35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
深夜。
東京西部の、古く寂れた商店街。
雨上がり特有の湿ったアスファルトの匂いが、冷たい夜風に乗って漂っている。
大半の店舗はすでにシャッターを下ろし、まばらな街灯の白い光だけが、人気のない細い通りを頼りなく照らしていた。
久我陽介は、道路のあちこちに残る水たまりや、シャッターの下りた店舗のショーウィンドウ、さらには自動販売機の表面の透明なパネルにまで、注意深く視線を走らせていた。
(……至る所に、鏡の代わりになる『反射面』がある)
今回の保護対象である鏡宮千鶴の能力、《鏡渡り》。
自分の姿を映す面さえあれば、そこを経由して空間を移動できるという、厄介極まりない能力だ。
この雨上がりの商店街は、彼女にとって逃走経路の網の目の中にいるようなものであり、同時に、追っ手を攪乱するための完璧な防衛陣地でもあった。
目的地は、商店街の奥にひっそりとたたずむ、数年前に廃業した写真館。
色褪せたテント屋根には、『大城写真館』の文字が残っている。
埃を被ったショーウィンドウの中には、古びた家族写真や七五三の晴れ着姿、そして色褪せた結婚式の写真が、まるで過去に置き去りにされたように並んでいた。
「あの中には、撮影用の大型姿見、化粧用の鏡、額縁のガラス、暗室の水受け、古いカメラのレンズなど、反射面が大量に存在します」
隣を歩く皇かれんが、静かな声で言った。
「鏡の能力者が隠れる場所としては、最悪の立地ですね」
「千鶴さん本人にとっては、非常に逃げやすい場所です」
*
写真館から少し離れた路地の角で、剣持が待機していた。
彼の背中には、いつもの木刀が入った長い袋はない。
武器はすでに支援車両の中へ置いてきている。
手には連絡用の無線機だけを持っていた。
「呼ばれるまで入らねえ。それでいいんだな」
「はい。千鶴さんが明確に第三者へ危害を加えようとして、久我さんだけでは対処しきれない場合のみ、私から連絡します」
「もし俺の鏡像が出たら、お前らでどうにかしろよ。剣技を複製されたら厄介だからな」
「出さないために、剣持さんを置いていくんですよ」
久我が苦笑交じりに言う。
「それもそうか。まあ、頑張れや」
冗談めかしてはいるが、今回は本当に剣持は接触へ加わらない。
かれんと久我の二人だけで、写真館へ向かう。
歩きながら、かれんが久我へ最後の注意を促した。
「久我さん。今回は、相手を安心させるための『虚偽』も禁止します」
「安心させるためでも、ですか」
「はい。千鶴さんは、鏡宮家の次期当主として、交渉術、術式の発動兆候、そして人間の感情の観察を幼少期から徹底的に教育されています。下手な嘘は確実に見抜かれます」
「能力で嘘を見破るんですか?」
「直接的な読心能力は確認されていません。しかし、《返照》は向けられた意思や因果そのものへ反応します。言葉と実際の目的に大きな食い違いがあれば、それを敵対行動として処理し、能力が暴発する可能性があります」
久我は眉を寄せた。
「保護する、つまり最終的には連れ出す可能性があるのに、『何もしません』と言ったら、それだけで嘘だと判断されて危険ということですね」
「そのとおりです」
「でも、本当に危険な状態なら、同意がなくても強制的に保護する可能性はあるんですよね」
「あります」
「そこも、誤魔化さずに正直に言う?」
「聞かれた場合は、事実として伝えてください」
かれんは足を止め、久我の目を真っ直ぐに見据えた。
「答えられることには、正確に答える。答えられないことは、答えられないと言う。分からないことは、分からないと言う。約束できないことを、絶対に約束しない。……徹底してください」
久我は思わず乾いた笑いを漏らした。
「……なんか、仕事の要件定義と同じですね」
「要件定義?」
「ええ。顧客に都合のいいことだけを言って、曖昧なまま『できます、やれます』って安請け合いすると、後から確実にプロジェクトが炎上するんです。できないことはできないと最初に握っておくのが、一番炎上しないコツなんですよ」
「その経験を活用してください」
「三十五年の人生で、まさか社畜の要件定義の経験を、家出少女の説得に使う日が来るとは思いませんでしたよ」
*
写真館の正面扉は、重い南京錠で施錠されていた。
しかし裏手へ回ると、従業員用の勝手口の扉が、僅かに数センチだけ開いている。
千鶴が、いざという時の逃走経路を確保するために、わざと完全には閉めていないのだろう。
かれんは、無断で踏み込もうとはしなかった。
扉の外から、静かに、だがはっきりと店内へ声をかける。
「鏡宮千鶴さん。八咫烏の皇かれんです」
返事はない。
暗い店内には、無数の鏡とガラス板が、外から差し込む街灯の光を不気味に反射している。
久我が反射的に魔眼を起動しようと意識を集中させたところで、かれんが片手で制して小さく首を振った。
(最初から能力で探し出せば、千鶴に追跡や捕縛の意思があると受け取られる)
久我は魔眼を起動する前に意識を切り替え、ただの視覚だけで暗闇を見つめた。
「無断で中へ入るつもりはありません」
かれんが再び声をかける。
「お話しすることはできますか」
重い沈黙。
やがて、店内の一番奥。
撮影スタジオに置かれた、ひときわ大きなアンティーク調の姿見の中にだけ、黒いパーカーを羽織った少女の姿がふっと浮かび上がった。
現実の店内には、誰も立っていない。
ただ鏡の中にいる千鶴だけが、じっと二人を警戒して見つめている。
「八咫烏……?」
鏡の中から、かすれた声が響いた。
「はい」
かれんが答える。
「鏡宮家の人は?」
「同行していません」
「外に隠れてるんじゃないですか」
「鏡宮家の人間は、この周辺には一切いません」
これは確認済みの事実だ。
ただし、剣持が外で待機しているため、かれんは『外には誰もいない』とは言わなかった。
「他には、誰がいるんですか」
千鶴の鋭い問いに、久我が静かに答えた。
「八咫烏の協力者が一人、少し離れた路地で待機しています。剣持という人です。でも、皇さんから連絡しない限り、ここには近づきません」
「……戦う人?」
「はい。剣を使います」
ここで安心させるために、『ただの運転手です』などという嘘はつかない。
千鶴の表情が、鏡の中でさっと強張った。
しかし、久我が隠さずありのままを答えたことで、彼女は完全に心を閉ざして逃げることはしなかった。
*
千鶴が、鏡の中からかれんの顔をじっと凝視した。
「皇……?」
「はい」
「京都の、皇家?」
「その皇です」
千鶴の顔から、一瞬で血の気が引くのが分かった。
鏡宮家と皇の家には、古くから異能案件における太い連絡経路がある。
千鶴も幼少期から、皇家は鏡宮家と繋がる家であり、いざという時には鏡宮家の秩序を維持する側に立つと教え込まれていたはずだ。
「……やっぱり、家から来たんじゃないですか」
千鶴の声に、明らかな恐怖と敵意が混じった。
「依頼が、私の家を経由したことは事実です」
「帰ってください」
「あなたの話を聞くまで、帰るつもりはありません」
「帰って!」
千鶴の恐怖が臨界点に達した。
鏡の中の銀色の光が、急激に膨張する。
奥の姿見だけでなく、写真館中のすべての鏡、額縁のガラス、カメラのレンズにまで、千鶴の怯えた姿が万華鏡のように無数に映し出される。
《返照》の半自動発動。
かれんが写真館へ踏み込もうとしているという因果を捉え、その前進の意思を反転させ、入口の外へ暴力的に押し戻そうとする力の奔流。
「っ……!」
見えない衝撃波が、店内から爆発的に吹き出した。
久我のスーツの裾が大きく煽られ、足元が堪えきれずに半歩だけ後ろへ滑る。
店内の古い写真立てがばたばたと倒れ、ショーウィンドウのガラスが悲鳴のように震えた。
しかし。
扉の真正面に立っているかれんだけは、まったく微動だにしていなかった。
黒髪も制服のプリーツも、僅かに風に揺れただけ。
防御姿勢すら取っていない。
能力を使って相殺したような魔力の残滓もない。
「……え?」
鏡の光が嘘のようにすっと消えた。
千鶴は信じられないものを見るように、かれんを凝視している。
「なんで……《返照》が……」
「私は、そういう干渉を受けにくい体質です」
かれんは、無表情のまま淡々と答えた。
「そんな……鏡宮の力が通じない体質なんて……」
「詳しい説明は、彼がしてくれます」
かれんはそう言うと、隣の久我を指し示した。
「俺に投げるんですか?」
「今回、千鶴さんと話すのは久我さんですから」
かれんは写真館の入口の脇に置かれていた古い丸椅子へ、静かに腰を下ろした。
千鶴を力で拘束しようともしない。
能力を解除させることもしない。
ただその場から動かず、久我へすべてを任せたのだ。
*
千鶴は、怯えた目を久我へ向けた。
「今のは、何なんですか」
「すみません。俺にも分かりません」
久我は、両手をポケットから出して見せながら、正直に首を振った。
「一緒に来たのに?」
「皇さんが、能力による干渉を受けにくい体質だということしか知りません。どうして皇さんに《返照》が通じなかったのか、俺には説明できません」
「……隠してるんじゃなくて?」
「八咫烏として隠している可能性はあります。でも、少なくとも末端の協力者である俺は、何も聞かされていません」
久我は、かれんを庇うための適当な嘘をつかなかった。
『特殊な訓練を受けている』
『八咫烏の防護装備だ』
などと、知らないことを推測で語らない。
千鶴が、椅子に座るかれんへ視線を戻す。
かれんは否定も肯定もしなかった。
「久我さんの説明どおりです。今のあなたへ開示できる情報は、それ以上ありません」
千鶴は戸惑うように目を瞬かせた。
「……答えられないって、普通に言うんですね」
「分からないことを適当に説明して、後から違っていた方が、お互い困るでしょう」
千鶴はまだ警戒を解いていないが、少なくとも会話を即座に切って逃げることはしなかった。
*
久我は、写真館の中へは入らず、扉の外の雨に濡れたコンクリートの上に立ったまま話を続けた。
「鏡宮千鶴さん。まず、こっちがどういう立場でここに来たのか説明します」
「家から頼まれて、私を捕まえに来たんでしょ」
「依頼の出所は、鏡宮家です。皇さんの家を経由して、八咫烏へ持ち込まれました」
千鶴の顔が再び強張る。
「やっぱり、同じじゃないですか」
「いいえ。依頼を持ち込んだのは鏡宮家ですが、俺たちの任務は、あなたを京都へ連れ戻すことではありません」
「……信じろっていうんですか」
「今すぐ信じなくても構いません」
久我は淡々と言葉を紡ぐ。
「じゃあ、何をしに来たんですか」
「あなたが今、安全な状態か確認するためです。あなたの話を聞いて、必要なら八咫烏の保護施設へ移動してもらいます」
「必要なら?」
「能力が不安定で、あなた自身か、周りの人が傷つく危険がある場合です」
「私が行きたくないと言ったら?」
ここで久我は、相手を安心させるための心地よい嘘を完全に捨てた。
「あなたが安全で、第三者へ危害が出る危険もないなら、無理に連れていくことはできないと聞いています」
「危険だと、あなたたちが判断したら?」
「保護のために、止める可能性があります」
「それって、結局捕まえるってことでしょう」
「そうなる可能性はあります」
久我は、千鶴の目を真っ直ぐに見返した。
「だから、『何があっても捕まえません』とは言えません」
千鶴は、言葉を失った。
家の追っ手であれば、必ず『あなたのためだ』『痛いことはしない』『すぐ終わる』『帰ればすべて解決する』と甘い言葉で連れ戻そうとする。
だが目の前の大人は、千鶴に嫌われる可能性がある事実でも、決して曲げようとはしなかった。
「そんなことを言われて、私が一緒に行くと思いますか」
「思っていません」
「じゃあ、どうするんですか」
「質問に答えます」
久我は静かに言った。
「あなたが判断するために必要なことを、話せる範囲で全部話します」
「私がずっと信じなかったら?」
「その時は、少なくとも今夜ここで、あなたが本当に危険なのかを確認します」
「無理やり能力を調べる?」
「いいえ。今のところ、そのつもりはありません」
「今のところ?」
「あなたが急に倒れたり、鏡の中へ消えて戻れなくなったりしたら、助けるために能力を使うかもしれません」
千鶴は、久我の答え方にひどく戸惑っているようだった。
都合の悪い部分を一切隠さない。
断言できないことを、絶対に断言しない。
「信じられないなら、信じないままで構いません。ただ、俺の言葉が本当かどうかは、今からの俺の行動を見て判断してください」
*
千鶴は、久我を試すことにした。
写真館の中央にある大型姿見の表面が、水面のように波打つ。
「中へ入って、その鏡の前に立ってください」
千鶴の要求に、かれんは何も言わず、止めようともしなかった。
「……入ってもいいんですか」
久我が確認すると、千鶴は短く答えた。
「いいです」
久我は一歩ずつ、慎重に店内へ入る。
両手は常に見える位置へ下げたまま。
遮光グラスは外さず、武器にも触れない。
魔眼も決して使わない。
そして何より、入口の扉は開け放ったままにし、千鶴の逃げ道を塞がないよう立ち位置を調整した。
久我が大型姿見の前へ立つ。
鏡の表面に、少し疲れた顔をしたスーツ姿の久我が映り込む。
千鶴は《神鏡返し》を通して、鏡の前に立つこの男から自分へ向けられている意思を確認した。
鏡には、久我の心の中にある緊張と恐怖が、淡い波紋のような揺らぎとして映し出されていた。
だが。
『敵意』
『攻撃の意思』
『拘束する決意』
『騙して近づこうとする意図』
それらは一切、一欠片も映らなかった。
当然、《鏡写し》による久我の複製も発動しない。
「……怖がってる」
千鶴がぽつりとこぼした。
「怖いですよ」
久我は即答した。
「怖いのに、どうして入ってきたんですか」
「怖いことと、あなたを傷つけたいことは別ですから」
「私が能力を使ったら、攻撃が全部あなたに返るんですよ」
「聞いています」
「それでも?」
「俺は、あなたを攻撃しに来たわけではありません」
これは、能力対策としてあらかじめ用意した言葉ではない。
久我自身が、本当に心の底からそう思っているのだ。
千鶴は、少しだけ声の調子を落とした。
「あなたの目……魔眼なんですよね」
「はい」
「心を読んでるんですか」
「読めません」
久我はきっぱりと否定した。
「俺の魔眼で見えるのは、体温、血流、心拍、筋肉の動き、魔力の痕跡などです。あなたが頭の中で考えている内容までは分かりません」
「嘘を見抜くことは?」
「心拍や呼吸の変化から、緊張していることは分かります。でも、緊張しているから嘘をついているとは限りません。だから、断定はできません」
「今、使ってるんですか」
「使っていません」
「私を探す時も?」
「まだ一度も使っていません。皇さんに止められました」
かれんが、入口脇の椅子から補足する。
「最初から能力で追跡すれば、あなたが恐怖し、能力が暴走する可能性がありましたから」
千鶴は、久我が自分を透視したり、弱点を探ったりしていないことを理解した。
*
「あなたは、鏡宮家と私、どちらを信じているんですか」
千鶴が核心を突く質問を投げかけた。
久我は少し考えてから答えた。
「どちらも、全部は信じていません」
「……私のことも?」
「はい。俺は今日初めてあなたと話しています。鏡宮家の説明も、あなたが使用人に残した書き置きも、まだ一部しか知りません」
千鶴の表情が、少しだけ傷ついたように歪んだ。
しかし、久我は言葉を続ける。
「でも、あなたが怖がっていることは本当だと思っています」
「どうして」
「今のあなたを見れば分かります。眠れていないし、食事も十分じゃない。鏡宮家と繋がりのある人間が来たと思っただけで、能力が過剰に反応した。少なくとも、あなたが家へ戻ることを本気で恐れているのは事実でしょう」
千鶴は、震える声で尋ねた。
「じゃあ、私の味方ですか」
「何をしても肯定する、という意味なら違います」
千鶴が再び警戒を見せる。
「あなたと、周りの人が、安全でいられる方法を探す側です。今の時点では、あなたを鏡宮家へ連れ戻す側ではありません」
この答えも、完全な味方だと装う嘘ではない。
千鶴を守るが、千鶴が暴走して誰かを傷つけるなら止める。
その線引きを一切隠さなかった。
「……お母さんのことを、話してもらえますか」
久我が静かに促すと、千鶴はすぐには答えなかった。
店内の複数の鏡に、同じパーカー姿の少女が映る。
やがて、その中の一枚の鏡の表面が揺らぎ、千鶴ではない大人の女性の姿が浮かび上がった。
長い黒髪。
白い寝間着。
どこか焦点の合わない、虚ろな目。
千鶴の母親の記憶の残滓。
「お母様は、儀式を受ける前は普通でした」
千鶴が、ぽつりぽつりと語り始める。
母親は本来の当主継承者ではなく、祖母から千鶴への継承を補助するための中継役として、儀式の一部を受けただけだった。
しかし儀式の後。
母親は、鏡へ向かって誰もいないのに会話をするようになった。
自分を過去の当主の名で呼び、実の娘である千鶴を、数代前の姉妹と間違えるようになった。
京都から離れようとすると激しい錯乱を起こし、鏡宮家の命令へ逆らえなくなり、本人の昔の記憶が少しずつ抜け落ちていった。
鏡宮家はそれを、
『儀式の失敗ではない』
『歴代当主の記憶へ接続したため、一時的に混乱しているだけだ』
『療養すれば安定する』
と説明したという。
しかし、母親は何年経っても元には戻らなかった。
「最後に私の名前を呼んでくれたのが、いつだったかも覚えてません」
千鶴は唇を噛み締めた。
「家の人たちは、それを『立派な当主になった』と言うんです」
「……そうですか」
「私が私じゃなくなっても、京都の結界が守られれば、それでいいんです」
千鶴は、《鎮鏡の儀》を受ければ、自分も同じように歴代当主の人格へ上書きされ、自我を失うと本気で信じ切っていた。
*
ここで久我は、『俺も会社で同じような目に遭った』という安易な共感はしなかった。
十七歳の少女が人格を失う恐怖と、三十五歳の会社員の過重労働は、同じ規模で語ってよいものではない。
「俺は、あなたと同じ経験をしたわけではありません」
千鶴が顔を上げる。
「俺が経験したのは、できる仕事を次々に押しつけられて、断らなかった結果、使い潰されかけたことです。命や人格を奪われる儀式とは比べられません」
「じゃあ、分からないでしょう」
「全部は分かりません」
久我は素直に認めた。
「でも、『できる人間がやるのが当然だ』と言われて、自分の意思を後回しにされ続ける息苦しさなら、少しは分かります」
お前にしかできない。
みんなのためだ。
今回だけだ。
責任がある。
逃げたら他の人が困る。
言葉の規模や深刻さは違っても、役割を背負わせて断れなくする構造は似ている。
「能力があることと、その能力のために自分の人生の全部を差し出さなければならないことは、同じではないと思います」
「でも、私が戻らなかったら、京都の結界が壊れるかもしれない」
千鶴が悲痛な声を上げる。
「そう聞いています」
「大勢が傷つくかもしれない」
「その可能性も否定できません」
「だったら、私は戻るしかないじゃないですか!」
久我は、首を横に振った。
「それを、十七歳のあなた一人だけに決めさせるべきではありません」
「でも、私にしかできない」
「鏡宮家は、そう説明しています」
「嘘だと思うんですか」
「分かりません」
久我は、鏡宮家の長年の実績も否定しなかった。
「本当にあなたにしかできないのか。別の術式で代替できないのか。《鎮鏡の儀》以外に安定させる方法が本当にないのか。お母さんの症状は本当に儀式と無関係なのか。……八咫烏が、第三者として調査する必要があります」
「調べている間に、結界が壊れたら?」
「その対応を考えるのは、鏡宮家と八咫烏と、京都を守っている大人たちの仕事です。あなた一人の仕事ではありません」
千鶴の目に、僅かに光が揺れた。
「八咫烏へ行ったら、儀式を止めてくれるんですか」
久我は答える前に、入口のかれんをちらりと見た。
かれんは口を挟まない。
久我自身が判断して答えるのを待っている。
「止められるとは、約束できません」
千鶴の表情がすっと曇る。
「鏡宮家の儀式に本当に必要性があり、あなた自身の生命にも危険があるなら、何らかの処置は必要になるかもしれません」
「結局、受けさせられる?」
「今の儀式を、そのまま受けることになるとは限りません」
「何が違うんですか」
「少なくとも、あなたの話を聞く前に、今夜そのまま京都へ連れていかれることはありません」
久我は、自分ができる約束の範囲だけを提示した。
「八咫烏の保護施設へ移動する。鏡宮家へ即時引き渡さない。医師と能力研究者が状態を確認する。儀式資料の提出を鏡宮家へ求める。お母さんの状態も、第三者が調査する。……そして、ご家族との面会は、千鶴さんの同意を大前提とします」
「家には、私を見つけたって連絡するんですか」
「保護した事実と、生存していることは伝える必要があると思います」
「居場所も?」
ここで、かれんが初めて行政上の保証を口にした。
「保護施設の所在地を、鏡宮家へ開示する必要はありません。面会も、あなたの同意なしには行いません」
「本当に?」
「八咫烏の正式な手続きとして保証します」
*
千鶴の精神が、逃亡生活の疲労と能力の不安定さで限界に近づいていた。
周囲の鏡に、歴代当主らしき女性たちの幻影が次々に映し出される。
『戻りなさい』
『役目を果たしなさい』
『鏡宮の娘でしょう』
『お前一人のために、都を危険へ晒すのですか』
『逃げることは許されません』
千鶴が悲鳴を上げて両耳を塞いだ。
「やめて……!」
これは外部の追っ手からの声ではない。
《神鏡返し》へ記録された歴代継承者の記憶が、継承が不完全なため、千鶴の中へ断片的に流れ込んでいるのだ。
鏡が激しく震える。
写真館の窓ガラスへ細かい亀裂が走る。
床の水たまりが銀色に発光し、《鏡渡り》が暴発しかけていた。
かれんは動かない。
ここで力ずくで暴走を止めれば、千鶴には『鏡宮家より強い者に、力で屈服させられた』としか映らない。
「久我さん」
かれんは短く呼ぶだけだった。
あとは完全に久我へ任せている。
久我は千鶴へ近づこうとして、足を止めた。
勝手には触れない。
「千鶴さん。そっちへ行ってもいいですか」
千鶴は耳を塞いだまま、答えない。
鏡の光がさらに強くなる。
「嫌なら、来るなと言ってください」
「……来ないで」
久我は、その場にぴたりと止まった。
一歩も動かない。
「分かりました。ここにいます」
千鶴は荒い息を吐きながら顔を上げ、本当に久我が止まったことに気づいた。
家の者なら、『あなたのためだから』『危険だから』『今は判断できない状態だから』と理屈をつけて、本人の言葉を無視して近づいてくる。
だが、久我は来ない。
「逃げるなとは言いません」
久我が静かに言う。
「今まで逃げなければ、ここまで来られなかったんでしょう。逃げたことが間違いだったとは、俺には言えません」
「じゃあ、このまま逃がして」
「それもできません」
千鶴の表情が再び強張る。
「今のあなたは、鏡の声に苦しんでいて、能力も暴発しかけています。このまま一人にすることが安全だとは思えません」
「……やっぱり捕まえるんだ」
「あなたが自分で歩いて来てくれるのを、待ちます」
千鶴の恐怖が高まっているにもかかわらず、《鏡写し》は久我の複製を作らなかった。
鏡の表面に久我の輪郭は浮かぶ。
しかし、いつまで経っても実体化しない。
「どうして……」
「何がですか」
「どうして、あなたの鏡写しが出ないの」
「俺があなたを敵だと思っていないからじゃないですか」
「でも、捕まえる可能性があるって言った」
「危険なら止める可能性があると言いました。でも、あなたを倒したいとは思っていません」
「同じじゃないんですか」
「俺の中では違います」
久我は、千鶴へ勝つ未来を一切考えていない。
どうすれば殴れるか。
どうすれば能力を破れるか。
どうすれば逃げ道を塞げるか。
まったく考えていない。
考えているのは、どうすれば千鶴が自分から安全な場所へ来られるか。
それだけだ。
鏡宮家の能力も、その意思の違いを明確に読み取っていた。
「あなたは、何を約束できるんですか」
千鶴が、すがるような目で問う。
久我は、曖昧にせず一つずつ答えた。
「今夜、あなたを鏡宮家へ引き渡しません」
「はい」
「あなたの話を、八咫烏の記録へ正式に残します」
「はい」
「お母さんの状態と、《鎮鏡の儀》の内容について、第三者の調査を求めます」
「はい」
「鏡宮家と会うかどうかは、保護後にあなた自身が決められます」
「はい」
「あなたが周りの人を傷つけそうな時は、止めます」
千鶴が一瞬、目を伏せる。
「あなたが危険な状態なのに、何もしないとは約束できません」
「……うん」
「全部があなたの望みどおりになるとは約束できません」
「うん」
「でも、あなたの話を聞く前に、家の都合だけで決めさせないことは約束します」
千鶴は、初めて久我の目を真っ直ぐに見た。
鏡の中に隠れていた千鶴の本体が、ゆっくりと現実側へ姿を現した。
最初は指先。
次に腕。
最後に、全身。
十七歳の少女が、大きな姿見の前に立つ。
胸には、銀色の分鏡をしっかりと抱えている。
顔色は悪く、足元もふらついている。
久我は動かない。
千鶴が、自分から一歩、久我の方へ近づいた。
「手を取ってもいいですか」
久我が尋ねると、千鶴はしばらく迷い、そして小さく頷いた。
「……はい」
久我がゆっくりと手を差し出す。
千鶴の冷たい指が、久我の手に触れる。
《返照》は発動しない。
久我に拘束の意思がなく、千鶴自身が接触を受け入れているため、返すための因果がどこにも存在しないのだ。
久我は強く握らない。
千鶴が逃げようと思えば、いつでも離せる程度の優しい力。
「八咫烏へ行きます」
「分かりました」
「でも、この鏡は……」
久我は勝手に奪わず、かれんを見た。
「今は、あなたが持っていて構いません。能力検査後の扱いは、あなたと相談して決めます」
千鶴は、分鏡を胸へ抱いたまま、深く頷いた。
*
写真館を出る。
剣持は遠くから三人が出てくるのを確認するが、すぐには近づかない。
千鶴が支援車両へ乗ることに同意してから、初めて姿を見せた。
「話はついたのか」
「保護施設へ来てくれるそうです」
「そりゃよかった」
千鶴は、近づいてきた剣持を警戒して僅かに身を固くした。
剣持は両手を開いて見せる。
「今日は斬らねえよ。刀も車の中だ」
「その言い方、安心させる気あります?」
久我が突っ込みを入れる。
八咫烏の専用アプリへ、かれんが任務結果を入力する。
【保護確保任務】対象者の安全を確認
【確保方法】本人同意による同行
【強制力行使】なし
【能力使用】対象者による《返照》一回
【人的被害】なし
【移送先】八咫烏指定保護施設
「捕獲任務なのに、結局一度も捕まえませんでしたね」
「本人の同意を得て同行してもらうことが、最も安全で確実な確保方法です」
かれんが淡々と答える。
千鶴が後部座席で安心したように眠りに落ちた後。
助手席に乗った久我が、運転席のかれんへ尋ねた。
「皇さんなら、もっと簡単に保護できたんじゃないですか」
「どうして、そう思うのですか」
「最初、《返照》がまったく効いてませんでしたから」
かれんは否定しなかった。
「力ずくで連れていくことは、難しくなかったかもしれません」
「じゃあ、どうして俺に全部任せたんです?」
「私が能力を受け付けないまま接近し、千鶴さんの意思を無視して連れ出せば、彼女の目にはどう見えると思いますか」
久我は納得した。
「鏡宮家より強い能力者が、代わりに自分を回収しに来たと思う」
「はい」
力で保護しても、千鶴は絶対に八咫烏を信じない。
施設へ移した後も逃走を試み、鏡宮家と八咫烏の違いも理解できないままだ。
「今回は、私が力で勝つことには意味がありませんでした」
「だから、俺に話させた?」
「久我さんは、約束できないことを約束しませんでした。彼女が必要としていたのは、力で自分を守れる絶対的な強者ではなく、自分の意思を勝手に書き換えない大人です」
「かなり責任の重い仕事を、突然全部投げましたね」
「久我さんならできると判断しました」
「失敗したらどうするつもりだったんです?」
「その時は、私が対応していました」
「やっぱり、最後の安全装置だったんですね」
*
保護施設へ向かう車内。
千鶴は、銀色の分鏡を胸に抱いたまま、静かな寝息を立てている。
鏡の表面には、眠る千鶴自身の顔が映っていた。
歴代当主でもない。
母親でもない。
鏡宮家の当主でもない。
ただの、疲れ果てた十七歳の少女の顔。
久我は、バックミラー越しにその姿を見て思う。
(力を継承したからといって、人生まで家へ譲り渡さなければならないわけではない。役割があるからといって、自分自身であることを諦める必要はない)
ただし、京都の結界問題も、《鎮鏡の儀》の危険性も、何一つ解決していない。
今夜できたのは、千鶴が自分の言葉で事情を話せる安全な場所まで、彼女を連れていくことだけだ。
それでも。
誰かの人生について話し合うには、まず本人がその場にいなければ始まらない。
鏡宮千鶴の確保に、圧倒的な力は必要なかった。
必要だったのは、安心させるための甘い嘘ではなく、都合の悪いことまで含めた本当の言葉だった。
そして千鶴は、鏡宮家の次期当主としてではなく、鏡宮千鶴という一人の少女として、自分の意思で鏡の外へ歩き出したのだ。
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