の瞬間だけ。

 

 必要な情報が欲しいタイミングだけ、カメラのシャッターを切るようにカチッ、カチッと短く断続的に発動させる。

 

(常時スローモーションにしようとすると、すぐに頭痛がして血が減る。必要な瞬間だけ、細かく切り取るんだ)

 

 この操作により、燃費の悪さが劇的に改善される感覚があった。

 

 斎藤が再びフェイントを入れる。

 

 久我は、今度は相手の肩や視線ではなく、『腰の回転』と『足裏の力の向き』にフォーカスを絞った。

 

(肩の動きは嘘だ。足裏のベクトルの向きが本命)

 

 久我は右ではなく、左へ身体を逸らす。

 

 斎藤のフェイントの右手が空を切る。

 

 そして、先ほど食らった二手目の左手の追撃。

 

 久我はそれも読んで、さらに半歩下がる。

 

 空振り。

 

「おっ!」

 

 斎藤が驚きの声を上げた。

 

 だが、そのわずかな体勢の崩れを突くには、久我の動きはまだ遅すぎた。

 

 斎藤が素早く体勢を立て直し、三手目の鋭い踏み込みで、久我の背中に軽くタッチした。

 

「一本」

 

 久我は荒い息を吐きながら、顔を上げた。

 

「……今度は、二手目までは見えました」

 

「ええ。今のはすごく良かったです」

 

 斎藤が破顔した。

 

「フェイントを『目』や『手』の動きで追うんじゃなくて、身体の『起こり』を見ましたね」

 

「起こり、ですか」

 

「攻撃っていうのは、実際に手足が動く前に、必ず身体のどこかで準備動作が始まります。肩の強張り、腰の捻り、足裏の踏み込み、呼吸の変化。……そこを正確に見られるようになれば、反応速度は一気に跳ね上がりますよ」

 

「魔眼で情報が見えていても、見るべき場所を間違えたら、結局意味がないってことですね」

 

「その通りです」

 

 実践的な戦闘理論の指導に、久我は深く納得した。

 

 それから、数本、数十本とラウンドが繰り返された。

 

 結果として、久我はまだ一度も勝てていない。

 

 全敗だ。

 

 でも、確かな変化があった。

 

『負け方』が変わったのだ。

 

 最初は、一歩も動けずに触られていた。

 

 次は、フェイントを一つだけ捌けるようになった。

 

 次は、二手目まで読めるようになった。

 

 次は、触られる場所を肩から袖口へとわずかにズラせるようになった。

 

 そして今は、完全に触られる前に、ステップで距離を切れる回数が増えてきた。

 

「……接触までの猶予時間が、確実に伸びていますね」

 

 かれんがタブレットの記録を見ながら呟く。

 

「粘れるというのは、とても大事なことなんです」

 

 斎藤がタオルで汗を拭きながら、真剣な顔で言った。

 

「一秒長く残れば、その間に仲間が助けに入れる。一秒長く相手を見れば、その分だけ相手の癖が分かる。一秒長くその場に立っていれば、逃げるか戦うかの次の選択肢が生まれるんです」

 

(……一秒だけ、長く生き残る)

 

 久我は、その言葉を胸の中で反芻した。

 

 休憩中。

 

 久我は保冷ケースから血液パックを取り出し、少しだけ喉に流し込んだ。

 

「久我さん、強さの質が変わりましたね」

 

 斎藤がスポーツドリンクを飲みながら声をかけてきた。

 

「質、ですか?」

 

「前回は、魔眼で見えすぎた情報に完全に振り回されていました。目だけが先に行って、恐怖で身体が置いていかれていた。……でも、今日は違います」

 

 斎藤は、感心したように久我を見た。

 

「見た情報を、一度頭の中で整理してから動いている。じっくりと考えて動いている感じがします」

 

「……じっくり考えて動くって、対人戦闘の場では致命的に遅くないですか?」

 

「普通は遅いです。一瞬の判断の遅れが命取りになりますから。でも、あなたはなぜか、その『考える時間』を、ほんのわずかだけ作れている」

 

 久我は内心でドキッとした。

 

「それが異常な動体視力のおかげなのか、魔眼の特異な処理能力なのかは分かりません。でも、戦い方としては非常に面白い。……力でガンガン押すタイプじゃない。相手の動きの『流れ』を見て、少しずつズラして躱すタイプです」

 

「……なんか、仕事のやり方みたいですね」

 

「多分、長年の仕事の癖が出ているんだと思いますよ」

 

「嫌なところで社畜経験が活きてるな」

 

「いえ、それは紛れもなくあなたの長所です」

 

 おじさんが、自分の泥臭い成長をちゃんと客観的な言葉にして褒めてくれる。

 

 その事実に、久我は少しだけ救われる思いがした。

 

「……何回か使ってみて、少し燃費がマシになってきた気がします」

 

 久我は、かれんの方へ向き直って小声で共有した。

 

 もちろん『時間干渉』という単語は伏せたまま。

 

「具体的には?」

 

「最初は、発動するたびに血がごっそり減って、頭痛がする感じがありました。でも今は、常時使うんじゃなくて、相手が動く直前の『必要な瞬間』だけ短く入れると、消耗がかなり少ないんです。カメラの連写じゃなくて、ここぞという時にシャッターを切る感覚というか」

 

「なるほど。断続的な発動で消費エネルギーを抑え込んでいる、ということですね。よい感覚だと思います。魔眼の制御訓練としても理にかなっています」

 

(……内在時間の制御。今は、これが俺の生存のためのメインツールだ)

 

 久我は自分の中で結論づけた。

 

(逆に、外在時間へ触れる方は、まだ完全に別物だ。御影坂でボールに使った時も、今日こうして人体に使うことを想像しただけでも、血を根こそぎ持っていかれるような感覚がある。体感では、内在時間の十倍近く燃費が悪い。たぶん、自分の中だけで完結する内在時間と違って、外の世界そのものに手を伸ばすからだ)

 

 無機物相手なら、まだ軽い。

 

 けれど生命や、強い意志を持った能力者相手に使えば、相手の抵抗ごとねじ伏せることになる。

 

 サンプルが少ないので断定はできない。

 

 だが、今の自分が斎藤や剣持のような強い相手に外在時間を使えば、相手を止める前に、こちらが先に干からびる。

 

 そんな直感だけは、妙にはっきりしていた。

 

(外在時間は、まだ武器じゃない。少なくとも今は違う。まずは、自分の時間を整える。内在時間を短く、正確に、必要な瞬間だけ使う。それが先だ)

 

『最終ラウンド。ラスト一本いきましょう』

 

 斎藤が再びフロアの中央に立つ。

 

「外部対象への能力干渉は禁止。久我さんは自身の知覚加速のみ使用可とします」

 

 かれんが最終条件を告げる。

 

「分かりました」

 

 久我は深く息を吐き、構えた。

 

 常時発動はしない。

 

 斎藤の『目』ではなく、『全体』を見る。

 

 足裏。

 

 腰。

 

 肩。

 

 呼吸。

 

 視線。

 

 そして、何度も負けたことで少しずつ分かってきた、斎藤の『癖』。

 

(斎藤さんは初心者相手の訓練だと、最初は威圧感を与えるために必ず『右肩』へ触りに来る癖がある。……ただし、俺が右へ逃げると、すかさず左で追ってくる。さらに後退すると、今度は足を止めさせる角度で深く入ってくる)

 

 久我は、一手目を避けることだけを考えなかった。

 

 二手目まで、相手を『誘導』する。

 

「行きます」

 

 斎藤が踏み込む。

 

 久我は、その瞬間に内在時間を短く入れた。

 

 予測通りの右。

 

 久我はそれを最小限の動きで避ける。

 

 斎藤が、予定通りに左手で追撃してくる。

 

 久我は、ここで後ろへは逃げなかった。

 

 一瞬だけ、前へ――斎藤の懐の『内側』へと踏み込んだ。

 

「……っ!?」

 

 斎藤の追撃の腕の内側へ、久我の手が滑り込む。

 

 そして、久我の指先が、斎藤の前腕にトン、と軽く触れた。

 

 ピタリと、斎藤の動きが止まった。

 

「接触確認。……久我さんの一本です」

 

 かれんのアナウンスが響く。

 

「……取れた?」

 

 久我は自分の指先を見つめ、自分自身が一番驚いていた。

 

「はい。今のは、見事なくらい綺麗でした」

 

 斎藤が目を丸くして笑う。

 

「いや、偶然では……?」

 

「半分は偶然でしょうね」

 

「正直ですね」

 

「でも、残り半分は確実な『狙い』です。私の二手目を誘って、外へ逃げずに内側へ入った。前回の久我さんなら、絶対に選べない、選ぼうともしない動きでした」

 

「……前に入るの、めちゃくちゃ怖かったです。殴られるかと思いました」

 

「怖いところへ、見えている確かな根拠を持って踏み込んだ。それは、途方もなく大きな進歩ですよ」

 

 見学スペースから、源がワンカップを掲げた。

 

「ようやく、一秒だけ戦えるようになったな、旦那」

 

「たった一秒だけ、ですか」

 

「最初は一秒で十分だ。一秒稼げば、仲間が斬る。仲間が撃つ。仲間が逃げる。……戦場じゃ、その一秒が命を分けるんだよ」

 

 訓練後。

 

 久我はベンチでぐったりと横になりながら、残りの血液パックを飲み干した。

 

 頭は痛い。

 

 喉も渇く。

 

 でも、前回のような『何も分からずに負けた絶望感』はない。

 

「勝てた、という感じでは全くないですけどね」

 

「ええ。まだ勝ててはいません」

 

 斎藤がタオルを首にかけながら笑う。

 

「でも、前より『何をされて負けたのか』がはっきり分かりました」

 

「それが大事なんです」

 

「前は、自分が負けた理由すら分からなかった。でも今回は、どこで自分の判断が遅れたか、どこで見えていたか、どこで身体が追いつかなかったかが分かる」

 

「なら、次に直せます」

 

「……負け方が、少しだけマシになったんですね」

 

「はい。とても良い負け方でした」

 

「『良い負け方』って言葉、社会人にはめちゃくちゃ刺さりますね……」

 

 かれんがタブレットを閉じながら言う。

 

「失敗の要因分析ができる負けは、確実な成長に繋がります」

 

「何も分からず死ぬ負けはそこで終わりだ。だが、理由が分かって生きて帰れる負けは、ただの『稽古』だ」

 

 源の言葉に、久我は苦笑した。

 

「なんか名言っぽいのに、めちゃくちゃ酒臭いのが残念です」

 

「余計なこと言うな」

 

 帰り道。

 

 久我は一人、夜の街を歩きながら今日の結論を整理していた。

 

(内在時間は、鍛えれば十分に実戦で使える。自分の時間を整え、見える時間を増やして、身体をそれに追いつかせる)

 

 一秒だけ、長く生き残る。

 

 それが、今の自分にできる、もっとも現実的で確かな成長だった。




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