35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第19話 吸血鬼、血液パックにも防犯対策が必要だと知る

 平日の夕方。

 

 久我陽介は会社を定時で退勤し、協力病院の裏手にある特殊体質者専用の受け渡し窓口へと足を運んでいた。

 

 ここは、一般の患者も多く利用する中規模の総合病院だ。しかし、この窓口だけは建物の裏側にひっそりと設けられ、一般の採血室や薬局とは動線が完全に分離されている。

 

「久我陽介さんですね。お手数ですが、登録番号の確認をお願いいたします」

 

「はい、お願いします」

 

 久我は自分のスマートフォンを開き、八咫烏専用アプリの認証画面を受付の端末にかざした。この手続きも、すっかり慣れたものだ。

 

 ピッと電子音が鳴り、本人確認が完了すると、職員が奥の冷蔵庫から黒い保冷ケースを持って戻ってきた。

 

 しかし、久我はそれを受け取ろうとして、ふと違和感を覚えた。

 

「……あれ。なんだか今日は、いつもより少ないんですね」

 

 普段なら、一週間分ほどのパウチがずっしりと詰め込まれているはずのケースが、明らかに薄く、軽い。

 

 職員が申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「申し訳ございません。実は最近、特殊体質者用血液製剤の地域配送が少し遅れておりまして……。本日は、取り急ぎ三日分のみのお渡しとさせていただきます」

 

「血液パックにも、普通の宅急便みたいに物流遅延とかあるんですね」

 

「はい。製造ライン自体が止まっているわけではないのですが、配送経路の安全確認と調整による一時的な遅れだと上からは聞いております」

 

「なるほど。製造不足ではなく、物流の問題ですか」

 

 久我はホッと息を吐いた。血そのものが足りなくなっているわけではないなら、深刻な事態ではないだろう。

 

「当院にも緊急時の予備在庫はございますので、もし足りなくなりそうだったり、強い飢餓感が出たりした場合は、無理をせず、すぐに当院か支援センターへご連絡くださいね」

 

「分かりました。ありがとうございます」

 

 保冷バッグを受け取ると、職員はさらに小さなプリント用紙を一枚手渡してきた。

 

 そこには、注意事項が箇条書きで記されている。

 

『・受け取り後は、寄り道せず速やかに帰宅し、長時間持ち歩かないこと』

 

『・必ず指定温度のチルド室で保存すること』

 

『・万が一の紛失、または盗難時は、直ちに八咫烏の緊急窓口へ連絡すること』

 

『・不審者につけられていると感じた場合は、躊躇せず緊急通報を行うこと』

 

 久我は、その三つ目の項目に目を留めた。

 

「盗難?」

 

「はい。最近、念のために注意喚起を強化するよう、センターから強く指示が出ているんです」

 

 職員自身も、具体的な事情までは知らされていないようだった。

 

 久我はプリントを鞄にしまいながら、首を傾げた。

 

(……血液パックを盗むって、どういうことだ?)

 

(普通の人間がこんなものを盗んでも、使い道なんてないだろうに。医療用として闇ルートで転売するにしても、パウチの一つ一つにシリアル管理番号が印字されてるんだから、すぐに足がつきそうなもんだが)

 

 そんな小さな疑問を抱えつつも、久我は深く考えることはせず、いつものように夜の御影坂高校へと向かった。

 

       *

 

 深夜の御影坂高校。

 

 体育館の控室。

 

 夜間警備前のブリーフィングには、皇かれん、剣持、そして七瀬澪の三人が揃っていた。

 

 源玄蔵は、すでに別区域の巡回へ出ているらしい。

 

 久我が長机の横に黒い保冷バッグを置くと、澪がそれに気づいて顔を上げた。

 

「あっ、陽介さん。今日、病院の血液パックの受け取り日だったんですか?」

 

「ええ。ただ、配送が少し遅れてるらしくて、今日はいつもの半分以下しかもらえなかったんですよ」

 

 その言葉に、剣持がピクリと反応した。

 

「……ああ。またか」

 

「また?」

 

 久我が聞き返すと、かれんも静かに頷いた。

 

「……地域配送便の襲撃ですね」

 

「襲撃?」

 

 久我は目を丸くした。

 

「えっ、血液パックを運んでる車が、誰かに襲われたってことですか!?」

 

 澪も身を乗り出す。

 

「はい。ただし、映画のような大規模な輸送車強盗ではありません。最近、都内の複数箇所で、配送員への不審な接触や、一時保管箱の盗難未遂が散発的に発生しているのです」

 

「誰がそんなものを盗むんです?」

 

「野良吸血鬼だよ」

 

 剣持が、吐き捨てるように言った。

 

「野良吸血鬼」

 

 聞き慣れない単語だ。

 

 久我の脳裏に、夜の街を徘徊する野良猫のような、薄汚れた吸血鬼の姿が一瞬だけ思い浮かんだ。

 

 かれんがタブレットを机に置き、詳細な説明に入る。

 

「正確には、日本国内に未登録のまま人間社会に滞留している吸血鬼の俗称です。現場の隠語では『違法滞在吸血鬼』、あるいは単に『野良吸血鬼』と呼ばれます」

 

「違法滞在ということは、海外から不法に入国してきた吸血鬼ってことですか?」

 

「大半はそうです」

 

 かれんはタブレットに、世界地図といくつかの複雑な図式を表示させた。

 

「知性を持つ人類外種族の多くは、我々の人間社会と完全には重ならない『異空間』に、独自の街や巨大な居住地を形成して生きています」

 

「異空間の街?」

 

「はい」

 

「それって、こないだ行ったダンジョンみたいなものですか?」

 

「構造としての成り立ちは似ています。ただ、決定的な違いがあります」

 

 かれんは図式の一部を拡大した。

 

「ダンジョンは、怪異の生態系が存在する『危険区域』、あるいは『資源回収区域』として、八咫烏が直接管理しています。しかし人外の居住地には、そこに住む種族の『自治組織』が存在し、独自の社会、住民、自治規則、生活基盤を持っています。日本政府や八咫烏は、すべてを直接運営しているわけではなく、各人外自治組織と『不可侵・協力協定』を結んでいる状態なのです」

 

 かれんは説明を続ける。

 

「吸血鬼にも、世界各国にそうした居住地があります。古いものは欧州の都市の地下や城塞の内部に。新しいものは、魔術的に造成された人工的な異空間に存在しています」

 

「日本にも、そういう街があるんですか?」

 

 澪が尋ねる。

 

「東京都内にも、複数の入口が存在しますよ」

 

 久我は、日本吸血鬼協会の歓迎会へ向かう際、路地裏で開いたあの『深紅のゲート』を思い出していた。

 

「あの歓迎会をやった広間も、その吸血鬼街の中だったんですか?」

 

「はい。協会の本部区画は、日本の吸血鬼街の一部とシステム上で接続されています」

 

 日本国内の吸血鬼街には、協会本部の他にも、血液製剤の配給所、吸血鬼専門の診療所、夜間営業の商店、居住区、海外吸血鬼の一時滞在施設などが存在し、人間社会へ戻るための支援窓口も設けられているという。

 

 ただし、すべての吸血鬼がそこに所属し、大人しく保護されているわけではない。

 

「問題は」

 

 かれんの目が、冷たく細められた。

 

「その吸血鬼街から『追放』された者や、規則を破って『脱走』した者たちの存在です」

 

 居住区内で暴力事件を起こした。

 

 許可なく人間の生血を吸った。

 

 血液配給を不正に奪った。

 

 組織犯罪に関与した。

 

 あるいは、他国ですでに指名手配されており、正式な移住手続きを踏まずに密入国で日本へ渡ってきた者たち。

 

「そうした吸血鬼は、自国の吸血鬼街にも戻れず、日本の正規の血液供給ネットワークからも弾かれます」

 

「でも、どうしてわざわざ日本へ逃げてくるんです?」

 

「安全だからだよ」

 

 剣持が腕を組んで言った。

 

「違法滞在する場所としてですか?」

 

「吸血鬼にとっては、な」

 

 海外の多くの地域では、吸血鬼街の外にいる未登録の吸血鬼は、問答無用で『吸血鬼ハンター』に狙われる。

 

 正規の住民証明や協定による保護がなければ、『危険個体』『人間社会へ侵入した怪物』として、その場で討伐対象として扱われる国も珍しくないという。

 

 一方、日本には『吸血鬼ハンター』と呼べるような武闘派組織は、ほとんど存在しない。

 

 そして八咫烏も、犯罪歴や危険性を確認する前に、問答無用で怪異を即時討伐するような野蛮な組織ではない。

 

「日本では、未登録であることだけを理由に即時討伐は行いません。まず身柄を拘束し、身元を確認し、犯罪歴、吸血歴、そして保護の必要性を法的手続きに則って調査します」

 

「それで、日本へ逃げてくるわけか」

 

「はい」

 

 剣持が続ける。

 

「海外じゃ見つかったらその場で首を刎ねられる連中でも、日本なら捕まった後に事情聴取と法的な審査がある。……そりゃ、一縷の望みをかけて逃げ込む奴もいるさ」

 

「人道的な保護制度が、結果的に犯罪者にとっても『安全な隠れ家』だと思われているわけですか」

 

「制度上の、悩ましい課題ですね」

 

 かれんが静かにため息をついた。

 

 日本が悪いわけではない。

 

 安全で法的手続きが整っているからこそ、その隙間を突いて入り込んでくる輩が後を絶たないのだ。

 

「それで、その野良吸血鬼たちが、生き延びるために血液パックを盗んでるんですね」

 

「はい。正規の配給所へ行けば、一発で身元が判明して拘束されますから」

 

 野良吸血鬼は、人間を襲えば確実に八咫烏の捕獲対象になる。

 

 だが、血を飲まなければ飢餓で理性を失い、やがて自滅する。

 

 そこで彼らが狙うのが、公式血液パックの配送便、病院の保管庫、そして――

 

「配給所や病院から帰る、登録吸血鬼だ」

 

 剣持の言葉に、澪がビクッと肩を震わせた。

 

「登録してる吸血鬼を、同じ吸血鬼が襲うんですか?」

 

「新人《ルーキー》は、特にな」

 

 久我と澪が、同時に剣持の顔を見た。

 

「新人吸血鬼は、定期的に病院へ通って、何日分もまとめて血液パックを持ち帰る。それに、覚醒したばかりでまだ戦い慣れてない奴が多いからな」

 

「つまり、血液パックを大量に持って歩いている可能性が高くて、かつ抵抗も弱い、と」

 

「歩く配給所だな」

 

「その表現、想像するだけですごく嫌です……」

 

 澪が身をすくめる。

 

 久我は顎に手を当てて考えた。

 

「でも、病院へ行く日時なんて、どうやって調べるんです? 病院の内部から患者情報が漏れてるんですか?」

 

「必ずしも、人間的な情報漏洩とは限りません」

 

 かれんが答えた。

 

 相手は人間ではない。

 

 人外なのだ。

 

 通常の人間犯罪者とは、情報収集能力の次元が違う。

 

「病院の壁越しに中を覗き見る『透視能力』。数時間先の人の動きを読む『予知』。受付で交わされる会話を、数百メートル先から拾う『超聴覚』。血液製剤のわずかな匂いを追跡する『嗅覚』。特定の吸血鬼の血や魔力を追う『探知能力』。そして、同族の気配の強弱から、標的が新人かどうかを見分ける感覚」

 

「なるほど。盗聴器なんて仕掛けなくても、本人の耳や目がそのまま高度な盗聴器みたいなものなんですね」

 

「吸血鬼なら、血の匂いだけで鞄の中身のパウチの数までピタリと当てる奴もいるぞ」

 

 久我は、自分の足元に置いた保冷バッグをチラリと見た。

 

「これ、そんなに外まで匂います?」

 

 澪が少しだけ鼻をヒクヒクと動かす。

 

「うーん……意識して嗅ごうとすれば、ちょっとだけ甘い匂いがします」

 

「マジか。今まで普通にこれ持って、満員電車に揺られて帰ってましたよ」

 

「だからこそ、注意が必要なのです」

 

「さらに言えば」

 

 剣持が、一段低い声で話を広げた。

 

「狙われるのは、血液パックだけじゃないぞ」

 

「他にも何かあるんですか?」

 

「能力者本人だ」

 

 強い能力者の血には、通常の人間よりも遥かに濃い異能因子が含まれているという。

 

 吸血鬼がそれを飲んでも、相手の能力をそのままコピーして使えるようになるわけではない。

 

「強い術者の血は、腹持ちが異常にいい。少量でも長く飢えを抑えられるし、何より、一時的に吸血鬼自身の身体能力や再生力、能力の出力まで爆発的に引き上げる効果がある」

 

「相手の能力が使えるようになるわけではない?」

 

「ああ。あくまで、吸血鬼側の出力が上がるだけだ」

 

「高品質なガソリンみたいなものですか」

 

「そんな感じだ。高位の能力者になれば、自分のその『血』目当ての野良吸血鬼に狙われることも珍しくない。俺も過去に何度か、それで寄ってきた奴を返り討ちにして捕まえてるぞ」

 

「怖い世界ですね。上位陣は上位陣で、大変だなぁ」

 

 久我が他人事のように相槌を打つと、かれんが冷ややかな視線を向けてきた。

 

「久我さん。……他人事のように言っていますが、久我さんも明確に『狙われる側』ですよ」

 

「俺が?」

 

「八咫烏の登録認定を受けたばかりの、完全な新人吸血鬼です。定期的に同じ病院へ通い、まとまった数の血液パックを持ち帰っている。条件は完全に合致します」

 

「でも、俺は能力者としてはド新人ですし、別に血の質が良くて強いわけじゃありませんよ」

 

「だから、狙いやすいのです」

 

「そっちの理由かよ」

 

「わ、私もですか?」

 

「当然です」

 

 澪が真っ青になって、自分のジャージの袖を握りしめた。

 

「もし、野良吸血鬼に囲まれた場合」

 

 かれんが、実践的な防犯指導に入る。

 

「大前提として覚えておいてください。血液パックは、後からいくらでも再支給できます。ご自身の命や身体の安全より優先するものではありません」

 

 かれんは指を一本立てた。

 

「対応一。逃げられるなら、迷わず逃げること。人通りのある場所へ移動し、コンビニや交番など明るい場所へ駆け込む。相手を刺激せず、無理に正体を暴こうとしないこと」

 

 続いて二本目の指を立てる。

 

「対応二。逃げながら、八咫烏アプリで緊急通報を行ってください」

 

 八咫烏アプリの緊急ボタンを長押しすれば、現在位置、登録者情報、特殊体質、血液パックの受取直後かどうか、近隣の対応可能な能力者の配置、そして警察との連携要否が自動で送信される。

 

「登録認定済みの吸血鬼から、同族による襲撃通報が入れば、吸血鬼へ対抗可能な能力者が最優先で出動します」

 

「近くに俺みたいなのがいれば、すぐに捕まえに行く」

 

「相性まで見て出動するんですか?」

 

「はい。単純な距離だけでなく、対象の能力や種族との相性もシステムで瞬時に判断されます」

 

 身体能力型の吸血鬼には、拘束、硬化、念動力持ちを。

 

 霧化するタイプには、結界や空間封鎖の使い手を。

 

 高速型には、広域制圧が可能な術者を当てるという。

 

「対応三。相手の目的が血液パックだけなら、大人しく鞄ごと渡してください」

 

「戦わずに?」

 

「はい」

 

「でも、これ公式の支給品ですよ」

 

「再支給できます」

 

「我々の税金や、一般の方の善意の献血から作られているものを、みすみす犯罪者に奪われるのは、一社会人として少し抵抗があるんですが」

 

「久我さんが無理に抵抗して怪我をする方が、我々の医療費の負担も、事後処理の費用も高くつきます。コストパフォーマンスが悪いです」

 

「役所的に完全に説得された」

 

「合理的判断です」

 

 かれんは四本目の指を立てた。

 

「そして対応四。逃走が困難で、相手が血液パックだけでは満足せず、ご自身に危害を加えようとしてきた場合」

 

 かれんは、真っ直ぐに二人を見た。

 

「無理に勝とうとせず、出動者が到着するまで『時間を稼いで』ください」

 

 久我は、鳥カゴでの訓練を思い出していた。

 

 一秒長く生き残る。

 

 斎藤や源に言われたことと、まったく同じだ。

 

「倒す必要はないんですね」

 

「ありません。生き残り、位置情報を維持し、相手をその場に留めてください」

 

「俺たちが着くまで持たせれば、お前らの勝ちだ」

 

 剣持が力強く頷く。

 

 かれんは念のため、久我と澪のスマホの設定を確認した。

 

 八咫烏アプリのホーム画面に緊急ボタンを配置し、ロック画面からでも『音量ボタンを特定回数押す』『画面を見ずに長押し』『無音通報』ができるよう設定させる。

 

「相手に通報を悟られる危険がある場合は、必ず無音モードを使ってください」

 

「こんな機能、今まで使ったことありませんでしたよ」

 

「使わずに済むのが一番です」

 

 澪も真剣な顔で、スマホの操作を何度も確認している。

 

 剣持が、二人の緊張をほぐすように軽く言った。

 

「まあ、そう簡単には遭遇しねえよ。俺が野良を捕まえたのだって、ここ数年で数回あるかないかだ」

 

「なら、そこまでガチガチに警戒しなくてもいいのでは」

 

「油断しないでください」

 

「はい」

 

 しかし、久我の内心では、

 

(東京で生活していて、突然野良吸血鬼に路地裏でカツアゲされる確率なんて、そう高くないだろう)

 

 と、まだ少しだけ他人事のように感じていた。

 

       *

 

 説明を受けた日から数日間。

 

 久我は一応、かれんの忠告を守って行動していた。

 

 血液パックの受取後は寄り道しない。

 

 人通りの多い大通りを使う。

 

 保冷バッグは、外から見えないように普通のビジネスバッグの底に入れる。

 

 同じ曜日、同じ時間ばかりに受け取りに行かない。

 

 八咫烏アプリは、いつでも親指が届く位置に置いておく。

 

 最初のうちは、夜道を歩くたびに後ろをチラチラと気にしていた。

 

 しかし当然、何も起こらない。

 

 会社と病院を往復し、夜の学校を警備し、普通に帰宅する。

 

(……まあ、そうですよね)

 

(いくら吸血鬼限定で治安が悪いといっても、東京のど真ん中で毎回のようにカツアゲに遭遇するわけがない)

 

 次第に、過度な緊張は薄れていった。

 

 ただし、完全に警告を忘れたわけではなく、習慣として『アプリの緊急ボタンの位置確認』だけは続けていた。

 

 数日後。

 

 再び、血液パックの受け取り日。

 

 地域配送のトラブルはまだ完全には復旧していないようだったが、久我の分の血液パックは無事に病院へ到着していた。

 

「お待たせしました。今回は通常どおり、一週間分お渡しできます」

 

「助かります」

 

 保冷バッグには、前回よりも明らかに重みのある血液パックが詰め込まれた。

 

 久我は受領書へサインをする。

 

「念のため、今日も寄り道せずにお帰りくださいね」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 病院を出る。

 

 時刻は午後九時前。

 

 大通りには、まだ十分に人通りがある。

 

 車も絶え間なく走り、コンビニやチェーンの飲食店の明るい看板が街を照らしている。

 

 久我はかれんの指導を思い出し、最短距離の暗い裏道ではなく、あえて少し遠回りの明るい大通りを選んで歩き出した。

 

 最初の『違和感』。

 

 病院を出て数分歩いたところで、久我の魔眼が、ごく小さなノイズを拾い上げた。

 

 後ろを歩く女性の足音が、自分の歩幅に完全に合っている。

 

 信号で止まれば、同じタイミングで止まる。

 

 久我が少し歩く速度を落とすと、相手も不自然に速度を落とす。

 

 ただし、普通の尾行ドラマのように、背後にピタリと張り付いているわけではない。

 

 間隔は十メートル以上離れている。

 

(……気のせいか?)

 

 交差点を渡る。

 

 前方の路地から、別の若い女が歩いてくる。

 

 さらに、反対側の歩道にもう一人。

 

 三人とも、見た目はごく普通の女性だ。

 

 年齢は二十代前半ほど。

 

 服装もバラバラで、一人はパーカー、一人はオフィスカジュアル、もう一人は少し派手な私服。

 

 とても知り合い同士のグループには見えない。

 

 だが。

 

 三人とも、すれ違う瞬間や遠くから、久我の顔ではなく『久我の持っているビジネスバッグ』を、一瞬だけ鋭く睨み見た。

 

 久我の喉が、小さく鳴った。

 

(……まさか)

 

 魔眼を完全には開かず、相手に悟られないレベルの『最低限の観測』だけを行う。

 

 三人の瞳孔の開き具合。

 

 呼吸の浅さ。

 

 歩き方の重心のブレ。

 

 そして何より――久我と同じ、吸血鬼特有の『血に飢えた気配』。

 

(同族だ)

 

 久我は歩調を変えず、すぐ先のコンビニへ逃げ込もうとした。

 

 しかし、前方にいた一人が、極めて自然な動作で、スマホを見ながら久我の進路の斜め前へと入ってくる。

 

 直接立ち塞がるほど露骨ではない。

 

 だが、久我が右へ避けようとすれば右へ、左へ行こうとすれば左へ、絶妙な位置取りで壁を作る。

 

 後ろの女も、いつの間にか距離を五メートルまで詰めてきている。

 

 反対側の一人は、通行人の視線を避けるように、周囲の状況を警戒している。

 

 そこで久我は気づいた。

 

 大通りの人混みから一本外れた、街灯の少ない路地の方へと、少しずつ、だが確実に『誘導』されていることに。

 

 人間の強盗とはレベルが違う。

 

 三人は言葉を一切交わさず、呼吸のタイミングと視線の交差だけで、完璧に連携している。

 

 久我は、ポケットの中のスマホへ手を伸ばしかけた。

 

 だが、まだ相手は明確な犯罪行為を起こしていない。

 

(いや。皇さんは「違和感の段階で通報してもいい」と言ってたな)

 

 ポケットの中で、スマホを強く握りしめる。

 

 ロック画面のまま、見えない状態で無音通報の操作へ指をかけた。

 

「ねえ、おじさーん」

 

 背後から、明るく甘ったるい声がした。

 

 久我の足がピタリと止まる。

 

 振り返る。

 

 最初から尾行していた女が、無邪気な笑顔で立っていた。

 

 しかし、その目はまったく笑っていなかった。

 

 街灯の薄暗い光を受けた瞳が、薄い赤色に染まっている。

 

 前方にいた二人も、いつの間にか久我を完全に囲むように位置を変えていた。

 

「最近、吸血鬼になったばっかりなんだって?」

 

「……誰から聞きました?」

 

 女は答えず、鼻をヒクッと小さく動かした。

 

「病院でもらった血、持ってるでしょ。すっごくいい匂いがする」

 

「今日、一週間分だったよね。ラッキー」

 

 別の女が笑う。

 

 久我の背筋に、氷のような冷たいものが走った。

 

 病院の受付で交わした会話まで、完全に把握されている。

 

 透視か。

 

 超聴覚か。

 

 予知か。

 

 あるいは、単純に病院の周辺で何日も監視して、新人らしき自分の行動パターンを割り出していたのか。

 

 どの方法なのかは分からない。

 

 だが、彼女たちは明確な意志を持って『狩り』に来ている。

 

 女が一歩、距離を詰める。

 

「大丈夫。別におじさん本人の血まではいらないから」

 

「今のところはね」

 

 もう一人がクスクスと笑う。

 

 三人の瞳が、完全な真紅へと変わった。

 

「痛い目に遭いたくなかったら、その鞄の中の血液パック、全部私らに出しな」

 

 久我はポケットの中で、八咫烏アプリの無音緊急通報ボタンを、深く、長く押し込んだ。

 

 小さな振動が、一度だけ指に返ってくる。

 

 通報完了。

 

 現在位置の送信開始。

 

 久我は三人を見据えながら、かれんの言葉を思い出していた。

 

『血液パックだけが目的なら渡してください。逃げられない場合は、対応能力者が到着するまで時間を稼いでください』

 

 そして、鳥カゴで斎藤と源に教えられた言葉も。

 

『一秒長く残れば、次の選択肢が生まれる』

 

 久我は、保冷バッグの入った鞄の持ち手を握りしめたまま、静かに口を開いた。

 

「……まず、落ち着いて話しませんか?」

 

 女吸血鬼が、鋭い牙を覗かせて嘲笑った。

 

「おじさん、自分が交渉する立場にあると思ってるの?」

 




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