35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
ホテル月影での心霊配信者救出任務から数日が過ぎた夜。
仕事を終えた久我陽介は、指定された通りに御影坂高校の夜間警備班詰所へと足を運んだ。
古びたパイプ椅子が並ぶ空間には、すでに皇かれんと剣持の姿があった。長机の上に置かれたタブレット端末の画面には、東京近郊から郊外へと放射状に延びる十本の輸送ルートが、赤や青の線で示されている。
「久我さん。次の協力任務は、押収した呪物の輸送護衛です」
かれんがタブレットを指し示し、淡々とした口調で本題を切り出した。
「呪物ですか?」
「ああ。どうやら、その呪物を狙う襲撃計画が、ダークウェブの超常犯罪者向け掲示板で出回ってるらしい」
腕を組んで壁に寄りかかっていた剣持が、忌々しそうに吐き捨てた。
「……また、裏で危険な情報を売買している人間がいるんですね」
ホテル月影の有料情報サイトの件が久我の脳裏をよぎるが、かれんは静かに首を振った。
「今回の情報は、購入者を罠に嵌めるような怪談の類ではありません。純粋に呪物を奪取させるための依頼、あるいは扇動に近いものです。発信元の特定には至っていませんが、八咫烏が押収した呪物が移送されるという事実自体は、正確に漏洩しています」
輸送されるのは、《哭き骨の楔》と呼ばれる代物だという。
人間の指ほどの長さをした、黒く変色した骨製の杭。対象者の名前を書いた紙と一緒に地面へ打ち込むことで、遠隔から悪夢や幻聴、激しい内臓痛、自傷衝動を引き起こし、長期間使用されれば死に至らしめるという陰湿な呪具だ。
単体で大都市を滅ぼすほどの派手な力はない。
しかし、呪殺代行業者や犯罪術師、裏社会のカルトにとっては極めて使い勝手がよく、高値で取引されるらしい。
「八咫烏は輸送を中止するのではなく、あえて予定通りに行動します」
かれんが作戦の概要を語り始めた。
「同じ時間帯に、十台の中型トラックを複数の地点から出発させます。全車両が異なる運送会社を装い、積載する封印容器も外見、霊的反応ともにほぼ同一のものを載せます。九台は偽装用の模造呪物。一台だけが、本物の《哭き骨の楔》を運びます」
偽装容器の中にも、微弱な呪力を発する術具が仕込まれており、単純な霊感や探知能力では、外部から本物を判別することはできないという。
「十チームに分かれて、偽装して対応するわけですね」
「はい。襲撃者を分散させ、本命の輸送経路を秘匿します」
「そのうちの一台に、お前が乗る」
剣持の言葉に、久我は短く応じた。
「本命ですか?」
「いや。もちろん偽装チームだ。本命は別の専門部隊が固める」
「了解です」
間髪入れずに即答した久我を見て、剣持が少し意外そうな顔をした。
「随分あっさりしてるな」
「本物の危険な呪物と同じ車に乗らなくていいなら、むしろ安心しましたよ」
「残念ですが、襲撃者側には、どの車両が偽物か分かりません」
かれんが冷水を浴びせるように事実を告げる。
「……襲われる危険度は変わらないと」
「はい」
久我のささやかな安堵は、数秒で完全に消え去った。
なぜ今回の輸送班に自分が選ばれたのか。
かれんの挙げる理由は極めて事務的だった。
夜間でも行動能力が落ちない吸血鬼の特性。魔眼による高い周囲警戒能力。負傷しても生存しやすい再生力。そして何より、これまでの任務で見せた、命令を無視して敵を深追いしないという堅実な撤退判断だ。
「お前、思ったより撤退判断は素直だからな」
「命が惜しい、普通の会社員なので」
「その認識を維持してください」
かれんの言葉に、久我は苦笑した。
今回の任務は、久我一人ではない。
後衛の術師が一人、相棒として同行するという。
「接近戦はお前が引き受けろ。後ろから火神という術師が援護する。現場での戦闘指揮は、そいつの指示に従え」
「現場責任者は、その火神さんなんですか?」
「戦闘時の指揮は火神さんです。ただし、輸送の継続または放棄の最終判断は、運転席にいる八咫烏職員が行います」
すべてを自分一人に背負わされるわけではないと知り、久我は少し肩の荷が下りた。
「第一目標は、敵を倒すことではありません。車両を予定ルートへ進めること、そして襲撃者を本命の車両から遠ざけることです」
かれんが明確に優先順位を叩き込む。
「偽物の荷物を守って死ぬ必要はないわけですね」
「ありません」
「敵が格上なら、すぐ逃げろ。相手が荷物を持っていっても、どうせ中身はただのガラクタだ」
「少し気が楽になりました」
「その台詞、明日までちゃんと覚えておけよ」
剣持がニヤリと笑った。
*
翌日、午後九時過ぎ。
表向きは民間物流会社の倉庫を装った、八咫烏の拠点。
広大な敷地内には、社名も塗装も異なる中型トラックが十台、静かに並んでいた。
久我は運送会社の作業員を装うため、いつものスーツではなく、黒い作業服に防刃素材入りの上着を羽織り、作業靴を履いていた。胸元には、偽装の社員証が揺れている。
トラックの荷室は、外から見れば通常の貨物スペースだが、内部は違った。
向かい合わせに設置された固定座席、緊急通信端末、消火器、簡易医療キット。
そして中央には、黒い金属製の耐火ケース――偽装封印容器が鎮座している。
久我が魔眼で容器の表面を観察しても、読み取れるのは幾重にも重なった封印術式の反応だけだった。
中身が本物か偽物かまでは判別できない。
久我が荷室へ乗り込むと、すでに片側の座席に一人の男性が座っていた。
三十歳前後。
少し明るい茶色の髪。黒いコートの下にパーカーと動きやすいパンツという、ラフな出で立ちだ。
だが両手には、意匠の施された複数の指輪がはめられ、腰には札や小瓶を収めたポーチが巻かれている。
男が、ひらりと片手を上げた。
「どうも。今日の相方?」
「久我陽介です。よろしくお願いします」
「火神蓮司《かがみ・れんじ》。よろしく。まあ、どうせ俺たちは囮だし、気楽にいこう」
「前日に俺も似たようなことを考えていたら、危険度は本命と変わらないと釘を刺されましたよ」
「現実的で厳しい指揮官だね」
蓮司はくすくすと笑った。
「一応確認。能力は?」
「吸血鬼です」
「吸血鬼か。じゃあ前衛、任せていい?」
「ずいぶん早いですね」
「俺、後ろで呪文を唱えるタイプだからさ。誰かが前に立ってくれないと、何もできないんだよ」
久我は自分の能力を簡潔に伝えた。
「目立った能力は、身体能力強化と再生くらいです。あとは、少し目が良いです」
「少し?」
「動体視力と、血流や体温を見るのが得意です」
《内在時間》と《外在時間》については伏せた。
かれんからの指示通り、魔眼の高負荷使用は極力避けるつもりだ。
「十分すぎるでしょ。吸血鬼が前で殴って、俺が後ろから魔法を撃つ。教科書みたいな綺麗な編成だ」
「火神さんは、魔法使いなんですか?」
「能力名は《四象攻術》。まあ、要するに魔法ね。呪文を唱えて、火や氷や風や雷を出すタイプ」
「かなりオーソドックスですね」
「親父が欧州の魔法使いでね。子供の頃から教えられた術式と、俺の能力がうまく噛み合ったんだよ」
「魔法使いの家系ですか」
「親父だけね。母親は普通の日本人。俺も普通に日本で会社員やってるよ」
「魔法使いも会社員をするんですね」
「吸血鬼も会社員をしてるでしょ」
妙なところで意気投合し、二人は笑い合った。
蓮司は、今回使う可能性のある術をざっと説明してくれた。
圧縮した空気の層を作る簡易防御の《風壁》。
指定地点から氷の杭を突き出し、足止めや進路封鎖に使う《氷杭》。
敵を押し返すための《風弾》。
「《火槍》や《雷矢》みたいな火力特化もあるけど、道路上や輸送車両の近くじゃ被害が大きすぎるから、原則使わない。俺が詠唱している間、前をお願いね」
「何秒くらいですか?」
「短いので二秒。強いので十秒」
「実戦で十秒は長くないですか?」
「だから前衛が必要なんだよ」
蓮司は肩をすくめた後、付け加えた。
「吸血鬼協会の護衛にも何度か入ったことがあるから、吸血鬼の基本的な能力は少し知ってる。負傷した時に気になることがあったら聞いて」
「頼りにしています」
「戦闘になる前に終わるのが一番だけどね」
*
午後九時四十五分。
十台の偽装車両が、時間と方角をずらして順番に倉庫を出発していった。
久我たちのトラックも、都内の喧騒を抜けて郊外方面へと向かう。
窓のない荷室の中で、二人は向かい合って座っていた。
走行音だけが響く中、蓮司はコンビニの紙コップコーヒーを、ちびちびと飲んでいる。
「呪物輸送は何度も経験しているんですか?」
「数回ね。だいたいは暇だよ。輸送任務で一番多い敵は眠気だから」
「俺は夜に強いので、その点では適任です」
「吸血鬼の能力?」
「元々、午前五時まで仕事をしていました」
「それは能力じゃなくて、ただの労働災害じゃない?」
「最近よく言われます」
蓮司がコーヒーを飲み干し、輸送護衛の基本方針を再確認する。
「襲撃されたら、まず運転手が逃走の継続を判断する。走れるなら絶対に止まらない。走れなくなったら降りて迎撃。俺が車両周辺を守るから、君が相手をトラックへ近づけないようにする」
「捕まえるんですか?」
「可能ならね。でも格上なら、容器ごと置いて逃げる。どうせ偽物だから」
「火神さん、撤退判断が早そうですね」
「強いやつを相手に無駄な意地を張るほど、若くないからさ」
「安心しました」
*
午後十時半前。
トラックは高速道路を下り、倉庫や工場が並ぶ郊外の工業地帯を走っていた。
荷室の壁へ取り付けられた小型モニターには、車両前方と左右のカメラ映像が表示されている。
夜間の交通量は少なく、街灯の白い光が等間隔に流れていく。
警報装置にも異常はない。
平和な輸送任務として終わるかもしれない。
そう思いかけた瞬間だった。
キキーッ!!
トラックが激しいスキール音を立てて、急ブレーキを踏んだ。
久我と蓮司の身体が、シートベルトへ強く引っ張られる。
固定された偽装容器だけが、無機質にその場へ留まっていた。
運転席からの緊急通信が、ノイズ混じりに響く。
『前方、道路中央に人影。警告へ反応なし。回避経路を塞がれています』
蓮司が紙コップを固定台へ置き、その顔から一切の軽さが消え去った。
「敵がお出ましになったみたいだ」
革手袋を締め直し、蓮司が立ち上がる。
「迎撃といこうか……!」
「はい!」
*
後部扉を開け、アスファルトの道路へ降り立つ。
冷たい夜風が肌を刺す。
トラックのヘッドライトが照らす、約二十メートル前方。
そこに、一人の女性が立っていた。
足元まで届く漆黒のコート。黒い長髪。顔の下半分は黒い布で隠されている。
二十代後半から三十代程度に見えるその細身の体躯には、武器らしいものは一切見当たらなかった。
久我が魔眼で対象を観測する。
心拍は遅い。
呼吸も乱れていない。
血流にも、戦闘前の興奮や恐怖といった筋肉の緊張が、まったく見られなかった。
まるで、日常的な買い物の途中で立ち止まったかのような、異様なほどの落ち着き。
「……うーん」
隣に立った蓮司が、顔をしかめた。
「どうしました?」
「これは貧乏くじを引いたかな」
「何か分かるんですか?」
「あいつ、こっちより強いね」
「見ただけで?」
「術者はね、ヤバい相手を見ると皮膚がピリピリするんだよ。能力を抑えていても、なんとなく分かる」
久我の魔眼には、女から特別な魔力やオーラは視えなかった。
しかし、何も漏らしていないこと自体が、自身の力を完全に制御しきっている証左であり、不気味だった。
「久我君。無理に勝とうとしないで。時間を稼いで、運転手が逃走経路を作るまで耐える」
「分かりました」
蓮司が一歩前へ出て、あえて軽い調子で声を張った。
「道路の真ん中は危ないよ。話なら端で聞こうか」
「荷物を置いていけ」
女の声は低く、感情の起伏がなかった。
「精密機器なんだけど」
「中身が何かは知っている」
久我と蓮司の視線が交差する。
輸送情報だけでなく、中身が呪物であることまで完全に漏れている。
「それなら、こちらが渡せないことも分かるだろう?」
「拒否するなら、奪う」
女が、すっと右手を持ち上げた。
掌が久我たちへ向けられる。
久我の魔眼が、その肩、肘、手首の動きを克明に追う。
大きな予備動作はない。
何かを投擲した様子もない。
しかし、久我の生存本能が強烈に警鐘を鳴らした。
「逃げ――!」
警告を言い切る前に、何かが久我の身体を通り抜けた。
一瞬遅れて、防刃素材の入った厚手の上着が、まるで紙切れのように裂けた。
右前腕。
左上腕。
胸元。
脇腹。
複数の鋭い切創が同時に開き、鮮血が噴き出す。
「がっ……!?」
衝撃で久我の身体が後方へ吹き飛び、アスファルトの上を無様に転がった。
蓮司も横へ弾き飛ばされていた。
ただし彼は、久我の警告とほぼ同時に短い詠唱を挟んでいた。
「風よ、隔てろ――《風壁》!」
圧縮された空気の層が、見えない斬撃を僅かに逸らした。
蓮司は肩と頬を浅く切られるだけで、致命傷を避けていた。
トラックの外壁にも、深く鋭い切断痕が何本も刻まれている。
「何が……起きた……!」
久我は道路に倒れたまま、自分の身体を見た。
両腕が深く裂かれ、筋肉の層まで達している。
吸血鬼の再生は始まっているが、出血量が多すぎて傷が塞がらない。
蓮司が片膝をつきながら答える。
「あいつが手をかざしたら、何かが来た。俺にも見えなかった」
「両腕が……血を流しすぎた……!」
急激な渇きと耳鳴り。
視界の端が暗転しそうになる。
「落ち着いて! 君、吸血鬼だろ!」
蓮司が叫んだ。
その声に普段の軽さはない。
「吸血鬼でも、血がなくなれば危ないです……!」
「そうじゃない! 自分の血を操作して止めろ!」
「血の操作?」
「吸血鬼にはオーソドックスな能力だ! 全員が同じように使えるわけじゃないけど、自分の血なら動かせる可能性がある!」
「使ったことありません!」
「今から試すんだよ! 体内へ戻す必要はない、傷を塞げ! 君の血だろ。身体から出たばかりなら、まだ君の力が残ってる!」
*
痛み。
空腹。
大量出血。
女はまだこちらを見ている。
焦るほどに、血は流れ落ちる。
久我は魔眼で、自分の腕を見た。
普段は他人の血流を観察する目。
今見ているのは、自分の中から失われていく命の欠片だ。
血液パックから摂取した血も、体内へ入れば自分の身体の一部になった。
今、道路へ落ちようとしている血も、数秒前までは自分の中を流れていた。
外へ出ただけで、完全に自分ではなくなるのか?
久我は、腕を伝う血へ強く意識を向けた。
止まれ。
これ以上、流れるな。
何も起きない。
「呼吸を止めるな! 頭で血管一本ずつ追う必要はない! 自分の腕を動かすのと同じだと思え!」
蓮司の怒声に、久我は一度目を閉じた。
腕を上げる時に、筋肉の一本一本へ命令しているわけではない。
自分の身体だから自然に動く。
なら、血も自分の一部だと思えばいい。
もう一度、強く命じる。
流れるな。
右前腕の傷から垂れていた血の滴が、不自然に空中で震えた。
落下の途中で、ぴたりと止まる。
「……止まった」
重力に逆らうように傷口へ戻った血が、周囲へ集まり、粘度を増していく。
赤黒い膜となって、裂けた皮膚と筋肉を外側から塞いだ。
右腕。
左腕。
脇腹。
道路へ飛び散った血までは戻らない。
それでも出血速度が明らかに落ち、再生能力が追いつき始める。
「止血……できた」
「上出来! そのまま維持して!」
黒コートの女が、わずかに首を傾げた。
「防御が間に合ったのか。片方は仕留めたと思ったが」
女の視線が蓮司から久我へ移る。
流れた血が傷口へ集まり、固まり始めているのを見て、小さく呟いた。
「なるほど。吸血鬼だったか」
正体を知っていたわけではなく、目の前の現象から理解しただけだ。
女が、再び右手を上げる。
久我の後ろには蓮司がいて、さらにその後ろにはトラックがある。
運転手もいる。
久我が避ければ、見えない斬撃が誰に当たるか分からない。
止血だけでは足りない。
防げ。
切られないように、腕を守れ。
傷口へ集めていた血が、両前腕全体へと広がり始める。
皮膚を覆う赤黒い膜が急速に色を濃くし、硬化していく。
表面には、細い血管のような模様が浮かび上がった。
右手から肘の手前。
左手から肘の手前。
形は不揃いで歪だが、確かな装甲としての硬度を備えていた。
女の手が動く。
再び見えない斬撃。
久我は両腕を顔の前で交差させた。
激しい衝撃。
血の装甲へ複数の切断痕が走り、赤黒い破片が道路へ飛び散る。
久我の足が後ろへ滑る。
しかし、腕そのものは切断されなかった。
防いだ。
「君、それ今覚えたの!?」
蓮司が驚愕する。
「俺にも、よく分かりません!」
「分からないまま突っ込む気!?」
久我は地面を蹴って走り出した。
「離れていたら、また斬られます!」
*
女が連続して手を動かす。
久我の魔眼は、斬撃そのものを捉えられない。
だが女の視線、肩の向き、掌の角度、呼吸の変化から、攻撃が来る場所を予測する。
右腕の血装で受ける。
身体を捻って避ける。
足元のアスファルトが切れるのを飛び越える。
女が両手を僅かに開いた。
より危険な攻撃の予兆。
久我は心の中だけで、秘匿していた《内在時間》のスイッチを入れた。
世界が急激に遅くなる。
女の髪が、ゆっくりと揺れる。
瞳が久我の首、胸、右脚へと順に向く。
斬撃は見えなくても、狙いは読める。
首を狙った一撃を血装で受け、胸への一撃を身体をずらして躱し、右脚への斬撃が作業服を裂くのを許容する。
致命傷だけを避ける。
蓮司から見れば、久我が魔眼で予兆を読み、吸血鬼の反射速度で避けたようにしか見えないはずだ。
久我が女の間合いへ飛び込む。
血装に覆われた右拳が、女の脇腹へ向けて放たれる。
女は左腕で受けたが、重い打撃音とともに数メートル後退した。
黒いコートの袖が裂ける。
初めて、女の体勢が崩れた。
「チッ。しつこい男だな、君は」
「仕事なので……!」
後方で蓮司が立ち上がった。
「久我君、時間稼ぎを頼む!」
「どれくらいですか!」
「十秒!」
「長い!」
「強いやつを使うんだから、我慢して!」
蓮司が欧州系の古い魔術語で詠唱を開始する。
足元へ、淡い青色の魔法陣が広がる。
女は術式の脅威を察知し、狙いを後衛の蓮司へ変えた。
久我がその射線へ割って入り、血装で斬撃を受け続ける。
一撃ごとに装甲が削られ、修復のために体内の血液資源が激しく消耗していく。
喉が焼けるように渇き、視界の端が黒く明滅する。
女の蹴りを腹部に受け、久我が吹き飛ばされる。
倒れたままなら、次の斬撃を受ける。
久我は《内在時間》を一瞬だけ再使用した。
遅くなった世界の中で道路へ手をつき、強引に身体を起こして、再び蓮司の前へ立つ。
「すごい反応速度だね!」
「目が良いだけです!」
蓮司には、そう誤魔化した。
「そこまで消耗して、まだ来るのか」
「後ろに、人がいるので」
女は、僅かに笑ったようにも見えた。
「久我君、右へ!」
蓮司の詠唱が完成した。
久我が反射的に右へ跳ぶ。
蓮司が両手を地面へ向ける。
「凍土よ、閉ざし、穿て――《氷杭》!」
女の周囲のアスファルトを突き破り、複数の巨大な氷杭が斜めに伸びて、逃げ道を制限する。
女が右手を向ける。
見えない斬撃が走り、氷杭をまとめて切断した。
砕けた氷が道路へ崩れ落ちる。
だが、その一瞬、女の注意が氷杭へ向いた。
久我はそこへ合わせ、再び《内在時間》を短く起動する。
女の視線が蓮司へ残っている間に懐へ入り込み、右拳を腹部へ打ち込んだ。
女が後退したところへ、蓮司が短く詠唱する。
「風よ、撃て――《風弾》!」
圧縮された空気が女の背中へ直撃し、体勢を大きく崩させた。
二人の連携が、初めて綺麗に成立する。
「チッ。本当にしつこいな」
女が苛立った声を出し、両手を広げた。
久我の魔眼に、周囲の空気が大きく歪むのが見えた。
「下がれ!」
蓮司の叫びと同時に、二人が地面へ飛び込む。
直後。
道路一面へ、無数の切断痕が嵐のように走った。
アスファルト。
ガードレール。
街灯。
トラックの荷室。
そのすべてが同時に切り裂かれる。
久我の血装も大きく削られ、右前腕の装甲が半分以上崩壊した。
蓮司の《風壁》も突破され、彼の太腿へ浅い傷が入る。
本気に近い攻撃をされたら、二人とも耐えられない。
久我は、その絶望的な事実を理解した。
しかし女は、切断されたトラックの荷室へ視線を向けた。
外壁の隙間から見えた封印容器を数秒観察し、彼女の姿勢から、ふっと戦意が消えた。
「なるほど。君たちは囮らしい」
「……何が?」
「呪力の質が違う。外側だけはよく作ってあるが、中身は偽物だ」
「最初から精密機器だって言ったでしょ」
「もういい。撤退する。お互い、時間の無駄だった」
久我は追おうと一歩踏み出した。
だが身体は、すでに限界だった。
血装が崩れ落ち、膝が力なく揺れる。
「追うな!」
蓮司の制止を背に、女はガードレールの向こうの斜面へ飛び降りた。
斜面を斬撃で切り崩し、土煙を上げて視界を完全に塞ぐ。
久我が煙を抜けた時には、すでに遠くに僅かな体温反応が残るのみで、追跡できる距離ではなかった。
八咫烏の増援到着まで数分。
間に合わなかった。
*
女が消え、戦闘の緊張が途切れた直後。
断続的に使用していた《内在時間》の反動と、大量出血による疲労が一気に押し寄せた。
「はぁ……はぁ……なんとかなった……」
久我は道路へ両手をつき、そのまま座り込んだ。
蓮司も近くへ腰を下ろす。
「お疲れ。ヤバかったね」
「勝てたんでしょうか」
「いや、全然。あいつ、全然本気じゃなかった」
蓮司の即答に、久我は顔を上げる。
「殺す気なら、とっくにやられてたよ。君は吸血鬼だから即死しにくいけど、俺は最初の一撃でもう危なかった」
「あれで本気じゃないんですか」
「目的は荷物。俺たちが強かったから撤退したんじゃない。偽物だと分かって、戦う価値がなくなっただけ」
「まったく嬉しくない分析ですね」
「でも生きてる。十分だよ」
蓮司が、薄い膜だけが残った久我の両腕を見る。
「それ、今まで使えなかったんだよね? 戦闘中に新しい能力を覚える人、初めて見た」
「俺も初めてです」
「防御手段が欲しかったんだろうね。能力って、本人の必要性に引っ張られることがあるから」
数分後、八咫烏の車両と救護班が到着した。
久我は、
「歩けます」
と立ち上がろうとしてふらつき、蓮司に支えられた。
「吸血鬼でも、血が足りなかったら倒れるんだね」
「当たり前だと思います……」
救護員から渡された血液パックを二本飲んでも、渇きは完全には消えなかった。
新たに発現した血の装甲は、通常の再生以上に大量の血液資源を消費しているらしい。
作戦の結果として、本物の呪物は別ルートで無事に保管施設へ到着した。
襲撃を受けた三台のうち、黒コートの女が現れたのは、久我たちの車両だけ。
彼女は、他の襲撃者とは明らかに格が違っていた。
*
深夜。
八咫烏の提携医療施設。
治療を終えた久我のベッドへ、かれんと剣持が訪れた。
「派手にやられたな」
「もう少し他に言うことはないんですか」
「生きてるから言えるんだよ」
かれんの報告によれば、黒コートの女は顔認識や能力者登録データに該当がなく、身元は完全に不明だという。
車載カメラにも斬撃の軌跡は映っておらず、女が手を向けた直後に、久我たちや道路が切断されているようにしか見えない。
「少なくとも、お前たちが正面から捕まえられる相手じゃないな」
現場映像を見た剣持が言う。
「偽装輸送の目的は達成されています。黒コートの能力者が偽物の車両へ時間を使ったこと自体、作戦上の成果です」
かれんは事務的に評価した。
「こっちは死にかけましたけどね」
「それは任務評価とは別に、今後の編成判断へ反映します」
映像の確認中、かれんが、久我の動きが急激に鋭くなった場面で動画を止めた。
「久我さん。初撃を受けた後、途中から斬撃への反応速度が上がっています」
「何度か攻撃を受けて、手や視線の動きから予兆を読めるようになりました。魔眼へかなり負荷をかけましたけど」
嘘ではない。
女の視線や掌の角度から、斬撃の狙いを読んでいたのは事実だ。
ただし、その情報を処理するために《内在時間》を使ったことは伏せる。
かれんは数秒だけ久我を見つめたが、それ以上は追及しなかった。
「強い頭痛はありましたか」
「はい。出血と空腹もあったので、どこまで魔眼の負荷かは分かりません」
「分かりました。報告上は、魔眼の高負荷使用として記録します」
続いて、かれんは流出した血液が久我の両腕を覆う場面で映像を止めた。
「流出した血液を体外で維持し、硬化させています。新たに発現した能力として登録が必要です」
「最初は止血しようとしただけです」
「その後、両前腕へ展開し、斬撃を防いでいます」
剣持が映像を見ながら言う。
「血の鎧か」
「暫定名称を《血装》とします」
「いつも名前が決まるの早いですね」
「報告書に能力名が必要だからな」
今回の記録から確認できるのは、自分の身体から流れた血を操作し、傷口を塞ぎ、両前腕へ展開して硬化できたこと。
血装によって斬撃を防ぎ、打撃力も上がっていたこと。
そして、維持と修復に大量の血液資源を消費したことだけだ。
自由に再発動できるのか。
展開範囲を調節できるのか。
血装の強度はどの程度なのか。
遠くへ飛び散った血や、他人の血液にも干渉できるのか。
現時点では、何も分かっていない。
「能力の詳細確認は、回復後に鳥カゴで行います」
「また訓練ですか」
「はい。それから、次から能力を覚えるために大量出血することは禁止です」
「好きで斬られたわけではありません」
「確認です」
「その確認、必要ですか?」
「お前、妙な前例を増やすからな」
剣持の言葉に、久我は不満そうに眉を寄せた。
「今回は完全に被害者ですよ」
*
帰宅前。
治療を終えた蓮司が、久我の病室へ顔を出した。
肩と太腿には包帯が巻かれている。
「生きてる?」
「どうにか」
「次に組む時は、もう少し普通の相手がいいね」
「今回も普通の偽装輸送任務だと聞いていました」
「じゃあ、君がいると強い相手を引くのかな」
「否定したいですね」
蓮司は少し笑った後、真面目な顔になる。
「あの女、また会うと思うよ」
「どうしてですか?」
「顔も名前も隠して、仕事だけやって帰った。ああいう手合いは、一度きりの素人じゃない」
久我は、包帯の巻かれた両腕を見つめた。
顔も能力も隠し、目的だけを果たして帰ったプロ。
次に会えば、相手はこちらの《血装》を知っている。
こちらも、あの見えない斬撃への対策を考えなければならない。
*
数日後。
自宅のアパートで、久我は専用冷蔵庫を開けた。
医療施設での補給分は支給されたが、自宅の緊急在庫も持ち出したため、アプリの表示は、
『通常在庫:残り三本』
『緊急予備:残り二本』
『補充推奨』
となっている。
「能力を一つ覚えたら、冷蔵庫の中身が半分になった……」
包帯を外した右手を見つめ、傷が塞がっていることを確認する。
戦闘中の感覚を思い出し、右手へ血を集めようとする。
皮膚の表面に薄い赤い膜が浮かんだ。
しかし形を保つことはできず、すぐに霧散して消えた。
まだ日常的に、自由に使える段階ではない。
スマートフォンへ、かれんから通知が届いた。
『【能力確認訓練予定】
新規能力《血装》の使用条件・強度・消費量を測定します』
「結局、また研修か」
久我は専用冷蔵庫の扉を閉めた。
強くなったという実感よりも、激減した血液パックの補充費用の方が、今は切実に気になった。
それでも、次にあの見えない斬撃が飛んできた時、自分はただ無防備に切り刻まれるだけの存在ではなくなったのだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!