35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
黒コートの斬撃使いとの遭遇から、およそ一週間が経過していた。
久我陽介の身体に刻まれた無数の傷跡は、吸血鬼の驚異的な再生能力によって完全に塞がり、今では薄いピンク色の痕すら残っていない。
しかし、あの夜に命を繋いだ新たな能力――《血装》に関しては、いまだ手探りの状態が続いていた。
自宅では、医療用の穿刺器具で指先からごく少量の血を出し、何度か試してみた。
だが、薄い血の膜が浮かび上がるだけで、数秒もすれば形を保てずにポロリと崩れ落ちてしまう。右腕だけに集中すれば少しは維持できるが、実戦の極限状態で展開した、あの硬く分厚い装甲には到底及ばなかった。
(……やはり、あの時は死の恐怖と極度の緊張があったからできただけの、火事場の馬鹿力だったのか)
危機的な状況下では発現したものの、平常時に同じ出力を再現できない。
自分の能力でありながらコントロールの利かないもどかしさを抱えていた久我のもとに、皇かれんから《血装》の本格的な能力確認を行うという通知が届いたのは、そんな折だった。
*
鳥カゴ、地下五階。
透明な防護壁に囲まれた訓練区画『五〇一―一』。
床には衝撃吸収用の厚いラバーマットが敷き詰められている。
壁際の実況席のようなスペースには、本日の実験用の備品がずらりと並べられていた。
緊急補充用の血液パック、救急用品、血圧と心拍を測定するモニター、記録用の三脚付きカメラ、訓練用木刀、衝撃測定用のダミー人形、そして採血用の医療器具まである。
久我が指定された時刻に入室すると、すでにかれん、剣持、澪、そして杖原つかさの四人が揃っていた。
だが、その中にもう一人、見覚えのある少女の姿があった。
長い黒髪を後ろで一つにまとめ、動きやすい白い訓練着と、紺色の袴に似た道着を身につけている。
京都の名家から逃げ出してきた少女、鏡宮千鶴だった。
彼女の能力の核であり、家宝でもある《真澄鏡》の分鏡は、布で厳重に包まれた状態で壁際の専用ケースに収められている。
今日は《神鏡返し》を使用する訓練ではないため、安全を期して本人から離して保管されているらしい。
「……鏡宮さん?」
久我が驚いて声をかけると、千鶴はすっと背筋を伸ばし、久我に向かって丁寧に頭を下げた。
「先日は、ありがとうございました」
「あ、いえ。無事そうでよかったです」
以前、廃写真館の鏡越しに対峙した時のような、張り詰めた極端な警戒心は感じられない。
とはいえ、完全に緊張が解けきっているわけでもなく、見知らぬ大人に対する最低限の距離感は保たれている。
久我は、タブレットの調整をしているかれんへ視線を向けた。
「どうして鏡宮さんが、鳥カゴにいるんですか?」
千鶴の現在について、かれんが淡々と説明を始める。
鏡宮家との協議は現在も継続中であり、結論は出ていない。
現時点で双方が合意しているのは、
『千鶴を鏡宮家へ強制的に送還しない』
『《鎮鏡の儀》は本人の明確な同意なしには実行しない』
『母親の現状と過去の儀式について、八咫烏を交えた第三者による調査を行う』
『京都の防護網への影響を別途検証する』
といった、現状維持の取り決めだけだ。
千鶴の現在の居住地は鏡宮家へは非公開とされ、「生存しており、八咫烏の保護下にある」という事実のみが通達されている。
千鶴は現在、八咫烏の女性職員が常駐する専門の保護施設で生活している。
しかし、十七歳の少女をいつまでも閉鎖された保護施設の中だけで生活させるわけにはいかない。
本人からも「身体を動かす訓練と外出がしたい」という強い要望があったため、当面の間、比較的安全が担保されているかれんのグループに合流することになったのだという。
「しばらくの間、鏡宮さんには私たちの訓練と日常活動へ同行してもらいます。正式な所属というわけではなく、あくまで保護期間中の適応支援の一環です」
「夜間警備班の任務にも入るんですか?」
「現場任務への参加は、本人の同意と、八咫烏による個別の安全評価を行ってからになります。まずは訓練環境と、この生活への適応を優先します」
千鶴が、少しだけ申し訳なさそうに身を縮めた。
「ご迷惑をおかけします」
「迷惑じゃないよ! 同い年くらいの女の子が増えるの、すごく嬉しいから!」
澪が満面の笑みで千鶴の手を握ろうとするが、千鶴は少しだけ戸惑ったように視線を泳がせた。
「魔法少女と吸血鬼と、鏡の巫女! ついに私たちのパーティー編成が完成しつつありますね!」
「何の編成だよ、それ」
ステッキを振るって喜ぶ杖原に、剣持が冷たく突っ込む。
久我は、数日前に自分が説得して廃墟から連れ出した少女が、今度は同じ訓練場のマットの上に立っているという状況に、なんとも言えない奇妙な感慨を抱いていた。
*
「本日の主目的は、久我さんの新規能力《血装》の確認と制御です」
かれんがパンと手を叩き、場を本題へと引き戻した。
「鏡宮さんの歓迎会じゃなかったんですね」
「違います」
「そもそも歓迎会を鳥カゴの地下格闘場でやるなよ」
剣持のもっともな指摘を無視し、かれんは手元のタブレットから本日の安全上の制限を読み上げ始めた。
「一度に使用する血液量は最小限の少量に留めること。故意に深い傷を作らないこと。最初は右手と前腕の展開のみとする。一回の連続展開は十秒以内。強い空腹、眩暈、頭痛の兆候が出た時点で即時終了。血液パックは事前に一本摂取済みとする。実験終了後にも状態に応じて適宜補給。刃物状への意図的な変形は禁止。人体への打撃は、ダミーでの性能確認が終了するまで禁止。魔眼は使用可能ですが、頭痛や視界異常が出るほどの高負荷運用は禁止とします」
当然ながら、ここでも《内在時間》と《外在時間》という言葉は一切出ない。
かれんたちが認識しているのは、あくまで魔眼による極めて高い視覚情報処理能力だけだ。
「……能力の確認なのに、できることより禁止事項の方が多いですね」
「前回は、発動と同時に致死量に近い大量出血を起こしていますから。安全性が完全に確認できるまでは、制約をかけるのが当然です」
医療担当の職員が久我の前に進み出た。
アルコール綿で久我の右手の人差し指を拭き、医療用の穿刺器具をカチリと押し当てる。
ちくりとした僅かな痛みの後、ほんの数滴の赤い血がぷっくりと膨らんだ。
久我の吸血鬼としての再生能力なら、放置しても数十秒で塞がってしまう程度の傷だ。
「では、久我さん。血液を体外へ引き出してください」
久我は、あの夜の感覚を必死に手繰り寄せた。
血を身体の外へ出す。
それでも、まだ自分の一部だと強く認識し続ける。
(止まれ。そこに集まれ)
意識を集中させると、指先からこぼれ落ちそうになっていた一滴の血が、重力に逆らうように空中で震え始めた。
落下することなく、指の周囲を衛星のようにゆっくりと回り始める。
「浮いてる……!」
「血液操作です! 見た目が完全にオカルトの吸血鬼らしくなりましたね!」
「今までも吸血鬼だったんだけどね」
杖原の無邪気な歓声に答えつつ、久我はさらに血液を引き出そうとする。
血は指先から手の甲へと広がっていく。
しかし、展開された膜はサランラップのように薄く、とても装甲と呼べるような硬さは伴っていなかった。
数秒後、久我の集中力が僅かにぶれた瞬間、血の膜は形を崩し、ただの液体となってラバーマットの上へぼとぼとと落ちた。
「一回目。体外での制御は成功。ただし、硬化は不十分です」
かれんが事務的に記録をつける。
「次、二回目いきます」
久我は再び指先から血を滲ませ、今度は最初から硬くすることだけを意識した。
だが、ただ力を込めようとしても、血液はぶよぶよとしたゼリー状になるだけで、金属的な硬度には至らない。
見かねた剣持が、腕を組んだままアドバイスを飛ばした。
「おい、陽介さん。前回、初めてその鎧を作った時は、敵の斬撃に斬られる直前だったんだろ」
「はい」
「ただ漠然と硬くしようとするんじゃなくて、明確に何を防ぐのかを具体的に想像しろ。ただの塊じゃなくて、盾を作るんだよ」
久我は、壁際に立てかけられた訓練用の木刀を見た。
黒コートの女の見えない斬撃。
腕を切断されないために、必死で壁を作ろうとしたあの感覚。
(防げ。俺の腕を、断ち切らせないための壁にしろ)
明確な目的を与えられた血が、右手から前腕部へ向かって急速に広がり始めた。
前回よりも厚みのある暗赤色の膜が形成される。
表面に、まるで血管が這い回っているような黒い筋の模様が浮かび上がり、質感が明らかに液体から固体へと変化した。
剣持が歩み寄り、指の関節で久我の血装をこんこんと軽く叩いた。
こつっ、こつっ。
骨か、あるいは硬い樹脂を叩いたような硬質な音が響く。
「さっきよりは、はるかに硬いな」
「何を防ぐか、明確に想像した方がいいみたいですね」
「使用者の認識が、物質の形状と性質へ直接影響を与える能力と考えられます。防御という目的が強固なほど、硬度も増すのでしょう」
かれんの分析に、久我も頷いた。
ここから実験は、段階的な基礎測定へと移行した。
【第一試験・維持時間】
右手から前腕まで《血装》を展開し、何秒維持できるかの測定。
結果、十秒間の維持には成功した。
しかし、五秒を過ぎたあたりから装甲の表面に細かい亀裂が入り始め、それを修復するために体内の血液資源が追加でごっそりと消費されていく感覚があった。
たった十秒展開しただけで、久我の喉には明確な渇きが訪れていた。
【第二試験・衝撃への耐性】
剣持が訓練用の木刀を持ち、出力をかなり抑えた状態で久我の右腕を打ち据える。
一撃目。
がつんという重い音とともに、血装は完全に衝撃を弾いた。
二撃目。
装甲の表面に、ぴしっと亀裂が入る。
三撃目。
一部の血の塊が砕け散り、装甲が薄くなった。
ただし、久我の生身の腕には打撲の痛みすら届いていなかった。
防御力としては申し分ない。
「防御性能自体は悪くない。だが、一箇所でずっと攻撃を受け続けられるような万能の盾じゃないな」
「一撃か二撃受けるのが限度ですね」
【第三試験・打撃力】
衝撃測定用のダミー人形へ向けて、通常の吸血鬼としての拳と、《血装》を展開した拳をそれぞれ全力で一度ずつ打ち込む。
通常の拳でも、一般人とは比較にならない破壊力が出た。
だが、《血装》を纏った拳で殴りつけた瞬間、ダミーの内部センサーが跳ね上がり、数値が一段階上のレベルへと上昇した。
質量と硬度が乗ることで、純粋な打撃力は向上する。
しかし、剣持は容赦ない評価を下した。
「威力は上がる。だが、殴り方そのものが上手くなるわけじゃねえ。動きは相変わらず素人の大振りだ」
「便利な能力が一つ増えたからといって、すべてが解決するわけじゃないと」
「当たり前だろ」
かれんがタブレットの記録を厳しい目で見つめていた。
「右腕だけを十秒展開し、木刀を三回受け、人形を一度殴った。たったこれだけの動作で、久我さんの血液資源と生命力の消耗は、事前の予想を遥かに上回っています」
久我は、喉の奥の焼け付くような渇きを堪えながら頷いた。
たった今の一連の動作だけで、血液パック半本から一本弱を一気に飲み干した時と同じレベルの空腹感を感じている。
「腕一本を十秒出すだけで、これですか」
「前回の輸送任務で、両腕に展開したまま連続して修復を行い、二本飲んでも渇きが収まらなかった理由が分かりました」
「常に装甲を出したまま戦うような、燃費のいい能力じゃねえな」
「じゃあ、相手の攻撃を受けるその一瞬だけ、部分的に出すようにする?」
「その方向性を、対人戦闘の中で試します」
*
ダミー相手の単純な測定だけでは、移動中における発動速度のぶれや、防御位置の咄嗟の変更に対応できるかが分からない。
かれんが視線を動かした。
「鏡宮さん。少し協力をお願いできますか」
「はい」
「えっ、鏡宮さんと戦うんですか?」
久我が驚いて声を上げると、かれんは首を横に振った。
「《神鏡返し》は使用しません。あくまで、鏡宮さん自身の身体能力強化と格闘技術だけを相手にします」
千鶴も頷く。
「《真澄鏡》の分鏡も外しています。《返照》や《鏡写し》は使用せず、身体能力強化と合気だけで対応します」
「鏡宮さん本人の意思で発動を抑えてもらいます。異常な能力反応が確認された場合は、即座に模擬戦を中止します」
かれんが補足する。
「目的は勝ち負けじゃねえ」
剣持が言う。
「生身の人間を相手に動き回りながら、その《血装》を必要なタイミングで出し入れできるかの確認だ」
「それ、鏡宮さんなら安全なんですか?」
「少なくとも、お前よりは身体の制御が上手い」
「そこまでハッキリ言われるんですね……」
模擬戦のルールが設定された。
千鶴は《神鏡返し》を一切使用しない。
千鶴の身体能力強化は、訓練用の低出力に留める。
打撃は寸止め、または軽接触のみ。
関節技は完全に極める直前で止める。
久我は右腕の《血装》のみ使用可能。
魔眼による視覚情報の取得は許可するが、強い頭痛や視界異常が出るほどの高負荷運用は禁止。
久我が千鶴の胴体か肩へ明確に触れられれば、久我の一本。
千鶴が久我を投げる、押さえ込む、関節を取れば、千鶴の一本。
三本勝負。
強い空腹が出た時点で即終了。
久我は休憩がてら血液パックを追加で少しだけ飲み、訓練場の中央のマットへ立った。
対面に立つ千鶴が、深く一礼する。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。手加減をお願いしますね」
「はい」
その素直すぎる返答が、なぜか久我にはまったく安心材料にならなかった。
今回の模擬戦では、《内在時間》は使わない。
新能力そのものの性能確認にならなくなるうえ、周囲に秘密を悟られる危険もある。
*
【第一戦】
「始め」
かれんの合図とともに、久我は即座に右腕へ《血装》を展開した。
先ほどの実験の成果か、発動は格段に速くなっていた。
暗赤色の装甲が、しゅるりと前腕を覆う。
対する千鶴は、構えらしい構えをまったく取っていなかった。
両腕を自然に下ろし、ただ力を抜いた立ち姿で、久我の動きを待っている。
久我は魔眼の焦点を絞った。
千鶴の重心、足裏への荷重、肩の緊張、視線の動き、呼吸のリズム。
驚くべきことに、彼女の身体にはほとんど余計な力が入っていない。
完全に脱力したまま、いつでも動ける状態を維持している。
(……来る気配がない。なら、こっちから行く)
久我が踏み込み、右手を真っ直ぐに伸ばして千鶴の肩を掴もうとした。
その瞬間、千鶴は半歩だけ、久我の懐の内側へと滑り込むように入ってきた。
避けるのではなく、久我の血装に覆われた手首へ、下から自分の両手をふわりと軽く添えた。
次の瞬間。
久我の視界が、文字通りぐるりと一回転した。
「えっ……!?」
自分が前へ出そうとした力と前進速度を、そのまま完璧に利用された。
千鶴はまったく力んでいないのに、久我の身体は宙を舞い、肩からラバーマットへと叩きつけられていた。
どすん、と大きな衝撃音が響く。
ただし、千鶴が最後まで久我の腕をしっかりと支えながら引き落としていたため、頭や首を打つような危険な落ち方はしていなかった。
「……今、何が起きました?」
マットに仰向けになったまま、久我が呆然と尋ねる。
「久我さんが前へ出そうとした力の向きを、少しだけ変えさせてもらいました」
「少しで、人間は一回転するんですか」
「お前が全力で突っ込んだからだろ」
剣持の冷たい突っ込みが降ってくる。
久我は自分の血装に覆われた右腕を見た。
装甲には傷一つついていない。
しかし、相手の攻撃を防ぐための硬い鎧は、投げ技に対して何の役にも立たないという事実を痛感させられた。
【第二戦】
「二本目、始め」
再開。
今度は久我も慎重に動いた。
力任せに突っ込めば、また同じように利用されるだけだ。
魔眼で千鶴の細かな筋肉の動きを追う。
千鶴がすっと近づいてくる。
踏み込む瞬間、彼女の足の筋肉が僅かに収縮した。
(来る!)
久我は千鶴の侵入を防ぐため、先に血装した右腕を壁のように突き出した。
千鶴の手が、久我の前腕へ触れる。
久我は装甲の圧倒的な硬さと吸血鬼の筋力で、そのまま強引に押し返そうとした。
だが、千鶴は正面から力で押し合わなかった。
久我の押し込む力をいなし、肘を内側へ送り込みながら、手首を外側へくるりと回す。
体軸のバランスが完全に崩される。
皮肉なことに、《血装》によって久我の前腕が硬く固定されていたため、千鶴にとってはむしろ、曲がらない一本の棒として梃子を効かせやすくなっていたのだ。
「え?」
久我の上半身が前へ大きく傾く。
千鶴がすっと足を引っかけ、久我は二度目のマットへの転落を味わった。
そのまま手首を背中側へ極められ、肩をマットへ固定される。
「……ここからさらに力を入れると、肩の関節を痛めます」
千鶴が上から冷静に告げた。
「参りました」
「二本目。鏡宮さんです」
かれんが告げる。
「血装を硬くしすぎて、自分で自分の腕の関節の逃げ道を潰してるな」
剣持の分析に、久我は肩を押さえながら立ち上がった。
「ただ硬ければいいってわけじゃないんですね」
「強く抵抗しようと力めば力むほど、こちらには力の向きが分かりやすくなります」
千鶴が道着の乱れを直しながら言った。
久我は、改めて千鶴という少女の異常性に気づいていた。
《神鏡返し》という反則級の異能は使っていない。
鏡も持っていない。
身体能力の強化も、訓練用の安全な低出力に抑えている。
それでも吸血鬼である久我は、彼女の身体にまともに触れることすらできない。
「……これで異能まで使われたら、本当に手がつけられないなぁ」
久我の呟きに、千鶴は少し困ったように微笑んだ。
「祖母が亡くなり、《神鏡返し》を継承するまでは、この合気と基本的な身体能力強化だけだったんです」
「それだけで、ここまで強いんですか?」
「それしかありませんでしたから。幼い頃から、毎日毎日、繰り返し教え込まれました」
鏡宮家の後継候補は、万が一異能を正しく継承できなかった場合でも、一族の秩序と儀式を物理的に守れるよう、徹底した身体強化と家伝の合気を叩き込まれるらしい。
千鶴は《神鏡返し》という呪縛を背負う前から、同年代の能力者とは比べものにならないほどの厳しい格闘訓練を積んでいたのだ。
「久我さんは、何か格闘技はされないのですか?」
千鶴が不思議そうに尋ねる。
「そうですね。まったくしてないです」
「何かの流派の型を学んでいるようには、見えませんでしたので」
「会社員になるまで、学生時代に喧嘩もほとんどしたことがありませんでしたからね」
かれんが横から補足する。
「久我さんは、鳥カゴでの基礎訓練で、基本的な身体の動かし方と、倒れ方、そして距離の取り方を習った程度です。実戦経験の少なさを、魔眼の視覚情報で強引に補っている状態です」
「補いきれてねえから、二回連続で女子高生に転がされてるんだろ」
「厳しいですね、剣持さん」
「でも、純粋な身体能力はとても高いです。正しい動き方を覚えれば、もっとずっと強くなると思います」
千鶴に真顔で慰められ、久我は苦笑した。
「鏡宮さんに言われると、妙に説得力がありますね」
*
「では、三本目の課題を変更します」
かれんがタブレットを操作しながら告げた。
「久我さん。鏡宮さんに勝つ必要はありません」
「最初から勝てるとは思っていませんけど」
「《血装》を維持したまま、力任せに押し合うこともやめてください。必要な場所へ、必要な瞬間だけ展開することに集中してください」
「鎧を着たまま殴り合うんじゃなくて、当たる場所だけを瞬間的に固めろってことだ」
剣持の助言に、久我は頷いた。
「私も、先ほどとまったく同じように手首を取りにいきます」
千鶴が宣言する。
「予告してくれるんですね」
「予告しても対応できるかを見るための訓練ですので」
久我にとって、それはあまり優しくない配慮だった。
【第三戦】
「始め」
開始の合図が鳴っても、久我は《血装》を出さなかった。
千鶴が静かに距離を詰めてくる。
久我は魔眼の出力を上げ、彼女の足運びと肩の動きだけに集中した。
千鶴の右手が、久我の右手首へと触れようと伸びてくる。
その接触の瞬間。
久我は手首の周辺数センチにだけ、極めて薄い《血装》を展開した。
前腕全体を硬くするのではなく、関節の可動域はしっかりと残す。
千鶴の手が触れ、先ほどと同じように力を流して体軸を崩そうとする。
だが久我は、今度は正面から抵抗しなかった。
千鶴の引く力に逆らわず、自分から一歩前へ踏み込み、腕を柔らかく曲げて力を逃がした。
千鶴の合気の技が、完全には成立せず空を切る。
千鶴が僅かに驚いたように目を見開いた。
その隙を突き、久我は左手を伸ばして千鶴の肩へ触れようとした。
だが、触れる直前。
千鶴は即座に身体を沈み込ませて回転し、久我の踏み込んだ勢いを逆利用して重心を刈り取った。
久我の身体が、再び宙を舞う。
しかし今度は、ただ無様に落ちるだけではなかった。
背中がラバーマットへ叩きつけられる瞬間。
久我は右手首の《血装》を瞬時に解除し、背中と肩のラインへ血の膜を移動させ、厚く展開した。
どんっ!
大きな音はしたが、血装が衝撃を吸収し、背中へのダメージはほとんどなかった。
千鶴がそのまま押さえ込みへ移行しようとするが、久我は衝撃がなかったことを利用して即座に横へ転がり、安全な距離を取って立ち上がった。
ここまでで、最初の二戦よりも大幅に長く持ちこたえている。
千鶴が再び、低い姿勢から接近してくる。
久我は、もう自分から相手を掴みにいかない。
千鶴が触れてくる、その瞬間だけを待つ。
右手を取られそうになった時、手首だけを硬化して防御。
千鶴が技の方向を変えた瞬間に、血装を解除して力を抜く。
魔眼で千鶴の足の踏み替えを見る。
千鶴の身体が、技の移行のために一瞬だけ横を向いた。
そのコンマ数秒の隙。
久我は左手をすっと伸ばし、千鶴の肩へ軽く触れた。
「久我さん、一本です」
かれんの声が響く。
「取れた……!」
久我の顔に歓喜が浮かぶ。
「はい。お見事です」
千鶴も、負けたというのにどこか嬉しそうに頷いた。
だが、久我が気を抜いた次の瞬間。
千鶴は肩に触れた久我の左腕を滑らかな動作で絡め取り、今度こそ完璧な軌道で背負い投げを決めた。
久我は慌てて背中へ薄い《血装》を展開し、どうにか受け身を取る。
「同時に、鏡宮さんも一本です」
かれんが冷徹に告げた。
「……一本取った直後に、容赦なく投げられるんですね」
マットに寝転がったままぼやく久我に、剣持が呆れ声を出す。
「触ったところで気を抜くからだろ。実戦なら、そのまま腕の骨を折られてるぞ」
*
模擬戦の結果。
一戦目、千鶴の勝利。
二戦目、千鶴の勝利。
三戦目、久我と千鶴がほぼ同時に一本。
実質的には、千鶴の圧勝だった。
しかし、久我は三戦目で大きな収穫を得ていた。
全体を硬化し続けるのではなく、接触部分だけを瞬間的に硬化する。
固めるだけでなく、必要な瞬間に解除して力を逃がす。
血装を腕から肩や背中へ瞬時に移動させる。
投げられた際の衝撃を吸収するクッションとして使う。
《血装》を単なる重い鎧ではなく、状況に応じて変化させて運用するための、実戦的な方向性が見えたのだ。
かれんがタブレットへ、本日の実験結果をまとめる。
【一・発動媒体】
現時点で操作を確認できたのは、久我自身の身体から体外へ流出した血液のみ。
体外へ出た直後の血液を操作し、《血装》の起点にできる。
無傷の皮膚から直接展開することは難しく、小さな穿刺か負傷時の出血を起点とする必要がある。
他者の血液については安全上の理由から検証を行わないが、能力反応の性質から、久我自身の生命力と結びついた血液に限定される可能性が高い。
【二・展開範囲】
初期状態では、片腕への部分展開が最も安定。
両腕同時展開も可能だが、消費が急増する。
現在の血液資源と制御能力では、全身展開は現実的ではないため禁止。
【三・性能】
切断攻撃への高い防御力。
打撃力の増加。
投げられた際の衝撃吸収。
傷口の止血と一時的な保護。
【四・弱点】
持続させるほど、体内の血液資源を激しく消耗する。
破壊された血の破片は再利用できず、失われる。
全体を硬くすると関節の動きが鈍くなり、技をかけられやすくなる。
格闘の技術不足は補えない。
【五・最適な使用方法】
常時装甲ではなく、攻撃を受ける瞬間だけ硬化させる。
拳が当たる瞬間だけ強化する。
転倒時に肩や背中へ移動させる。
必要な場所へ、部分的かつ瞬間的に展開する運用。
魔眼による軌道予測と、極めて相性がよい。
かれんはタブレットを閉じ、当面の暫定運用制限を告げた。
「自主訓練での発動は、一日三回まで。一回の連続使用は十秒以内。両腕同時展開は、訓練監督者がいる場合のみ。全身展開は禁止。刃や針などの攻撃的な形状への変形は禁止。血液不足時の使用禁止。事前の血液パック確保を義務化。そして――会社での使用は一切禁止とします」
「最後のは本当に必要ですか?」
「必要です」
「血の鎧を、平和なオフィスで使う状況なんてありませんよ」
「熱いコーヒーを落とした時に、咄嗟に使いそうだからだろ」
剣持の鋭い指摘に、久我は口ごもった。
「……さすがに、自分の血を使ってまでコーヒーの染みは防ぎませんよ」
*
訓練が終了し、澪と杖原が使用した器具を片づけている間。
千鶴が、かれんへ静かに尋ねた。
「今後も、こちらの訓練へ参加させていただいてよろしいのでしょうか」
「はい。少なくとも、鏡宮家との協議が何らかの形でまとまり、あなた自身が今後の生活を自分の意思で選べる状態になるまでは、私の管理下で支援を継続します」
「……ありがとうございます」
「ただし、《神鏡返し》を使用した訓練は、より厳密な安全基準が必要になるため、今日は行いません」
「承知しています」
久我は、千鶴の小さな背中を見て言った。
「《神鏡返し》なしであれだけ強いなら、しばらく異能を使わなくても困らなそうですね」
「いえ。怪異や強力な能力者を相手にする場合は、合気の技術だけでは対応しきれないことも多々ありますので」
「技術だけでも、能力だけでも足りねえってことだ」
剣持の言葉に、久我は苦笑した。
「今日の俺に一番深く刺さる話ですね」
すると千鶴が久我の方へ向き直り、真剣な顔で提案してきた。
「久我さん。よろしければ、今後も基本的な組み方と、崩し方の練習にお付き合いします」
「……それ、俺が教わる側ですよね?」
「はい」
一切の迷いのない即答だった。
「ですよね」
「久我さんは身体能力が非常に高いので、基本の動きを覚えれば、すぐに伸びると思います」
「斎藤さんにも、まったく同じことを言われてましたよ」
久我は大きなため息を吐いた。
「……吸血鬼になって身体能力を得てから、いろんな人に格闘を教わる機会が増え続けてるな」
*
訓練後。
久我は更衣室のベンチに座り、血液パックをストローで飲みながら、スマートフォンの専用冷蔵庫在庫管理アプリを確認していた。
前回の実戦では、二本飲んでも渇きが収まらなかった。
しかし今回は、基礎実験から木刀による耐久試験、そして三本の模擬戦まで行ったにもかかわらず、一本で十分に疲労が回復している。
部分硬化と瞬間的な展開へ切り替えたことで、消耗が劇的に減ったのだ。
「常時展開しなければ、実戦でも現実的な消費量に抑えられる可能性がありますね」
かれんの言葉に、久我は深く頷いた。
「少し安心しました。これで破産せずに済みそうです」
着替えを終えた千鶴が、帰り支度をしながら久我へ声をかけた。
「久我さん。次は、血装を使わずに三分間、投げられない練習から始めましょう」
「いきなり三分ですか。ハードル高くないですか?」
「難しければ、一分からでも」
「まずは十秒からだろ」
剣持の情け容赦ない評価に、千鶴が少しだけおかしそうに笑った。
久我は、新しく得た自分の右腕を見つめた。
斬撃を防げる鎧。
拳を強化できる武器。
だが、相手に腕を掴まれれば、その硬い腕ごと綺麗に投げ飛ばされてしまうという弱点もある。
新しい鎧を手に入れても、その中にいる会社員の格闘技術までが自動で強くなるわけではない。
久我の次の課題は、高い冷蔵庫の血液パックをこれ以上無駄に減らさないことと、女子高生に簡単に投げられない身体の使い方を身につけることだった。
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