35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第32話 吸血鬼、日当十万円で心霊スポットを巡回する

 午後七時半。

 

 夜間警備班の拠点となっている御影坂高校の体育館控室には、いつものメンバーが顔を揃えていた。

 

 久我陽介、皇かれん、剣持、杖原つかさ、七瀬澪。

 

 そして、先日保護されたばかりの鏡宮千鶴の姿もある。

 

 千鶴はまだ正式な任務要員ではないため、夜間警備班の黒いジャケットではなく、八咫烏から支給された地味な白い訓練着を身にまとっていた。

 

 通常の夜間巡回へ出る前のブリーフィング。

 

 長机の前に立ったかれんが、タブレットを操作しながら追加の連絡事項を告げた。

 

「ホテル月影事件の発端となった、有料怪異情報サイトについて続報があります」

 

「有料怪異情報サイト……ですか? 何ですか、それは」

 

 千鶴が少し首を傾げた。

 

 彼女はホテル月影事件に参加していなかったため、詳しい事情を知らない。

 

 かれんが簡潔に説明を補足する。

 

「どうやら、本物の怪異が存在する場所や、怪異を発生させるための手順を、格安の有料記事として一般人へ販売している人物がいるようです」

 

「そのようなものを、一般の方々へ?」

 

「はい。ホテル月影では、心霊配信者三名がその記事を購入し、記載された手順に従った結果、怪異のルールに囚われました」

 

「……それは、あまりにもひどいです」

 

 千鶴は、素直に強い嫌悪を顔に滲ませた。

 

「一般人は怪異に対抗するすべを持たないからこそ、能力を持つ者が守護すべき存在だと、その販売者は教えられなかったのでしょうか」

 

「まあ、能力者の由緒ある家に生まれたなら、普通はそう教えられるからな」

 

 腕を組んでいた剣持が、肩をすくめながら答える。

 

「力のない人間を守れ、能力を遊びに使うな、一般社会へ迷惑をかけるなってのが、真っ当な一族の最低限のルールだ」

 

「鏡宮家でも、最初に教えられることです」

 

「でも、そうじゃない野良の能力者もいるし、そもそも売ってる奴が能力者かどうかも分からねえからな」

 

 久我が口を挟む。

 

「記事を買う人は、やっぱりいるんですか?」

 

「価格が非常に安いですからね。ホテル月影の記事も、一般的な動画配信サービスの月額料金より安い程度のものでした」

 

「ワンコイン、五百円くらいでしたっけ」

 

「はい。ただし、購入者全員が実際に現地へ向かうわけではありません。記事を読んで満足する者、怖くなって諦める者、場所だけ確認する者もいます」

 

「それでも百人買えば、何人かは面白半分で実際に行く。千人に広まれば、いつか必ず誰かが死ぬ」

 

 剣持が忌々しげに舌打ちをした。

 

 久我は当然の疑問を口にする。

 

「サイトを閉鎖したり、運営者を捕まえたりはできないんですか? 明確に危険な場所へ人を誘導しているのに」

 

「現行の法整備では、怪異に関する情報を拡散したという理由だけで、直ちに法的な強制措置を取ることは困難です」

 

「どうしてですか?」

 

「一般社会の法律上、怪異の存在そのものが、常に公的に認定されているわけではないからです」

 

 記事に書かれている表面的な内容は、廃墟の所在地、古い怪談、過去の噂、現地で試す肝試しの儀式、そして心霊現象を目撃したという体験談に過ぎない。

 

 それだけなら、オカルト雑誌の特集や都市伝説まとめサイトと区別がつかない。

 

 記事の購入を強制しているわけでもなく、現地へ行くよう直接命令しているわけでもない。

 

「怪異が実在し、その手順によって確実に危険な現象が発生すると、運営者が明確に認識していたことを証明できなければ、犯罪として立件するのは困難です」

 

「本人が『ただの作り話の怪談だと思っていました』と言い張れば、それまでですか」

 

「現状では、その可能性があります」

 

 さらに、運営者の所在も不明だという。

 

 決済には匿名性の高い外部サービスや複数の中継先が使われ、記事の投稿元も頻繁に変わっている。

 

 国家規模の高度なハッキング技術を使用しているとまでは判明していないが、公衆回線、使い捨て端末、海外サーバー、匿名決済、投稿後の即時削除を組み合わせることで、追跡を巧妙に難しくしているらしい。

 

「そもそも、どうやって本物の怪異情報を手に入れているんでしょうね」

 

「それも不明です」

 

 過去の心霊事件の記録を調べているのか。

 

 怪異を認識できる能力があるのか。

 

 現地の霊能者から情報を得ているのか。

 

 あるいは怪異そのものと接触しているのか。

 

 八咫烏や旧家の記録から情報が漏れているのか。

 

 単純に、現地で一般人に試させて犠牲者を出しながら、怪異のルールを検証しているという最悪の可能性もある。

 

 ただし、どれも確証はない。

 

「運営者本人としては、危険な場所を一般人へ警告しているつもりなのかもしれません」

 

「警告?」

 

「『ここでは、この手順を実行すると怪異が出るから危険だ』と広めることで、注意喚起をしているという独自の理屈です」

 

「だったら無料で『行くな』とだけ書けばいいでしょう」

 

「はい。ですので、警告目的であるという可能性はかなり薄いと考えています」

 

 ステッキを抱きかかえた杖原が、不満そうに口を挟んだ。

 

「魔法少女としては、危険な場所には行くなー、で終わる簡単な話なんですけどね!」

 

「終わらねえから困ってんだろ」

 

「能力者なら、心霊スポットが『ちょっと怖い廃墟』じゃなくて、『気軽に死ねる危険区域』だって骨の髄まで知ってますから。でも、普通の人は知らないんですよね」

 

 久我もそれに同意する。

 

「怪談や心霊番組で、怖い場所としては知っていても、本気で命を取られるとは誰も思っていないからな」

 

「そうです! 表で活動しているテレビの霊能者の人たち、もっと真剣に『行ったら死にますよ』って発信した方がいいと思います!」

 

「ああ、霊能者も普通にいるのか」

 

「幽霊がいるなら、当然いますよ!」

 

「言われてみれば、そりゃそうだよな……」

 

       *

 

「この機会に、久我さんと鏡宮さんへ、幽霊に関する基礎知識を説明しておきます」

 

 かれんがタブレットの画面を切り替えた。

 

「鏡宮さんも知らないんですか?」

 

「鏡宮家は、呪詛や鏡を利用した怪異への対処が中心でしたので。一般的な霊についても学びましたが、八咫烏の現在の分類体系とは少し違いがあります」

 

 千鶴が真面目な顔で答える。

 

 この世界で「幽霊」と呼ばれているものは、主に死亡した人間の意識、記憶、感情、魂の一部が、死後も現世へ残留した存在を指す。

 

 ただし、人間が死ねば必ず幽霊になるわけではない。

 

 ほとんどの人間は死後、現世へ長くは残らない。

 

 幽霊になるのは、強い未練、恨み、愛情、恐怖、死を受け入れられない意識、特定の土地や人物への強い執着、あるいは死亡時の特殊な環境などが重なった場合のみだ。

 

「ここでいう幽霊は、基本的に生前、能力を持っていなかった一般人が該当します」

 

「能力者は幽霊にならないんですか?」

 

「原則として、能力者が死後に一般的な幽霊として残ることはありません」

 

「どうしてです?」

 

「能力と魂の構造が、生前から強く結びついているためです。死亡した際、能力因子とともに魂の構造が完全に崩壊するか、あるいは別の状態へ移行するため、現世へ意識の残滓を留めることが難しくなります」

 

 厳密な原理は、八咫烏の研究機関でも完全には解明されていないという。

 

「ただし、極めて特殊な例外は存在します」

 

「例外?」

 

「今回は関係がないため、説明を省きます」

 

「そこで止められると、余計に気になりますね」

 

「気にするな。能力者が死んだ後に出てくる例外なんて、だいたい面倒で最悪な話だ」

 

 剣持が忌々しげに言うと、千鶴は何か思い当たる伝承があるような表情を見せたが、口には出さなかった。

 

 幽霊になったばかりの存在は、多くの場合、それほど強くはない。

 

 同じ場所をさまよう。

 

 生前の行動を繰り返す。

 

 微かな音を出す。

 

 人の夢へ現れる。

 

 一時的な寒気を起こす。

 

 その程度だ。

 

 しかし、長期間にわたって現世へ留まり、多くの人間から恐れられ、噂や怪談として広まり、生者の感情や生命力を吸収し、同じ場所で新たな死者を生んで自分の存在への認識を集めることで、死後に異能に近い力へ目覚める場合がある。

 

「幽霊が死後に異能へ目覚め、強い霊へ成長することがあります」

 

 その段階まで成長すると、幻覚、記憶干渉、空間のループ、物体操作、憑依、呪い、人間の姿の複製、そして特定の行動を強制するルールを持つようになる。

 

 ホテル月影の夜勤従業員・牧村も、この「強い霊」に近い分類だった。

 

 心霊スポットで語られる悪霊や強力な地縛霊は、多くがここに該当する。

 

「幽霊って、普通に殴れるんですか?」

 

 久我が一番気になっていたことを尋ねた。

 

「通常の肉体では干渉できません」

 

 身体能力強化だけで筋力をいくら上げても、物理的な拳であることに変わりはない。

 

 そのため、純粋な身体能力強化者が幽霊を殴ろうとしても、基本的にはすり抜けてしまう。

 

 しかし、魔術、呪術、念動力、結界、霊的な武器、能力によって作られた物質、あるいは異能によって特殊な性質を与えられた攻撃なら干渉できる。

 

 かれんが、久我を見た。

 

「久我さんの《血装》も、幽霊へ干渉できる可能性が高いです」

 

「血装で?」

 

「単なる血液ではありません。久我さんの異能によって操作され、霊的な存在へ干渉できる性質を付与されています」

 

 つまり、生身の拳は幽霊をすり抜けるが、《血装》を纏った拳なら当たる可能性があるということだ。

 

「今後、幽霊を見かけた場合は、《血装》を使用した打撃で撃退できるでしょう」

 

「幽霊を見たら、パンチで撃退ですか」

 

「はい」

 

「なんかシュールだな……。除霊方法がパンチって」

 

「除霊パンチです!」

 

 杖原が目を輝かせてステッキを振った。

 

「お前まで妙な技名をつけるな」

 

 剣持が呆れ果てる。

 

       *

 

 幽霊の説明が終わったところで、かれんがタブレットへ新しい資料を表示した。

 

「ちょうど、心霊スポットの臨時巡回員募集が出ています」

 

「話の繋がりが、不自然なくらい早いですね」

 

 募集内容は以下の通り。

 

『八咫烏外部協力:都内指定危険区域・夜間立入防止巡回』

 

『午後十時から午前四時』

 

『危険手当込み・日当十万円』

 

「……日当十万円?」

 

「高い!」

 

 久我と杖原が同時に声を上げた。

 

 久我は、自分の会社員としての日給を脳内で素早く計算した。

 

 基本給を勤務日数で割り、みなし残業代を加えても、当然ながら一晩で十万円には遠く及ばない。

 

「なんか、表の会社の仕事が馬鹿らしくなるくらい稼げるなぁ……」

 

「危険区域での夜間勤務です。怪異への対応、一般人の保護、警察との連携、緊急時の封鎖が含まれます」

 

「それでも、たった六時間で十万円ですよね」

 

「はい」

 

「受けます」

 

 久我は一切の迷いなく即答した。

 

「分かりました。では、鏡宮さんと杖原さんを同じ班へ割り当てます」

 

「私もですか?」

 

 千鶴が驚いて目を丸くする。

 

「はい。今回は怪異の討伐ではなく、一般人の誘導と保護が中心の任務です。鏡宮さんの現場活動への適応訓練として、適切だと判断しました」

 

「はーい! 魔法少女の深夜巡回ですね!」

 

「魔法少女と鏡の巫女と吸血鬼で、一般人を家に帰宅させる仕事か」

 

 久我がメンバー構成の異質さに突っ込むと、剣持が鼻で笑った。

 

「現場で格好つける必要はねえぞ。やることは、立ち入り禁止の廃墟に来た不法侵入者に、帰れと言うだけだ」

 

       *

 

 数日後の午後九時半。

 

 都内西部の山沿いにある、閉鎖された旧住宅地区。

 

 再開発計画が何らかの理由で中断したまま放置されており、空き地、閉鎖された道路、古いバスロータリー、撤去されていない公衆電話ボックス、解体待ちの管理棟だけが不気味に残っている。

 

 今回の有料怪異記事に掲載された場所は、そのロータリーの端に立つ、古い公衆電話だった。

 

 記事の題名は、

 

『都内某所。午前二時、名前を呼ぶ公衆電話』

 

 以前、ホテル月影の記事が削除された直後に掲載されたものだ。

 

 八咫烏の事前調査によれば、この電話ボックスでは午前二時前後、電話線が接続されていないはずの公衆電話のベルが鳴ることがある。

 

 電話を取ると、受話器から自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。

 

 その声へ返事をすると、通話者の背後へ黒い人影が現れる。

 

 しかも八咫烏の過去の事例では、名前を最後まで呼び返したり、明確な言葉を答えたりする必要はなかった。

 

 呼びかけに反応して、ほんの僅かでも声を返した時点で、怪異との接続が成立する可能性が高いという。

 

 影は、その場ですぐに襲ってくるとは限らない。

 

 通話者が帰宅した後も、窓の外、鏡の中、スマートフォンの黒い画面、消灯した部屋の隅などへ現れ、日を追うごとに徐々に距離を縮めてくる。

 

 数日以内に対処しなければ、睡眠中に生命力を吸われ、衰弱して死に至る可能性があるという。

 

 現在の危険度自体は、決して高くない。

 

 手順を実行せず、電話ボックスへ近づかなければ、怪異から積極的に人間を追跡することもないからだ。

 

 問題は、有料記事に、

 

『正確な場所』

 

『午前二時という時間』

 

『電話が鳴るまでの待ち方』

 

『受話器を取った後に返事をすること』

 

 という手順が、ご丁寧にすべて記載されていることだった。

 

 つまり、わざわざ安全装置を外すためのマニュアルが公開されているのだ。

 

       *

 

 久我たちは、表向きには再開発区域の施設管理会社から委託された夜間巡回員として活動していた。

 

 着用しているのは、反射材付きの黒い防寒ジャケットと、「施設管理協力員」と書かれた腕章。

 

 装備は無線機、懐中電灯、そして記録用のボディカメラ。

 

 ただし、警察や土地所有者から照会された場合は、八咫烏の身分証を提示する手はずになっている。

 

 ネット上では、細かい区別などされず、一括りに「政府関係者」と呼ばれることになるだろう。

 

 三人の役割は明確に分担されていた。

 

 久我は、魔眼による周囲の生命反応の索敵、隠れている侵入者の発見、そして怪異が出現した際の前衛と《血装》による接触実験。

 

 千鶴は、一般人の安全確保、逃走しようとする侵入者の制止、パニック状態の者の保護。

 

 緊急時のみ合気と身体強化で対応し、《神鏡返し》は使用しない。

 

 杖原は、結界の展開、怪異の侵入経路の封鎖、遠距離からの霊的攻撃、明かりでの誘導、そして通信補助。

 

 三人は八咫烏の支援車両で現場へ到着した。

 

 周囲の道路には通常の警備員も配置されているが、電話ボックス周辺という最も危険なコアエリアは久我たちが担当する。

 

「うわー、いかにも出そうな場所ですね!」

 

 杖原が周囲を懐中電灯で照らしながら言う。

 

「出ると分かっている場所だからね」

 

 千鶴は、暗闇にぽつんと立つ電話ボックスを静かに観察していた。

 

「鏡のように、こちらと向こうを繋ぐ境界として利用されているのでしょうか」

 

 かれんが通信端末越しに答える。

 

『可能性はあります。ただし、今回の怪異は電話回線そのものではなく、名前を呼ばれ、それに返事をするという特定の行為へ反応して繋がりを持つと考えられます』

 

「電話に出ても、返事をしなければ大丈夫なんですか?」

 

『理論上はそうですが、絶対に試さないでください。一音でも声を返せば、返答として認識される危険があります』

 

「試しませんよ。十万円のために命は賭けません」

 

       *

 

 巡回開始から一時間ほどが経過した、午後十時半。

 

 久我の魔眼が、閉鎖された歩道の奥の暗がりに、三人分の体温反応を捉えた。

 

 大学生くらいの男女三人組だ。

 

 フェンスの破損した隙間を通り抜け、スマートフォンの地図アプリの画面を見ながら、ひそひそ声で近づいてくる。

 

 久我たちが懐中電灯を向け、堂々と道を塞いだ。

 

「ここから先は立入禁止です」

 

 三人は、本物の警備員らしき姿を見て明らかに動揺した。

 

「え、ただの普通の廃墟じゃないんですか?」

 

「施設管理区域です。建物の倒壊や事故の危険があるので、すぐにお戻りください」

 

 一人が慌ててスマートフォンを背中へ隠そうとした。

 

 久我はあえて画面を覗き込もうとはしなかったが、千鶴が一歩前へ出て、真っ直ぐな瞳で尋ねた。

 

「この場所を、どこで知ったのですか?」

 

 三人は最初は口を濁していた。

 

 しかし、不法侵入として警察へ通報する可能性をちらつかせると、あっさりと有料記事を購入したことを白状した。

 

 購入額は五百円。

 

 記事には、駅からの徒歩経路、フェンスの破損箇所、警備員の巡回時間、電話ボックスの正確な場所、そして怪異の発生手順までが詳細に書かれていたという。

 

「……警備員の巡回時間まで?」

 

「これ、完全に不法侵入を補助してますよね?」

 

 杖原が憤慨する。

 

 ただし記事の末尾には、

 

『侵入は自己責任』

 

『法律や施設管理者の指示に従うこと』

 

『当サイトは現地への訪問を推奨しない』

 

 という、言い逃れのための免責文も掲載されているらしい。

 

「推奨しないと言いながら、フェンスの穴まで丁寧に教えているのか……悪質だな」

 

 三人の身元と連絡先を通常警備員に記録させ、そのまま帰宅させた。

 

       *

 

 午前零時過ぎ。

 

 次に現れたのは、男女二人組の小規模な動画配信者だった。

 

 カメラ、照明用ライト、予備バッテリーを持ち込み、明らかに撮影目的だ。

 

 彼らは有料記事を直接購入してはいなかった。

 

 知人が購入した記事のスクリーンショットを、グループチャットで受け取ったのだという。

 

「自分たちは買ってないから、別に問題ないでしょ」

 

 悪びれずに主張する二人へ、久我が冷たく答える。

 

「購入したかどうかではなく、ここが立入禁止区域なのが問題です」

 

「でも、ただの電話に出るだけですよね?」

 

「返事をすれば、霊に追跡される可能性があります」

 

「え?」

 

 千鶴が、一切のオブラートに包まず、正直に危険を伝えてしまった。

 

 久我と杖原が一瞬、千鶴を見る。

 

「危険性を説明しなければ、納得していただけないのでは?」

 

「間違ってはいませんけど……」

 

 二人は半信半疑だった。

 

 しかし、久我が低い声で付け加える。

 

「ここには本当に命に関わる危険があるから、俺たちがわざわざ夜中に巡回しているんです」

 

 その言葉の重みに、二人の表情が変わった。

 

 しぶしぶと引き返していく。

 

 だが、去り際に小声で話しているのが、吸血鬼の聴覚にはしっかりと届いていた。

 

「……おい、政府関係者っぽい奴らが本当に封鎖してるぞ」

 

「ってことは、あの公衆電話、マジで本物なんじゃないか?」

 

 この時点で、久我はひどく嫌な予感を覚えていた。

 

       *

 

 午前一時四十分。

 

 怪異が本格的に活動し始める午前二時が近づいていた。

 

 久我は右手のポケットに入れた医療用の穿刺器具の位置を、指先で確認する。

 

 怪異が現れた瞬間、すぐに数滴の血を出し、右拳へ《血装》を展開するためだ。

 

 前回の訓練で、《血装》は必要な場所へ必要な瞬間だけ展開するのが最も効率的だと分かっている。

 

 まだ怪異が現れてもいない段階から維持して、血液を無駄にするつもりはない。

 

「準備はしておくんですね」

 

 千鶴が久我の手元を見て言う。

 

「怪異が出てから道具を探していたら間に合わないかもしれないからね。でも、血装を出すのは本当に必要になってからだ」

 

「除霊パンチ待機状態ですね!」

 

「その呼び方、本当に定着させるつもり?」

 

 直後。

 

 久我の魔眼が、五人分の体温反応を同時に捉えた。

 

 今度の五人は、正面のルートから固まって来るのではなく、三方向へ見事に分かれて接近している。

 

 明らかに、巡回員の目をごまかすための組織的な動きだ。

 

「五人います。二人は管理棟側、二人は道路沿い、残り一人は斜面を降りています」

 

「そこまでして来るんですか!?」

 

「私が斜面側へ行きます」

 

 千鶴が素早く動く。

 

「無理に追い詰めないで。転落させないように気をつけて」

 

「承知しました」

 

 杖原が管理棟側へ向かい、ステッキを振って光の結界を展開する。

 

 突然、目の前の何もない空間に半透明の光の壁が現れ、二人の侵入者が驚愕して足を止めた。

 

「ここから先は立入禁止でーす!」

 

「何だこれ!?」

 

「演出です! 施設管理用の特殊装備でーす!」

 

 魔法少女の強引な説明だが、とりあえず足止めには成功した。

 

 久我は道路側の二人を先回りし、進路を完全に塞ぐ。

 

 二人は久我の姿を見て逆方向へ逃げようとしたが、魔眼で進行方向を読まれているため、簡単に回り込まれて制圧された。

 

 一方、千鶴は斜面から侵入した一人を発見していた。

 

 相手は若い男で、立ち塞がった千鶴が普通の女子高生に見えたため、

 

「どけよ!」

 

 と強引に肩を押し退けようとした。

 

 千鶴は一切動じず、相手の手首へ柔らかく触れ、力の向きを僅かに変えた。

 

 侵入者の男は、気づいた時には斜面の土の上へ無様に座らされていた。

 

 怪我は一つもない。

 

「危険ですので、お戻りください」

 

「何したんだ、今!?」

 

「基本的な身体の使い方です」

 

 久我が聞けば苦い顔をするような、説得力のない説明だった。

 

       *

 

 四人の足止めに成功した。

 

 しかし、五人のうちの一人が、仲間が捕まっている隙に、別方向から猛スピードで走り出していた。

 

 囮作戦だ。

 

 久我が魔眼で気づいた時には、その男は電話ボックスまで残り十メートルの距離に迫っていた。

 

「止まってください!」

 

 久我の制止の声も聞かず、男は止まらない。

 

 午前一時五十九分。

 

 ジリリリリリリンッ!

 

 古い公衆電話のベルが、突如として鳴り始めた。

 

 電話線はとっくに切断されている。

 

 それでも、暗いロータリーに甲高い機械音が不気味に響き渡った。

 

 侵入者の男が、興奮した声を上げる。

 

「本当に鳴った!」

 

 そのまま電話ボックスへ飛び込み、迷うことなく受話器を取った。

 

 久我たちには、受話器から聞こえる声までは分からない。

 

 だが、男の顔が一瞬で硬直した。

 

「……俺の名前」

 

 受話器の向こうから、本人の名前を呼ぶ声がしたのだ。

 

 男が、記事の知識に引っ張られ、反射的に返事をしかける。

 

「は――」

 

 たった一音。

 

 言葉としては成立していない。

 

 しかし、怪異にとっては、それだけで呼びかけへの返答として十分だった。

 

 電話ボックスのガラス表面に、黒い染みのようなものが広がり始める。

 

 ダンッ!

 

 千鶴が一気に距離を詰め、電話ボックスへ飛び込んだ。

 

 侵入者の男の肩と腰をがっちりと掴み、電話ボックスの外へ強引に引き倒す。

 

「返事をしてはいけません!」

 

 千鶴が男を安全な位置へ投げ出す。

 

 宙を舞った受話器が、コードにぶら下がってぶらぶらと揺れた。

 

 その瞬間。

 

 電話ボックス内のガラスに、久我たちとは別の人影が映った。

 

 全身が黒く濡れたような、顔のない人間。

 

 実体は電話ボックス内に存在しない。

 

 ガラスの反射の中だけに存在している。

 

       *

 

 久我の魔眼には、通常の人間とは異なる、冷たく澱んだ輪郭が見えていた。

 

 血流もない。

 

 心拍もない。

 

 ただ、怪異の核らしき濁った塊が、その胸の中央に不気味に浮かんでいる。

 

「出ました!」

 

 杖原がステッキを向ける。

 

「《光幕結界》!」

 

 淡い光の膜が電話ボックスの周囲をぐるりと囲み、怪異が周囲の空間へ抜け出すのを霊的に封じる。

 

 しかし、霊は結界の内側に存在する反射面同士を伝うように移動し、電話ボックスのガラスから、倒れた侵入者が落としたスマートフォンの黒い画面へ移ろうとした。

 

「そっちへ行くぞ!」

 

 久我は右手のポケットから穿刺器具を取り出し、迷わず指先へ押し当てた。

 

 カチッ。

 

 針先から滲んだ数滴の血が、指先へ赤い珠となって浮かぶ。

 

 久我が拳を握ると、血液は一瞬で手の甲から拳全体へと広がり、極薄の《血装》へ変わった。

 

 厚い鎧ではない。

 

 幽霊という霊的存在へ拳を届かせるためだけの、最低限の薄い膜。

 

 久我が侵入者とスマートフォンの間へ滑り込み、右拳を鋭く振るう。

 

 生身の左手なら、霊を完全にすり抜けていただろう。

 

 しかし、《血装》に覆われた右拳が、霊の顔へ明確に接触した。

 

 どんっ、という、生き物とも物体ともつかない重い感触が拳に伝わる。

 

「当たった……!」

 

 霊の上半身が大きく歪み、スマートフォンの画面から弾き出される。

 

「除霊パンチ成功です!」

 

「本当にパンチでいいのか、これ!」

 

 久我は躊躇せず、もう一度、霊の胸に見える核へ向けて拳を叩き込んだ。

 

 血装に付与された異能の力が、霊的な輪郭へ食い込み、核を覆う濁りをぱりっと砕く。

 

 完全な消滅ではない。

 

 霊は痛めつけられたように電話ボックスの内部へ押し戻され、ガラスの表面からすっと姿を消した。

 

 同時に、公衆電話の不気味なベルがぴたりと止まった。

 

 通信インカム越しに、かれんが確認する。

 

『霊的反応が低下しました。撃退には成功しています』

 

「除霊ではなく、ただ追い払っただけですよね?」

 

『はい。根本的な解決には、その土地の歴史と霊の関係を深く調査する必要があります』

 

「次に出たら、また殴ればいいんですよ!」

 

「巡回員の仕事が、思ったより物理的な力技だな……」

 

 久我が拳を開いたり閉じたりしていると、千鶴が真面目な顔で頷いた。

 

「荒々しい方法ではありますが、一般人を守るためには極めて合理的だと思います」

 

「鏡宮さんに肯定されると、余計に複雑な気持ちになるな」

 

 かれんが続ける。

 

『先ほど返事をしかけた男性についても、確認してください』

 

 久我が魔眼を向ける。

 

 男の体温、心拍、血流は、恐怖によって激しく乱れている。

 

 しかし、周囲に先ほどの霊と同じ濁った反応は見えない。

 

 杖原もステッキをかざし、霊的な痕跡を確認した。

 

「身体にも影にも、追跡用の反応は残っていません!」

 

 かれんが答える。

 

『深い接続が成立する前に、鏡宮さんが受話器から引き離したことと、久我さんが即座に怪異を撃退したことで、追跡状態への移行を防げたと考えられます。ただし念のため、男性は八咫烏の医療施設で経過観察を行います』

 

「分かりました」

 

 千鶴は男を見下ろす。

 

「もう二度と、このような行為はしないでください」

 

 顔を真っ青にした男は、何度も大きく頷いた。

 

       *

 

 その夜、久我たちが追い返した一般人は、合計十人。

 

 最初の大学生三人。

 

 配信者二人。

 

 最後のグループ五人。

 

 全員が、元を辿れば有料怪異情報サイトの情報を頼りにここへ来ていた。

 

 ただし、直接五百円を払って記事を購入したのは三人だけだった。

 

 残りは、購入者から送られたスクリーンショット、SNSの非公開グループでの共有、動画配信者同士の情報網、そして怪異記事を無断転載したまとめWikiから情報を得ていた。

 

 最後の五人のスマートフォンの画面には、有料記事そのものではなく、Wiki形式のページが表示されていた。

 

 ページ名は、

 

『本物かもしれない怪異情報保管Wiki』

 

 見た目は一般的な有志によるまとめサイトだ。

 

 掲載内容は、有料怪異記事のタイトル、大まかな所在地、記事の価格、購入者による要約、現地までの経路、発生する現象、発動手順、危険度の利用者評価、実際に行った者の報告、そして削除済み記事の記録など、多岐にわたっている。

 

 ホテル月影の記事も残っていた。

 

 全文転載ではなく、

 

『名簿へ名前を書く』

 

『受付で鍵を受け取る』

 

『一度宿泊者になると外へ出られない可能性あり』

 

 といった、購入者による簡潔な要約が掲載されている。

 

 そして、今夜の公衆電話の記事も、すでにまとめられていた。

 

 つまり、元の有料記事を削除しても、情報がネットの海から消えなくなっているのだ。

 

「有料記事はすぐ消されるから、買った人がWikiに記録として残してるんですよ」

 

 侵入者の一人が悪びれずに言う。

 

「それを、無料で誰でも見られるように公開しているんですか?」

 

「危険な情報を共有するためだって、管理人が書いてましたよ」

 

 千鶴が、冷たい声で反論した。

 

「共有した結果、あなた方がこのように危険な場所へ来ているのですが」

 

「いや、でも……本当に本物かどうか、自分の目で知りたかったし……」

 

 千鶴は、本気で理解できないという顔をした。

 

「命を危険にさらしてまで、確認する必要があるのですか?」

 

 侵入者は、口ごもって答えられなかった。

 

 有料サイト単体なら、購入者数はある程度限定される。

 

 しかしWikiが登場したことで、

 

『金を払わなくても読める』

 

『記事が削除されても残る』

 

『SNSから直接リンクされる』

 

『情報が不正確なまま改変される』

 

『利用者が独自の手順を追加する』

 

『危険度が低いという誤情報も混ざる』

 

 という、最悪の拡散状態に陥っている。

 

 さらに、一部のページには、

 

『政府関係者が現場を封鎖している場合、本物である可能性が極めて高い』

 

 という、利用者による厄介な注意書きまで存在していた。

 

「……俺たちが一生懸命巡回すると、逆にここが『本物の心霊スポットだ』と証明することになるのか」

 

「巡回しなかったら、誰かが怪異に捕まって死にますけどね」

 

「守れば守るほど、人が面白がって集まるということですか」

 

 千鶴が信じられないというように呟く。

 

「インターネットって、本当に面倒ですね……」

 

       *

 

 十人を全員帰宅、あるいは医療施設へ送った直後。

 

 スマートフォンを見ていた杖原が、

 

「あっ!」

 

 と声を上げた。

 

「久我さん!」

 

「今度は何?」

 

「政府関係者に止められたって、早速Wikiに書き込まれています!」

 

 まとめWikiのコメント欄に、新しい報告が投稿されていた。

 

『本日、現地へ行ったが黒い服の政府関係者三人に止められた』

 

『女子高生みたいな巡回員もいた』

 

『公衆電話は本当に鳴った』

 

『電話を取った瞬間、特殊部隊みたいな男に救助された。ガチで国が管理してる場所っぽい』

 

『今夜は警備が厳しい。別ルート推奨』

 

「最後の一文を今すぐ消せ!」

 

「Wikiなので、こっちに削除権限はありません!」

 

「それでは、別の場所から侵入する方が出るのでは?」

 

「……当然、出るだろうね」

 

 久我は頭を抱えた。

 

 さらにSNSにも、

 

『都内の心霊スポットに政府関係者が巡回している』

 

『ガチの封鎖区域だった』

 

『国が怪異の存在を認めたようなもの』

 

『次の週末に見に行く』

 

 といった投稿が急増し始める。

 

 写真には久我たちの顔は映っていない。

 

 遠くから撮影された反射材付きジャケット、腕章、支援車両、そして光の結界らしきものだけだ。

 

 しかし、それだけでオカルト界隈には十分すぎる燃料になっていた。

 

 久我が通信でかれんへ報告する。

 

「有料記事だけではなく、それをまとめたWikiまで登場しています」

 

『確認しました。こちらでも監視対象へ追加します』

 

「閉鎖はできないんですか?」

 

『現時点では、強制的な閉鎖は困難です。施設への不法侵入を具体的に助長している記述についてのみ、管理者へ削除要請を行います』

 

「要請だけですか」

 

『はい。運営者が応じなければ、別の法的根拠を検討します』

 

「表で活動している霊能者の人たちに、危険性を説明してもらった方がいいんじゃないですか?」

 

 杖原の提案に、かれんが答える。

 

『その方向でも調整します』

 

 八咫烏が直接、

 

『怪異は実在します』

 

『この場所へ行くと幽霊に呪われます』

 

 と公式発表すれば、社会的な影響が大きすぎる。

 

 そのため、表で活動する霊能者、オカルト研究家、廃墟管理者、地元警察、自治体、動画配信プラットフォームなどを通じて、

 

『廃墟への侵入は犯罪』

 

『心霊スポットには崩落や事故の危険がある』

 

『ネット上の儀式を試さない』

 

『名前や個人情報を不用意に書かない』

 

 という、一般社会でも受け入れられるレベルの警告を広めることになるという。

 

       *

 

 巡回を終え、一息ついた千鶴が、静かに漏らした。

 

「鏡宮家では、一般人は怪異や呪詛の存在を知らないからこそ、私たちのような者が守るのだと教えられました」

 

「でも、今は一般人の方から、ネットの情報を頼りにわざわざ怪異を探しに来る」

 

「はい。どう対応すればよいのか、少し分からなくなりました」

 

「俺も分からないよ。ただ、知らないまま死ぬよりは、俺たちに追い返されたことに文句を言いながら、無事に家に帰ってくれる方がいい」

 

「……そうですね」

 

 今回、千鶴は怪異を倒していない。

 

 異能もほとんど使っていない。

 

 それでも、斜面から落ちそうな侵入者を止め、電話へ返事をしそうになった人間を救い、パニックになった一般人を落ち着かせた。

 

 それで十分に、彼女は人を守っていた。

 

       *

 

 午前四時。

 

 巡回終了。

 

 合計十人を追い返し、幽霊を一体撃退し、厄介なまとめWikiまで発見した。

 

 久我たちは支援車両へと戻る。

 

「日当十万円、何に使います?」

 

 杖原が元気よく尋ねる。

 

「血液パック用冷蔵庫のローン……はないけど、前回ごっそり減った貯金の補填かな」

 

 久我が答えると、千鶴が不思議そうに久我を見つめた。

 

「久我さんは、なぜこのような危険な仕事を続けているのですか?」

 

「もちろん、何も知らない一般人を守るためですよ」

 

 少し、間が空いた。

 

「今、一瞬だけ日当十万円が頭に浮かびませんでした?」

 

「浮かんでないよ」

 

「魔法少女の勘が、確実に浮かんだと言っています!」

 

 通信端末から、かれんの冷静な声が響いた。

 

『久我さん。来週末も同じ場所の巡回員が必要になりました』

 

「またですか?」

 

『先ほどのSNSへの投稿によって、週末の訪問を予告している人物が急増しています』

 

「……日当は、同じですか?」

 

『同じです』

 

「受けます」

 

 一切の迷いのない即答だった。

 

 千鶴が、じとっとした目で久我を見る。

 

「一般人を守るため、です」

 

「今度は、考える間すらありませんでしたね!」

 

 杖原が笑った。

 

 日当十万円は、心霊スポットを歩くだけの仕事としては破格に高すぎると思っていた。

 

 だが、たった六時間で十人の一般人を説得して追い返し、幽霊を殴り、帰宅する前からすでに次の侵入者が集まり始めている。

 

 久我は、もしかするとこの仕事は十万円でも安いのではないかと、少しだけ真剣に考え始めていた。

 




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