35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第21話 吸血鬼、逃げ足も実戦訓練だと教わる

 野良吸血鬼に路地裏で囲まれ、初めて『殺意を持った同族』と本気の生存競争を繰り広げた、その翌朝。

 

 久我陽介は、自宅アパートの洗面所で、鏡の前に立って自分の右腕をまじまじと見つめていた。

 

 昨晩、派手な女吸血鬼に裸絞めを仕掛けた際、必死に抵抗する相手の鋭い爪で深く肉を裂かれ、生々しい血が流れ出ていたはずの傷跡。

 

 しかし今、その腕には、わずかに赤い線のような皮膚のひきつれが残っているだけだった。

 

 痛みはまったくなく、指でなぞっても僅かな違和感を覚える程度だ。

 

「……治ってる」

 

 昨夜、八咫烏のセンターで事後検査と事情確認を受け、簡単な消毒をされた時点でも、すでに傷口は塞がり始めていた。

 

 だが、一晩たっぷりと睡眠を取った結果、傷跡すらほぼ消失するレベルで完全に修復されたらしい。

 

 試しに魔眼を少しだけ起動させ、腕の内部を透かして見てみる。

 

 切断されていた毛細血管は完璧に修復済み。

 

 筋繊維の断裂も綺麗に繋がり、炎症反応も感染症の兆候もゼロ。

 

(……剣持さんが言っていたとおり、首が落ちても死なない連中と同じ吸血鬼なんだ。ナイフや爪の切り傷くらいなら、一晩で完治するのが『普通』なのか)

 

 久我は複雑なため息を吐いた。

 

(非常に便利でありがたい機能ではあるんだが。三十五年付き合ってきた人間としての身体感覚からすると、これはこれで少し気持ち悪いな……)

 

 身体の傷は治った。

 

 だが、当然ながら問題は残っている。

 

 久我は、脱衣籠に放り込まれている昨日のスーツを拾い上げた。

 

 右の肩口がざっくりと大きく裂け、腕の部分にも三本の爪の跡が深く刻まれている。

 

 おまけに、コンクリートの壁に擦れた汚れと、相手の女の返り血まで付着していた。

 

「身体は一晩で直っても、スーツの生地は自然治癒してくれないんですよね」

 

 ぼやきながら、私用のスマートフォンを開く。

 

 通知画面には、八咫烏の専用アプリからすでに複数のメッセージが並んでいた。

 

『【医療確認】感染症検査の結果:異常なし』

 

『【事件処理】強盗被害届および能力使用報告書の提出依頼(期限:本日中)』

 

『【物品補償】任務中の衣類等損傷に関する補償申請が可能です』

 

『【血液製剤】被害者救済制度による再支給手続きが完了しました』

 

 久我は一番下まで読み終え、こめかみを押さえた。

 

「事件の翌朝から、通知が四件……」

 

 異能の怪物を相手にした実戦から無事に生還しようとも、現代日本では『報告書の提出』という現実からは絶対に逃げられないのだ。

 

       *

 

 久我は予備のスーツに袖を通し、いつもどおり満員電車に揺られて株式会社〇〇ソリューションズへと出勤した。

 

 身体に怪我一つ残っていないため、出社しても同僚たちからは「昨日、路地裏で吸血鬼と死闘を繰り広げた」などとは微塵も思われない。

 

 ただし、昨晩の過度な緊張と、『内在時間』を断続的に限界まで使用したことによる魔力と血液の消耗から来る軽い頭痛だけは、頭の奥に居座っていた。

 

「久我さん、おはようございます。……あれ、なんか少し疲れてません?」

 

 隣の席の佐藤が、聡く察して声をかけてきた。

 

「ああ。昨夜、ちょっと激しめの運動をしましてね」

 

「ジムですか?」

 

「……まあ、そんなところです」

 

(実際にやっていたのは、路地裏でのMMA仕込みの裸絞めですが)

 

 久我は、自分の説明が完全な嘘ではないという事実に、なんとも言えない微妙な気持ちになった。

 

「久我君、おはよう。ちょっといいかな」

 

 そこへ、課長がいつものように曖昧な笑顔を浮かべて、資料を持ってやってきた。

 

「このC社の新規提案の資料なんだが。ちょっと、いい感じに三枚くらいにまとめられるかな?」

 

「目的と提出先を教えてください」

 

「明日の午前の役員会議」

 

 以前の久我なら、ここで魔眼の知覚や内在時間を少しだけ使い、課長が何を欲しがっているか、役員の誰を説得しようとしているのかを先回りして『完璧な解答』を提示していただろう。

 

 しかし、今日に限っては、久我は一切の魔眼の使用を封印した。

 

 昨夜の戦闘で、血液をかなり大きく消費したばかりだ。

 

 ただでさえ軽い頭痛が残っているのに、ここで無駄な魔力を使うわけにはいかない。

 

「役員向けですね。でしたら、現在の課題、解決策の枠組み、そして概算の予算感。この三点で構成します。詳細は佐藤さんと手分けして、午後までに上げます」

 

「おお、頼む」

 

 久我は普通に質問し、普通に仕事の段取りを組んだ。

 

(昨日は殺意のある吸血鬼相手に魔眼を使ったんだ。今日は絶対に、ただのパワポ三枚の作成のために魔眼を使うべきじゃない)

 

 実戦と日常。

 

 能力を明確に使い分ける意識が、久我の中で確実に根づき始めていた。

 

 昼休み。

 

 コンビニのサンドイッチをかじっていると、八咫烏アプリから『血液パック再支給の受取可能通知』が届いた。

 

 通知の内容を確認すると、今回は病院の窓口ではなく、御影坂高校の八咫烏専用保管庫へ直接届けてもらえる手はずになっていた。

 

(……さすがに、強盗被害に遭った翌日に、また同じ病院のルートから一人で持ち帰らせるのは、防犯上よろしくないという判断か)

 

 お役所仕事と揶揄されがちな八咫烏だが、こうした被害者対応のシステムは驚くほど迅速で合理的だった。

 

       *

 

 定時退社後。

 

 夜の御影坂高校、体育館の控室。

 

 久我が到着すると、すでに長机の上には、八咫烏の厳重な封印テープが貼られた新しい保冷バッグが置かれていた。

 

 かれんがタブレットを操作しながら、確認を求める。

 

「久我さん。本人確認をお願いします」

 

「昨日奪われた分の再支給ですね」

 

「はい。証拠品として回収した七パックは、捜査と司法手続きが終了するまで返却できません。そのため、被害者救済制度による代替支給となります」

 

 久我がアプリでQRコードの認証を通すと、電子音が鳴った。

 

 かれんが封印を解き、保冷バッグを久我に渡す。

 

「内容物、七パック。念のため、製造番号と消費期限を確認してください」

 

「事件の翌日にもう再支給されるんですね。もっと書類審査に時間がかかるかと思ってました」

 

「血液供給が滞れば、被害者である久我さんの飢餓衝動が高まり、生命維持と周囲の安全に関わります。一般的な金品の盗難補償よりも、遥かに優先度を高く設定して処理されます」

 

「こういう時は、制度がしっかりしていて本当に助かりますよ」

 

 久我が感謝すると、かれんはさらに一枚の電子申請用QRコードを提示した。

 

「スーツについても、任務中に生じた損害として補償申請が可能です」

 

「俺は襲われた側の一般被害者で、別に正式な任務中ではありませんでしたよね?」

 

「久我さんが無音で緊急通報を行った後、現場に到着した剣持さんの『合わせろ』という戦闘協力要請に応じた時点から、事後処理上は『臨時協力活動』として記録されています」

 

「……『合わせろ』の一言で、公務扱いになったんですか」

 

 壁にもたれていた剣持が、にやりと笑った。

 

「俺の現場判断だな」

 

「責任重大な掛け声だったんですね、あれ」

 

「ただし」

 

 かれんが冷酷に釘を刺す。

 

「補償されるのは、一般的な量販店のスーツ相当額までです。高級ブランド品のオーダースーツだった場合、全額補償にはなりません」

 

「普通の会社員用のツーパンツスーツなので、まったく問題ありません」

 

 そんなやり取りをしている間、控室の隅にいた澪が、ずっと落ち着きのない様子で久我をちらちらと見ていた。

 

 やがて耐えきれなくなったように、小走りで近づいてくる。

 

「よ、陽介さん……本当に、身体は大丈夫なんですか!?」

 

「大丈夫ですよ。切られたところも、もうすっかり治りましたから」

 

 久我がYシャツの腕をまくって見せると、そこには昨日の生々しい傷跡は一つも残っていなかった。

 

「昨日の夜、剣持先輩から『陽介さんが野良に襲われて血だらけになってた』って聞きましたけど……」

 

「少し引っ掻かれて血が出ただけですよ。吸血鬼の再生力って、思ったより便利で頑丈ですね」

 

 久我本人は努めて平然と振る舞ったが、澪の顔色は青ざめたままだった。

 

「でも、三人に囲まれたんですよね?」

 

「囲まれましたね」

 

「それで、血液パックを取られて」

 

「ええ。指示どおり、一度は大人しく渡しました」

 

「そのあと、女の吸血鬼と一対一で戦って、危うく首を噛まれそうになったんですよね!?」

 

「……剣持さん、どこまで詳しく話したんですか」

 

 久我がじと目で睨むと、剣持は「事実をそのまま伝えただけだぞ」と肩をすくめた。

 

 澪にとっては、これは決して他人事ではないのだ。

 

 彼女も同じ新人吸血鬼であり、同じ病院を利用することもある。

 

 身体能力は久我より高いかもしれないが、対人、ましてや同族を相手にした実戦経験はない。

 

 もし自分が三人に囲まれたらと思うと、恐怖で足がすくむのだろう。

 

「私も……同じように、病院の帰りに狙われるかもしれないんですよね……」

 

 澪が震える声で言うと、かれんが一切の慰めを含まない調子で答えた。

 

「可能性は十分にあります」

 

「あります、ってそんな冷静に……」

 

 かれんは久我へ視線を向け、淡々と告げた。

 

「今回は、不運でしたね」

 

「不運の一言で済ませるんですか」

 

「はい。実際のところ、都内で野良吸血鬼に遭遇する確率自体は、決して高くありません。剣持さんも、ここ数年で数回程度と言っていたでしょう。その数少ない『外れくじ』を、防犯講習を受けた直後のタイミングで引いてしまったのですから、不運としか言いようがありません」

 

「自分でも、妙にこういう事件の引きが強いとは思います」

 

「ただし」

 

 かれんはタブレットを操作しながら、少しだけ口角を上げた。

 

「結果として、襲撃犯の三人は無事に捕獲され、久我さんも無事でした。今後、同じ地域の他の野良吸血鬼から狙われる可能性は、むしろ下がったかもしれません」

 

「どうしてですか?」

 

「弱い新人だと思って襲ったら、逆に一人を素手で締め落とされ、さらには八咫烏の武闘派前衛が即座に到着した。……この情報が野良吸血鬼の界隈で共有されれば、『あのおじさんは狙いにくい危険な標的だ』と判断されます」

 

「……吸血鬼界隈で、『カツアゲしようとすると返り討ちに遭う危ないおじさん』として有名になるんですか、俺」

 

「いいじゃねえか。防犯効果抜群だぞ」

 

 剣持が笑う。

 

「まったく嬉しくない評判ですね」

 

 そこへ、剣持が壁から背中を離し、真面目な顔で口を挟んだ。

 

「まあ、安心するのはまだ早いかもしれないけどな」

 

「……また何かあるんですか?」

 

「昨日のあの三人、まだまともな事情聴取は始まってないんだよ。切り落とした首を繋いで、再生抑制の処置をかけて、身元照会をしてる段階だ」

 

「首を繋いでから事情聴取するんですね……」

 

 澪がさらに青ざめる。

 

「首がないと喋れないんじゃ、聴取にならないからな」

 

「合理的ですけど、絵面がホラー映画すぎて怖すぎます」

 

 剣持は腕を組んだ。

 

「もしあいつらが、単独犯じゃなくて、もっと大きな野良吸血鬼の犯罪組織や集団に属してたら。……仲間が報復に来る可能性もゼロじゃない」

 

「えっ!?」

 

 澪が小さな悲鳴を上げた。

 

 久我も、僅かに表情を引き締める。

 

「組織的な、血液パックの強奪グループですか」

 

 だが、かれんは少し考えた後、首を傾げた。

 

「……組織に、あのような不用意で軽率な野良吸血鬼が所属しているでしょうか」

 

「……言われてみれば、確かに微妙だな」

 

 剣持も同意する。

 

「病院の受取情報を事前に把握し、三人で連携して路地で待ち伏せしたところまでは、ある程度計画的でした。しかし、その後は路地裏で奪った血液パックを広げて無邪気に騒ぎ、被害者である久我さんをあっさり逃がそうとした」

 

「俺が無音通報している可能性も、最後までまったく考えていませんでしたね」

 

「はい。組織的な犯罪者としては、行動がかなり稚拙です」

 

「そもそも、ちゃんとした組織に属してたら、血液パックくらいは上の人間からある程度支給されるか。あんな、その日暮らしみたいな強盗はしねえよな」

 

「少なくとも、正規品のパウチを七つ手に入れただけで、路地裏であれほど無警戒に喜ぶことはないでしょう」

 

「それはそうだな。……組織の報復の線は薄いか」

 

 久我は、一人で納得している剣持に冷たい視線を向けた。

 

「じゃあ、なんでわざわざ不安を煽ったんですか」

 

「油断するなってことだよ」

 

「今、何も考えずに思いつきで言いましたよね?」

 

「現場じゃ、常に最悪の可能性を一旦テーブルに並べて考えるのは大事なことだぞ」

 

 かれんが冷ややかに補足する。

 

「剣持さんの場合、とりあえず思いついた最悪のケースを先に口へ出してから、その後に論理的に検討しているだけです」

 

「結果的に、警戒心は高まっただろ?」

 

「澪さんが必要以上に青ざめて震えていますけどね」

 

「というわけで、次はお前だな、澪」

 

 剣持が、怯える澪を指差した。

 

「な、何がですか?」

 

「野良吸血鬼に襲われた時の『逃げ方』の訓練だ」

 

「戦い方、じゃなくて?」

 

「逃げ方だ」

 

 澪は、新人吸血鬼として極めて高い身体能力と瞬発力を持っている。

 

 しかし、対人戦の経験がない状態で、複数の殺意を持った野良吸血鬼へ正面から挑めば、一瞬で制圧されて終わりだ。

 

「お前の長所は、圧倒的な初速と瞬発力だ。だったら、絡まれた瞬間に血液パックを相手の顔面へ投げつけて、逆方向へ全力ダッシュする。……これが一番正しい生存戦略だ」

 

「血液パックを、投げるんですか?」

 

「鞄ごとでもいい。相手の目的が『血』なら、反射的にそっちを目で追う」

 

「ただし」

 

 かれんが注意する。

 

「パウチが破損しないよう、可能なら地面へそっと置いてから距離を取るのが最善です。投げるのは、あくまで命の危険が迫った緊急時のみとしてください」

 

「実戦で、綺麗に地面へ置いてる暇がなきゃ、迷わず投げろ」

 

「分かりました……」

 

「返事が小さい!」

 

「はいっ! 血液パックを全力で投げて逃げます!」

 

「防犯標語としては、かなり特殊すぎる響きですね」

 

 久我がこぼす。

 

「よし。じゃあ今から、体育館で全力ダッシュの練習すっぞ」

 

「い、今からですか!?」

 

「お前は、純粋な身体能力だけなら陽介さんより上だ。戦わずに逃げることへ特化すれば、かなりの野良吸血鬼から余裕で逃げ切れる」

 

「俺より上なんですか」

 

「純粋な脚力と筋肉のばねだけならな」

 

 その言葉に、澪が少しだけ自信を取り戻したように顔を上げた。

 

「じゃあ……逃げ足の練習、やります!」

 

「その意気だ。無理に戦って勝つより、確実に八咫烏へ通報して無傷で逃げ切る方が、新人としては百点満点だからな」

 

 ここでは、逃げることを決して情けない行為ではなく、明確な『正解』として評価していた。

 

       *

 

 場所を体育館のフロアへ移し、簡易的な逃走訓練のコースが作られた。

 

 スタート地点を病院の出口に見立てる。

 

 ダミーの保冷バッグを持たせ、パイロンで路地裏の障害物を再現。

 

 剣持が野良吸血鬼役を演じ、かれんが通報の正確な判定とタイム計測を行う。

 

 久我は被害経験者として、壁際で見学だ。

 

『第一回』

 

 澪は、バッグを大事そうに両手で抱えたまま逃げようとした。

 

 しかし、剣持が吸血鬼に対抗できる速度であっさりと追いつき、背後から澪の肩を軽く掴んだ。

 

「アウト」

 

「は、速い……!」

 

「バッグを守ろうとして、加速の初動が遅れてる。血の入った鞄は迷わず捨てろ」

 

『第二回』

 

 澪は、ダミーバッグを剣持の方へ投げつけた。

 

 しかし、投げた直後、無意識に「相手がちゃんと拾ったか」を確認するために振り返ってしまった。

 

 剣持が飛んできたバッグを軽く避け、そのまま減速せずに澪へ追いつく。

 

「アウト」

 

「ちゃんと投げたのに!」

 

「投げた後、絶対に振り返るな。相手がどう動いたかを目視で確認する必要はない」

 

「……仕事のメールを送った後、相手がすぐに読んだか気になって、既読確認してしまう感覚に近いですね」

 

 久我が分析すると、かれんが「今は仕事の話ではありません」とぴしゃりと切った。

 

『第三回』

 

 澪は、ポケットの中でスマートフォンの無音通報ボタンを押した。

 

 同時に、バッグを進路とは逆の方向へ、床を滑らせるように強く放り投げる。

 

 剣持の視線が、反射的にバッグへ向いた。

 

 その一瞬の隙を突き、澪は反対方向へ全力疾走した。

 

 吸血鬼の脚力を完全に爆発させ、一気に体育館の端の安全地帯まで駆け抜ける。

 

 剣持も即座に追ったが、初動の数コンマ秒で作られた距離の差を、最後まで縮めきれなかった。

 

「通報完了。安全区域到達。……成功です」

 

 かれんがストップウォッチを止めた。

 

「逃げ切った……!」

 

 澪が肩で息をしながら喜ぶ。

 

「それが正解だ。新人が複数相手に格好つけて戦う必要はねえんだよ」

 

「俺も本来は、それをするはずだったんですけどね」

 

 久我が言う。

 

「お前は、俺が到着するまで完全に退路を塞がれてたし、俺が『合わせろ』って言ったから別のケースだ」

 

「久我さんも、今後は可能なら、戦闘が始まる前に全力で逃げてください」

 

 かれんにも念を押される。

 

「承知しています」

 

       *

 

 訓練後。

 

 かれんが、久我から提出された事件報告書を再度確認しながら、彼の行動を順番に評価した。

 

「違和感の段階で早急に無音通報を行った。相手の目的を確認した。血液パックを素直に渡した。不必要な挑発を避けた。継続的な上納要求は明確に拒否した。剣持さんが到着するまで時間を稼いだ。現場協力要請後にのみ反撃へ転じた。そして、相手を一人も殺さずに制圧した」

 

 かれんはタブレットから目を上げ、久我を見た。

 

「初遭遇としては、ほぼ完璧で適切な対応です」

 

「ほぼ、ということは何か問題が?」

 

「相手へ『正式な窓口へ相談してください』と説教した部分です」

 

「……俺、別に説教したつもりはありませんけど」

 

「飢餓状態の犯罪者へ正論を伝えても、行動が改善するとは限りません。状況によっては、相手を無駄に刺激するだけです」

 

「正論で相手を殴ろうとするの、社会人の悪い癖だな」

 

 剣持が笑う。

 

「職場では、正論と明確な根拠がないと話が進まないので」

 

「次回からは、より短く簡潔に拒否してください」

 

「次回がある前提での指導なんですか」

 

「防犯指導とは、そういうものです」

 

 戦闘面についての評価も下される。

 

「一方で、対吸血鬼の本格的な実戦経験を積めたこと自体は、久我さんにとって非常に大きな成果ですね」

 

「できれば、もう少し安全な形で経験値を入手したかったですけどね」

 

「実戦経験というものは、訓練だけでは決して代替できません」

 

 久我は一瞬、かれんが次に何を言うのか警戒した。

 

「吸血鬼との戦闘は、これで経験できました。……次は、異なる能力を持つ人間との『実戦経験』も欲しいところですね」

 

「……次?」

 

「対異能力者戦です」

 

 剣持が壁から離れ、同意するように頷いた。

 

「吸血鬼は基本的に、身体能力、再生力、牙と爪の物理攻撃が中心だからな。でも、能力者の戦い方はもっとばらばらで厄介だ」

 

「視界を奪う者。空間を歪める者。遠距離から攻撃する者。精神へ干渉する者。……魔眼で相手の身体の動きが見えても、それだけでは対応しきれない場面が必ず来ます」

 

「おっしゃることは分かります」

 

「ちょうど、不良異能集団の捕獲任務の応援要請があれば、参加してもらいましょうか」

 

「ちょうど、で出てくる仕事じゃないですよね、それ」

 

「八咫烏の日常業務では、それほど珍しい案件ではありませんよ」

 

「若い能力者が集団で調子に乗って暴れるのは、昔からあるあるだからな」

 

 久我は、両手でしっかりとバツを作った。

 

「しばらくはいいです」

 

「あら」

 

「昨日、初めて本気で殺されかけたばかりなので。少なくとも今週いっぱいは、普通に会社員をさせてください」

 

 かれんは、それ以上は無理強いしなかった。

 

「分かりました。今回の出動は、あくまで緊急事態でしたし、連続した実戦参加を強制するつもりはありません」

 

「助かります」

 

「まあ、本人が希望しなくても、能力者社会にいれば、いずれ遭遇するかもしれませんけどね」

 

「それ、めちゃくちゃ不吉な予告に聞こえるんですが」

 

「異能事件に関わっていれば避けられないという、一般的な確率論です」

 

「陽介さん、妙に事件を引く体質だからな」

 

「防犯講習の直後にたまたま襲われただけで、勝手に事件体質扱いしないでください」

 

「よし、澪。休憩終わり。次はダミーバッグを持った状態から、通報、投棄、逃走まで『三秒以内』だ」

 

 剣持がパンッと手を叩いた。

 

「まだやるんですか!?」

 

「野良吸血鬼は、お前が休憩し終わるのを待ってはくれねえぞ」

 

「はい! 逃げ足の練習、頑張ります!」

 

 久我は体育館の壁際に座り、再支給された血液パックをストローでゆっくりと飲んだ。

 

 内在時間を断続的に使用した消耗と、昨夜の戦闘による精神的な疲労が、冷たい血とともに少しずつ抜けていく。

 

 目の前では、

 

「通報!」

 

「バッグ!」

 

「逃げろ!」

 

 という剣持の声に合わせ、澪が体育館を全力で疾走している。

 

「……吸血鬼になった人間が、深夜の体育館で血液パックを投げて全力で逃げる練習をする。冷静に見ると、すごい光景ですね」

 

「現場で生き残るために必要な訓練です」

 

「否定はできません」

 

 一時間の訓練が終了し、澪は体育館の床に座り込んで息を切らしていた。

 

「つ、疲れた……」

 

「でも、最後は俺から完全に逃げ切れただろ」

 

「はい……!」

 

「無駄に戦わず、無傷で逃げ切れるのも立派な強さだ。忘れるなよ」

 

「はいっ!」

 

 久我はその言葉を聞き、自分の昨日の戦いを振り返った。

 

 今回は、たまたま運良く勝てた。

 

 しかし、次も勝てるとは限らない。

 

 逃げられるなら逃げる。

 

 通報できるなら通報する。

 

 戦うのは、それ以外のすべての選択肢がなくなってから。

 

 初実戦で死の恐怖を経験したからこそ、その逃走の重要性が骨の髄まで理解できた。

 

「本日の夜間警備は、通常どおり行います。異常がなければ、定時で終了です」

 

 かれんが告げる。

 

「昨日あれだけの襲撃事件があっても、今日は通常警備なんですね」

 

「昨日の路地裏の事件と、今日の御影坂高校の安全は別問題ですから」

 

「役所らしい、ドライな切り分けですね」

 

「必要な切り分けです」

 

       *

 

 その日の夜間警備は、拍子抜けするほど何事もなく終了した。

 

 怪異も出ない。

 

 野良吸血鬼も来ない。

 

 不良能力者集団にも遭遇しない。

 

 久我は、明け方の街を普通に帰宅する。

 

 帰り道。

 

 昨日襲われた路地の近くを通ったが、八咫烏の現場処理班によって、血痕も戦闘の痕跡も完全に片づけられていた。

 

 一般人は、昨日ここで吸血鬼同士の血みどろの戦闘があったことなど何も知らず、普通に通勤や通学の道を歩いている。

 

 久我も足を止めず、そのまま駅の方へと向かった。

 

 スマートフォンが震え、八咫烏アプリから新しい通知が届く。

 

『【能力使用報告書】承認済み』

 

『【物品損害補償】申請受付完了』

 

『【防犯事例】「新人吸血鬼への継続的な搾取要求」の事例として、新人向け注意事項への反映を検討中』

 

「……本当に、教材のケーススタディになるんだ」

 

 さらに、その下に任意参加案件の通知が届いていた。

 

『【協力者募集】未成年能力者による集団迷惑行為の警戒支援』

 

 久我は内容を開かず、通知をスワイプして横へ払って閉じた。

 

「……今週は、普通に働きます」

 

 そして、翌朝の出勤用のアラームを設定する。

 

 異能の事件を一つ解決しても、月曜日の仕事がなくなるわけではないのだ。

 

 初めての実戦を無事に生き残り、腕の傷も一晩で消えた。

 

 だが、無惨に裂かれたスーツと、増えた報告書と申請項目、そして新人向け防犯資料に永遠に残るであろう自分の被害事例だけは、吸血鬼の驚異的な再生力をもってしても、二度と元には戻らなかった。

 




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