35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第29話 吸血鬼、心霊配信者を迎えに行く

 午後十一時四十分。

 

 動画配信サイトの画面に、薄暗い山道と、ひび割れたコンクリートの壁が映し出された。

 

「はい、どうも! 本日は、地元では『四階へ上がると二度と一階へ戻れない』と噂される、ホテル月影へ来ています」

 

 ハンディカメラに向かって明るく声を張り上げたのは、チャンネル登録者数約六万人の心霊配信チャンネル『夜更かし廃墟探訪』の代表兼進行役、榎本亮介だ。

 

 画面の端を流れるコメント欄には、視聴者からの文字が次々と流れていく。

 

『また不法侵入か』

 

『通報されるぞ』

 

『ここガチでやばいって聞いた』

 

『AI背景じゃないの?』

 

『前に別の配信者も入ってたぞ』

 

『四〇四号室が存在しないホテルだっけ』

 

 榎本はスマートフォンでコメントを確認しながら、口角を上げた。

 

「許可についてはノーコメントです。まあ、今日は特別なルートから『確実に撮れる』情報を仕入れてきたんで、期待してください」

 

 表向きはそう言っているが、当然、許可など取っていない。

 

 榎本たちの本職は普通の会社員であり、心霊配信は週末の副業と趣味を兼ねたものだ。

 

 幽霊の存在を完全に信じているわけではない。

 

 本物でも偽物でも、映像として面白ければいい。

 

 それが榎本の姿勢だった。

 

 カメラを構えているのは、編集担当の石塚直人。

 

 かなりの懐疑派で、廃墟の物音や影のほとんどを、風や建物の収縮だと理屈で処理するタイプだ。

 

 そしてその後ろで、少し顔を青ざめさせているのが出演者の相沢美羽。

 

 自称霊能力者ではないが、彼女には、入ってはいけない場所や、誰かに見られている感覚を察知する弱い霊感が備わっていた。

 

 八咫烏の基準で言えば、ごく低位の感知系能力者に該当する。

 

 ホテルの正面玄関は、頑丈な金属柵と有刺鉄線で封鎖されていた。

 

 三人は裏手の斜面を登り、搬入口へと回った。

 

 この侵入経路は、榎本が有料の心霊スポット情報ページから五百円で購入したものだ。

 

 そこには、

 

『搬入口の錠が壊れている』

 

『午前零時前なら警報が作動しない』

 

『四階へ行くには旧館側階段を使う』

 

『フロントの宿泊者名簿へ名前を書くと現象が起きる』

 

 と、異様に詳細な手順が記されていた。

 

「誰かが作った設定でしょ。五百円払ったんだから、元くらい取らないと」

 

 榎本はそう笑っていたが、相沢は搬入口の錆びた鉄扉の前に立った瞬間、強い悪寒を覚えた。

 

「榎本さん……やっぱり、今日はやめませんか。ここ、本当に嫌です」

 

「入る前が一番怖いだけだって。ほら、回ってんぞ」

 

 石塚に促され、三人は軋む扉を開けてホテル内部へと侵入した。

 

       *

 

 懐中電灯の光が、埃を被ったロビーを照らす。

 

 フロントのカウンターには、古びた宿泊者名簿が置かれていた。

 

 十五年も放置されていた廃墟のはずなのに、なぜかその名簿の開かれたページだけは、紙が白く新しい。

 

「噂によると、ここへ名前を書くと部屋を用意してくれるそうです」

 

 榎本が配信の企画として、名簿に置かれていたボールペンを手にした。

 

「じゃあ、書きますよ」

 

 三人はそれぞれ、チャンネル上の呼び名をカタカナで書き込んだ。

 

『リョウ』

 

『ナオ』

 

 相沢だけは最後まで嫌がったが、榎本に押し切られて、小さく『ミウ』と書いた。

 

 書き終わった瞬間。

 

 チィン、と。

 

 フロントの呼び鈴が、一度だけ澄んだ音を立てて鳴った。

 

 誰も触っていない。

 

 コメント欄が『うわっ』『仕込み乙』と一気に盛り上がる。

 

 榎本と石塚は、

 

「風で鳴ったのかな」

 

 と笑って誤魔化したが、二人の背中にも嫌な汗が伝っていた。

 

 三人は、情報ページの指示通りに旧館側の階段を上り始めた。

 

 一階。

 

 二階。

 

 三階。

 

 四階。

 

 ところが四階の防火扉を開けると、そこは先ほどまでいたフロントロビーだった。

 

「……裏側から一階へ戻る構造だったのかな?」

 

 榎本が乾いた声で言う。

 

 石塚はカメラを回しながら建物の配置を確認し、

 

「錯覚だ」

 

 と自分に言い聞かせる。

 

 再び階段を上る。

 

 今度はカメラで各階の表示をしっかりと映す。

 

 一階。

 

 二階。

 

 三階。

 

 四階。

 

 扉を開く。

 

 また、埃を被ったロビーだった。

 

「もう帰りましょう! これ、建物の構造じゃないです!」

 

 相沢が泣き叫ぶ。

 

 コメント欄は、

 

『編集点どこ?』

 

『ループ動画うまい』

 

『階段が二つあるだけだろ』

 

 と、依然として演出だと思い込んでいる。

 

 三人は足早に搬入口へ戻ろうとした。

 

 しかし、先ほど入ってきたはずの扉の向こうには、外の斜面ではなく、細長い客室廊下がどこまでも続いていた。

 

 正面玄関のガラス扉も開かない。

 

 窓の外には駐車場が見える。

 

 榎本がロビーのパイプ椅子を投げつけて窓を割ろうとすると、椅子がガラスへ届く直前、窓までの距離が不自然にぐにゃりと伸びた。

 

「錯覚だ……暗いから距離感が狂ってるんだ」

 

 石塚が震える声で言う。

 

 その時、頭上のスピーカーからノイズ混じりの館内放送が流れた。

 

『――お客様は、客室でお待ちください』

 

「これ、人の声じゃないです……!」

 

 相沢がしゃがみ込む。

 

 パニックに陥る中、廊下の奥から榎本の声が響いた。

 

「石塚、こっちに出口があるぞ!」

 

 しかし石塚のすぐ隣には、顔面を蒼白にさせた本物の榎本が立っている。

 

 直後、館内の照明が一斉に消え落ちた。

 

 完全な暗闇。

 

 悲鳴。

 

 石塚の手からカメラが床へ落ちる音が響く。

 

 数秒後、非常灯が血のように赤く点灯した。

 

 だが、そこに石塚の姿はなかった。

 

 床にはカメラだけが転がっている。

 

 配信映像は、自動的に相沢の胸元へ取り付けられたウェアラブルカメラへと切り替わっていた。

 

       *

 

 配信の同時視聴者数は、この異変によって数万人にまで急増していた。

 

 切り抜き動画がSNSで瞬く間に拡散され始めるが、大半のネットユーザーは、手の込んだ生配信、事前収録の映画宣伝、AIを使ったリアルタイム映像加工だと考えていた。

 

 それを本物の超常現象だと受け取る者は、ほとんどいなかった。

 

 しかし、相沢の姉だけは違った。

 

 妹の過呼吸混じりの悲鳴が、決して演技などではないと気づき、震える手で警察へ通報した。

 

 地元警察は当初、廃墟への不法侵入と遭難事案として処理し、署員二名を現場へ向かわせた。

 

 警察官がホテルの正面玄関付近へ到着する。

 

 外から見ると、建物内部の四階付近にライトの光が動いているのが見えた。

 

 しかし別の窓を見ると、人影は一階と六階へ同時に現れた。

 

 警察官が搬入口から内部へ踏み込む。

 

 だが数十秒後、彼らは同じ搬入口から外へふらふらと戻ってきた。

 

 本人たちには、十分ほど館内を捜索した感覚があった。

 

 管轄の警察署は、過去の注意情報データベースを参照し、直ちに八咫烏の連絡窓口へ照会をかけた。

 

 数分後、ホテル月影が、

 

『霊的危険区域・建物外への波及なし・不法侵入者への危険あり』

 

 として指定されている場所だと判明する。

 

 警察は直ちに外周の封鎖へ移行し、八咫烏へ正式な救助協力が要請された。

 

       *

 

 同じ頃。

 

 久我陽介は自宅の寝室で、最近買ったばかりの黒い専用冷蔵庫から、血液パックを取り出していた。

 

 ストローを挿して冷たい血を喉へ流し込んでいると、私用のスマートフォンから、八咫烏アプリの緊急協力通知が鳴り響いた。

 

『【緊急救助協力要請】

 

 対象:心霊事案による建物内遭難者三名

 

 目的:生存確認・誘導・搬送

 

 危険度:暫定Tier 4相当

 

 想定対象:複数霊体

 

 ※除霊ではなく救出を優先』

 

 久我は血を飲み干し、空になったパックを指定された密封回収袋へ入れた。

 

「専用冷蔵庫を買って生活を整えたら、次は本物の心霊スポットか……」

 

 ため息をつきながらも、すぐに予備のスラックスとシャツへ着替え、ジャケットを羽織る。

 

 防護用の遮光グラスと装備を鞄へ詰め、玄関へ向かった。

 

 生活設備を整えたからこそ、緊急時にすぐ動ける。

 

 皮肉なものだと、久我は思った。

 

       *

 

 郊外のホテル月影の前には、すでにパトカー、八咫烏の偽装車両、救急車が静かに停車していた。

 

 配信者の姉や、土地管理会社の担当者も、青ざめた顔で待機している。

 

 現場指揮を執る皇かれんの元へ、久我、七瀬澪、そして魔法のステッキのような術具を持った杖原つかさが集合した。

 

「女子高生二人と会社員一人で、心霊ホテルへ人を迎えに行くんですか」

 

 久我がぼやくと、杖原がむっとした顔で言い返した。

 

「魔法少女を忘れてもらっては困ります! 今日は遭難救助隊みたいですけど!」

 

「私は吸血鬼です!」

 

 澪も胸を張る。

 

「余計に一般的な救助隊の印象から離れたね」

 

 源玄蔵の姿はない。

 

 かれんによれば、源は別区域の封鎖対応へ出ており、今回は出動しないとのことだった。

 

 八咫烏の要員が、常に暇を持て余しているわけではないのだ。

 

 かれんがタブレットでホテルの図面を表示しながら、説明を始める。

 

「ホテル内には複数の霊体反応が確認されています。主な異常は、空間の重複と循環です。三人の配信者は、まだ生存している可能性が高いと思われます」

 

 配信映像の分析から、石塚は客室か倉庫、榎本はロビー付近、相沢は物理的に存在しない四階の部屋へと分断されたと推定されていた。

 

 完全な除霊を担当できる専門の霊媒班は、別の事件から移動中であり、到着まで時間がかかる。

 

 配信者がホテルの怪異ルールへ完全に取り込まれる前に、久我たちが先行して救出する。

 

「久我さんは生存者の識別と位置確認。七瀬さんは救助対象の保護と搬送。杖原さんは帰還経路の固定を担当します。霊体の追跡や除霊は行いません」

 

「見つけて、連れて帰るだけですね」

 

「はい。簡単に聞こえる場合ほど、手順を厳守してください」

 

 かれんはさらに、厳格な禁止事項を告げた。

 

「名簿へ名前を書かないこと。フロントで鍵を受け取らないこと。館内電話へ出ないこと。呼ばれても返事をしないこと。客室へ入る際は『宿泊しない』と明確に声に出すこと。一人にならないこと。そして――」

 

 かれんは久我と澪を見た。

 

「生存者の姿を見ても、久我さんが生体反応を確認するまでは、絶対に触れないこと」

 

「触ったら駄目なんですか?」

 

 澪の問いに、かれんは無表情で答えた。

 

「本人の姿をした、別のものかもしれませんから」

 

 澪がぶるりと身をすくめた。

 

「あと、七瀬さん。救助対象は荷物ではありません。吸血鬼の速度で一般人を強引に運べば、頸部を損傷します。速度より姿勢を優先してください」

 

「は、はいっ!」

 

       *

 

 三人は搬入口からホテル内部へと侵入した。

 

 入ってすぐ、杖原が入口の床へ小型の帰還灯を設置する。

 

 現実側からは白い光に見えるが、霊的な空間の奥から見ると、青い光を放つ目印だ。

 

 さらに壁へ、赤い結界糸を等間隔で固定しながら進んでいく。

 

 久我は遮光グラスの奥で、魔眼を起動した。

 

 ホテル内は異様なほど静かだった。

 

 ネズミや虫といった、生き物の気配すらまったくない。

 

 しかし暗い廊下の奥には、複数の人影がふらふらと歩いているのが見えた。

 

 久我の魔眼が、その人影を冷徹に分析する。

 

 心拍、なし。

 

 血流、なし。

 

 体温、なし。

 

「見える人影は、全部死んでます」

 

「久我さん、さらっと怖いこと言わないでくださいよ……」

 

 澪が久我の背中に隠れるようにして進む。

 

 廊下の角を二度曲がると、目の前に先ほど設置した青い帰還灯が現れた。

 

 しかし杖原が壁に張った結界糸は切れておらず、廊下の奥へ真っ直ぐ続いている。

 

 物理的には直線を歩いているのに、認識上だけ曲がっているのだ。

 

「建物が曲がってるんじゃありません。私たちの出口の選び方をずらされているんです」

 

「どの扉を選んでも、向こうが行かせたい場所へ出るってことか」

 

「はい。なので、扉を選ばなければいいんです」

 

 杖原が、壁の何もない空間へ札を貼る。

 

 すると空間が歪み、本来そこに存在するはずの従業員用扉が姿を現した。

 

 怪異が用意した道ではなく、物理的なホテルの構造を無理やりこじ開けて進む。

 

       *

 

 しばらく進むと、久我の耳に微かな音が届いた。

 

 一定ではない、ひどく荒い呼吸音。

 

 さらに魔眼を凝らすと、床の埃の上に、体温の残滓を帯びた靴跡が見えた。

 

 靴跡は客室へ向かっているように見えたが、途中で途切れている。

 

 すると、右側の壁の向こうから声がした。

 

「助けてください……誰か……」

 

 石塚の声だ。

 

 しかし同時に、左側の廊下の奥からも、まったく同じ石塚の声が聞こえた。

 

 澪が右へ動こうとするのを、久我が素早く腕を掴んで止める。

 

「待って。右側の声には心拍音がありません。本物の荒い心拍は、左側の壁の奥です」

 

 杖原が左側の壁へ札を貼る。

 

 壁が一瞬だけ透け、実際には廊下の先にあるリネン室と繋がっていることが分かった。

 

 澪が物理的な扉のノブを握り、力任せにこじ開ける。

 

 中には、カメラを抱えて震える石塚がいた。

 

 だが石塚の目の前には、榎本とまったく同じ姿をした人影が立っていた。

 

「大丈夫だ。出口を見つけたぞ、直人」

 

 偽物の榎本が、優しく語りかけている。

 

 極限状態の石塚は、それに縋り付こうと手を伸ばしかけていた。

 

 久我は魔眼で人影を一瞥し、石塚と偽物の間へ割って入った。

 

「そちらの人には、脈がありません」

 

 久我が冷たく宣告した瞬間。

 

 偽物の榎本が、笑顔のまま首を、ことりと傾けた。

 

 その顔が瞬時に、焼け焦げた夜勤従業員のものへと変貌する。

 

「うわあああっ!」

 

 石塚が悲鳴を上げる。

 

 杖原がすかさず術具から光弾を放つと、霊体は形を崩し、壁の奥へ逃走していった。

 

 完全には消滅していない。

 

 幽霊は攻撃されれば逃げる。

 

 逃げた先で潜伏し、再び現れる。

 

 専門家でもなければ、完全に祓うことは難しいのだろう。

 

 石塚は腰が抜けて、自力歩行が難しかった。

 

 澪がそっと肩を貸す。

 

「外へ出たはずなのに、何度も同じ部屋へ戻された……榎本が何人も来たんだ……」

 

「本物は一人なので、次からは脈を確認してください」

 

「普通は確認できないんですよ、そんなの……」

 

 澪が石塚の姿勢に気をつけながら、帰還灯のある入口境界まで丁寧に運ぶ。

 

 杖原が一時的に経路を固定し、外側で待機していた八咫烏職員と警察官へ石塚を引き渡した。

 

 第一救助、完了。

 

       *

 

 続いて、フロントロビー。

 

 かれんからの通信によれば、配信映像の榎本は、ここで名簿へ名前を書き続けているという。

 

 ロビーへ出ると、そこには数十人の死んだ人影が、ソファや床へ座り込んでいた。

 

 全員が久我たちを見つめているが、直接襲ってはこない。

 

 受付カウンターの前に、榎本が立っていた。

 

 彼は焦点の合わない目で、宿泊者名簿のページに、

 

『リョウ』

 

『リョウ』

 

 と乱れた筆跡で書き殴っている。

 

 カウンターの内側には、焼け焦げた制服を着た牧村の霊が、笑顔で立っていた。

 

「ご宿泊のお客様ですか」

 

 牧村が久我たちへ尋ねる。

 

「違います。迎えに来ました」

 

 久我が明確に拒否する。

 

「お連れ様も、お部屋をご用意できます」

 

「泊まりません」

 

「宿泊契約は結びません。鍵も受け取りません」

 

 澪と杖原も、はっきりと宣言する。

 

 意思を明確にしたことで、牧村の支配が久我たちへ定着しない。

 

「榎本亮介です」

 

 榎本がうわ言のように本名を名乗り、名簿へ書き込もうとした。

 

 本名を書けば、ホテルの呪縛が完全に固定される可能性がある。

 

 久我が榎本へ近づこうとすると、ロビーにいた数十の幽霊が、一斉に立ち上がった。

 

 物理的な攻撃ではない。

 

 肩を掴む冷たい感覚。

 

 足首へ絡みつく重い影。

 

 目の前を塞ぐ人影。

 

 耳元で囁かれる無数の声。

 

 そして鳴り響く火災警報の幻聴。

 

 澪が榎本を強引に抱え上げようとするが、床から伸びた無数の黒い手が、彼の足を固定して動かない。

 

 久我は魔眼で、榎本の腕の血流を見た。

 

 ペンを無理やり握らされているのではない。

 

 極度の恐怖による筋肉の硬直だ。

 

 久我は榎本の手首の腱を外側から正確に押し込み、反射的にペンを落とさせた。

 

 すかさず杖原が、名簿のページへ封印札を叩きつける。

 

 名前の記入が止まり、幽霊たちの動きが一瞬だけ静止した。

 

 その隙に、澪が榎本を抱えてロビーを離脱する。

 

「美羽が……四〇四号室にいる。ホテルの人が、迎えが来るまで待てって……」

 

 榎本が、うわ言のように繰り返す。

 

       *

 

 ホテルの四階には、本来、四〇三号室の次は四〇五号室であり、四〇四号室は存在しない。

 

 しかし、この霊的な空間にはそれが存在する。

 

 牧村の本格的な妨害が始まった。

 

『――火災が発生しました。お客様は廊下へ出ないでください』

 

 館内放送とともに、濃い煙が廊下へ充満する。

 

 実際の火ではない。

 

 しかし霊障によって、目の痛みや息苦しさ、熱感が発生する。

 

 久我の魔眼の視界にも赤いノイズが走り、血流のない幽霊たちの位置が掴みづらくなった。

 

「人間を探す目なのに、人間じゃないものばかりいる……!」

 

「だから私がいるんです!」

 

 杖原が帰還灯の出力を最大にし、結界糸を四階へ向けて真っ直ぐ伸ばした。

 

 榎本を入口側の一時安全区画へ退避させる。

 

 澪は速度を抑え、彼の首をしっかりと固定して丁寧に運んだ。

 

 救助の基本を、確実に守っている。

 

 四階へ至る階段は、物理的なものでは辿り着けなかった。

 

 杖原が配信映像の断片から、存在しない従業員用階段の入口を、札でこじ開ける。

 

 そこは罠の可能性が高い。

 

 だが相沢を助けるには、入るしかない。

 

 かれんから通信が入る。

 

『滞在時間五分。帰還灯が見えなくなった時点で即時撤退。本体を深追いしないこと』

 

 従業員階段には、過去の宿泊客の霊がうずくまっていた。

 

 彼らは敵意ではなく、恐怖に囚われている。

 

「外は燃えている」

 

「部屋へ戻らないと死ぬ」

 

 澪が押し退けようとするが、実体がないため触れられない。

 

 久我は彼らを敵と見なさず、静かに告げた。

 

「火はもう消えています。今は、救助に来ました」

 

 その言葉に、一部の幽霊が、すっと道を空けた。

 

 残る牧村の支配下にある霊は、杖原の光弾で一時的に形を崩しながら進む。

 

       *

 

 四階の奥。

 

 四〇三号室と四〇五号室の間に、古い扉があった。

 

 札には『404』とある。

 

「入らないでください……私じゃないものが、一緒にいます」

 

 中から相沢の怯えた声が聞こえる。

 

 久我が魔眼で扉越しに確認すると、人間の心拍が一つ。

 

 そして血流のない人影が、もう一つ重なっていた。

 

 偽物の相沢が、本物へ向かって囁いている。

 

「もう外へ帰らなくていい。ここなら、ずっと配信を見てもらえる」

 

 相沢の体温は低下している。

 

 左手には部屋の鍵が握り込まれ、ベッド脇の宿泊票には、本名が薄く浮かび上がり始めていた。

 

『ご宿泊ですか』

 

 背後から牧村の声がした。

 

「違います。迎えに来ただけです」

 

 久我が明言する。

 

 澪も杖原も、

 

「泊まりません」

 

 と拒否の意思を示してから、扉を開けた。

 

 偽物の相沢が、すっと消える。

 

 直後、部屋全体が過去の火災の惨状へと変化した。

 

 天井から焼けた壁材が落下し、ベッドの下から黒い手が伸びる。

 

 久我は内在時間を短く起動した。

 

 落下物と黒い手の軌道を見切り、澪の背中を押して回避させる。

 

 直後に、激しい頭痛と喉の渇きが襲った。

 

 澪が相沢の身体を確保する。

 

 しかし鍵を握った左手が、床へ縫い付けられたように動かない。

 

 力任せに引けば、腕が折れる。

 

「握っているんじゃない。鍵の方が、手に食い込んでいる」

 

 久我の指示で、杖原が鍵と相沢の手の間へ封印札を差し込み、霊的な癒着を切断した。

 

 鍵が床へ落ちる。

 

 澪が相沢を抱え上げる。

 

 部屋の出口に、焼け焦げた牧村が現れた。

 

「お客様は、部屋でお待ちください。迎えは来ません」

 

「来ています。私は、この人を迎えに来た側です」

 

 久我の強い意思に、牧村の干渉が定着せず、表面を滑る。

 

 杖原が結界糸を扉の周囲へ張り巡らせ、追ってくる牧村の霊体を、数秒だけ室内側へ押し返した。

 

「長くは持ちません! 今のうちに!」

 

 澪が相沢を抱えたまま、廊下へ飛び出した。

 

       *

 

 帰還灯が激しく点滅を始めた。

 

 制限時間の五分が迫る。

 

 霊的な階段が崩れ始め、廊下の左右の扉から、無数の幽霊が溢れ出した。

 

「部屋へ戻れ」

 

 そう迫る群れの中を、久我は生体反応のない人影の隙間を選び、澪の進路を指示する。

 

 杖原が最後尾で光弾を放ち、幽霊の形を数秒だけ崩して、追跡を遅らせる。

 

 倒すことはできない。

 

 だが逃げるための時間は稼げる。

 

 三人がロビーへ転がり込む。

 

 榎本と石塚も合流したが、フロントには牧村が名簿を抱えて立っていた。

 

 三人の名前が残ったまま外へ出れば、後日また呼び戻される危険がある。

 

『名簿を破壊すると、霊体が周囲へ散る可能性があります。名前だけを無効化してください』

 

 かれんの指示が飛ぶ。

 

 久我が魔眼で名簿を睨む。

 

 何十年も前の古い筆跡には、追跡へ使える新しい生体由来の痕跡が残っていない。

 

 しかし三人が書いた文字には、指先の皮脂、微細な汗、そして紙で切った榎本の指から付着した血が、僅かに残っていた。

 

 久我が三人の記入箇所を特定し、杖原が封印札で囲む。

 

「宿泊しません」

 

「ここには残りません」

 

 石塚と榎本が宣言する。

 

 最後に相沢が力を振り絞り、

 

「帰ります」

 

 と言い切った。

 

 三人の名前が、インクと一緒に滲み、消滅した。

 

 ホテルの照明が一斉に落ち、牧村の姿が光に包まれて、消滅したように見えた。

 

 しかし久我の魔眼は、フロント奥の従業員用扉が僅かに動き、焼けた制服の裾が闇へ消えるのを見逃さなかった。

 

「逃げました」

 

「消えたふりでしたか」

 

『追わないでください。退避を優先します』

 

 かれんの指示に従い、久我たちは正面玄関の扉を開けた。

 

 外の冷たい夜気と、赤色灯の光が飛び込んでくる。

 

       *

 

 外部の時間は、救出開始から僅か二十数分しか経っていなかった。

 

 しかし配信者たちには、数時間から一晩近くの体感があった。

 

 救急車内で応急処置を受けながら、八咫烏の職員が三人へ、記憶処置について説明する。

 

 希望する場合は、医師による診察と警察の事情聴取を終えた後、今回の超常体験に関する記憶処置を受けることができる。

 

 強制ではない。

 

 石塚は即座に、

 

「忘れたいです」

 

 と訴えた。

 

 榎本は、動画の記録を残したいという気持ちと、恐怖の間で決断を保留した。

 

 しかし相沢は、

 

「忘れたら、また同じことをするかもしれません。本当に危険だと伝えたいです」

 

 と、記憶を残すことを選んだ。

 

 配信データについては、侵入経路や名簿のルールなど、危険な情報が含まれる部分だけ、八咫烏から削除要請が出された。

 

       *

 

 翌日。

 

 SNSでは、

 

『廃ホテル配信で本当に警察来てて草』

 

『スーツのおっさんの動き、AI補正失敗してる』

 

『女子高生が成人男性運んでるの、完全にCG』

 

『魔法少女の光弾で笑った』

 

『最後のホテル従業員、顔が焼けてない?』

 

 と、大半が巧妙な作り物として消費されていた。

 

 週明けの会社。

 

 後輩の佐藤が、久我へスマートフォンの画面を見せてきた。

 

「久我さん、この心霊動画見ました? 救助に来たスーツの人、ちょっと久我さんに似てるんですよ」

 

「夜の廃ホテルでスーツを着てる三十五歳なんて、だいたい似て見えるんじゃないかな」

 

「そんな人、普通は廃ホテルにいませんよ」

 

「確かに」

 

 久我は苦笑して、パソコンの画面へ視線を戻した。

 

       *

 

 その夜、かれんから連絡があった。

 

 三人が利用した有料情報ページは、救助完了の十五分後に削除されていた。

 

 運営者が配信か現場を監視していた可能性が高い。

 

 しかも記事には、一般の心霊愛好家が偶然知ったとは考えにくいほど、正確な怪異のルールが記されていた。

 

「本当に危険だと知っていて、配信者へ売ったんですか」

 

『その可能性があります』

 

「五百円で?」

 

『金額が目的とは限りません』

 

 さらに、その販売アカウントには、新しい記事が追加されていた。

 

『都内某所。午前二時、名前を呼ぶ公衆電話』

 

 購入者は、すでに十数人。

 

「また、迎えに行くことになりそうですね」

 

 久我は電話越しに、ため息をついた。

 

 幽霊はいた。

 

 人間を閉じ込めて殺す怪異も存在した。

 

 それでも翌朝、動画を見た会社員たちは、それをAIだと笑って仕事へ戻る。

 

 久我もその一人に混ざって働き、定時退社を目指す。

 

 本物の幽霊よりも、午後六時直前に飛んでくる課長の追加作業のメッセージの方が、今の久我には、よほど現実的で恐ろしい脅威だった。

 




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